2018年12月30日日曜日

ジョーゼフ・ラドヤード・キップリング(Joseph Rudyard Kipling)–その3

'The Cat That Walked by Himself'
Image taken from 'Just So Stories for Little Children'
illustrated by the author RUdyard Kipling -

大英図書館(British Library → 2014年5月31日付ブログで紹介済)で
筆者が購入した絵葉書から抜粋。

ジョーゼフ・ラドヤード・キップリング(Joseph Rudyard Kipling:1865年ー1936年)に対して、南アフリカは、次のように関わってくる。

(1)英国領ギニアの国境を巡る英国とヴェネズエラの対立に端を発した英国と調停役の米国の関係悪化→米国のマスコミによる固定的な反英感情
(2)飲酒と破産等によって緊迫した義弟ビーティー・ボレスティアーとの不和→暴力未遂事件に基づく義弟の逮捕

に基づき、ゴシップ好きなマスコミにプライバシーを完全に失ったため、米国から英国に戻って来たキップリング一家は、1898年から1908年までの毎年(1899年を除く)の恒例行事として、南アフリカへ冬期休暇に出かけた。ジョーゼフ・キップリングは、大英帝国が誇る小説家 / 詩人として、現地において、

(1)セシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rhodes:1853年ー1902年)→ケープ植民地首相(1890年ー1896年)を務め、「アフリカのナポレオン」と呼ばれた。
(2)初代ミルナー子爵アルフレッド・ミルナー(Alfred Milner, 1st Viscount Milner:1854年ー1925年)→1897年からケープ植民地(Cape Colony)の長官を務めた。
(3)サー・リアンダー・スター・ジェームソン(Sir Leander Starr Jameson:1853年ー1917年)→南アフリカ会社管理人(1891年)、ケープ植民地議会議員(1900年)やケープ植民地首相(1904年ー1908年)を務め、1911年に準男爵に叙せられた。

を初めとするケープ植民地で影響力がある政治家達に暖かく迎えられた。彼らとの友情を培い、また、彼らの政治を称賛したジョーゼフ・キップリングが南アフリカを訪問した時期には、第二次ボーア戦争(Second Anglo-Boer War:1899年ー1902年)や南アフリア連邦形成(1910年)等があり、大英帝国による南アフリカ統治が大きく進んだ頃である。

ジョーゼフ・キッップリングは、第二次ボーア戦争の戦線を視察して、軍隊の近代化を主張し、英国に戻ると、大英帝国の立場を支持する詩を書いて、募金を募り、兵士の留守家族の援助を行った。

そういったこともあって、ジョーゼフ・キップリングを「大英帝国主義の伝道者」とか、「人種差別思想の持ち主(東洋蔑視主義者)」等と評価されるケースもある。

2018年12月29日土曜日

ロンドン ウェルウォーク40番地(40 Well Walk)

19世紀の英国を代表する風景画家のジョン・コンスタブルが住んでいた
ウェルウォーク40番地の家(画面中央の建物)

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage→2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区内には、19世紀の英国を代表する風景画家であるジョン・コンスタブル(John Constable:1776年ー1837年)が住んでいた家がある。


ハムステッドヒース(Hampstead Heath→2015年4月25日付ブログで紹介済)の南側を延びるイーストヒースロード(East Heath Road)をハムステッドヒース駅(Hampstead Heath Railway Station)へと向かって、東へ下って行く途中、右手に見えるウェルウォーク(Well Walk)へと右折する。ウェルウォークを南下して、ゲインズボローガーデンズ(Gainsborough Gardens)とクライストチャーチヒル(Christchurch Hill)に挟まれた左手にあるウェルウォーク40番地(40 Well Walk)の家に、ジョン・コンスタブルは住んでいた。

ウェルウォーク40番地の前から北方面を見たところ

ジョン・コンスタブルは、ロンドンの中心部ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のフィッツロヴィア地区(Fitzrovia)内にあるシャーロットストリート(Charlotte Street)沿いにアトリエを有していたが、結核を患う妻マリア(Maria:1787年ー1828年)の療養のため、1827年にハムステッドヒースに近いウェルウォーク40番地の家を借りた。

ウェルウォーク40番地の玄関

建物外壁には、
ジョン・コンスタブルがここに住んでいたことを示す
ブループラークが架けられている

残念ながら、彼の妻マリアは、翌年の1828年に死去してしまうが、ジョン・コンスタブルは、この家で暮らし続けて、ハムステッド地区周辺の風景を描くとともに、妻マリアとの間に生まれた7人の子供を一人で育て上げた。


1837年3月31日、彼は、ロンドン市内のアトリエにおいて、心臓麻痺のため、61歳の生涯を終えたが、亡くなるまで、ウェルウォーク40番地の家に住んでいたのである。

2018年12月26日水曜日

ジョン・ディクスン・カー作「皇帝のかぎ煙草入れ」(The Emperor’s Snuff-Box by John Dickson Carr)–その3

創元推理文庫「皇帝のかぎ煙草入れ」の旧訳版の表紙
(カバー装画: 山田 雅史氏)

通りを挟んだ真向かいのボヌール荘の書斎に居るかもしれないサー・モーリス・ローズが、ミラマール荘の方を見て、寝室に前夫のネッド・アトウッドが入り込んでいることに気付くことを、イヴ・ニールは心配した。そして、寝室のカーテンの隙間から向かいの家を覗き見るネッド・アトウッドにイヴ・ニールが尋ねると、「起きてるよ。だが、こちらのことには、全く興味がないらしい。拡大鏡を手に、かぎ煙草入れみたいなものを熱心に御鑑賞中だからね。」、そして、「おやっ!」と声を上げると、「他にもう一人居るぞ。誰だかちょっと判らないが,,,」と答える。
ちょうど、そこにトビイ・ローズからイヴ・ニールに電話がかかってくる。トビイ・ローズからの電話が終わった後、ネッド・アトウッドが寝室のカーテンを開け放った際、イヴ・ニールは、誰かが2階の廊下に通じる書斎のドアをそっと閉めようとするところを目撃する。書斎から出て行こうとする人物は、閉まりかけたドアの陰から茶色の手袋をはめた手を伸ばして、ドアの脇にあるスイッチを押し下げ、書斎内の天井中央で煌々と灯っていたシャンデリアが消されたのである。

サー・モーリス・ローズが何者かによって殺害された時点で、イヴ・ニールは、自宅ミラマール荘の寝室に居たにも関わらず、状況証拠(サー・モーリス・ローズが火搔き棒で後頭部を殴打の上、殺害された際、一緒に粉々になったかぎ煙草入れの破片が、イヴ・ニールが事件当夜に着ていたパジャマに付着していたこと)に基づき、彼女にサー・モーリス・ローズ殺害の嫌疑がかかる。しかしながら、事件当夜、前夫のネッド・アトウッドが自分の寝室内に居たことを、婚約者のトビイ・ローズを含むローズ家の人達に対して言えないイヴ・ニールは、自分の身の証を立てることができず、窮地に陥る。その上、運が悪いことに、彼女の証人となってくれる筈の前夫のネッド・アトウッドは、イヴ・ニールにミラマール荘から追い出される際に、謝って階段から転落して、ホテルに戻った後、脳挫傷が原因で、意識不明の重体に陥り、入院していたのである。

果たして、サー・モーリス・ローズの頭を火搔き棒でめった打ちにして殺害した犯人は、一体誰なのか?

明智小五郎シリーズ等で有名な日本の推理作家である江戸川乱歩(1894年ー1965年)は、「別冊宝石」(1950年8月)で行った「カー問答」の中で、「『皇帝のかぎ煙草入れ(The Emperor's Snuff-Box)』は、物理的に絶対に為し得ないような不可能を不思議な技巧によって成し遂げている。これは、カーが処女作から12年経っても、トリック小説に少しも飽きず、旺盛な創作欲を持ち続けていたことを証する傑作だよ。」と非常に高く評価しており、実際のところ、本作品において、ジョン・ディクスン・カーは、綱渡り的な手法で、トリックを完成させているのである。

更に、江戸川乱歩は、「カー問答」の中で、カー作品を第1グループ(最も評価が高い作品群)から第4グループ(最もつまらない作品群)までグループ分けしていて、「皇帝のかぎ煙草入れ」は、第1グループ6作品のうち、3番目に挙げられている。

ちなみに、1番目はギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)が探偵役を務める「帽子収集狂事件(The Mad Hatter Mystery→2018年4月29日 / 5月5日付ブログで紹介済)」、2番目はヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)が探偵役を務める「黒死荘の殺人(The Plague Court Mystery→2018年5月6日 / 5月12日付ブログで紹介済)」で、5番目が同じくヘンリー・メリヴェール卿が活躍する「ユダの窓(The Judas Window→2018年7月22日 / 7月29日付ブログで紹介済)」である。

2018年12月23日日曜日

ジョン・ディクスン・カー作「皇帝のかぎ煙草入れ」(The Emperor’s Snuff-Box by John Dickson Carr)–その2

サー・モーリス・ローズが美術商のヴェイユ氏から買い取った
ナポレオン皇帝の愛用品だった懐中時計の形をした「かぎ煙草入れ」–
東京創元社が発行する創元推理文庫「皇帝のかぎ煙草入れ」の表紙で、
 カバーデザイン:本山 木犀氏
カバーイラスト:磯 良一氏

ある日の午後8時、サー・モーリスを除くローズ家の全員(妻ヘレナ、長男トビイ、長女ジャニス、そして、トビイとジャニスの伯父ベンジャミン・フィリップス)は、イヴ・ニールと一緒に、観劇に出かけた。それは、イギリス劇団によるバーナード・ショーの「ウォレン夫人の職業」だった。
サー・モーリス・ローズは、日課にしている午後の散歩から戻って来た後、何故かずっと仏頂面のままで、彼らと観劇には出かけなかった。ただし、午後8時半に、アルプ街で美術商を営むヴェイユ氏からサー・モーリス・ローズ宛に「コレクションにふさわしい貴重なお宝が手に入ったので、直ぐに御宅へお持ちします。」という電話連絡が入り、サー・モーリス・ローズの機嫌は、やっと直ったようだった。
美術商ヴェイユ氏がサー・モーリス・ローズが住むボヌール荘に持参したのは、ナポレオン皇帝の愛用品だった「かぎ煙草入れ」で、透明な薔薇色の瑪瑙で出来ていて、縁取りは純金、それに小粒のダイヤモンドも散りばめられていた。そのかぎ煙草入れは、ちょっと珍しい形、つまり、懐中時計の形としていた。ヴェイユ氏が持参したかぎ煙草入れを見たサー・モーリス・ローズは、大喜びだった。

観劇に出かけていた一行がアンジュ街に戻って来たのは、午後11時で、トビイ・ローズがイヴ・ニールを向かいのミラマール荘の玄関まで送って行ったが、ローズ家の他の3人は、直ぐにボヌール荘に入った。
ローズ家の一行が全員帰宅すると、ヴェイユ氏から買い取ったかぎ煙草入れを手にして、サー・モーリスが2階から下りて来て、皆にお披露目をしたが、サー・モーリスの骨董品収集癖はいつものことだったので、娘のジャニスが「綺麗ね。」と言った以外は、他の者はろくに見もしなかった。妻のヘレナに至っては、夫から値段を聞くと、「とんでもない無駄遣いだ!」と言って、呆れ果てるのであった。皆の反応を聞いたサー・モーリスは、機嫌を損ねて、「暫くの間、書斎にこもる。」と言って、2階へ戻って行ってしまった。

2階の書斎に戻ったサー・モーリス・ローズは、壁際の机に座って、かぎ煙草入れの詳細を書き留め始めた。その時、彼の背後から忍び寄った何者かによって、部屋の反対側の暖炉用鉄具台に置いてあった火搔き棒で、後頭部をめった打ちにされ、殺害されたのである。その際、故意なのか、それとも、偶然なのか、かぎ煙草入れも、犯人が振るった火搔き棒の一撃によって、粉々に砕けてしまった。

サー・モーリス・ローズが、何者が振るった火搔き棒により、後頭部をめった打ちにされて殺害された
ボヌール荘2階の書斎で、イヴ・ニールは、真向かいにあるミラマール荘の寝室から、
殺害直後の現場を目撃する。

狭い通りを挟んで、サー・モーリス・ローズの書斎に面した自宅の寝室の窓から、イヴ・ニールは、殺害された彼の死体と茶色の手袋をはめた犯人と思しき人物が書斎から出て行くところを、偶然目撃してしまう。ところが、運が悪いことに、その時、前夫のネッド・アトウッドが、離婚した際に返さなかった合鍵を使い、イヴ・ニールの寝室に忍び込んで、彼女に復縁を迫っていたところで、彼女はネッド・アトウッドに対して、家から即刻出ていくように訴えていた最中だったのである。

2018年12月22日土曜日

ジョーゼフ・ラドヤード・キップリング(Joseph Rudyard Kipling)–その2

ジョーゼフ・ラドヤード・キップリングが、妻のキャロラインと一緒に、
米国ヴァーモント州にある農場に小さな別荘を借りて生活していた際に執筆した
「ジャングルブック(The Jungle Book)」

インドを離れ、英国に到着したジョーゼフ・ラドヤード・キップリング(Joseph Rudyard Kipling:1865年ー1936年)は、オリエンタリズムやジャポニズム等の異国文化が当時流行していたロンドンの文学会でのデビュー後、人気を博して、たちまち有名となった。そして、2年の間、様々な編集者に作品を売ったが、階級社会に息苦しさを感じていた彼は、神経衰弱に罹り、医者の助言に従い、療養のため、1891年に旅行に出て、南アフリカ、オーストラリアやニュージーランドを巡り、生まれた地のインドを再訪する。同年のクリスマスを家族と一緒に過ごす予定であったが、米国における自著の出版代理人で、合作をしたこともあるウォルコット・ボレスティアーが腸チフスで急死した知らせを米国人の作家から受け取り、ロンドンへと戻る。そして、翌年の1892年1月、1年前に出会っていた彼の妹であるキャロライン・ボレスティアー(Caroline Balestier:1862年ー1939年)とロンドンで結婚する。

ジョーゼフとキャロラインのキップリング夫妻は、ボレスティアー家の地所に近い米国ヴァーモント州にある農場に小さな別荘を借りて、生活を始める。同年12月29日には、二人の間に長女ジョセフィンが生まれる。偶然にも、ジョーゼフの誕生日が12月30日で、キャロラインの誕生日が12月31日だった。彼は、この小屋であの有名な小説「ジャングルブック(The Jungle Book)」を執筆している。
長女のジョセフィンが生まれると、この小屋では手狭になったため、キップリング夫妻は、義弟(キャロラインの弟)のビーティー・ボレスティアーからコネティカット川を見下ろす岩山に10エーカーの土地を購入して、そこに家を建てた。ジョーゼフ・キップリングは、義兄のウォルコット・ボレスティアーとの合作小説「ナウラカ」に因んで、この新居を「ナウラカ(Naulakha)」と名付けた。この新居には、シャーロック・ホームズシリーズの作者であるサー・アーサー・コナン・ドイルがゴルフクラブを持参の上、英国からやって来て、ジョーゼフ・キップリングにゴルフを教授した、とのこと。

1896年2月に次女のエルシーが生まれるが、
(1)英国領ギアナの国境を巡る英国とヴェネズェラの対立に端を発した英国と調停役の米国の関係悪化 → 米国のマスコミによる固定的な反英感情
(2)飲酒や破産等によって緊迫した義弟ビーティーとの不和 → 暴力未遂事件に基づく義弟の逮捕
という二つの問題が暗い影を落とし始める。
ゴシップ好きなマスコミ等によってプライバシーを完全に失ったキップリング一家は、慌ただしく荷物をまとめて、4年間を過ごした米国に別れを告げたのである。

英国へと戻って来たキップリング夫妻に、1897年8月、待望の長男ジョンが生まれるが、1899年に米国を訪問した際、ジョーゼフ、長女のジョセフィンと次女のエルシーが重度の肺炎を患う。意識不明の重体にまで陥った末、なんとか九死に一生を得て回復した彼であったが、当時6歳のジョセフィンは助からず、この世を去ってしまう。
ジョセフィンを亡くした衝撃と苦しみから、元から実際の年齢よりも上に見られることが多かった彼は、一気に一層老け込んでしまった。プライバシーを守ることができ、尚且つ、執筆に適した静かな場所を必要としたジョーゼフ・キップリングは、イーストサセックス州(East Sussex)のバーウォッシュ(Burwash)にある邸宅ベイトマンズ(Bateman’s)を購入して、1902年から70歳で亡くなる1936年までの34年間をここで過ごした。彼がやっと辿り着いた安住の地は、皮肉にも、英国であった。

ベイトマンズで暮らし始めて5年後の1907年、ジョーゼフ・キップリングは、弱冠41歳という若さで、ノーベル文学賞を受賞した。41歳という年齢でのノーベル賞受賞は、当時史上最年少で、ノーベル文学賞に限ると、この記録は現在でも破られていない。

しかしながら、大きな悲しみはまだ続き、第一次世界大戦(1914年ー1918年)の勃発に伴い、1915年8月に出征した長男のジョンを、ジョーゼフ・キップリングは戦地で失ってしまうのである。彼からの遺伝によるものなのか、ジョンの視力は極度に弱く、英国陸軍には入隊できなかった。周囲の友人達が次々と出征していく中で苦悩する息子ジョンのことを見かねたジョーゼフ・キップリングは、妻キャロラインや次女エルシーの反対を押し切って、、自身が政界等で持つ大きな影響力を使って、ジョンをアイルランド近衛連隊に入隊させた結果が、これであった。

次女エルシーが結婚して、ケンブリッジ郊外へと去ってしまうと、ジョーゼフ・キップリングがやっと辿り着いた安住の地ベイトマンズは、彼と妻が死去するまで、空虚な場所になってしまったのである。

2018年12月17日月曜日

ジョン・ディクスン・カー作「皇帝のかぎ煙草入れ」(The Emperor’s Snuff-Box by John Dickson Carr)–その1

東京創元社が発行する創元推理文庫「皇帝のかぎ煙草入れ」の表紙−
 カバーデザイン:本山 木犀氏
カバーイラスト:磯 良一氏

「皇帝のかぎ煙草入れ(The Emperor’s Snuff-Box)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が発表した推理小説で、1942年に米国のハーパー&ブラザーズ社(Harper & Brothers)から、そして、1943年に英国のヘイミッシュ・ハミルトン社(Hamish Hamilton)から刊行された。本作品は、ジョン・ディクスン・カー名義の長編23作目に該り、(1)アンリ・バンコラン(Henri Bencolin)シリーズ、(2)ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズ、(3)ヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)シリーズや(4)歴史ミステリーものに属さないノン・シリーズの作品である。本作品では、精神科医のダーモット・キンロス博士が探偵役を務める。

フランスの避暑地ラ・バンドレットのアンジュ街にあるミラマール荘に住むイヴ・ニールは、有名なテニス選手との不倫を理由に、前夫ネッド・アトウッドと離婚して、傷心の日々を送っていた。6月半ばの静かな暑い朝、まだほとんど誰も目を覚ましていない時刻に、イヴ・ニールがゴルフ場でグリーン手前のバンカーにつかまっていた際、ミラマール荘の真向かいに建つボヌール荘に住むトビイ・ローズと知り合いになる。トビイ・ローズは、ロンドンに本店があるフックソン銀行ラ・バンドレット支店において、管理職を務めていた。

トビイ・ローズと親しくなっていくイヴ・ニールであったが、自分の離婚歴がローズ家の人々にあまり快く迎えられないのではないかと懸念していた。ところが、彼女の予想に反して、トビイの父親であるサー・モーリス・ローズ、トビイの母親であるヘレナ・ローズ、トビイの妹であるジャニス・ローズも、そして、トビイとジャニスの伯父に該るベンジャミン・フィリップスも、彼女をすんなりと受け入れたのである。ローズ家の人々の中には、イヴ・ニールの過去について、とやかく言う者は居なかった。少なくとも、彼らは、イヴ・ニールの前夫であるネッド・アトウッドなど存在していなかったように、彼女に対してふるまっていた。

サー・モーリス・ローズは、以前、ロンドンのウェストミンスター地区(Westminster)内にあるクイーン アンズ ゲート(Queen Anne’s Gate)に住んでいたが、最近はラ・バンドレットのアンジュ街で暮らしていた。彼は、貧民街の一掃、刑務所の改革や船員の待遇改善等といった社会問題の解決に尽力した功績により、勲爵位(ナイト)の称号を授与されていた。彼の趣味は、骨董品の蒐集と人間性の探究であった。

サー・モーリス・ローズは、膨大な骨董品のコレクションを2階の通りに面した書斎に飾って、毎晩遅くまでそこで過ごしていた。通りを挟んで、サー・モーリス・ローズの書斎に対面するミラマール荘の部屋は、イヴ・ニールの寝室で、彼女が前夫ネッド・アトウッドと結婚生活を送っていた頃、カーテンを開けっぱなしにした書斎の窓越しに、サー・モーリス・ローズが拡大鏡を手に骨董品を眺める姿を、寝室から何度か見かけたことがあったのである。

離婚歴があるイヴ・ニールを快く迎え入れてくれたサー・モーリス・ローズであったが、一度だけ、彼がイヴ・ニールに対して、彼女の前夫ネッド・アトウッドのことを遠回しに尋ねようとしたものの、途中で口籠った後、そのまま話を打ち切ったことがあった。その際、イヴ・ニールは、サー・モーリス・ローズが示した意味不明の妙な目つきが非常に気になったのである。

7月の終わり頃、トビイ・ローズは、イヴ・ニールにプロポーズした。そして、7月31日に、二人の婚約が発表された。
ニューヨークにあるプラザホテルのバーで、米国に到着したばかりの友人からイヴ・ニールの婚約を知らされたネッド・アトウッドは、その2日後、ニューヨークを出航するノルマンディー号に乗船して、フランスへと向かった。
イヴ・ニールとトビイ・ローズの二人に、悲劇の暗雲が迫りつつあったが、この時、二人はまだ何も気づいていなかったのである。

2018年12月16日日曜日

ジョーゼフ・ラドヤード・キップリング(Joseph Rudyard Kipling)–その1

1889年から1891年にかけて、
英国の小説家 / 詩人ジョーゼフ・ラドヤード・キップリングが住んでいた
ヴィリアーズストリート43番地の建物(その1

ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のチャリングクロス地区(Charing Cross)内に所在するヴィリアーズストリート43番地(43 Villiers Street→2018年12月8日付ブログで紹介済)に住んでいたジョーゼフ・ラドヤード・キップリング(Joseph Rudyard Kipling:1865年ー1936年)は、英国の小説家 / 詩人である。

ジョーゼフ・ラドヤード・キップリングは、1865年12月30日に英国領インドのボンベイ(現在のムンバイ)に出生する。父親のジョン・ロックウッド・キップリングは彫刻家 / 陶器デザイナーで、ボンベイに設立された芸術・産業学校に建築彫刻の教授として勤めていた。両親は、2年前に彼らが出会った英国スタッフォードシャー州(Staffordshire)のラドヤード湖(Lake Rudyard)の美しさに因んで、生まれた息子にラドヤードと名付けた、とのこと。
キップリングの両親は、自分達を英国陣ではなく、「アングロ・インディアン(Anglo Indian→英国で生まれ、インドで暮らした人々、あるいは、英国人とインド人の混血児のこと)」と考えるようになり、息子にも、英国人として、そして、インド人としても、一人前の人間になるように教育した。まずヒンディー語で考え、それを英語に翻訳しながら話す生活は、インド生まれで英語を知らない彼に大きな苦痛をもたらした。こうしたアイデンティティーの複雑な問題が、後に彼の作品を特徴付けるようになる。

1889年から1891年にかけて、
英国の小説家 / 詩人ジョーゼフ・ラドヤード・キップリングが住んでいた
ヴィリアーズストリート43番地の建物(その2)

彼が6歳になると、2歳下の妹と一緒に、英国ポーツマス(Portsmouth→2016年9月17日付ブログで紹介済)近郊のサウスシー(Southsea)に住む知人のホロウェイ夫妻に預けられ、彼らの屋敷で6年間を過ごす。この時期、彼はホロウェイ夫人から虐待と無視を受けたようで、彼は父親から送られた物語を読むことに逃げ込み、それが彼の文学人生を決定づけたものと思われる。一方、彼の妹の方は、ホロウェイ夫人から自分の息子との結婚を望まれる程に気に入られた、とのこと。
1878年、彼はデヴォン州(Devon)にある軍人の子弟のために設立された全寮制の学校ユナイテッド・サービス・カレッジ(United Services College)に入学し、そこで英国、フランスやロシアの文学を愛読するとともに、学友会雑誌の編集部員を務めた。同カレッジを卒業した後、彼の両親は彼をオックスフォード大学(Oxford University→2015年11月21日付ブログで紹介済)へ進学させたがったが、学費の工面ができなかったこと、それに加えて、彼の学力が奨学金を得られる程ではなかったことから、諦めざるを得なかった。そこで、彼の父親は、自身が校長を務める美術学校と館長を務める博物館がある都市ラホール(現パキスタン)にある小さな地方新聞「シビル&ミリタリーガゼット」紙の編集助手としての仕事を彼のために探し出した。

1882年9月、まだ16歳のジョーゼフ・ラドヤード・キップリングは、英国からインドへ向けて出発し、同年10月に自分が生まれたボンベイに到着した。そして、数日かけて、汽車でボンベイからラホールへと移動した。
彼は、「シビル&ミリタリーガゼット」紙の編集助手として働くとともに、詩を書いて掲載。1886年、最初の詩集を刊行する。その後、新しい編集者から彼は短編小説の寄稿を依頼され、1886年11月から1887年6月までの間に、39作の小説を発表する。

その後、より広い文筆活動の場を求めた彼は、1889年3月にインドを離れ、シンガポール、香港、日本、米国やカナダ、そして、再度米国を巡り、同年10月、英国のリヴァプールに到着したのである。

2018年12月9日日曜日

ロンドン ヴィクトリアエンバンクメント通り(Victoria Embankment)

ヴィクトリアエンバンクメント通り沿いに建つ
シティー・オブ・ロンドンと
シティー・オブ・ウェストミンスター区の境界線
→ 画面奥がシティー・オブ・ロンドン

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1934年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第4作目に該る「盲目の理髪師(The Blind Barber)」では、大西洋を横断して、米国のニューヨークから英国のサウサンプトン(Southampton)へと向かう外洋航路船クイーンヴィクトリア号(ocean liner Queen Victoria)上において、(1)米国人の外交官であるカーティス・G・ウォーレン(Curtis G. Warren)が携帯していた政治的失脚や国際問題にまで発展しかねない恐れがあるフィルムと(2)スタートン子爵が所有するエメラルドの象のペンダントの盗難事件が発生する。それらに加えて、(3)瀕死の女性がある船室から突然姿を消す事件も起きる。錯綜する事件の謎に頭を痛めた英国人の探偵小説家であるヘンリー・モーガン(Henry Morgan)は、「剣の八(The Eight of Swords)」事件で知り合ったギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)に助けを求めるべく、サウサンプトンに入港したクイーンヴィクトリア号からいち早く下船して、ギディオン・フェル博士が住むロンドンへと急ぐ。原作上、ギディオン・フェル博士は、テムズ河(River Thames)に近いアデルフィテラス1番地(1 Adelphi Terrace→2018年11月25日付ブログで紹介済)に住んでいるという設定になっており、アデルフィテラスからは、テムズ河の他に、ヴィクトリアエンバンクメント通り(Victoria Embankment)を眼下に望むことができる。

ウォータールー橋の下を潜るヴィクトリアエンバンクメント通り

ヴィクトリアエンバンクメント通りは、テムズ河の北岸に建設されたヴィクトリアエンバンクメントと呼ばれる堤防に沿って延びる通りで、西側はウェストミンスター橋(Westminster Bridge)から始まり、チャリングクロス駅(Charing Cross Station→2014年9月20日付ブログで紹介済)を出入りする鉄道用の橋であるハンガーフォード橋(Hungerford Bridge)とその両側にある歩行者用の橋であるゴールデンジュビリー橋(Golden Jubilee Bridge)の下を通り、左手に見えるヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ(Victoria Embankment Gardens→2018年12月2日付ブログで紹介済)を過ぎ、ウォータールー橋(Waterloo Bridge→2014年10月24日付ブログで紹介済)の下を潜り、そして、ブラックフライアーズ橋(Blackfriars Bridge)まで至っている。

ヴィクトリアエンバンクメント通り沿いに建つ
サマセットハウス(Somerset House)

ヴィクトリアエンバンクメント通りを下で支える堤防であるヴィクトリアエンバンクメントは、1865年から1870年にかけて、英国の土木技師で、公共事業庁(Metropolitan Board of Works)の主任技術者だったサー・ジョーゼフ・ウィリアム・バザルゲット(Sir Joseph William Bazalgette:1819年ー1891年)によって、ウェストミンスター橋とブラックフライアーズ橋に挟まれたテムズ河北岸に建設された。
ヴィクトリアエンバンクメントが建設されたのは、ロンドンに近代的な下水処理設備を導入するためで、ヴィクトリアエンバンクメント通りが敷設されたのは、北側に延びるストランド通り(Strand→2015年3月29日付ブログで紹介済)やフリートストリート(Fleet Street→2014年9月21日付ブログで紹介済)における交通渋滞を解消するためである。

サマセットハウスの外壁(その1)

サマセットハウスの外壁(その2)

ヴィクトリアエンバンクメント建設工事の他に、当時、アルバートエンバンクメント<Albert Embankmentーランベス橋(Lambeth Bridge→2018年2月4日付ブログで紹介済)とヴォクスフォール橋(Vauxhall Bridge→2017年9月16日付ブログで紹介済)に挟まれたテムズ南岸の堤防>とチェルシーエンバンクメント<Chelsea Embankmentーチェルシー橋(Chelsea Bridge)とバタシー橋(Battersea Bridge)に挟まれたテムズ河北岸の堤防>の2つが建設され、サー・ジョーゼフ・ウィリアム・バザルゲットは、総計で 1,800 ㎞ にも及ぶ下水道を敷いたことにより、ロンドン内の公衆衛生問題を解決したため、「ロンドン下水道の父」と呼ばれている。

英国の技師である
イザムバード・キングダム・ブルネル
(Isambard Kingdom Brunel:1806年ー1959年)の
ブロンズ像

イザムバード・キングダム・ブルネルは、
パディントン駅(Paddington Station)を初めとするグレートウェスタン鉄道の施設や車輌等を設計した

ヴィクトリアエンバンクメント通りは、1878年12月に英国で最初にガス灯から電気灯へと切り替えられたが、電気灯では効率が良くないとの理由で、1884年6月にガス灯が再度導入されている。



テムズ河北岸沿いに延びるヴィクトリアエンバンクメント通りの北側には、以下の地下鉄の駅が並んでおり、サークルライン(Circle Line)とディストリクトライン(District Line)が通っている。
(1)地下鉄ウェストミンスター駅(Westminster Tube Station)
(2)地下鉄エンバンクメント駅(Embankment Tube Station)
(3)地下鉄テンプル駅(Temple Tube Station)
(4)地下鉄ブラックフライアーズ駅(Blackfriars Tube Station)

2018年12月8日土曜日

ロンドン ヴィリアーズストリート43番地(43 Villiers Street)

ジョーゼフ・ラドヤード・キップリングが住んでいた
ヴィリアーズストリート43番地

ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のチャリングクロス地区(Charing Cross)内に所在するヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ(Victoria Embankment Gardens→2018年12月2日付ブログで紹介済)を囲む西側の通りヴィリアーズストリート(Villiers Street)沿いに、小説「ジャングルブック」や「少年キム」等の作品で有名で、1907年にノーベル文学賞を41歳の史上最年少の若さで受賞した英国の小説家 / 詩人であるジョーゼフ・ラドヤード・キップリング(Joseph Rudyard Kipling:1865年ー1936年)が住んでいた家が建っている。


トラファルガースクエア(Trafalgar Square)からシティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)方面へ向かって東に延びるストランド通り(Strand→2015年3月29日付ブログで紹介済)を右折して、地下鉄エンバンクメント駅(Embankment Tube Station)へ向かって南下するヴィリアーズストリートを進むと、進行方向左手にあるヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ手前の43番地(43 Villiers Street)の建物が、それである。

ヴィリアーズストリート43番地の建物は、
現在、「キップリングハウス」というフラットになっている

インドのラホールにある「シビル&ミリタリーガゼット」紙で編集助手として働くとともに、同紙に短編小説や詩を寄稿していたジョーゼフ・ラドヤード・キップリングは、より良い文筆活動の場を求めて、1889年3月にインドを離れ、シンガポール、香港、日本、米国やカナダ、そして、再度米国を巡り、同年10月、英国のリヴァプールに到着。オリエンタリズムやジャポニズム等の異国文化が当時流行していたロンドンの文学界でデビューした後、彼はたちまち人気を博して有名になった。その後、2年間、様々な編集者に作品を売ったが、階級社会に息苦しさを感じていた彼は、神経衰弱を患ったため、医者の助言に従い、1891年に療養旅行に出かけ、南アフリカ、オーストラリアやニュージーランドを巡った後、出生地のインドを再訪する。
つまり、ジョーゼフ・ラドヤード・キップリングは、この2年間(1889年ー1891年)、ヴィリアーズストリート43番地に住んでいた訳である。

「ジョーゼフ・ラドヤード・キップリングが、1889年から1891年にかけて、
ここに住んでいた」ことを示すブループラークが、
1階の外壁に架けられている

ジョーゼフ・ラドヤード・キップリングが住んでいたヴィリアーズストリート43番地の建物は、現在、「キップリングハウス(Kipling House)」という名前のフラットになっており、地上階(Ground Floor)にはカフェ等の商業店舗が営業している。1階(1st Floor)の外壁には、ジョーゼフ・キップリングが、1889年から1891年にかけて、ここに住んでいたことを示すロンドンカウンティーカウンシル(London County Council)が管理するブループラークが架けられている。


2018年12月2日日曜日

ロンドン ヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ(Victoria Embankment Gardens)

ヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ内の植栽(その1)

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1934年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第4作目に該る「盲目の理髪師(The Blind Barber)」では、大西洋を横断して、米国のニューヨークから英国のサウサンプトン(Southampton)へと向かう外洋航路船クイーンヴィクトリア号(ocean liner Queen Victoria)上において、(1)米国人の外交官であるカーティス・G・ウォーレン(Curtis G. Warren)が携帯していた政治的失脚や国際問題にまで発展しかねない恐れがあるフィルムと(2)スタートン子爵が所有するエメラルドの象のペンダントの盗難事件が発生する。それらに加えて、(3)瀕死の女性がある船室から突然姿を消す事件も起きる。錯綜する事件の謎に頭を痛めた英国人の探偵小説家であるヘンリー・モーガン(Henry Morgan)は、「剣の八(The Eight of Swords)」事件で知り合ったギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)に助けを求めるべく、サウサンプトンに入港したクイーンヴィクトリア号からいち早く下船して、ギディオン・フェル博士が住むロンドンへと急ぐ。原作上、ギディオン・フェル博士は、テムズ河(River Thames)に近いアデルフィテラス1番地(1 Adelphi Terrace→2018年11月25日付ブログで紹介済)に住んでいるという設定になっており、アデルフィテラスからは、テムズ河の他に、ヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ(Victoria Embankment Gardens)を眼下に望むことができる。

ヴィクトリアエンバンクメントガーデンズの東端から見上げた
チャリングクロス駅(Charing Cross Station)が入っている建物

ヴィクトリアエンバンクメントガーデンズは、北側のアデルフィテラスと南側のテムズ河に挟まれた場所に広がる公園で、公園の北側と東側はサヴォイプレイス(Savoy Place→2017年1月29日付ブログで紹介済)に、西側はヴィリアーズストリート(Villiers Street)と地下鉄エンバンクメント駅(Embankment Tube Station)に、そして、南側はヴィクトリアエンバンクメント通り(Victoria Embankment)に囲まれている。

ヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ内から
チャリングクロス駅が入っている建物

1865年から1867年にかけて、英国の土木技師で、公共事業庁(Metroploitan Board of Works)の主任技師でもあったサー・ジョーゼフ・ウィリアム・バザルゲット(Sir Joseph William Bazalgette:1819年ー1891年)により、ウェストミンスター橋(Westminster Bridgeー西側)とブラックフライアーズ橋(Blackfriars Bridgeー東側)に挟まれたテムズ河北岸に、ヴィクトリアエンバンクメント(Victoria Embankment)と呼ばれる堤防や下水道設備等が建設された。テムズ河北岸に沿って、堤防の上に敷設されたヴィクトリアエンバンクメント通りの北側の場所を使って、1874年にヴィクトリアエンバンクメントガーデンズが造営されたのである。

ヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ内の植栽(その2)

ヴィクトリアエンバンクメントガーデンズは、全体をフェンスで囲まれた公園であるが、早朝(午前7時半)から夜間(冬場:午後4時半~夏場:午後9時半)まで一般に開放されており、特に昼間は、公園近辺のオフィス勤務者や観光客等の憩いの場となっている。

サヴォイホテル(Savoy Hotel)を建設した
リチャード・ド・オイリー・カルテ(Richard D'Oyly Carte:1844年ー1901年)を讃える記念碑が
サヴォイホテルの裏玄関前のヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ内に設置されている

ヴィクトリアエンバンクメントガーデンズは、現在、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)によって管理されている。

2018年12月1日土曜日

ロンドン ラウンドポンドプレイス13番地(13 Round Pond Place)


米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage→2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっている。


同作品で探偵役を務めるギディオン・フェル博士は、校長、ジャーナリストや歴史家を経て、現在は引退している。「テニスコートの殺人」上、明記はされていないが、ギディオン・フェル博士は、ハムステッド地区内のラウンドポンドプレイス13番地(13 Round Pond Place)に住んでいる設定になっている。



ジョン・ディクスン・カーが1934年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士シリーズの長編第4作目に該る「盲目の理髪師(The Blind Barber→2018年11月17日 / 11月24日付ブログで紹介済)」において、ギディオン・フェル博士は、テムズ河(River Thames)に近いアデルフィテラス1番地(1 Adelphi Terrace→2018年11月25日付ブログで紹介済)に住んでいるという設定になっていたので、「盲目の理髪師」事件以降、「テニスコートの殺人」事件までの間に、ギディオン・フェル博士は、アデルフィテラス1番地からラウンドポンドプレイス13番地へと引っ越したことになる。



ハムステッド地区は、ロンドンの中心部の一つであるロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)内にある地区で、ロンドン郊外の北西部に位置している。広大な公園のハムステッドヒース(Hampstead Heath→2015年4月25日付ブログで紹介済)とハムステッドハイストリート(Hampstead High Street)を中心とした緑が非常に多い場所である。また、古くから文化人が多く住んでいて、現在は高級住宅街の一つとして知られている。


なお。ギディオン・フェル博士が住んでいるという設定になっているラウンドポンドプレイス13番地については、現在の住所表記上、ハムステッド地区内やロンドン・カムデン区内を問わず、ロンドン市内には存在しておらず、残念ながら、作者であるジョン・ディクスン・カーが創造した架空の住所である。