2024年7月31日水曜日

横溝正史作「悪魔の手毬唄」(The Little Sparrow Murders by Seishi Yokomizo)- その4

英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2024年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

横溝正史作「悪魔の手毬唄」の内扉
(Cover design by Anna Morrison)


金田一耕助(Kosuke Kindaichi)が鬼首村(Onikobe)の「亀の湯(Turtle Spring)」に逗留し始めて、2週間程経った8月7日、逗留中に親しくなった多々羅放庵(Hoan Tatara - 庄屋の末裔)から、手紙の代筆を頼まれる。

多々羅放庵は、先代同様の道楽者で、生涯で妻を7回も取り替えたり、芝居に入れあげたり、放蕩三昧の生活を送ったため、現在は没落の身であった。8番目の妻であるお冬(O-Fuyu)は、多々羅放庵を見限って、昨年の1954年(昭和29年)、彼の元を出奔していた。

多々羅放庵によると、(セールスマンの恩田幾三(Ikuzo Onda)が「亀の湯」の主人である青池源治郎(Genjiro Aoike)を殺害の上、逃亡した事件が発生した)1932年(昭和7年)に、多々羅放庵の元を出奔した5番目の妻であるおりん(O-Rin)が、復縁を求めてきた、とのこと。

多々羅放庵は、「生憎と、右手が不自由で文字が書けない。」と言うので、金田一耕助は、彼のために、おりん宛に、復縁を受け入れる旨の手紙を代筆したのである。


英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2024年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

横溝正史作「悪魔の手毬唄」に付されている
鬼首村の地図


3日後の8月10日の夕方、金田一耕助は、用事のため、鬼首村から山向こうの総社(Soja)の町へと向かう途中、仙人峠(Sennin Pass)において、おりんと名乗る老婆とすれ違った。

当日中に鬼首村へ戻ることができず、総社の町の旅館「井筒(Izutsu Inn)」に宿泊することになった金田一耕助は、旅館の女将であるおいと(O-Ito)から、「おりんは、今年の春先に神戸で亡くなっている。」と知らされる。おいとは、多々羅放庵の知人で、おりんの遠縁の親戚でもあったので、彼女が言うことを信じるしか他になかった。


その話を聞いて驚いた金田一耕助は、翌朝(8月11日)、おいとと一緒に、総社から鬼首村へと急いで向かい、「人喰い沼(Man-Eating Marsh)」と呼ばれる沼地の近くに建つ多々羅放庵の草庵(Mr. Tatara’s Cabin)を訪れる。

草庵には、多々羅放庵の姿も、おりんの姿もなかった。ただし、来客があったことをうかがわせる2人分の酒盛りの跡に加えて、多々羅放庵のものと思われる微量の吐血の痕跡が残されていたのである。

一体、多々羅放庵は、どこへ行ったのか?また、前日、金田一耕助が仙人峠ですれ違ったおりんと名乗る老婆は、一体、誰なのか?


一方、奇しくも同日の8月11日に鬼首村に凱旋里帰りした「グラマーガール」と呼ばれる国民的人気歌手である大空ゆかり(Yukari Ozora)こと、別所千恵子(Chieko Bessho - 22歳)を囲む歓迎会が、8月13日の晩、村総出で催された。


「別所家(屋号:錠前屋)」の関係者の系図
<筆者作成>


ところが、別所千恵子の元同級生として、彼女の歓迎会に出席する予定だった由良泰子(Yasuko Yura - 22歳)の姿が見当たらない。

由良泰子は、由良家(The Yura Family - 屋号:枡屋)の先代の当主である由良卯太郎(Utaro Yura)の娘で、「亀の湯」の女将である青池リカ(Rika Aoike)の息子の青池歌名雄(Kanao Aoike)と付き合っていた。

村総出で夜を徹する捜索の結果、翌朝(8月14日)、由良泰子は、「人喰い沼」近くの滝壺(Waterfall)の中で、絞殺死体となって発見された。彼女の口には、「漏斗」が差し込まれており、崖の途中に置かれた「枡」を満たした滝の水が漏斗へと注がれていたのである。


「由良家(屋号:枡屋)」の関係者の系図
<筆者作成>


由良泰子の通夜が行われた同日(8月14日)の晩、今度は、別所千恵子や由良泰子と同級生だった仁礼文子(Fumiko Nire - 22歳)は行方不明になったのだ。

仁礼文子は、仁礼家(The Nire Family - 屋号:秤屋)の現在の当主である仁礼嘉平(Kahei Nire)の娘で、青池歌名雄のことが好きな彼女は、歌名雄と由良泰子の交際を快く思っていなかった。また、仁礼嘉平は、「亀の湯」に足繁く通い、青池リカに対して、歌名雄と文子の縁談を持ち込んでいた。

翌朝(8月15日)、仁礼文子は、仁礼家の葡萄酒工場(Winery)の中で、由良泰子と同じように、絞殺死体となって発見された。彼女の腰には、「竿秤」が差し込まれており、秤の皿の上には、正月飾りに使われる作り物である「大判小判」が置かれていたのである。


「仁礼家(屋号:秤屋)」の関係者の系図
<筆者作成>

金田一耕助と岡山県警(Okayama prefectural police headquarters)の磯川警部(Inspector Isokawa)は、何故、犯人が由良泰子と仁礼文子の死体を奇妙な姿にしたのか、どうしても解せなかった。

そんな最中、由良卯太郎の母で、由良泰子の祖母である由良五百子(Ioko Yura - 83歳)が、鬼首村に古くから伝わっている手毬唄を、2人に歌って聞かせる。驚くことに、由良五百子が2人に歌って聞かせた手毬唄の歌詞は、由良泰子殺害と仁礼文子殺害に沿った内容だった。

つまり、犯人は、鬼首村に古くから伝わっている手毬唄の歌詞に従って、殺人を行っていたのである。


日本の推理作家である横溝正史(Seishi Yokomizo:1902年ー1981年)による長編推理小説で、金田一耕助(Kosuke Kindaichi)シリーズの一つである「悪魔の手毬唄(The Little Sparrow Murders - 1957年(昭和32年)8月号から1959年(昭和34年)1月号にかけて、雑誌「宝石」に連載)」は、彼の中期の代表作になっている。


                                           

2024年7月30日火曜日

ケンブリッジ大学創立800周年記念 / ジョン・ディー(800th Anniversary of the University of Cambridge / John Dee)

ケンブリッジ大学創立800周年を記念して、
英国の児童文学作家 / イラストレーターであるクェンティン・ブレイクが描いた
ジョン・ディーの絵葉書<筆者がケンブリッジのフィッツウィリアム博物館(Fitzwilliam Museum
→ 2024年7月20日 / 7月24日付ブログで紹介済)で購入>


2009年にケンブリッジ大学(University of Cambridge)が創立800周年を迎えたことを記念して、英国の児童文学作家 / イラストレーターであるクェンティン・ブレイク(Quentin Blake:1932年ー)が、ケンブリッジ大学に関係する人物を描いて、寄贈した。


ケンブリッジ大学の創立800周年を記念して、クェンティン・ブレイクが描いた人物達について、アイザック・ニュートン(Issac Newton:1642年―1727年 → 2024年5月26日 / 5月30日付ブログで紹介済)、チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin:1809年ー1882年 → 2024年6月9日 / 6月13日付ブログで紹介済)やヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年 → 2024年7月26日付ブログで紹介済)に続き、順番に紹介していきたい。

4番目に紹介するのは、ジョン・ディー(John Dee)である。


(4)ジョン・ディー(1527年ー1608年、または、1609年


ジョン・ディーは、テューダー朝(House of Tudor)時代に現れた数学者(mathematician)/ 天文学者(astronomer)/ 占星術師(astrologer)/ 神秘学者(occultist)/ 錬金術師(alchemist)である。


ジョン・ディーは、1527年7月13日、イングランド王室で働く下級官僚であるロウランド・ディー(Rowland Dee)を父として、ロンドンに出生。


ジョン・ディーは、1542年11月、15歳の若さで、ケンブリッジ(Cambridge)のセントジョンズカレッジ(St. John’s College)に入学し、1545年、または、1546年初めに、同カレッジを卒業、学士号(BA = Bachelor of Arts)を取得。

そして、彼は、1546年に、ケンブリッジのトリニティーカレッジ(Trinity College)のフェロー(Fellow)となる。


ジョン・ディーは、欧州大陸の大学に留学した後、1551年にイングランドに帰国すると、


(1)テューダー朝の第3代イングランド王であるエドワード6世(Edward VI:1537年ー1553年 在位期間:1547年ー1553年)

(2)テューダー朝の第4代イングランド王であるメアリー1世(Mary I:1516年ー1558年 在位期間:1553年-1558年)


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
メアリー1世の肖像画の葉書
(Master John / 1544年 / Oil on panel
711 mm x 508 mm) 


(3)イングランドとアイルランドの女王で、テューダー朝の第5代かつ最後の君主であるエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年-1603年 → 2023年6月24日 / 7月2日付ブログで紹介済)


ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
エリザベス1世の肖像画の葉書
(Unknown English artist / 1600年頃 / Oil on panel
1273 mm x 997 mm) -
エリザベス1世は、王族しか着れない
イタチ科オコジョの毛皮をその身に纏っている。
オコジョの白い冬毛は、「純血」を意味しており、
実際、エリザベス1世は、英国の安定のために、
生涯、誰とも結婚しなかったので、「処女女王」と呼ばれた。
エリザベス1世の」赤毛」と「白塗りの化粧」は、
当時流行したものである。


に仕え、特に、エリザベス1世には寵愛された。

彼は、1580年代から1590年代前半にかけて、ポーランドやボヘミア等の欧州大陸を遍歴し、各国の王宮等において、貴族達に交霊実験と魔術を披露して、大評判となる。

1595年にイングランドに帰国すると、ジョン・ディーは、エリザベス1世に出迎えられ、マンチェスター(Manchester)にあるクライストカレッジ(Christ’s College)の学長(Warden)に任命された。


エリザベス1世の後、ジェイムズ1世(James I:1566年ー1625年 在位期間:1603年ー1625年)がステュアート朝(House of Stuart)の初代スコットランド / イングランド / アイルランド王として即位するが、ジェイムズ1世は大の魔術嫌いだったため、ジョン・ディーは引退を余儀なくされる。

そして、1608年、または、1609年に、彼は貧困のうちに死去している。


2024年7月29日月曜日

小学館まんが版「シャーロック・ホームズ全集1 - 緋色の研究」- その1

小学館から1996年9月に出版されている
漫画版「シャーロック・ホームズ全集」の
第1巻「緋色の研究」の表紙 -
表紙の下部には、ロンドン塔(Tower of London
→ 2018年4月8日 / 4月15日 / 4月22日付ブログで紹介済)の
写真が使用されている。-
画面手前の人物は、左側から、
ジョン・H・ワトスン、シャーロック・ホームズ、
スコットランドのグレッグスン警部(Inspector Gregson)と
レストレード警部(Inspector Lestrade)が、
画面奥の人物は、左側から、
第2部に登場するルーシー・フェリア(Lucy Ferrier)と
ジェファースン・ホープ(Jefferson Hope)の2人が描かれている。


日本の出版社である株式会社小学館から、まんが版「シャーロック・ホームズ全集」が出版されているので、今回、紹介したい。


静岡県浜松市出身の漫画家である小林たつよし(Tatsuyohi Kobayashi:1955年ー)がまんがを担当。小林たつよしは、主に小学館の雑誌や刊行物を中心に執筆している。


なお、日本の精神科医 / 作家 / 翻訳家で、日本シャーロック・ホームズクラブを主宰していた小林司(Tsukasa Kobayashi:1929年-2010年)と洋子夫人(筆名:東山あかね)が、内容を監修。


小学館から1996年9月に出版されている
漫画版「シャーロック・ホームズ全集」の
第1巻「緋色の研究」の裏表紙 -
表紙の下部には、ロンドン塔の写真が使用されている。

小学館まんが版「シャーロック・ホームズ全集」は、全部で6巻発行されており、各収録作品は、以下の通り。


*「第1巻:緋色の研究(A Study in Scarlet)」(発行年月:1996年9月)

他には、「グロリア・スコット号の謎(The Gloria Scott)」と「マスグレーブ家の奇妙な儀式(The Musgrave Ritual)」の2編を収録。


*「第2巻:まだらの紐(The Speckled Band)」(発行年月:1996年11月)

他には、「花嫁失そう事件(The Noble Bachelor)」、「ボヘミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)」、「くちびるのねじれた男(The Man with the Twisted Lip)」と「花むこの行方(A Case of Identity)」の4編を収録。


小学館から1996年9月に出版されている
漫画版「シャーロック・ホームズ全集」の
第1巻「緋色の研究」の内扉(表側)
<様々なシャーロック・ホームズ①>

*「第3巻:恐怖の谷(The Valley of Fear)」(発行年月:1997年2月)

他には、「赤髪組合(The Red-Headed League)」と「ひん死の探偵(The Dying Detective )」の2編を収録。


*「第4巻:四つの署名(The Sign of the Four)」(発行年月:1997年4月)

他には、「青いガーネット(The Blue Carbuncle)」と「ギリシャ語通訳(The Greek Interpreter)」の2編を収録。


小学館から1996年9月に出版されている
漫画版「シャーロック・ホームズ全集」の
第1巻「緋色の研究」の内扉(裏側)
<シャーロック・ホームズのロンドン地図
イラスト:池尻克美>

*「第5巻:バスカヴィル家の犬(The Hound of Baskervilles)」(発行年月:1997年8月)

他には、「海軍条約(The Naval Treaty)」と「技師の親指(The Engineer’s Thumb)」の2編を収録。


*「第6巻:ホームズ最後の事件(The Final Problem)」(発行年月:1997年10月)

他には、「白銀号事件(Silver Blaze)」、「空き家の冒険(The Empty House)」、「美しき自転車乗り(The Solitary Cyclist)」と「六つのナポレオン(The Six Napoleons)」の4編を収録。


小林司と洋子夫人(筆名:東山あかね)の監修の下、第1巻から第6巻にかけて、概ね、事件の発生年月日順に構成されていると言える。


2024年7月28日日曜日

ノースヨークシャー州(North Yorkshire) スカボロー(Scarborough)

スカボロー城(その1)-
英国の Colins & Browns Ltd. から1999年に出版された
ジョン・メースン(John Mason)著「Haunted Heritage」(筆者所有)から抜粋。


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)作「エンドハウスの怪事件(Peril at End House → 2024年7月13日 / 7月21日 / 7月25日付ブログで紹介済)」(1932年)において、「コーニッシュ リヴィエラ(Cornish Riviera)」と呼ばれるコンウォール州(Cornwall)のセントルー村(St. Loo - 架空の場所)に近いマジェスティックホテル(Majestic Hotel - エルキュール・ポワロとアーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings)が滞在中)からほんの目と鼻の先にある岬の突端に立つやや古びた屋敷エンドハウス(End House)の若き女主人であるニック・バックリー(Nick Buckley - 本名:マグダラ・バックリー(Magdala Buckley))は、友人のフレデリカ・ライス(Frederica Rice - 愛称:フレディー(Freddie))と一緒に訪れた Le Touquet (フランス北部の避暑地)で、飛行家であるマイケル・シートン大尉(Captain Michael Seton)と出会う。

更に、ニック・バックリーは、スカボロー(Scarborough)において、マイケル・シートン大尉に再会し、彼が操縦する飛行機に同乗して、空を飛んでいる。その際、彼女は、ヨークシャー州(Yorkshire)の牧師(clergyman)であるジャイルズ・バックリー(Giles Buckley)の娘で、彼女の従姉妹に該るマギー・バックリー(Maggie Buckley)を呼んで、マイケル・シートン大尉に引き合わせている。


英国の Seven Dials, Cassel & Co から2000年に出版された
ポール・ジョンスン(Paul Johnson)著
「Castles of England, Scotland & Wales」(筆者所有)から抜粋。

ニック・バックリーとマイケル・シートン大尉が再会した場所であるスカボローは、英国ノースヨークシャー州(North Yorkshire)内に所在する北海(North Sea)に面した海岸沿いの都市である。


スカボローは、9ー11世紀頃にイングランドへ侵攻したデーン人(Dane:現在のデンマークおよびスウェーデンのスコーネ地方に居住していた北方系ゲルマン人(ノルマン人)の一派で、現在のデンマーク人の祖先に該る)によって、10世紀後半に開かれた。


スカボロー城(その2)-
英国の Colins & Browns Ltd. から1999年に出版された
ジョン・メースン(John Mason)著「Haunted Heritage」(筆者所有)から抜粋。

プランタジネット朝(House of Plantagenet)の初代イングランド王であるヘンリー2世(Henry II:1133年ー1189年 在位期間:1154年ー1189年)が、スカボロー城(Scarborough Castle)を築き、プランタジネット朝の第6代イングランド王であるエドワード2世(Edward II:1284年ー1327年 在位期間:1307年ー1327年)が改修を行った。


清教徒革命(Puritan Revolution:1642年ー1649年)中、スカボローの統治者は、王党派(Royalists)と議会派(Parliamentarians)の間で、7回も変わる。


大英図書館(British Library → 2014年5月31日付ブログで紹介済)から2016年に出版された
英国の推理作家であるアントニー・バークリー・コックス
(Anthony Berkeky Cox:1893年ー1971年)作
「毒入りチョコレート事件(The Poisoned Chocolates Case)」(1929年)の
裏表紙から抜粋。


第一次世界大戦(1914年ー1918年)中、スカボローは、ドイツ軍の戦艦や U ボートによる攻撃を受けて、被害を蒙った。


「エンドハウスの怪事件」において、ニック・バックリーは、マイケル・シートン大尉に再会し、彼が操縦する飛行機に同乗して、空を飛んだのは、第一次世界大戦後である。


現在、スカボローの人口は、6万人を超えており、北海に面したノースヨークシャー州内で最大の都市で、ノースヨークシャー州全体でも、4番目の都市となっている。


2024年7月27日土曜日

横溝正史作「悪魔の手毬唄」(The Little Sparrow Murders by Seishi Yokomizo)- その3

英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2024年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

横溝正史作「悪魔の手毬唄」に付されている
鬼首村の地図

鬼首村(Onikobe)出身で、「グラマーガール」と呼ばれる国民的人気歌手である大空ゆかり(Yukari Ozora)こと、別所千恵子(Chieko Bessho - 22歳)が、何故、「詐欺師で、人殺しの娘」と呼ばれているのか、疑問に思う金田一耕助(Kosuke Kindaichi)は、岡山県警(Okayama prefectural police headquarters)の磯川警部(Inspector Isokawa)から、23年前の1932年(昭和7年)に、鬼首村で起きて、未だに未解決のままとなっている殺人事件のことを聞かされる。

「別所家(屋号:錠前屋)」の関係者の系図
<筆者作成>


当時、鬼首村では、仁礼家(The Nire Family - 屋号:秤屋)と由良家(The Yura Family - 屋号:枡屋)が、2大勢力として、台頭していた。

元々は、広大な田畑を所有する由良家の方が、仁礼家よりも優勢だった。ところが、仁礼家の先代の当主である仁礼仁平(Jinpei Nire)が、葡萄栽培、そして、葡萄酒醸造を始めたところ、鬼首村における一大産業となる程、大成功を収めた。その結果、鬼首村での立場は、逆転したのである。


「由良家(屋号:枡屋)」の関係者の系図
<筆者作成>


由良家の先代の当主である由良卯太郎(Utaro Yura)は、仁礼家が優勢となったことに危機感を抱いた。

そんな時、恩田幾三(Ikuzo Onda)と言うセールスマンが、由良卯太郎のところに、輸出用のクリスマスモール作りの話を持ちかけてくる。仁礼家への対抗心を燃やす由良卯太郎は、恩田幾三の話に飛び付いた結果、鬼首村では、副業として、クリスマスモール作りが始まったのである。

恩田幾三は、由良卯太郎だけではなく、鬼首村の村人達に対して、クリスマスモール用の製造機械を売り付けた後、月に数回、鬼首村を訪れ、村人達からクリスマスモールを受け取ると、その対価として、代金を支払った。

由良卯太郎の思惑通り、クリスマスモール作りにより、鬼首村の村人達の懐は、潤い始め、由良家による仁礼家への逆襲が始まったかに見えた。


「仁礼家(屋号:秤屋)」の関係者の系図
<筆者作成>


そんな最中、「亀の湯」の次男である青池源治郎(Genjiro Aoike)が、妻のリカ(Rika Aoike)と息子の歌名雄(Kanao Aoike)を連れ、鬼首村へと戻って来て、「亀の湯」の主人となった。

青池源治郎は、小学校を卒業した後、鬼首村を出ると、神戸市において、「青柳史郎(Shiro Aoyagi)」と言う芸名で活弁士として活躍し、人気を博していたが、トーキー映画の登場により、仕事の場を失いつつあった。そのため、青池源治郎は、活弁士の仕事に見切りを付けると、妻子を連れて、鬼首村へと帰って来たのである。


「亀の湯」の関係者の系図
<筆者作成>


「亀の湯」の新しい主人に就いた青池源治郎は、セールスマンの恩田幾三を詐欺師と見破ると、事件当日に該る1932年(昭和7年)11月25日、鬼首村への訪問時、恩田幾三が滞在している多々羅放庵(Hoan Tatara - 庄屋の末裔)の離れへと、単身乗り込んで行った。


夫の帰りが遅いため、心配になった妻の青池リカが、多々羅放庵の離れへ、様子を見に行ったところ、そこで青池源治郎の撲殺死体を発見することになる。

ただ、死体は、燃えさかる囲炉裏の中に、俯せに倒れ込んでおり、顔が焼かれていたため、判別がつかなくなっていた。活弁士と言う仕事を良く思っていなかった青池源治郎の父親(=「亀の湯」の先代の主人)は、外聞を非常に気にして、活弁士時代の息子の写真を全て焼き捨ててしまっていて、現存する写真がなかったことも、災いした。

しかしながら、妻の青池リカと、恩田幾三に離れを貸していた多々羅放庵の2人は、撲殺死体の着衣から、「死体は、青池源治郎だ。」と証言する。


その結果、恩田幾三が、自分のことを詐欺師だと見破った青池源治郎を撲殺した後、多々羅放庵の離れから逃げ去ったものと、当時の警察は判断の上、捜査を進めた。

ただ、事件から23年を経過した1955年(昭和30年)の7月下旬に至るも、恩田幾三の行方は、杳として知れなかった。


なお、恩田幾三が行方不明になったことに伴い、鬼首村におけるクリスマスモール作りは、完全に破綻してしまった。これは、1929年に発生した世界大恐慌による煽りを受けたことも影響していた。

鬼首村の村人達は、クリスマスモール用の製造機械を購入した時の借金が多額に残った上に、クリスマスモールの販売先も失い、大損害を蒙った。彼らから吊るし上げを食らった由良卯太郎の面目は、大きく失墜する羽目となった。

その結果、悲嘆に暮れた由良卯太郎は、事件の3年後に、世を去ったのである。


23年前の殺人事件の話を終えた磯川警部は、金田一耕助に対して、更に話を続けた。


当時の警察は、「恩田幾三が、青池源治郎を撲殺した後、逃亡した。」と判断したが、若手で、捜査に参加していた磯川警部自身は、当時から、「加害者と被害者は、全く逆で、青池源治郎が、恩田幾三を撲殺した後、逃亡したのではないか?それ故に、加害者の行方が掴めないのではないか?」と考えていた、と。

若手の磯川警部は、当時、自分の考えを何度も提言したものの、残念ながら、一度も取り入れられなかったのである。

                                            

2024年7月26日金曜日

ケンブリッジ大学創立800周年記念 / ヘンリー8世(800th Anniversary of the University of Cambridge / Henry VIII)

ケンブリッジ大学創立800周年を記念して、
英国の児童文学作家 / イラストレーターであるクェンティン・ブレイクが描いた
ヘンリー8世とキングスカレッジ合唱団の絵葉書
<筆者がケンブリッジのフィッツウィリアム博物館(Fitzwilliam Museum
→ 2024年7月20日 / 7月24日付ブログで紹介済)で購入>

2009年にケンブリッジ大学(University of Cambridge)が創立800周年を迎えたことを記念して、英国の児童文学作家 / イラストレーターであるクェンティン・ブレイク(Quentin Blake:1932年ー)が、ケンブリッジ大学に関係する人物を描いて、寄贈した。


ケンブリッジ大学の創立800周年を記念して、クェンティン・ブレイクが描いた人物達について、アイザック・ニュートン(Issac Newton:1642年―1727年 → 2024年5月26日 / 5月30日付ブログで紹介済)とチャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin:1809年ー1882年 → 2024年6月9日 / 6月13日付ブログで紹介済に続き、順番に紹介していきたい。

3番目に紹介するのは、ヘンリー8世(Henry VIII)である。


キングスカレッジチャペル外観の絵葉書
<筆者がケンブリッジで購入>


(3)ヘンリー8世(1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年


ヘンリー8世は、テューダー朝(House of Tudor)の第2代イングランド王で、


*6回の結婚

*イングランド国教会の創設(自らが国教会の首長となる)とカトリック教会からの分離

*ローマ教皇庁との対立に伴う宗教改革(修道院の解散)


等で知られている。


キングスカレッジチャペルの外観(その1)
<筆者撮影>

キングスカレッジチャペルの外観(その2)
<筆者撮影>

キングスカレッジチャペルの外観(その3)
<筆者撮影>


ケンブリッジ大学関連で言うと、キングスカレッジ (King’s College)にある礼拝堂であるキングスカレッジチャペル(King’s College Chapel)を完成させたのが、ヘンリー8世である。


キングスカレッジチャペルの内部 -
チャペル建設に関わったイングランド王である
ヘンリー6世、エドワード4世、リチャード3世、ヘンリー7世、
そして、ヘンリー8世が描かれている。

<筆者撮影>

キングスカレッジチャペルの建設は、ランカスター朝(House of Lancaster)の第3代かつ最後のイングランド王であるヘンリー6世(Henry VI:1421年ー1471年 在位期間:1422年ー1461年 / 1470年ー1471年)の指示により、1446年に始まった。

実際、ヘンリー6世が、同年7月25日、聖ジェイムズ祭において、礎石を置いている。


キングスカレッジチャペルの内部 - 扇型ヴォルト(その1)
<筆者撮影>

ヨーク朝(House of York)の初代イングランド王であるエドワード4世(Edward VI:1442年ー1483年 在位期間:1461年-1483年 / ただし、1470年から1471年にかけて、数ヶ月間の中断あり)が、キングスカレッジチャペルの建設を引き継いだものの、力を入れなかったため、彼の統治期間中、あまり進まなかった。


キングスカレッジチャペルの内部 - 扇型ヴォルト(その2)
<筆者撮影>

ヨーク朝(House of York)の第3代かつ最後のイングランド王であるリチャード3世(Richard III:1452年ー1485年 在位期間:1483年ー1485年 → 2024年6月14日付ブログで紹介済)は、6つの区画を建設。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
リチャード3世の肖像画の葉書
(Unknown artist / Late 16th century / Oil on panel
638 mm x 470 mm) 


キングスカレッジチャペルの内部 - ステンドグラス(その1)
<筆者撮影>

テューダー朝の初代イングランド王であるヘンリー7世(Henry VII:1457年ー1509年 在位期間:1485年ー1509年 → 2024年7月5日付ブログで紹介済)による統治期間中の1508年から、チャペルの建設が本格化。


ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
ヘンリー7世の肖像画の葉書
(Unknown Netherlandish artist / 1505年 / Oil on panel
425 mm x 305 mm) 


キングスカレッジチャペルの内部 - ステンドグラス(その2)
<筆者撮影>

ヘンリー8世の後を継いで即位したヘンリー8世が、チャペルの建設を継続して、1512年にチャペルの外観が完成した。


地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)の
ベーカルーライン(Bakerloo Line)のプラットフォームにある壁画 -
一番右手の人物が、姦通罪等を理由にして、
ロンドン塔において、2番目の王妃であるアン・ブーリンを斬首刑に処したヘンリー8世。
(なお、画面中央の人物は、メアリー1世である。)


キングスカレッジチャペルの内部 - ステンドグラス(その3)
<筆者撮影>

ヘンリー6世が建設を開始してから、キングスカレッジチャペルが完成するまでに、約70年間を要したが、チャペルは、垂直式ゴシック建築の代表例となる傑作である。

それに加えて、世界最大級の扇型ヴォルトや立派なステンドグラス等でも有名。


キングスカレッジチャペルの内部 - ステンドグラス(その4)
<筆者撮影>

キングスカレッジチャペルは、現在、キングスカレッジ合唱団(King’s College Choir)の活動拠点となっており、毎年クリスマスイヴには、「9つの聖書日課とクリスマスキャロル(A Festival Of Nine Lessons and Carols)」が行われている。