2018年11月3日土曜日

ロンドン ハムステッド・聖ジョン教区教会(The Parish Church of St. John at Hampstead)

19世紀の英国を代表する風景画家であるジョン・コンスタブルが
妻、長男や次男と一緒に眠る墓が、
ハムステッド地区内にあるハムステッド・聖ジョン教区教会内の墓地にある

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage→2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区内には、19世紀の英国を代表する風景画家であるジョン・コンスタブル(John Constable:1776年ー1837年)が眠る墓地がある。


チャーチロウの奥からヒースストリート方面を見たところ

ジュビリーライン(Jubilee Line)が通る地下鉄スイスコテージ駅(Swiss Cottage Tube Station)からノーザンライン(Northern Line)が通る地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)へと向かって、フィッツジョンズアベニュー(Fitzjohn’s Avenue)を北上する。フィッツジョンズアベニューは、フィンチリーロード(Finchley Road)から上がってくるオークライトロード(Arkwright Road)と交差すると、その名前をヒースストリート(Heath Street)へと変える。ヒースストリートを更に北上して、左手に見えるチャーチロウ(Church Row→2015年4月18日付ブログで紹介済)へと左折すると、チャーチロウの中程左手にハムステッド・聖ジョン教区教会(The Parish Church of St. John at Hampstead)が建っている。この教会の墓地に、ジョン・コンスタブルは眠っている。

ジョン・コンスタブルが眠る墓がある
ハムステッド・聖ジョン教区教会(その1)
ジョン・コンスタブルが眠る墓がある
ハムステッド・聖ジョン教区教会(その2)

ジョン・コンスタブルは、ロンドン中心部に位置するロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のフィッツロヴィア地区(Fitzrovia)内にあるシャーロットストリート(Charlotte Street)沿いにアトリエを持っていたが、結核を患う妻マリア(Maria)の療養のため、1827年にハムステッドヒース(Hampstead Heath→2015年4月25日付ブログで紹介済)に近いウェルウォーク40番地(40 Well Walk)の家を借りた。残念ながら、妻のマリアは、翌年の1828年に死去してしまうが、ジョン・コンスタブルは、ウェルウォーク40番地の家で暮らし続けて、ハムステッド周辺の風景を描いた。そして、1837年3月31日、ロンドン市内のアトリエにおいて、心臓麻痺のため、彼は61歳の生涯を終えた。

ジョン・コンスタブルが眠る墓がある
ハムステッド・聖ジョン教区教会(その3)
ジョン・コンスタブルが眠る墓がある
ハムステッド・聖ジョン教区教会(その4)

ジョン・コンスタブルの遺体は、妻のマリアと一緒に、ハムステッド・聖ジョン教区教会の墓地に埋葬されたのである。7人居た彼の子供のうち、長男のジョン・チャールズ・コンスタブル(John Charles Constable)と次男のチャールズ・ゴールディング・コンスタブル(Charles Golding Constable)も、後に同じ墓に埋葬されている。

週末の昼間でも、ハムステッド・聖ジョン教区教会内の墓地を訪れる人はほとんど居らず、
ジョン・コンスタブル達が眠る墓も、ひっそりと佇んでいる

ジョン・コンスタブルや妻のマリア達が眠る墓は、おそらく、いたずら等から守る観点から、現在、鉄柵で囲われて、近づけないようになっている。

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