2018年5月6日日曜日

カーター・ディクスン作「黒死荘の殺人」(The Plague Court Murders by Carter Dickson)–その1

東京創元社が発行する創元推理文庫「黒死荘の殺人」の表紙−
カバーデザイン:本山 木犀氏
    カバーイラスト:ヤマモト マサアキ氏

「黒死荘の殺人(The Plague Court Murders)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、別のペンネームであるカーター・ディクスン(Carter Dickson)名義で発表した長編第2作目で、ヘンリー・メルヴェール卿(Sir Henry Merrivale)が探偵役を務める長編第1作目となる。当作品は、1934年に米国のモロウ社(Morrow)から、そして、1935年に英国のハイネマン社(Heinemann)から出版された。

1930年9月6日、そぼ降る雨の晩、クラブの喫煙室に居た本編の語り手であるケン・ブレーク(Ken Blake)のところに、彼の旧友で、紅茶の輸入商ハリディ・アンド・サン商会の次男坊であるディーン・ハリディ(Dean Halliday)が雑談にやって来て、驚くべき話を始める。

老父が亡くなり、商会は兄のジェイムズ・ハリディ(James Halliday)が継いでいたが、表面上は物腰穏やかで謹厳実直そうに見えたものの、実際は堕落しきった偽善者で、ある晩帰宅した後、拳銃自殺を遂げたのである。第一次世界大戦(1914年ー1918年)後、放蕩三昧の生活を過ごしていたディーン・ハリディは、身持ちの悪さを矯正するため、カナダへと遠島になっていたが、9年間の流刑から呼び戻されて、現当主となっていた。

ディーン・ハリディは大きく息を吸い込むと、ケン・ブレークに「幽霊屋敷で一晩を明かしてほしい。」と依頼するのだった。問題の幽霊屋敷とは、ハリディ家が代々所有する「黒死荘(Plague Court)」のことで、1663年から1665年までタイバーン(The Tyburn)の絞首刑史だったルイス・プレージ(Louis Playge)の呪いがかけられているという曰く付きの屋敷であった。奇しくも、当日の午後、セントジェイムズ地区(St. James’s)内にあるロンドン博物館から、ルイス・プレージ所有だった短剣が「後ろ姿の痩せた男」によって盗まれるという事件が発生していた。

当日の夜、黒死荘の庭に建つ石室内において、心霊学者のロジャー・ダーワース(Roger Darworth)による降霊会が行われる予定で、ケン・ブレークは、昔からの知り合いであるスコットランドヤードのハンフリー・マスターズ主任警部(Chief Inspector Humphrey Masters)を一緒に誘う。当時、ハンフリー・マスターズ主任警部は、人の弱みにつけ込んで、多額の金銭を巻き上げるイカサマ霊媒師を摘発することを主たる任務としており、「幽霊狩り」と呼ばれていた。以前よりロジャー・ダーワースをイカサマ霊媒師としてなんとか摘発しようと考えていたハンフリー・マスターズ主任警部は、ケン・ブレークの誘いを快諾して、彼とディーン・ハリディと一緒に、タクシーで曰く付きの屋敷「黒死荘」へと向かうのであった。

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