2018年11月25日日曜日

ロンドン アデルフィテラス1番地(1 Adelphi Terrace)

アデルフィテラスにある
「アデルフィ(The Adelphi)」と呼ばれる新古典主義の集合住宅(テラスハウス)の記念碑

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1934年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第4作目に該る「盲目の理髪師(The Blind Barber)」では、大西洋を横断して、米国のニューヨークから英国のサウサンプトン(Southampton)へと向かう外洋航路船クイーンヴィクトリア号(ocean liner Queen Victoria)上において、(1)米国人の外交官であるカーティス・G・ウォーレン(Curtis G. Warren)が携帯していた政治的失脚や国際問題にまで発展しかねない恐れがあるフィルムと(2)スタートン子爵が所有するエメラルドの象のペンダントの盗難事件が発生する。それらに加えて、(3)瀕死の女性がある船室から突然姿を消す事件も起きる。

サヴォイテラスから見上げたアデルフィテラス

錯綜する事件の謎に頭を痛めた英国人の探偵小説家であるヘンリー・モーガン(Henry Morgan)は、「剣の八(The Eight of Swords)」事件で知り合ったギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)に助けを求めるべく、サウサンプトンに入港したクイーンヴィクトリア号からいち早く下船して、ギディオン・フェル博士が住むロンドンへと急ぐ。原作上、ギディオン・フェル博士は、テムズ河(River Thames)に近いアデルフィテラス1番地(1 Adelphi Terrace)に住んでいるという設定になっている。

ロバート ストリート側にある
旧「アデルフィ」の玄関

アデルフィテラス(Adelphi Terrace)は、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)からシティー(City)へ向かって東に延びるストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)とテムズ河(River Thames)沿いに設けられたヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ(Victoria Embankment Gardens)に挟まれたアデルフィ(Adelphi)という一画内にある。この一画は、北側のジョン・アダム ストリート(John Adam Street → 2016年1月10日付ブログで紹介済)、東側のアダム ストリート(Adam Street)、西側のロバート ストリート(Robert Street → 2016年8月7日付ブログで紹介済)、そして、南側のアデルフィテラスに囲まれている。

ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その1–グラスゴー)
ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その2–ベルファスト)
ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その3–エディンバラ)

1768年から1774年にかけて、スコットランド出身の建築家ウィリアム・アダム(William Adam:1689年ー1748年)の息子達、所謂、アダム兄弟(Adam brothers)と言われる
・長男ージョン・アダム(John Adam:1721年ー1792年)
・次男ーロバート・アダム(Robert Adam:1728年ー1792年)
・三男ージェイムズ・アダム(James Adam:1732年ー1794年)
によって、この一画に新古典主義の集合住宅(テラスハウス)が24棟建設された。英語の「brothers(兄弟)」を意味するギリシア語「adelphi」をベースにして、この一画は「アデルフィ(Adelphi)」と呼ばれるようになり、また、この一画を囲む通りは、アダム兄弟の名前にちなんで名付けられている。
更に、ストランド通りの反対側に建つ劇場も「アデルフィ劇場(Adelphi Theatre→2015年8月1日 / 8月8日付ブログで紹介済)」と命名された。

ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その4–リヴァプール)
ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その5–リーズ)
ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その6–マンチェスター)

1930年代初め頃、アダム兄弟が建てた集合住宅のほとんどが取り壊されて、その跡地にはコルカット&ハンプ(Collcutte & Hamp)という会社が設計したアールデコ(Art Deco)風の建物「ニューアデルフィビル」が建設され、現在に至っている。

ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その7–ダービー)
ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その8–バーミンガム) 
ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その9–シェフィールド)

ニューアデルフィビルの正面玄関は、北側のジョン・アダム ストリート側にあり、南側のアデルフィテラスは、同ビルの裏手に該るため、日中でも人通りはほとんどなく、非常に静かである。
今も、アダム兄弟が建てた集合住宅の一部は残っているが、アデルフィテラス側のわずかである。

ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その10–カーディフ)
ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その11–ロンドン)
ニューアデルフィビルの外壁装飾
(その12–リヴァプール)

ロバート ストリート経由、アデルフィテラスは、ヴィクトリアエンバンクメントガーデンズの北側にあるサヴォイプレイス(Savoy Place→2017年1月29日付ブログで紹介済)と階段で繋がっている。アデルフィテラスは、サヴォイプレイスやヴィクトリアエンバンクメントガーデンズよりも高い位置にあるので、ジョン・ディクスン・カーの原作「盲目の理髪師」通り、アデルフィテラスからテムズ河を見下ろすことができる。

2018年11月24日土曜日

ジョン・ディクスン・カー作「盲目の理髪師」(The Blind Barber by John Dickson Carr)–その2

サヴォイプレイス(Savoy Place)から見上げた
アデルフィテラス(Adelphi Terrace)–
「盲目の理髪師」事件当時、ギディオン・フェル博士が住んでいた場所

ヘンリー・モーガン(Henry Morgan)、カーティス・G・ウォーレン(Cartis G. Warren)、トマッセン・ヴァルヴィック(Captain Thomassen Valvick)とペギー・グレン(Peggy Glenn)の4人は、何者かに奪い去られたフィルムを取り戻すために、残りのフィルムを囮にして、幸いに空室だった隣りの船室で犯人の再来を待ち受けることにした。
4人が待つこと数時間後、外のCデッキに通じるドア(水密扉)が押し開けられた。カーティス・G・ウォーレンの名を呼ぶ女性の声を聞いて、ヘンリー・モーガンが船室のドアを開け、トマッセン・ヴァルヴィックと一緒に船室の外へ出てみると、水密扉のところに、瀕死の女性が倒れていた。彼女の頭蓋骨は陥没しているようで、血がすーっとゴム材の床に細く流れた。

4人が瀕死の女性を隣りの船室内へ運び込んで介抱している隙に、何者かがカーティス・G・ウォーレンの船室のドアの掛け金を外して、内へと侵入したのである。
カーティス・G・ウォーレンの船室から出て来た何者かは、水密扉を開けて、外のCデッキへと出たようだ。4人は瀕死の女性を船室内に残したまま、外のCデッキへと出たと思われる何者かの跡を追跡した。そして、カーティス・G・ウォーレンが外のCデッキに居た男を捕まえて、ノックアウトしたが、驚いたことに、その男は船長のヘクター・ホイッスラーであった。奪われたフィルムを取り戻そうとして、4人がへスター・ホイッスラー船長の身体を調べると、エメラルドの像のペンダントが出てきた。
後で判ったことであるが、宝石を付け狙う正体不明の犯罪者が外洋航路線クイーンヴィクトリア号(ocean liner Queen Victoria)に乗船しているという情報を受けたため、盗難防止の観点から、ヘクター・ホイッスラー船長が持ち主のスタートン子爵から預かっていたのである。どうやら、4人は間違った人物を捕まえてしまったようである。それを知った彼らはパニックに陥り、運が悪いことに、慌てたペギー・グレンがそのペンダントを手近の船室の中へ放り込んでしまった。

そんなドタバタ騒ぎの後、4人がカーティス・G・ウォーレンの隣りの船室へと戻ると、そこに居た筈の瀕死の女性の姿が、どこにもなかったのである。そして、彼女が横たわっていたベッドの下には、「盲目の理髪師(Blind Barber)」の装飾が柄に施された血まみれの剃刀が残されていた。

2つの盗難事件(フィルム+エメラルドの像のペンダント)と突然姿を消した瀕死の女性の謎が、クイーンヴィクトリア号の船上で錯綜する。これらは、血のついた剃刀を残した「盲目の理髪師」の仕業なのだろうか?
サウサンプトン(Southampton)に入港したクイーンヴィクトリア号からいち早く下船したヘンリー・モーガンは、「剣の八(The Eight of Swords)」事件(1934年)で知り合ったギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)に助けを求めるべく、彼が住むロンドンへと向かったのである。
そして、ヘンリー・モーガンの話を聞いたギディオン・フェル博士は、安楽椅子探偵役を務める。

明智小五郎シリーズ等で有名な日本の推理作家である江戸川乱歩(1894年ー1965年)は、1950年に「別冊宝石」で発表した「カー問答」において、ジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr) / カーター・ディクスン(Carter Dickson)の作品を、最も面白い第1位グループから最もつまらない第4位グループまでの評価分けを行っている。「盲目の理髪師」について、江戸川乱歩は第3位グループ(カーの作品としては中流で、とびっきりの不可能性とサスペンスはあるものの、それに比べて、解決が何となく呆気ないという不備がある)に評価分けされた10作品のうちの10番目に挙げている。ただ、数あるカー作品のうち、最も笑劇(ファルス)味が濃い作品と評されている。

2018年11月18日日曜日

ロンドン バーハウス(Burgh House)

ニューエンドスクエア通りの東端から見上げたバーハウス

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage→2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区内には、バーハウス(Burgh House)と呼ばれる建物が所在している。

バーハウスは、地理的には、地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)とハムステッドヒース(Hampstead Heath→2015年4月25日付ブログで紹介済)の間に位置している。
バーハウスへ行くには、二通りの行き方がある。一つ目は、地下鉄ハムステッド駅の前を通って、ハムステッドヒースへと向かうヒースストリート(Heath Street)を北上し、途中の右手に見えるニューエンド通り(New End)へと右折。ニューエンド通りがニューエンドスクエア通りへと名前を変え、そして、更にウィローロード(Willow Road)へと名前を変える四つ角の北西部分に、バーハウスは建っている。二つ目は、地下鉄ハムステッド駅の前を通って、地下鉄ベルサイズパーク駅(Belsize Park Tube Station)へと向かうハムステッドハイストリート(Hampstead High Street)をまず東へと進み、途中の左手に見えるフラスクウォーク(Flask Walk)へと左折して、北上する。フラスクウォークがウェルウォーク(Well Walk)へと名前を変える四つ角の北西部分に、バーハウスはある。バーハウスは、非常に閑静な高級住宅街内に所在している。

ニューエンドスクエア通り近辺には、
高級住宅街が広がっている

バーハウスは、1704年に建設された。建設当時、英国は、ステュアート朝最後の君主で、最後のイングランド王国 / スコットランド王国君主(在位期間:1702年ー1707年)、最初のグレートブリテン王国君主(在位期間:1707年ー1714年)およびアイルランド女王だったアン女王(Anne Stuart:1665年ー1714年)が統治していた。
当時、ハムステッド鉱泉(Hampstead Wells Spa)がまだ湧き出ていた頃で、当スパのウィリアム・ギボンス医師(Dr. William Gibbons)が1707年にバーハウスに移り住んだ。

バーハウスの入口

その後、バーハウスの使用者(住民)は、個人や英国陸軍等を転々とするが、有名なところでは、小説「ジャングルブック(The Jungle Book)」等で知られる英国の小説家 / 詩人であるジョーゼフ・ラドヤード・キップリング(Joseph Rudyard Kipling:1865年ー1936年)の娘夫婦が、1933年から1937年までの間、バーハウスに住んでおり、ジョーゼフ・ラドヤード・キップリングは、亡くなる直前の1936年に、娘夫婦に会うために、バーハウスを訪れている。

ニューエンドスクエア通りの反対側から見たバーハウスの全景

ジョーゼフ・ラドヤード・キップリングの娘夫婦が住んだ後、暫くの間、バーハウスは無人であったが、当時のハムステッド区議会(Hampstead Borough Council)が1946年にバーハウスを購入して、1947年にコミュニティーセンターとしてオープンした。
その後、バーハウス内の各所に腐食部分が見つかったため、当時のカムデン区議会(Camden Council)が1977年にバーハウスを無期限に閉鎖した。カムデン区議会としては、バーハウスを改修の上、商業目的に使用する計画をしていたが、ハムステッド地区の住民による「Keep Burgh House」運動という大反対を受けたため、バーハウスをハムステッド地区の住民へと貸し出すこととなった。

ウェルウォーク(Well Walk)から見上げたバーハウス

そして、改修工事後、1979年9月、バーハウスは、ハムステッド地区の歴史や文化等を伝える「ハムステッド博物館(Hampstead Museum)」として再オープンして、現在に至っている。ハムステッド博物館としては、主に 1F (日本で言う2階)が使用されており、それ以外のスペースは、ハムステッド地区の住民によるアート作品等の展示会に使われている他、コンサートや結婚式等も行われている。なお、地階には、カフェが併設されている。

2018年11月17日土曜日

ジョン・ディクスン・カー作「盲目の理髪師」(The Blind Barber by John Dickson Carr)–その1

東京創元社が発行する創元推理文庫「盲目の理髪師」の表紙−
  カバーフォーマット:本山 木犀氏
カバーデザイン:折原 若緒氏
カバーイラスト:榊原 一樹氏

「盲目の理髪師(The Blind Barber)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1934年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第4作目に該る。

大西洋を横断して、米国のニューヨークから英国のサウサンプトン(Southampton)へと向かう外洋航路船クイーンヴィクトリア号(ocean liner Queen Victoria)内で、船長のヘクター・ホイッスラーが主催する夕食会において、船長と同じテーブルとなった

(1)ヘンリー・モーガン(Henry Morgan):探偵小説家(英国人)
(2)カーティス・G・ウォーレン(Cartis G. Warren):外交官(米国人)
(3)トマッセン・ヴァルヴィック(Captain Thomassen Valvick):元船長(ノルウェー人)
(4)ペギー・グレン(Peggy Glenn):あやつり人形師のジュール・フォータンブラに同行している姪(秘書兼マネージャー)

の一行は、親しくなる。

クイーンヴィクトリア号がニューヨークを出港して4日目、サウサンプトン到着を3日後に控えた午後、ヘンリー・モーガン、トマッセン・ヴァルヴィックとペギー・グレンの3人が遊歩甲板のデッキチェアに寝そべって、カーティス・G・ウォーレンを待っていたところ、あたふたと姿を現した客室係に呼ばれ、カーティス・G・ウォーレンの船室(Cデッキ右舷側にあるC913号室)へと駆け付ける。そして、ヘンリー・モーガン達3人がそこで見たのは、頭に濡れたタオルをターバンのように巻いたカーティス・G・ウォーレンの姿とひどく荒らされた船室であった。

彼によると、船室内で何者かに襲われ、目元や頭の後ろ等を殴られた、とのこと。彼の顔には、何者かの拳によってできた浅い切り傷があり、緑がかった目が3人を見つめていた。彼は、映画フィルムらしきものを手にしていたが、片端はちぎれていた。

創元推理文庫「盲目の理髪師」の旧訳版の表紙
(カバー装画: 山田 雅史氏)

カーティス・G・ウォーレンの説明では、ニューヨーク出港の1週間程前、別れの挨拶のため、彼の伯父(母方の親戚)で、政治家のサディアス・G・ウォーパスが住むワシントンの邸宅を訪れた。サディアス・G・ウォーパスは、米国大統領であるF・D・ルーズヴェルトからさほど遠くない大物で、彼の邸宅では、その日、格式ある盛大な舞踏会が開催されていた。サディアス・G・ウォーパス、彼の顧問と議員の友人達は、舞踏会を抜け出し、邸宅の2階にある書斎において、ウィスキーを飲みながら、パーカーを始めた。小型映写機が趣味のカーティス・G・ウォーレンは、伯父のサディアス・G・ウォーパス達に請われて、執事の助けを借りつつ、皆の余興を撮影し始めた。強い酒に酔ったサディアス・G・ウォーパスを含めた高名な政治家達は、数々の暴言を発し、それらがカーティス・G・ウォーレンのフィルムに残された。その内容が公にされた場合、政治的失脚や国際問題にまで発展しかねない恐れがあり、最悪のケースでは、宣戦布告に至る可能性もあった。

翌朝、酔いから目覚めて、正気を取り戻したサディアス・G・ウォーパスに要請されたカーティス・G・ウォーレンは、前の晩に撮影した問題のフィルム(リール2本分)を念入りに処分したものの、荷造りを任せた執事の手違いにより、カーティス・G・ウォーレンが処分したリール2本のうち、1本はブロンクス動物園を撮影したフィルムで、何の問題もないものだった。最も悪いことに、伯父のサディアス・G・ウォーパス達が行った数々の暴言を撮影したリールについては、処分されないまま、カーティス・G・ウォーレンの荷物と一緒に、クイーンヴィクトリア号に予約された彼の船室へと運び込まれ、そのことを知る何者かがそのリールを奪うべく、船室内で彼を襲ったのである。ただ、幸運なことに、何者かが奪い去ったのは、問題のリールの半分だけで、ちぎれたリールの半分は、カーティス・G・ウォーレンの手元にまだ残っていた。しかしながら、半分と言えども、全部が奪い去られたのと同じ位、危険と言えた。

2018年11月11日日曜日

ロンドン ハイゲート墓地(Highgate Cemetery)–その2

ハイゲート墓地の東区画内にあるカール・マルクスの墓–
カール・マルクスの死後、彼の友人で、かつ、ドイツの社会思想家である
フリードリヒ・エンゲルスにより、東区画内の別の場所に墓が設けられたが、
1956年に散策道に面した現在の位置に移設され、写真の像も建てられた

ハイゲート墓地(Highgate Cemetery)は、7大墓地(Magnificent Seven)の他の場所と同様に、埋葬地として流行の最先端となる。ヴィクトリア朝時代における死に対する考え方やハイゲート墓地の雰囲気等のため、富裕階級がゴシック風の墓碑や建造物等を作るようになり、ハイゲート墓地を訪れる弔問者は非常に多かった。

ハイゲート墓地の東区画(その1)
ハイゲート墓地の東区画(その2)
ハイゲート墓地の東区画(その3)

ハイゲート墓地内は、ほとんどが人の手が介在していない原生林で、灌木や野草が生い茂り、鳥やキツネ等の動物が多く棲息している。

ハイゲート墓地の東区画(その4)
ハイゲート墓地の東区画(その5)
ハイゲート墓地の東区画(その6)

保護上の観点から、エジプト街(Egyptian Avenue)、レバノン回廊(Circle of Lebanon)や凝ったヴィクトリア朝風の墓碑等が所在する旧区画である「西区画(West Cemetery)」については、ガイド付きの団体のみの見学が可能であるが、ヴィクトリア朝風の墓碑と現代風の墓碑が混在する新区画である「東区画(East Cemetery)」に関しては、入場料を支払えば、自由に見学することができる。

ハイゲート墓地の東区画(その7)
ハイゲート墓地の東区画(その8)
ハイゲート墓地の東区画(その9)

ハイゲート墓地には、数多くの著名人が埋葬されているが、その中でも最も有名な人物は、「東区画」に埋葬されているカール・ハインリヒ・マルクス(Karl Heinrich Marx:1818年ー1883年)である。

カール・マルクスの墓(その1)
カール・マルクスの墓(その2)

彼は、ドイツ・プロイセン王国出身の哲学者、思想家、経済学者、かつ、革命家で、1849年に渡英した以降、ロンドンで主に活動しており、「資本論(Das Kapital)」の執筆で有名。彼が執筆した「資本論」のうち、第一部については、彼がまだ存命中の1867年に刊行されたが、第二部と第三部に関しては、彼の死後、彼の遺稿を元に、彼の友人で、かつ、ドイツの社会思想家であるフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels:1820年ー1895年)による編集を経て、それぞれ1885年と1894年に刊行されている。

フリードリヒ・エンゲルスが設けた
カール・マルクスの墓(その1)
フリードリヒ・エンゲルスが設けた
カール・マルクスの墓(その2)

ハイゲート墓地内にあるカール・マルクスの墓、エジプト街と納骨堂(Columbarian)が、現在、「一級建築文化財(Grade I listed buildings)」として登録されている。

2018年11月4日日曜日

ロンドン ハイゲート墓地(Highgate Cemetery)–その1

ハイゲート墓地の西区画内にある天使の石像が横たわる暮石

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage→2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区に隣接するハイゲート地区(Highgate)には、観光の名所ともなっているハイゲート墓地(Highgate Cemetery)がある。

スワインズレーンを下って行った先に、
ハイゲート墓地がある
ハイゲート墓地の西区画の入口–
西区画は、現在、ガイドツアーでのみ入園可能

ハイゲート墓地は、ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のハイゲート地区内にある広大な墓地で、ロンドン市内を囲むように設置された7大墓地(Magnificient Seven)の一つである。

ハイゲート墓地の西区画(その1)
ハイゲート墓地の西区画(その2)
ハイゲート墓地の西区画(その3)

英国の TV 会社 ITV1 が放映したエルキュール・ポワロシリーズ「Agatha Christie’s Poirot」の「ヒッコリーロードの殺人(Hickory Hickory Dock)」(1995年)の回において、物語の最後に、著名な政治家であるサー・アーサー・スタンリー(Sir Arthur Stanley)の葬儀が行われる場面があるが、この場面で撮影に使用された礼拝堂があるブロンプトン墓地(Brompton Cemeteryー2015年9月6日付ブログで紹介済)も、その7大墓地の一つ。

ハイゲート墓地の西区画(その4)
ハイゲート墓地の西区画(その5)
ハイゲート墓地の西区画(その6)

ロンドン市内にある墓地の大部分が教会付属の土地で、各教会の狭い墓地だけでは、死者の埋葬に対処できなくなったこと、それに加えて、市民の健康面への影響等も考慮されて、19世紀前半に7大墓地と呼ばれる広大な墓地が次々と設置されたのである。1850年の法改正により、英国政府に墓地用の土地を収用する権限が付与されている。

エジプト街の入口

ハイゲート墓地については、当初の設計を英国の建築家で、起業家でもあるスティーヴン・ゲアリー(Stephen Geary:1797年ー1854年)が行い、以前ダートマス公園だったハイゲート丘の南斜面を墓地へと造成して、1839年にオープンした。

レバンン回廊(その1)–
映画やTVドラマ等の撮影によく使用されている
レバンン回廊(その2)
レバンン回廊(その3)

ハイゲート墓地がオープンした段階では、ハイゲート丘を南北に延びるスワインズレーン(Swain’s Lane)を挟んで西側にある現在「西区画(West Cemetery)」と呼ばれる部分だけで、この区画内にスティーヴン・ゲアリーが設計したエジプト街(Egyptian Avenue)やレバノン回廊(Circle of Lebanon)等が所在している。

レバンン回廊(その4)
レバンン回廊(その5)
レバンン回廊(その6)

ハイゲート墓地を拡大するため、1865年にスワインズレーンを間に挟んだ東側が追加で購入され、現在「東区画(East Cemetery)」と呼ばれる部分が追加された。以前ダートマス公園だった敷地のうち、残った部分は、現在、ウォーターロー公園(Waterlow Park)となっている。

ライオンの石像が心地良さそうに眠る暮石は、
ライオン等の動物を見世物にして、英国を旅したジョージ・ウーンウェルの墓(西区画)

犬の石像が手前に眠る暮石は、
ヴィクトリア朝時代に人気を博したベアナックル(素手ボクシング)の格闘家であるトム・セイヤーの墓