2025年8月31日日曜日

ロンドン ロザーハイズ地区(Rotherhithe)- その1

ロザーハイズ地区からテムズ河の上流を見たところ -
画面中央奥に「シャード(Shard)」を望むことができる。
<筆者撮影>


サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作「瀕死の探偵(The Dying Detective → 2025年5月5日 / 5月21日付ブログで紹介済)」は、シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、43番目に発表された作品で、英国の「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1913年12月号に、また、米国の「コリアーズ ウィークリー(Collier’s Weekly)」の1913年11月22日号に掲載された。

同作品は、1917年に発行されたホームズシリーズの第4短編集「シャーロック・ホームズ最後の挨拶(His Last Bow)」に収録されている。


ロザーハイズ地区からテムズ河の対岸(北岸)を見たところ
<筆者撮影>

ロザーハイズ地区からテムズ河の下流を見たところ
<筆者撮影>


ジョン・H・ワトスンが結婚し、シャーロック・ホームズとの共同生活を解消してから、2年が経過していた。


11月の霧がかかって薄暗い午後、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)の家主であるハドスン夫人(Mrs. Hudson)が、ワトスンの家を訪れる。

ハドスン夫人曰く、ホームズが何か訳の分からない病に罹患して、「ここ3日間でどんどん衰弱して、瀕死の状態なのだ(’He’s dying, Dr Watson.’)。」と言う。更に、今朝、ハドスン夫人が「ホームズさんの許可があろうとなかろうと、今直ぐ、医者を呼びに行く。」と告げると、ホームズは、「それじゃ、ワトスンを呼んでくれ。」と答えたのだった。


ハドスン夫人からの話を聞いたワトスンは、急いでコートと帽子を身に着けると、ハドスン夫人と一緒に、馬車でベイカーストリート221B へと向かった。

ベイカーストリート221B へと向かう馬車の中で、ワトスンは、ハドスン夫人に詳しい事情を尋ねる。

ハドスン夫人によると、ホームズは、ある事件のため、テムズ河(River Thames)南岸のロザーハイズ(Rotherhithe)へ出かけ、そこで病気を移されて、帰って来たらしい。そして、ホームズは、水曜日の午後から寝たきりで、この3日間、食事も飲み物もとっていないのだった。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1913年12月号に掲載された挿絵(その1) -
ジョン・H・ワトスンがシャーロック・ホームズとの共同生活を解消してから、
2年が経過していた。
ベイカーストリート221B の家主であるハドスン夫人が、
ワトスンの家を訪ねて来る。ホームズが謎の病に罹り、
瀕死の状態に陥っている、とのこと。
ハドスン夫人の依頼を受けて、ワトスンは、
直ぐにホームズの元へと向かい、
熱帯病に詳しい医師を連れて来ようと提案するものの、
何故か、ホームズは一切聞き入れず、
後で自分が指定する人物を読んで来るようにと言い張ったのである。
画面右側から、シャーロック・ホームズ、
そして、ジョン・H・ワトスン。
挿絵:ウォルター・スタンリー・パジェット
(Walter Stanley Paget:1862年 - 1935年)

なお、ウォルター・スタンリー・パジェットは、
シャーロック・ホームズシリーズのうち、

第1短編集の「シャーロック・ホームズの冒険

(The Adventures of Sherlock Holmes)」(1892年)、

第2短編集の「シャーロック・ホームズの回想

(The Memoirs of Sherlock Holmes)」(1893年)、

第3短編集の「シャーロック・ホームズの帰還

(The Return of Sherlock Holmes)」(1905年)および

長編第3作目の「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」

「ストランドマガジン」1901年8月号から1902年4月号にかけて連載された後、

単行本化)の挿絵を担当したシドニー・エドワード・パジェット

(Sidney Edward Paget:1860年 - 1908年)の弟である。


午後4時頃、ベイカーストリート221B に着いたワトスンは、ホームズの様子を見て、愕然とする。

ベッドに横たわるホームズの顔は、痩せ衰えており、熱で目はぎらぎらとして、頬も紅潮していた。更に、ベッドカバーの上に置かれた細い手は、ひっきりなしに痙攣していたのである。


ワトスンがベッドに近寄ろうとすると、ホームズは、「下がれ!直ぐに下がれ!(Stand back! Stand right back!)」と言って、恐ろしい形相で制止する。

ホームズによると、自分が罹患した病気は、船乗りから感染したスマトラ島(Sumatra)のクーリー病(coolie disease)で、接触感染する、とのことだった。


ロザーハイズストリート(Rotherhithe Street)沿いに設置された休憩所 -
画面左側の手摺り越しに、テムズ河を眺めることができる。
<筆者撮影>

休憩所からロザーハイズストリート(左右に延びる通り)と
レイルウェイアベニュー(Railway Avenue - 画面奥へ延びる通り)を見たところ。

<筆者撮影>


ハドスン夫人によるワトスンへの説明では、ホームズは、ある事件の捜査のために、テムズ河(River Thames)南岸へ出かけ、そこで病気を移されて、帰って来たとのことだが、その場所であるロザーハイズ地区(Rotherhithe)とは、ロンドンの特別区の一つであるサザーク区(London Borough of Southwark)内にある地区である。


テムズ河沿いに延びる遊歩道
<筆者撮影>

テムズ河沿いに現れた河原から
遊歩道沿いに建つフラット群を見上げたところ。

<筆者撮影>


ロザーハイズ地区は、テムズ河(River Thames)の南岸にあり、テムズ河へ半島のように突き出している場所にある関係上、北側、東側と西側の三方はテムズ河に囲まれている。

ロザーハイズ地区の南西部分は、同じサザーク区のバーモンジー地区(Bermonsey)に、そして、南東部分は、ロンドンの特別区であるグリニッジ王立区(Royal Borough of Greenwich)/ ルイシャム区(London Borough of Lewisham)のデップフォード地区(Deptford)に接している。


「Rotherhithe - History, art and the Mayflower」の冊子から抜粋した
ロザーハイズ地区とその周辺地図


そして、テムズ河を間に挟んで、ロンドンの特別区の一つであるロンドン・タワーハムレッツ区(London Borough of Tower Hamlets)のワッピング地区(Wapping)に面している。


テムズ河北岸のヴィクトリアエンバンクメント通り
(Victoria Embankment → 2018年12月9日付ブログで紹介済)沿いに設置されている
英国の技師であるイザムバード・キングダム・ブルネル
(1806年ー1859年)のブロンズ像
<筆者撮影>


イザムバード・キングダム・ブルネルは、
パディントン駅(Paddington Station → 2014年8月3日付ブログで紹介済)を初めとする
グレイトウェスタン鉄道の施設や車輌等を設計したことで有名である。
<筆者撮影>


ロザーハイズ地区の場合、以前(ホームズとワトスンが活躍をするヴィクトリア朝時代よりも前)は波止場が主体であったが、18世紀中頃に、フランス生まれの技術者であるマーク・イザムバード・ブルネル(Marc Isambard Brunel:1769年ー1849年)と彼の息子で、英国の技師であるイザムバード・キングダム・ブルネル(Isambard Kingdom Brunel:1806年ー1959年)がテムズ河トンネル(Thames Tunnell)を完成させたことにより、テムズ河の北岸(ワッピング地区)と南岸(ロザーハイズ地区)が接続。


ロザーハイズストリート135番地の建物
<筆者撮影>

ロザーハイズストリート135番地の建物外壁に掛けられているプレート
<筆者撮影>

テムズ河沿いに建つ嘗ては倉庫だった建物は、
現在はフラットに改装されて、多くの住民が住んでいる。
<筆者撮影>


また、地下鉄ジュビリーライン(Jubliee Line)が東方面に延長した結果、バーモンジー駅(Bermonsey Tube Station)とカナダウォーター駅(Canada Water Tube Station)が開設したことに伴い、テムズ河沿いに数多く建っていた倉庫群が住居へと改装され、住民が増加。現在、再開発が進んでいる地域と言える。 


2025年8月30日土曜日

ジョン・ディクスン・カー作「アラビアンナイトの殺人」(The Arabian Nights Murders by John Dickson Carr)

東京創元社から創元推理文庫として出版された
ジョン・ディクスン・カー作「アラビアンナイトの殺人」の表紙
(カバー:山田 維史)


今回は、ジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)作「アラビアンナイトの殺人(The Arabian Nights Murders)」について、紹介したい。


アラビアンナイトの殺人」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カーが1936年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)が登場するシリーズ第7作目に該る。


英国の Orion Books 社から出版されている
ジョン・ディクスン・カー作「三つの棺」の表紙
(Cover design & illustration : obroberts)


なお、「アラビアンナイトの殺人」の前作で、ギディオン・フェル博士シリーズの第6作目に該るのは、「三つの棺(The Three Coffins 英題: The Hollow Man → 2020年5月3日 / 5月16日 / 5月23日 / 6月13日 / 6月20日付ブログで紹介済)」(1935年)。また、「アラビアンナイトの殺人」の次作で、ギディオン・フェル博士シリーズの第8作目に該るのは、「死者はよみがえる(To Wake the Dead)」(1937年)。「三つの棺」は、ジョン・ディクスン・カーによる数ある密室ミステリーの中でも、最高峰と評されている不朽の名作である。


早川書房からハヤカワミステリ文庫として出版された
ジョン・ディクスン・カー作「三つの棺」の表紙
(カバーデザイン:山田 維史)

原作を既に読んだ人にはお判りになるかと思うが、
推理小説として、この表紙の内容は、非常に掟破りの内容を言える。


ある年の夏(6月14日(金))の夜(午後11時頃)、ヴァインストリート署のホスキンズ巡査部長は、彼の担当区であるロンドンのセントジェイムズストリート(St. James’s Street → 2021年7月24日付ブログで紹介済)近辺を巡回中だった。


セントジェイムズストリートの西側から東側を見たところ -
画面右奥斜めに延びる通りは、ジャーミンストリート
(Jermyn Street → 2016年7月24日付ブログで紹介済)。
<筆者撮影>


ホスキンズ巡査部長は、セントジェイムズストリートを折れ、クリーヴランドロウ(Cleveland Row)へ入り、西へ向かった。

クリーヴランドロウには、ウェイド博物館(Wade Museum - セントジェイムズ宮殿(St. James’s Palace)から広場一つ隔てたところにあり)が所在。ウェイド博物館は、大富豪であるジェフリー・ウェイドが10年程前に開設した私立博物館で、中近東の陳列品(Oriental Art)を展示する他、初期の英国製馬車で、素晴らしい逸品も保存していた。


ホスキンズ巡査部長がウェイド博物館の前を通り掛かったところ、建物の高い塀の上に、年寄り染みた男が腰掛けているのが見えた。彼は、痩せてのっぽで、フロックコートを羽織り、頭にシルクハットを横冠りにしていた。両頬から顎にかけて、真っ白い髭を伸ばしていた。また、大きな角ぶちの眼鏡を掛けていた。

ホスキンズ巡査部長がその男へ向けて角灯の光をあて、職務質問をすると、男が急に塀の上から飛び降りてきた。一度はどさりと倒れたが、直ぐに起き上がると、その男はホスキンズ巡査部長に対して、


「きさま、あの男を殺したな。わるいやつだ。このペテン師め!わしは、きさまが馬車のなかにいるのを、ちゃんと見てしまったんだぞ。」(宇野 利泰訳)


と言うと、襲い掛かってきたのである。

ホスキンズ巡査部長とその男は取っ組み合いになったが、ホスキンズ巡査部長が男の顎を狙って殴り付けると、意外や、男は簡単に崩れ折れてしまった。その際、その男の頬髭は、付け髭で、偽物であることが判った。


案外簡単に、男が倒れてしまったことに驚いたホスキンズ巡査部長は、直ぐ近くのパル・マル通り(Pall Mall → 2016年4月30日付ブログで紹介済)を巡回中のジェイムスン巡査に助けを求めようとした。ホスキンズ巡査部長は、ジェイムスン巡査に男の見張りを頼み、その間に、自分は電話を掛けに行こうとしたのである。

ホスキンズ巡査部長は、男の身体を舗道と車道の境の窪みに横たえ、頭を縁石の上に乗せた。

ホスキンズ巡査部長が、パル・マル通りへと歩き出して、少しして後ろを振り返ると、驚くことに、倒れていた男の姿が消え失せていたのである


夕暮れが迫るパル・マル通り
<筆者撮影>


ホスキンズ巡査部長は、奇々怪々な出来事に遭遇した訳であるが、それはとんでもない大事件の発端であった。

この人間消失の謎の後、ヴァインストリート署勤務のジョン・カラザーズ警部(Inspector John Carruthers)がウェイド博物館を訪れたところ、博物館内に置かれた馬車の中から、男性の死体が転げ出した。

彼は黒っぽい長外套を着込んでおり、上着の下の胸の左側がちだらけで、白柄の短剣が突き刺さっていた。頭には、トップハットが被せてあった。不思議なことに、その男性は、顎につけ髭を付けていたのである。


天下の奇書アラビアンナイトの構成にならって、スコットランドヤードのお歴々である(1)ヴァインストリート署勤務のジョン・カラザーズ警部(アイルランド人)、犯罪捜査部(CID)のデイヴィッド・ハドリー警視(Superintendent David Hadley / イングランド人)と(3)副総監であるハーバート・アームストロング卿(スコットランド人

)が、三人三様の観察力と捜査法を駆使して、この事件を解説する。

彼らの話の聞き手は、南フランスで4ヶ月間の休暇を楽しんで、アデルフィテラス1番地(1 Adelphi Terrace → 2018年11月25日付ブログで紹介済)の自宅に戻ったばかりのギディオン・フェル博士。


サヴォイテラスから見上げたアデルフィテラス
<筆者撮影>


アデルフィテラスにある
「アデルフィ(The Adelphi)」と呼ばれる新古典主義の集合住宅(テラスハウス)の記念碑
<筆者撮影>


ギディオン・フェル博士は、一晩かかって、彼らの話を聞いた後、事件の謎を解き明かすのであった。


2025年8月29日金曜日

コナン・ドイル作「技師の親指」<小説版>(The Engineer’s Thumb by Conan Doyle )- その5

英国で出版された「ストランドマガジン」
1892年3月号に掲載された挿絵(その8) -
シャーロック・ホームズ、ジョン・H・ワトスン、
水力工学技師のヴィクター・ハザリー、
スコットランドヤードのブラッドストリート警部(Inspector Bradstreet)と
私服警官(a plain-clothes man)の5人が
レディング(Reading)経由、アイフォード駅に到着すると、
駅の近くに建つ屋敷から巨大な煙の柱が見えた。
筆者の推測が一部入っているが、
画面左側から、ヴィクター・ハザリー、ホームズ、
ブラッドストリート頸部、ワトスン、
そして、私服警官の順番だと思われる。

(Sidney Edward Paget:1860年 - 1908年)

「技師の親指(The Engineer’s Thumb)」は、作者であるサー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)が、シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、9番目に発表した作品で、英国の「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1892年3月号に掲載された。

同作品は、1892年に発行されたホームズシリーズの第1短編集「シャーロック・ホームズの冒険(The Adventures of Sherlock Holmes)」に収録されている。


「技師の親指」の場合、シャーロック・ホームズがあまり活躍しないと言う意味で、代表的な短編である。

本作において、ライサンダー・スターク大佐(Colonel Lysander Stark)に連れられ、水力工学技師(hydraulic engineer)のヴィクター・ハザリー(Victor Hatherley)がバークシャー州(Berkshire)のアイフォード駅(Eyford Station)から屋敷まで行った馬車での移動の謎を解き明かして、ホームズが事件現場の所在地を推理したのが、彼の主な活躍で、犯人達の逮捕等には全く関わっていない。


「技師の親指」について言うと、以下のような奇妙な点や矛盾点がある。


(1)

1889年の夏の午前7時前、今回の事件の依頼人である水力工学技師のヴィクター・ハザリーが手を負傷して、「四つの署名(The Sign of the Four → 2017年8月2日付ブログで紹介済)」事件で知り合ったメアリー・モースタン(Mary Morstan)と結婚し、パディントン駅(Paddington Station → 2014年8月3日付ブログで紹介済)の近くに開業していたジョン・H・ワトスンの医院へ運び込まれるところから、物語が幕を開ける。

メイドに起こされたワトスンが診察室に入ると、テーブルの側に一人の紳士が座っていた。彼は灰色がかった紫のツイード服を着ており、私の本の上に柔らかい布製の帽子が置かれていた。彼は片手にハンカチを巻いていたが、ハンカチ全体に血が滲んでいた。(I entered my consulting-room and found a gentleman seated by the table. He was quietly dressed in a suit of heather tweed with a soft cloth cap which he had laid down upon my books. Round one of his hands he had a handkerchief wrapped, which was mottled all over with blood stains.) 

つまり、ヴィクター・ハザリーは、帽子を持っていたことになる。

しかし、彼は、故障した水圧機(hydraulic press)を修理する時には、帽子を冠っておらず、また、屋敷から逃げ出す際にも、帽子を取って来る時間はなかった筈である。

だとすると、ヴィクター・ハザリーが、切断された親指の治療のために、ワトスンの医院を訪れた時に持っていた帽子は、何処から出現したのだろうか?


英国で出版された「ストランドマガジン」
1892年3月号に掲載された挿絵(その1) -
1889年の夏の午前7時前、
パディントン駅の近くに開業していたジョン・H・ワトスンの医院へ運び込まれた
水力工学技師のヴィクター・ハザリーは、
メイドに起こされたワトスンに対して、負傷した手を見せるところから、
「技師の親指」事件の物語が幕を開ける。
画面左側の人物が、ヴィクター・ハザリーで、
画面右側の人物が、ジョン・H・ワトスン。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(1860年 - 1908年)


(2)

シドニー・エドワード・パジェットによる挿絵によると、ヴィクター・ハザリーは、左手を負傷しているように描かれているが、コナン・ドイルの原作上、彼が負傷した手が左手なのか、それとも、右手なのかについては、明確に言及されていない。


(3)

ヴィクター・ハザリーが屋敷から逃げ出そうとして、両手で窓枠にぶら下がった際、ライサンダー・スターク大佐が振り下ろした肉切り包丁で、親指を切り落とされている。(I had let myself go, and was hanging by my hands to the sill when his blow fell.)

窓枠から両手でぶら下がっている状態の指の位置から考えると、左手の親指も、また、右手の親指も、空中にあるか、もしくは、窓枠にあったとしても、他の4本の指よりも下の位置にあった筈である。

従って、ライサンダー・スターク大佐が肉切り包丁でヴィクター・ハザリーの左手の親指だけをうまい具合に切り落とすことは、かなり難しいものと思われる。仮にヴィクター・ハザリーの左手の親指を切り落とした場合、左手の他の部分にも、怪我があってもおかしくない。

シドニー・エドワード・パジェットによる挿絵によると、ヴィクター・ハザリーは、左手だけで窓枠からぶら下がっているので、コナン・ドイルの原作の内容とは一致していないと言える。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1892年3月号に掲載された挿絵(その7)-
謎の女性に言われた通り、ヴィクター・ハザリーは、
窓から飛び降りようとした。
彼が両手で窓枠にぶら下がった際、
ライサンダー・スターク大佐が肉切り包丁を振り下ろしたため、
親指を切り落とされてしまった。
画面上の人物が、ライサンダー・スターク大佐で、
画面下の人物が、ヴィクター・ハザリー。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(1860年 - 1908年)


(4)

ヴィクター・ハザリーがライサンダー・スターク大佐に連れて来られた屋敷の火事の原因(ホームズによると、水圧機内で潰されたランプ)や火事の燃え方(未明から日没近くまで燃え続けた)が現実的ではない。


(5)

消防士達は、3階の窓枠の上に、ヴィクター・ハザリーの切り落とされた親指を見つけている。(The firemen had been much perturbed at the strange arrangements which they had found within, and still more so by discovering a newly severed human thumb upon a windowsill of the second floor.)

ヴィクター・ハザリーがライサンダー・スターク大佐に連れてかれた屋敷の焼け跡が完全な廃墟になったにもかかわらず、彼の親指が判別のつく形で見つかっていること自体、疑問である。


ジェレミー・ブレット(Jeremy Brett:1933年ー1995年)を主人公のシャーロック・ホームズ役に据えて、英国のグラナダテレビ(Granada Television Limited)が TV ドラマ「シャーロック・ホームズの冒険(The Adventures of Sherlock Holmes)」(1984年ー1994年)を制作しているものの、残念ながら、「技師の親指」に関しては、映像化されていない。


2025年8月28日木曜日

コナン・ドイル作「技師の親指」<小説版>(The Engineer’s Thumb by Conan Doyle )- その4

英国で出版された「ストランドマガジン」
1892年3月号に掲載された挿絵(その6)-
ヴィクター・ハザリーは、修理を依頼された水圧機の床の溝に、
活性白土ではなく、金属の沈殿物を見つける。
ライサンダー・スターク大佐が彼に話した内容
(活性白土の掘り出し)は、全くの偽りだったのである。
秘密を知られたライサンダー・スターク大佐は、
ヴィクター・ハザリーを水圧機の中に残したまま、
機械を作動させた。
水圧機の中に閉じ込められたヴィクター・ハザリーは、
絶体絶命の危機に陥った。
画面の人物は、水圧機の中に閉じ込められたヴィクター・ハザリー。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(Sidney Edward Paget:1860年 - 1908年)

1889年の夏の午前7時前、「四つの署名(The Sign of the Four → 2017年8月2日付ブログで紹介済)」事件で知り合ったメアリー・モースタン(Mary Morstan)と結婚し、パディントン駅(Paddington Station → 2014年8月3日付ブログで紹介済)の近くに開業していたジョン・H・ワトスンの医院において、負傷した手の治療を受けた水力工学技師(hydraulic engineer)のヴィクター・ハザリー(Victor Hatherley)は、ワトスンに伴われて、シャーロック・ホームズが住むベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)を訪れる。

ホームズとワトスンと一緒に朝食を食べて落ち着いたヴィクター・ハザリーは、彼ら2人に対して、彼が体験した奇妙な出来事について、話し始めた。


グリニッジ(Greenwich)にある有名なヴェナー&マジソン社(Venner & Matheson)において、7年間の見習い期間を務めたヴィクター・ハザリーは、亡くなった父親から相続した相応の金額で起業することを決め、ヴィクトリアストリート(Victoria Street)の一室で開業したものの、2年間のうち、収入につながった仕事は、相談が3件と小さな仕事が1件だけで、総収入は僅かに27ポンド10シリングと言う鳴かず飛ばずの状態だった。

ヴィクター・ハザリーは、毎日、朝の9時から夕方の4時まで、事務所で仕事を待ち続けたが、新たな仕事が到来する兆しは全くなかったが、昨日、彼が帰宅しようとしていたところ、事務員が来客を告げた。


画面の建物に、今回の事件の依頼人であるヴィクター・ハザリーの事務所
(ヴィクトリアストリート16A番地)があったと思われる。
<筆者撮影>


40歳に近い非常に痩せた男性で、ドイツ訛りの口調で話すライサンダー・スターク大佐(Colonel Lysander Stark)は、詳しい話を始める前に、ヴィクター・ハザリーに対して、秘密を厳守するよう、約束させた。

ライサンダー・スターク大佐が開示した仕事の内容とは、バークシャー州アイフォード(Eyford in Berkshire)に所在する彼の敷地内にある故障した水圧機(hydraulic press)の修理で、報酬は一晩の仕事で50ギニー(fifty guineas for a night’s work)と言う高額だった。


午後4時50分を指すパディントン駅コンコース上の時計
<筆者撮影>


不自然なところが多い仕事の内容に疑問を抱いたヴィクター・ハザリーではあったが、50ギニーと言う高額の報酬に惹かれた彼は、夕食を済ませ、パディントン駅(Paddington Station → 2014年8月3日付ブログで紹介済)からアイフォード駅へと向かった。

午後11時過ぎにアイフォード駅に着いたヴィクター・ハザリーを、約束通り、ライサンダー・スターク大佐が馬車で迎えに来ていた。当初、ライサンダー・スターク大佐は、「駅から7マイル」と言っていたが、実際、馬車は少なくとも1時間以上走り、ヴィクター・ハザリーには、12マイル近くの距離に感じた。生憎と、馬車の窓は磨りガラス(frosted glass)のため、ヴィクター・ハザリーは、今何処を走っているのか、全く判らなかった。


ある屋敷に到着した後、ライサンダー・スターク大佐に案内された部屋で、ヴィクター・ハザリーが一人で待っていると、突然、美しい女性が部屋へ入って来ると、彼に片言の英語の囁き声で警告した。

「帰りなさい。此処に居てはいけません。此処に居ると、あなたにとって良くありません。(I would go. I should not stay here. There is no good for you to do.)」と。

必死の形相による警告だったが、少しばかり強情な(headstrong)性格のヴィクター・ハザリーは、その女性の言葉を無視してしまった。


その女性が姿を消した後、戻って来たライサンダー・スターク大佐と彼の秘書兼マネージャーであるファーガスン氏(Mr Ferguson)に連れられて、水圧機のところへ行ったヴィクター・ハザリーが機械を動かしてみると、部品の一部から圧力が漏れていることが直ぐに判った。ヴィクター・ハザリーは、ライサンダー・スターク大佐とファーガスン氏の2人に対して、水圧機の故障原因を詳しく説明。


彼らへの説明を終えたヴィクター・ハザリーが水圧機の中に戻り、床にある鉄の溝を調べてみると、そこには、活性白土(fuller’s earth)ではなく、金属の沈殿物が付着していた。

ライサンダー・スターク大佐は、「活性白土をほっている。」と言っていたが、それは全くの偽りだったのだ。この水圧機は、一体、何の目的に使われているのか?


秘密を知られたライサンダー・スターク大佐は、ヴィクター・ハザリーが水圧機の中に残したまま、機械を作動させた。天井が下がって来たため、ヴィクター・ハザリーは慌てふためいたが、機械側面の板張りに隙間を見つけ、板を剥がして、水圧機から脱出することに成功。

ヴィクター・ハザリーは、謎の女性による案内で、寝室へ逃げ込んだ。前回、彼は彼女の警告を無視したが、今回は彼女の助言を軽視することはできなかった。片手にランタンを、そして、もう一方に大型の肉切り包丁(a weapon like a butcher’s cleaver)を持ったライサンダー・スターク大佐が、ヴィクター・ハザリーの後を追い掛けて来た。

謎の女性に言われた通り、ヴィクター・ハザリーは、窓から飛び降りようとしたが、両手で窓枠にぶら下がった際、ライサンダー・スターク大佐が振り下ろした肉切り包丁で、親指を切り落とされてしまったのである。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1892年3月号に掲載された挿絵(その7)-
謎の女性に言われた通り、ヴィクター・ハザリーは、
窓から飛び降りようとした。
彼が両手で窓枠にぶら下がった際、
ライサンダー・スターク大佐が肉切り包丁を振り下ろしたため、
親指を切り落とされてしまった。
画面上の人物が、ライサンダー・スターク大佐で、
画面下の人物が、ヴィクター・ハザリー。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(1860年 - 1908年)


ヴィクター・ハザリーは、地面に落下して気を失いかけたが、気力を振り絞って、庭の薔薇の茂みの陰に隠れ、そこで気絶。

暫くして目を覚ますと、彼は、問題の屋敷の庭ではなく、幹線道路近くの生け垣の角に寝かされていた。月が沈み、夜が明けかけていた。そこから少し下りると、そこには、昨夜、彼が下車したアイフォード駅があった。

駅員に尋ねると、「1時間以内に、レディング(Reading)行きの汽車がある」とのことだったので、ヴィクター・ハザリーは、その汽車に乗り、午前6時過ぎにパディントン駅に到着。そして、彼は、傷の手当てのため、駅員に連れられて、ワトスンの医院を訪れたのである。


パディントン地区(Paddington → 2015年1月4日付ブログで紹介済)内の
ノーフォークスクエア(Norfolk Square)-
ジョン・H・ワトスンが開業した医院があった場所の候補地の一つ。
<筆者撮影>

2025年8月27日水曜日

コナン・ドイル作「技師の親指」<小説版>(The Engineer’s Thumb by Conan Doyle )- その3

英国で出版された「ストランドマガジン」
1892年3月号に掲載された挿絵(その4)-
ライサンダー・スターク大佐は、秘密厳守の仕事を依頼した後、
冷たく湿った手でヴィクター・ハザリーの手を握ると、
事務所から急いで出て行った。
画面左側の人物が、ヴィクター・ハザリーで、
画面右側の人物が、
ライサンダー・スターク大佐
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(Sidney Edward Paget:1860年 - 1908年)

1889年の夏の午前7時前、「四つの署名(The Sign of the Four → 2017年8月2日付ブログで紹介済)」事件で知り合ったメアリー・モースタン(Mary Morstan)と結婚し、パディントン駅(Paddington Station → 2014年8月3日付ブログで紹介済)の近くに開業していたジョン・H・ワトスンの医院において、負傷した手の治療を受けた水力工学技師(hydraulic engineer)のヴィクター・ハザリー(Victor Hatherley)は、ワトスンに伴われて、シャーロック・ホームズが住むベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)を訪れる。

ホームズとワトスンと一緒に朝食を食べて落ち着いたヴィクター・ハザリーは、彼ら2人に対して、彼が体験した奇妙な出来事について、話し始めた。


ヴィクター・ハザリーは、他に身寄りがない独身で、ロンドンの下宿で一人暮らしをしていた。

彼の職業は水力工学技師で、グリニッジ(Greenwich)にある有名なヴェナー&マジソン社(Venner & Matheson)において、7年間、見習いを務めた。

見習い期間を終えた2年前、亡くなった父親から相続した相応の金額を使って、起業することを決め、ヴィクトリアストリート(Victoria Street)の一室で開業。

開業はしたものの、2年間のうち、収入につながった仕事は、相談が3件と小さな仕事が1件だけで、総収入は、僅かに27ポンド10シリングだった。


画面の建物に、今回の事件の依頼人であるヴィクター・ハザリーの事務所
(ヴィクトリアストリート16A番地)があったと思われる。
<筆者撮影>


ヴィクター・ハザリーは、毎日、朝の9時から夕方の4時まで、事務所で仕事を待ち続けたが、新たな仕事が到来する兆しは全くなかった。

ところが、昨日、彼が帰宅しようとしていたところ、事務員が来客を告げた。その事務員が持って来た名刺には、「ライサンダー・スターク大佐(Colonel Lysander Stark)」と書かれていたのである。


事務員の後ろから姿を見せたライサンダー・スターク大佐は、40歳に近い非常に痩せた男性で、ドイツ訛りの口調で話し始めた。

ライサンダー・スターク大佐は、詳しい話を始める前に、ヴィクター・ハザリーに対して、秘密を厳守するよう、強く念を押す。

ヴィクター・ハザリーが秘密厳守を約束すると、ライサンダー・スターク大佐は、仕事の依頼内容を開示した。


*報酬:一晩の仕事で50ギニー(fifty guineas for a night’s work)

*場所:バークシャー州のアイフォード(Eyford in Berkshire)

*仕事:故障した水圧機(hydraulic press)の修理


ライサンダー・スターク大佐によると、自宅の敷地の一部に活性白土(fuller’s earth)の層が存在していることを発見したが、その層は、別の人達が所有する両隣りの土地に広がっている、とのこと。生憎と、両隣りの土地を購入するだけの資金がないため、彼としては、まず最初に自分の敷地内にある活性白土を掘り出して、それを売ったお金で両隣りの土地を買おうと考えているので、秘密にしていると言う。

ヴィクター・ハザリーが、ライサンダー・スターク大佐に対して、「活性白土を掘り出すのに、何故、水圧機をつかうのか?活性白土の場合、穴を掘って、砂利のように採掘するのではないか?(The only point which I could not quite understand was what use you could make of a hydraulic press in excavating fuller’s-earth, which, as I understand, is dug out like gravel from a pit.)」と尋ねると、ライサンダー・スターク大佐は、「掘り出した活性白土を煉瓦のように圧縮して、運び出すんですよ。(We compress the earth into bricks, so as to remove them without revealing what they are.)」と答えた。


パディントン駅のプラットフォームとそれらを覆うガラス屋根
<筆者撮影>


パディントン駅で発車を待つヒースローエクスプレス(Heathrow Express)
<筆者撮影>


不自然なところが多い仕事の内容に疑問を抱いたヴィクター・ハザリーではあったが、50ギニーと言う高額の報酬に惹かれたため、夕食を済ませると、パディントン駅(Paddington Station → 2014年8月3日付ブログで紹介済)へと向かう。

ライサンダー・スターク大佐に指定された通り、午後11時過ぎに、ヴィクター・ハザリーがアイフォード駅に到着すると、約束通り、ライサンダー・スターク大佐が馬車で彼を迎えに来ていた。

ライサンダー・スターク大佐と一緒に、ヴィクター・ハザリーが乗り込んだ馬車は、アイフォード駅から7マイルと言われた距離を走り、とある屋敷に着く。しかし、馬車が走行した時間から推察すると、ヴィクター・ハザリーにとって、12マイルはあったのではないかと感じられた。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1892年3月号に掲載された挿絵(その5)-
ライサンダー・スターク大佐に案内された部屋で、
ヴィクター・ハザリーが一人で待っていると、
美しい女性が突然部屋に入って来て、
此処から直ぐに帰るよう、片言の英語で警告した
画面左側の人物が、ヴィクター・ハザリーで、
画面右側の人物が、謎の女性

挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(1860年 - 1908年)

ライサンダー・スターク大佐に案内された部屋で、ヴィクター・ハザリーが一人で待っていると、突然、美しい女性が部屋に入って来ると、彼に片言の英語の囁き声で警告した。


「帰りなさい。此処に居てはいけません。此処に居ると、あなたにとって良くありません。(I would go. I should not stay here. There is no good for you to do.)」と。