Barbara Hepworth at work on the plaster for Oval Form (Trezion), Palais de Danse, St. Ives (1963) Photography by Val Wilmer Bowness, Hepworth Estate |
第二次世界大戦(1939年-1945年)後の1949年2月8日、ジョスリン・バーバラ・ヘップワース(JocelynBarbara Hepworth:1903年ー1975年)と夫の英国の彫刻家であるベンジャミン・ローダー・ニコルスン(Benjamin Lauder Nicholson:1894年ー1982年)は、コンウォール州(Cornwall)のセントアイヴス(St. Ives)において、ペンウィズ芸術協会(Penwith Society of Arts)を共同創設し、19名の芸術家が創設メンバーとして参加。
1950年、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースの彫刻作品が、第25回ヴェネツィアビエンナーレ(XXV Venice Biennale)の英国パヴィリオン(British Pavilion)において展示される。
1951年、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、夫のベンジャミン・ローダー・ニコルスンと離婚。
この頃、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、彫刻作品として、石や木だけではなく、ブロンズや粘土を使い始めた。彼女は、大きなブロンズ彫刻作品を、セントアイヴスに所在する自宅のトレウィンスタジオ(Trewyn Sudios)の庭園内に設置した。なお、この庭園は、彼女と彼女の友人で、南アフリカ生まれの英国人作曲家のアイヴィー・プリオー・レニエ(Ivy Priaulx Rainier:1903年ー1986年)が一緒に設計している。
ジョスリン・バーバラ・ヘップワースと英国の彫刻家で、前夫であるジョン・ラッテンベリー・スキーピング(John Rattenbury Skeaping:1901年ー1980年)の間に1929年に生まれた長男のポール(Paul)は、英国空軍に入隊後、タイ王国に駐在していたが、1953年2月13日、飛行機事故により、死亡。
ジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、長男ポール追悼のため、彫刻作品「聖母子(Madonna and Child)」を制作して、セントアイヴス教区教会(parish church of St. Ives)に寄贈した。
長男ポールの死により精神的に追い込まれていたジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、1954年8月、彼女の親友で、芸術家のパトロンでもあるマーガレット・エミリア・ガーディナー(Margaret Emilia Gardiner:1904年ー2005年)と一緒に、ギリシアへと旅立ち、アテネ(Athens)、デルフィ(Delphi)やエーゲ海の諸島を巡る。
1960年に、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、通りを挟んで、自宅のトレウィンスタジオの向かい側にある元映画 / ダンスホールのパレ・ド・ダンス(Palais de Danse)を購入して、スタジオ面積を広げた。スタジオの追加購入により、彼女は、大型の彫刻作品を制作できるようになった。
晩年、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、リトグラフを用いた作品も制作した。
彼女が1971年に発表した「エーゲ海作品集(The Aegean Suite)」は、1954年8月、マーガレット・エミリア・ガーディナーと一緒に、ギリシアを旅した経験に基づいている。
ジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、1975年5月20日、自宅のトレウィンスタジオにおける失火により亡くなった。享年72歳だった。
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