ケンブリッジ大学創立800周年を記念して、 英国の児童文学作家 / イラストレーターであるクェンティン・ブレイクが描いた スコットランド出身の理論物理学者である ジェイムズ・クラーク・マクスウェルの絵葉書 <筆者がケンブリッジのフィッツウィリアム博物館(Fitzwilliam Museum → 2024年7月20日 / 7月24日付ブログで紹介済)で購入> |
2009年にケンブリッジ大学(University of Cambridge)が創立800周年を迎えたことを記念して、英国の児童文学作家 / イラストレーターであるクェンティン・ブレイク(Quentin Blake:1932年ー)が、ケンブリッジ大学に関係する人物を描いて、寄贈した。
ケンブリッジ大学の創立800周年を記念して、クェンティン・ブレイクが描いた人物達について、(1)アイザック・ニュートン(Issac Newton:1642年―1727年 → 2024年5月26日 / 5月30日付ブログで紹介済)、(2)チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin:1809年ー1882年 → 2024年6月9日 / 6月13日付ブログで紹介済)、(3)ヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年 → 2024年7月26日付ブログで紹介済)、(4)ジョン・ディー(John Dee:1527年ー1608年、または、1609年 → 2024年7月30日付ブログで紹介済)、(5)オリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell:1599年ー1658年 → 2024年8月4日付ブログで紹介済)、(6)ジョン・ミルトン(John Milton:1608年ー1674年 → 2024年8月17日付ブログで紹介済)、(7)ウィリアム・ウィルバーフォース(William Wilberforce:1759年ー1833年 → 2024年8月21日付ブログで紹介済)、(8)第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron:1788年ー1824年 → 2021年5月9日+2024年8月24日 / 8月30日付ブログで紹介済)や(9)ヘンリー・ド・ウィントン + ジョン・チャールズ・シリング(Henry de Winton + John Charles Thring → 2024年9月16日付ブログで紹介済)に続き、順番に紹介していきたい。
10番目に紹介するのは、ジェイムズ・クラーク・マクスウェル(James Clark Maxwell)である。
(10)ジェイムズ・クラーク・マクスウェル(1831年ー1879年)
ジェイムズ・クラーク・マクスウェルは、スコットランド出身の理論物理学者である。
ジェイムズ・クラーク・マクスウェルは、1831年6月13日、弁護士である父ジョン・クラーク(John Clerk:1790年ー1856年)と母フランシス・ケイ(Frances Cay)の長男として、スコットランドのエディンバラ(Edinburgh)に出生。
父親のジョン・クラークは、1793年にマクスウェル家の広大な土地を相続したことに伴い、名前をジョン・クラーク・マクスウェル(John Clerk Maxwell)に改名。
ジェイムズ・クラーク・マクスウェルは、父が相続したスコットランド南西部のミドルビー(Middlebie)で幼少期を過ごす。近くに学校がなかったため、母のフランシスが彼の教師を務めたが、彼が8歳の時(1839年12月)に、癌で死去。
1841年11月(10歳)にエディンバラ中等学校(Edinbugh Academy)に入学したジェイムズ・クラーク・マクスウェルは、1846年に複数の焦点を用いた卵形線の定義とこれに基づいたピンと糸による描法を考案して、論文として発表。彼の論文は、物理学者で、エディンバラ大学(University of Edinburgh)の教授であるジェイムズ・デイヴィッド・フォーブス(James David Forbes:1809年ー1868年)の目に留まり、エディンバラ王立協会(Royal Society of Edinburgh)において発表されると言う栄誉を受けた。
ジェイムズ・クラーク・マクスウェルは、1847年(16歳)にエディンバラ大学(University of Edinburgh)に入学した。
続いて、1850年(19歳)にケンブリッジ大学(University of Cambridge)のピーターハウスカレッジ(Peterhouse College)に入学したが、翌学期には、同大学のトリニティーカレッジ(Trinity College)へと移った。彼がピーターハウスカレッジからトリニティーカレッジへと移ったのは、フェロー(Fellow)になる可能性が高いと考えたからであった。
ジェイムズ・クラーク・マクスウェルは、数学の学位を取得して、1854年(23歳)にトリニティーカレッジを卒業。
残念ながら、彼の最終試験の結果は2位で、後に英国の数学者となるエドワード・ジョン・ラウス(Edward John Routh:1831年ー1907年)が1位を獲得した。
最終試験において、エドワード・ジョン・ラウスに敗れたことを悔しく思ったジェイムズ・クラーク・マクスウェルは、カレッジ内における数学のスミス賞(Smith’s Prize)獲得を狙ったところ、エドワード・ジョン・ラウスと同時受賞と言う結果となったのである。