反対側の歩道から見たウェルロード24番地に該る「キャノンコテージ」→ ここに、英国の作家であるディム・ダフニ・デュ・モーリエが、 1932年から1934年までの間、住んでいた |
米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage→2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区内には、英国の作家であるディム・ダフニ・デュ・モーリエ(Dame Daphne du Maurier:1907年ー1989年)が住んでいた家が所在している。
ハムステッドヒース(Hampstead Heath→2015年4月25日付ブログで紹介済)の南側に沿って、東西に延びるイーストヒースロード(East Heath Road)を東方面へと進み、進行方向右手にウェルロード(Well Road)が見えたところで右折。ウェルロードを南下すると、進行方向右手にまずキャノンレーン(Cannon Lane)が見えるが、そのまま直進し、次に進行方向右手に見えるクライストチャーチヒル(Christ Church Hill)とウェルロードが交差する北西の角にあるウェルロード24番地(24 Well Road)の建物である「キャノンコテージ(Cannon Cottage)」に、ダフニ・デュ・モーリエは、1932年から1934年までの間、住んでいた。
ダフニ・デュ・モーリエは、1907年5月13日、俳優兼劇場経営者のサー・ジェラルド・フバート・エドワード・ビュッソン・デュ・モーリエ(Sir Gerald Hubert Edward Busson du Maurier:1873年ー1934年→2019年7月15日 / 7月21日付ブログで紹介済)を父に、そして、女優のミュリエル・ボーモント(Muriel Beaumont:1881年ー1957年)を母にして、三人姉妹の次女として出生。
父方の祖父は、フランス生まれの英国の風刺漫画家で、ゴシック・ホラー小説の「トリルビー(Trilby)」等でも知られる小説家でもあったジョージ・ルイ・パルメラ・ビュッソン・デュ・モーリエ(George Louis Palmella Busson du Maurier:1834年ー1896年→2019年6月15日 / 6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)。
ダフニ・デュ・モーリエの姉(長女)は、作家となるアンジェラ・デュ・モーリエ(Angela du Maurier:1904年ー2002年)で、妹(三女)は、画家となるジャン・デュ・モーリエ(Jeanne du Maurier:1911年ー1996年)である。
祖父や父母による業界との繋がりが、作家デビューの助けとなり、ダフニ・デュ・モーリエは、1931年、小説第1作「愛は全ての上に(The Loving Spirit)」を出版した。
ウェルロード24番地の「キャノンコテージ」を取り囲む外塀 |
プライベートでは、ダフニ・デュ・モーリエは、作家デビューの翌年の1932年、英国陸軍少佐(Major)のサー・フレデリック・アーサー・モンタギュー・ブラウニング(Sir Frederick Arthur Montague Browning:1896年ー1965年→後に、中将(Lieutenant-General)まで昇進)と結婚して、2人の娘(長女:テサ(Tessa:1933年生まれ)と次女:フラヴィア(Flavia:1937年生まれ))と1人の息子(長男:クリスチャン(Christian:1940年生まれ))を育てた。