ダイヤモンド密輸の共犯者であったジョルジョスが営む店舗の撮影が行われた ブラッシュフィールドストリート42番地 |
アガサ・クリスティー作「ヒッコリーロードの殺人(Hickory, Dickory, Dock)」(1955年)は、有能な秘書フェリシティー・レモン(Miss Felicity Lemon)がタイプした手紙に、エルキュール・ポワロが誤字を3つも見つけるところから始まる。ポワロがミス・レモンに尋ねると、彼女のタイプミスの原因が、彼女の姉で、今はヒッコリーロード26番地(26 Hickory Road)にある学生寮で寮母をしている未亡人のハバード夫人(Mrs. Hubbard)から彼女が相談を受けていたたためであることが判明する。
ミス・レモンによると、姉のハバード夫人が寮母を務めている学生寮では、非常に奇妙なことが連続して発生していたのである。夜会靴、ブレスレット、聴診器、電球、古いフランネルのズボン、チョコレートが入った箱、硼酸の粉末、浴用塩、料理の本やダイヤモンドの指輪(後に、食事中のスープ皿の中から見つかった)等、全く関連性がないものが次々と紛失していた。更に、それに加えて、ズタズタに切り裂かれた絹のスカーフ、切り刻まれたリュックサック、そして、緑のインクで台無しになった学校のノート等が見つかり、盗難行為だけではなく、野蛮かつ不可解な行為も横行していたのだ。
ブラッシュフィールドストリートを西側から東方面に望む |
ブラッシュフィールドストリートの東側の突き当たりにある クライスト教会スピタルフィールズ (Christ Church Spitalfields) |
ここのところ、興味を引く事件がなくて退屈気味だったポワロは、これ以上、ミス・レモンのタイプミスが続くことを避けるべく、彼女への手助けを申し出る。ポワロは、まずハバード夫人に自分の事務所に来てもらい、更に詳しい事情を尋ねるとともに、学生寮に現在住んでいる学生達の情報についても、彼女からヒアリングする。ポワロの灰色の脳細胞が、一見平和そうに見える学生寮の内で何か良からぬ企みが秘かに進行していると彼に告げる。そこで、ポワロはハバード夫人と再度話をして、学生寮に住む面々に犯罪捜査にかかる講演を行うという名目で、ヒッコリーロード26番地を訪ねることに決めた。
何ら脈絡がないと思えた盗難事件であったが、学生寮内での恐ろしい連続殺人事件へと発展するのであった。
西側から見たブラッシュフィールドストリート42番地 |
英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「ヒッコリーロードの殺人」(1995年)の回では、ポワロやスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)とは別個に、ダイヤモンド密輸の内偵を行っていた英国税関の捜査員達が、物語の終盤、密輸に関与していた共犯者を逮捕する。この逮捕劇の撮影が行われたのが、スピタルフィールズ(Spitalfields)にあるブラッシュフィールドストリート(Brushfield Street)である。
ヒッコリーロード26番地にある学生寮の経営者であるクリスティーナ・二コレティス(Mrs Christina Nicoletis)がダイヤモンド密輸犯の首謀者の一人で、ブラッシュフィールドストリート42番地(42 Brushfield Street)で店舗を営んでいるジョルジョス(Giorgios)が彼女の共犯者だった。
現在改装中のロンドン果物/羊毛取引所 (London Fruit and Wool Exchange) |
ブラッシュフィールドストリート沿いに設置されているオブジェ 「洋梨とイチジク(A Pear and A Fig)」 |
ブラッシュフィールドストリートは、英国経済活動の中心地であるロンドン・シティー(City)の北東にあるロンドン・タワーハムレッツ区(London Borough of Tower Hamlets)のショーディッチ地区(Shoreditch)内にある通りで、東側は地下鉄オルドゲートイースト駅(Aldgate East Tube Station)から北北西へ延びるコマーシャルストリート(Commercial Street)から始まり、西側はリヴァプールストリート駅(Liverpool Street Station)の前を走るビショップスゲート通り(Bishopsgate)に突き当たって終わる。
再開発後のビッショプススクエア |
ビッショプススクエア内に設置されているオブジェ |
ブラッシュフィールドストリートは、17世紀後半、スピタルフィールズマーケット(Spitalfields Market)の南側に既に存在していたが、当時まだ固有の名前はついていなかった。また、通りは、当時、東側の半分近くだけが存在していた。
その後、18世紀に入ると、リトルパタノスター(Little Paternoster)、そして、パタノスターロウ(Paternoster Row)と呼ばれるようになる。18世紀後半には、通りは西側へと延びて、ビショップスゲート通りまで達したが、西側の半分はユニオンストリート(Union Street)と呼ばれていた。
それから1世紀近くが経過した1870年2月25日に、診療所の評議員で、かつ教区の代表者でもあったトマス・ブラッシュフィールド(Thomas Brushfield)にちなんで、ブラッシュフィールドストリートへと名前が反抗され、現在に至っている。
通り沿いの建物の多くは1920年代に改装されたが、18世紀に建てられた建物のいくつかは現在も残っており、レストランやカフェとして使用されている。また、通りの北側にあるスピタルフィールズマーケットの跡地は、1990年代に取り壊され、2001年から2005年にかけて、オフィスや小売店舗等が入居する建物として再開発され、現在は、「ビショップススクエア(Bishops Square)」と呼ばれている。
東側から見たブラッシュフィールドストリート42番地 |
なお、ジョルジョスが営んでいた店舗の舞台となったブラッシュフィールドストリート42番地には、現在、食料品の小売店鋪が入居している。ただ、建物の外壁には、当時の名残で、「42 - A. Gold. French Milliner(女性用帽子製造販売業者)- 42」という看板が残っている。