英国のロイヤルメールから2021年に発行された「薔薇戦争」の記念切手の1枚で、 同戦争の終結となる「ボズワースの戦い」(1485年8月22日)が 描かれている。 |
1455年5月22日、ロンドン北方のセントオールバンズ(St. Albans)において、「薔薇戦争(Wars of the Roses)」の火蓋が切って落とされた。
薔薇戦争は、プランタジネット朝(House of Plantagenet)の第7代イングランド王であるエドワード3世(Edward III:1312年ー1377年 在位期間:1327年ー1377年)の血を引く家柄であるランカスター家(House of Lancaster)とヨーク家(House of York)の間の権力闘争である。ランカスター家が「赤薔薇」を、そして、ヨーク家が「白薔薇」を徽章としていたため、現在、「薔薇戦争」と呼ばれているが、この命名は、後世のことである。
「第1次セントオールバンズの戦い(First Battle of St. Albans)」が契機となり、以後30年間にわたって、ランカスター家とヨーク家の間の内戦が、イングランド各地で繰り広げられrるが、「薔薇戦争」は、以下の3つの期に分けられる。
*第一次内乱(1459年ー1468年)
*第二次内乱(1469年ー1471年)
*第三次内乱(1485年)
今回は、「第三次内乱」について、述べる。
薔薇戦争の第二次内乱を平定したヨーク朝の初代イングランド王であるエドワード4世(Edward VI:1442年ー1483年 在位期間:1461年-1483年 / ただし、1470年から1471年にかけて、数ヶ月間の中断あり)の残りの次世は、比較的に、平和が保たれた。
エドワード4世は、第3代ヨーク公爵リチャード・プランタジネット(Richard Plantagenet, 3rd Duke of York:1411年-1460年 → 薔薇戦争の第一次内乱中の1460年12月30日、ウェイクフィールドの戦い(Battle of Wakefield)において、戦死)とセシリー・ネヴィル(Cecily Neville:1415年ー1495年)の長男であるが、弟として、
(1)次男 - ラトランド伯爵エドムンド・プランタジネット(Edmund Plantagenet, Earl of Rutland:1443年ー1460年 → 父親と同じく、ウェイクフィールドの戦いにおいて、戦死)
(2)六男 - 初代クラレンス公爵ジョージ・プランタジネット(George Plantagenet, 1st Duke of Clarence:1449年ー1478年 → エドワード4世擁立の立役者となった母方の従兄に該る実力者で、妻イザベル・ネヴィル(Isabel Neville:1451年ー1476年)の父親でもあるウォーリック伯爵リチャード・ネヴィル(Richard Neville, Earl of Warwick:1428年-1471年)と一緒に、兄エドワード4世に対して、反旗を翻し、薔薇戦争の第二次内乱を引き起こしたが、途中で従兄を見限って、兄に合流)
(3)八男 - グロスター公爵リチャード・プランタジネット(Richard Plantagenet, Duke of Gloucester:1452年-1485年 / 後に、リチャード3世(Richard III:在位期間 1483年ー1485年 → 2024年6月14日付ブログで紹介済)として即位)
が居る。
プランタジネット朝の第7代イングランド王であるエドワード3世の血を引く家柄である ヨーク家の系図 - 英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から 2023年に刊行されている Pushkin Vertigo シリーズの一つである ジョセフィン・テイ作「時の娘」から抜粋。 |
幼少の頃に父親を失ったリチャード・プランタジネットは、兄エドワードや母方の従兄に該るウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルの庇護を受けた。
1461年に兄がエドワード4世として、ヨーク朝の初代イングランド王に即位すると、リチャードは、グロスター公爵(Duke of Gloucester 在位期間:1461年-1483年)に叙せられた。
政権内の勢力闘争の結果、ランカスター派に寝返ったウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルによって、兄エドワード4世が1470年に、王位から一時的に追放される。
グロスター公爵リチャードは、幼少期に庇護を受けた恩があるウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルから誘いを受けたもの、一貫して兄エドワード4世への忠誠を誓い、翌年の1471年、兄の王位復位に貢献する。
その一方で、グロスター公爵リチャードは、1472年に、反逆者ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルの娘であるアン・ネヴィル(Anne Neville:1456年ー1485年)と結婚。
なお、アン・ネヴィルは、薔薇戦争の第一次内乱(1459年ー1468年)に敗北し、フランスへ亡命していたランカスター朝の第3代イングランド王であるヘンリー6世(Henry VI:1421年ー1471年 在位期間:1422年ー1461年)の王太子(Prince of Wales)であるエドワード・オブ・ウェストミンスター(Edward of Westminster:1453年ー1471年)と結婚していたが、1471年5月4日に行われたテュークスベリーの戦い(Battle of Tewkesbury)において、エドワード・オブ・ウェストミンスターは、捕らわれて、処刑されたため、未亡人となっていた。
アン・ネヴィルの姉イザベル・ネヴィルと既に結婚していた兄の初代クラレンス公爵ジョージ・プランタジネットとの間で、グロスター公爵リチャードは、広大なウォーリック伯爵領の相続をめぐり、対立を深めていく。
兄の初代クラレンス公爵ジョージ・プランタジネットは、妻イザベルの死去(1476年)に伴い、ウォーリック伯爵領の相続争いに敗れた上に、エドワード4世への反逆疑惑を理由に、ロンドン塔(Tower of London → 2018年4月8日 / 4月15日 / 4月22日付ブログで紹介済)に幽閉の上、1478年に処刑された。その結果、グロスター公爵リチャードは、ウォーリック伯爵領を独占相続した。
兄のラトランド伯爵エドムンド・プランタジネットも1460年に死去していたこともあり、グロスター公爵リチャードは、兄エドワード4世に次ぐ実力者としての地位を確立したのである。
それも束の間で、兄エドワード4世の王妃であるエリザベス・ウッドヴィル(Elizabeth Woodville:1437年頃ー1492年)の一族が政権内で勢力を伸ばし始めたため、グロスター公爵リチャードは、これと敵対するようになる。
1483年4月9日、フランス討伐の準備中だったエドワード4世が死去したことに伴い、同年4月10日、彼の長男であるエドワード5世(Edward V:1470年ー1483年 在位期間:1483年4月10日ー同年6月25日 → 2023年10月4日付ブログで紹介済)が、父王の跡を継ぎ、12歳で王位を継承して、ヨーク朝の第2代イングランド王となった。エドワード5世が若かったため、彼の叔父であるグロスター公爵リチャードが、摂政(Protector)に就任。
エドワード5世がイングランドのシュロップシャー州(Shropshire)内にある居城ラドロー城(Ludlow Castle)からロンドンへと向かう中、グロスター公爵リチャードは、第2代リヴァーズ伯爵アンソニー・ウッドヴィル(Anthony Woodville, 2nd Earl of Rivers:1440年ー1483年)を初めとする王妃エリザベス・ウッドヴィル一派を逮捕して、エドワード5世に組する忠臣を排除。
更に、グロスター公爵リチャードは、エドワード5世と彼の弟である初代ヨーク公兼初代ノーフォーク公リチャード・オブ・シュルーズベリー(Richard of Shrewsbury, 1st Duke of York and 1st Duke of Norfolk:1473年ー1483年 → 2023年10月4日付ブログで紹介済)をロンドン塔に幽閉した。彼ら2人は、「塔の王子達(Princes in the Tower)」と呼ばれるようになる。
2ヶ月後の同年6月25日、グロスター公爵リチャードは、イングランド議会に、エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの婚姻は無効のため、エドワード5世と弟の初代ヨーク公兼初代ノーフォーク公リチャード・オブ・シュルーズベリーの2人は、エドワード4世の「嫡子」ではなく、「庶子」であると認定の上、エドワード5世の王位継承を無効と議決させた。グロスター公爵リチャードが逮捕した第2代リヴァーズ伯爵アンソニー・ウッドヴィルは、その際に処刑されている。
その結果、同年6月26日、グロスター公爵リチャードは、イングランド議会によって推挙され、リチャード3世として、ヨーク朝の第3代イングランド王に即位したのである。
ナショナルポートレートギャラリー (National Portrait Gallery)で販売されている リチャード3世の肖像画の葉書 (Unknown artist / Late 16th century / Oil on panel 638 mm x 470 mm) |
リチャード3世即位に貢献した第2代バッキンガム公爵ヘンリー・スタッフォード(Henry Stafford, 2nd Duke of Buckingham:1454年ー1483年)が、1483年10月に反乱を起こす。リチャード3世は、これを鎮圧したが、他にも反乱の火種がくすぶり続け、政情は不安定な状態のままに進んだ。
1484年4月、リチャード3世の一人息子で、王太子(Prince of Wales)のエドワード・オブ・ミドルハム(Edward of Middleham:1473年ー1484年)が夭逝した上に、1485年3月には、王妃アン・ネヴィルも病死すると言う不幸が続く。
プランタジネット朝の第7代イングランド王であるエドワード3世の血を引く家柄である ランカスター家とヨーク家の系図 - 英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から 2023年に刊行されている Pushkin Vertigo シリーズの一つである ジョセフィン・テイ作「時の娘」から抜粋。 |
フランスに亡命していたランカスター家の分家筋に該るリッチモンド伯爵ヘンリー・テューダー(Henry Tudor, Earl of Richmond:1457年ー1509年)が、1485年8月、王位請求者として、フランスから英国へ侵入。
ヨーク派の国王リチャード3世軍とランカスター派のリッチモンド伯爵ヘンリー・テューダー軍は、同年8月22日、ボズワースの戦い(Battle of Bosworth)において、相まみえた。リチャード3世は、味方の裏切りもあって、孤軍奮戦するが、戦死した。
ナショナルポートレートギャラリーで販売されている ヘンリー7世の肖像画の葉書 (Unknown Netherlandish artist / 1505年 / Oil on panel 425 mm x 305 mm) |
その結果、1485年8月22日、リッチモンド伯爵ヘンリー・テューダーは、テューダー朝(House of Tudor)の初代イングランド王ヘンリー7世(Henry VII - 在位期間:1485年ー1509年)として即位し、翌年の1486年1月18日、ヨーク家系の王位継承権を有していたエリザベス・オブ・ヨーク(Elizabeth of York:1466年ー1503年)を王妃として迎える。
なお、エリザベス・オブ・ヨークは、ヨーク朝の初代イングランド王であるエドワード4世の王女、ヨーク朝の第2代イングランド王であるエドワード5世の姉で、ヨーク朝の第3代かつ最後のイングランド王であるリチャード3世の姪である。
この結婚を以って、ヘンリー7世は、30年間にわたって内乱を繰り広げていたランカスター家とヨーク家の2つの王家を統合するとともに、ランカスター家の徽章である「赤薔薇」とヨーク家の徽章である「白薔薇」を組み合わせた「テューダーローズ(Tudor Rose - 「赤薔薇」が外側で、「白薔薇」が内側)」を用いるようになった。
0 件のコメント:
コメントを投稿