2019年9月29日日曜日

島田荘司作「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」(’A Study in 61 : Soseki and the Mummy Murder Case in London’ by Soji Shimada)–その2


英国留学のため、夏目漱石が短期間だけ滞在した最初の下宿があったガウアーストリート(Gower Street)–
中央に見えるガウアーストリート7番地(7 Gower Street)の建物は、
1848年9月、ジョン・エヴァレット・ミレー、
ウィリアム・ホルマン・ハントやダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ達が
「ラファエル前派」と呼ばれる芸術グループを結成した場所である。

1900年(明治33年)5月、夏目漱石(本名:夏目金之助 / 1867年ー1916年)は、英語教育法研究のため、文部省より英国への留学を命じられ、同年9月10日に日本を出発した。そして、彼は、藤代禎輔や芳賀矢一のドイツ留学組とパリで別れた後、英仏海峡を渡り、同年10月28日、英国に辿り着いた。晩秋の倫敦(ロンドン)で、彼は留学生活を始めることとなった。

夏目漱石は、ロンドン中心部のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内のガウワーストリート(Gower Street)沿いの下宿に入り、一旦荷を解いたが、下宿代が非常に高かったため、もっと安い下宿を早急に探す必要があった。ガウワーストリートの下宿代は、当時の日本円に換算すると、週40円以上で、東京では2ヶ月分の月給に相当していた。


夏目漱石が2番目の下宿に決めたのは、ロンドン北西部のサウスハムステッド地区(South Hampstead)内にあるプライオリーロード(Priory Road)の高台にあった。そして、同年11月12日、彼はガウワーストリートの下宿から新しい下宿へと移って来た。新しい下宿は、木立に囲まれた赤煉瓦造りの一戸建てで、下宿代は週24円と、ガウワーストリートの下宿よりかなり安くなったものの、それでも高いと彼は感じていた。

夏目漱石がプライオリーロードの下宿に移って来て、少し経った同年12月初旬のある夜、彼が寝床でうとうとしていると、パチンと何かが爆ぜるような不審な物音を聞いたのである。最初はごく小さな音だったが、次第に大きくなってくるように聞こえた。当初は不審な物音だけだったが、息遣いのような音が更に聞こえてきて、次の夜には、「出て行け…。この家から出て行け…」という囁くような声に変わった。

毎夜の出来事に困惑した夏目漱石は、テムズ河(River Thames)南岸のキャンバーウェル地区(Camberwell)内のあるフロッデンロード(Flodden Road)沿いに手頃な下宿を見つけて、そこへ移った。新しい下宿は元は私立の学校だったようで、下宿代はプライオリーロードの下宿のほとんど半分となった。
一安心した夏目漱石であったが、同年のクリスマスの夜、例の何かが爆ぜるような音がまだ始まり、翌晩には息遣いが、そして、3-4日すると、例の囁き声が聞こえ始めたのである。

夏目漱石が移った3番目の下宿があったフロッデンロード(Flodden Road)の近く–
キャンバーウェル地区内を斜めに横切るキャンバーウェル ニューロード(Camberwell New Road)

折角、下宿を移ったにもかかわらず、事態の改善が見られなくて困った夏目漱石は、翌年の1901年(明治34年)2月5日、毎週個人教授を受けているウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare:1564年ー1616年)研究家のウィリアム・ジェイムズ・クレイグ(William James Craig:1843年ー1906年 / ベーカーストリートに在住)に対して、自分の亡霊体験談を話したところ、「近所に住むシャーロック・ホームズ向きの話なので、彼に相談した方が良い。」との提言を受けたのであった。


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