リンカーンズ・イン・フィールズの広場内から見たイングランド王立外科医師会 |
アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の秘密(The Mystery of the Spanish Crest)」は、短編集「クリスマスプディングの冒険(The Adventure of the Christmas Pudding)」(1960年)に収録されている一遍である。
イングランド王立外科医師会の入口 |
裕福な独り者であるチャールズ・リッチ少佐(Major Charles Rich)が、クレイトン夫妻(Mr and Mrs Clayton)、スペンス夫妻(Mr and Mrs Spence)とマクラーレン中佐(Commander McLaren)という長年来の友人5人を、自宅のフラットへ食事に招く。ところが、直前になって、招待客の一人であるクレイトン氏に、急な商用でスコットランドへ出かける必要が生じて、食事会に参加できなくなった。マクラーレン中佐と一緒にクラブで一杯飲んだ後、クレイトン氏は、駅へ向かう途中、事情を説明するために、リッチ少佐のフラットに立ち寄ったが、生憎と、リッチ少佐は外出していた。そこで、クレイトン氏は、リッチ少佐への伝言を残すべく、リッチ少佐の執事バージェス(Burgess)に居間へ案内してもらう。バージェスは、キッチンでの準備のため、クレイトン氏を居間に残したまま、その場を後にするが、リッチ少佐への伝言をしたためた後、クレイトン氏が立ち去るところを見かけていなかった。10分程して、リッチ少佐が帰宅し、バージェスを使い走りに外出させた。
イングランド王立外科医師会の建物前から リンカーンズ・イン・フィールズの東側を見たところ― 画面奥にリンカーン法曹院(Lincoln's Inn― 2017年3月19日付ブログで紹介済)が見える |
その後、クレイトン氏を除いた残り5人で、食事会は滞りなく終わったのであるが、翌朝、居間の掃除をしていたバージェスは、部屋の角に置いてあるスペイン櫃の蓋を開けると、櫃の内には首を刺し貫かれたクレイトン氏の死体が入っていたのである。スコットランドに居る筈のクレイトン氏が、スペイン櫃の内に居たのか?そして、彼は櫃の内で何をしていたのか?
リンカーンズ・イン・フィールズの広場内から見た イングランド王立外科医師会(その2) |
リッチ少佐は、クレイトン氏殺害の容疑で、警察に逮捕される。リッチ少佐はクレイトン夫人に魅かれており、リッチ少佐にとって、クレイトン氏は邪魔な存在だったと、警察は推測する。そして、食事会の直前、帰宅したリッチ少佐は、居間で彼への伝言をしたためているクレイトン氏に出会い、口論の末、クレイトン氏を刺し殺して、スペイン櫃内に押し込んだ単純明快な事件だと、警察は考えたのである。
リンカーンズ・イン・フィールズの通りから見た イングランド王立外科医師会 |
クレイトン夫人と共通の友人経由、クレイトン夫人から依頼を受けたエルキュール・ポワロは首をひねった。刺し殺されたクレイトン氏の死体をスペイン櫃内に押し込んだまま、リッチ少佐は、その櫃がある居間で残りの招待客4人と一緒に食事会を行い、翌朝、執事のバージェスがクレイトン氏の死体を発見するまで、そのまま死体を放置していたことになる。リッチ少佐は、それ程までに愚かなのだろうか?ポワロの灰色の脳細胞が動き出す。
英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「スペイン櫃の秘密」(1991年)の回では、一旦帰宅して、クレイトン夫人に「緊急な用件でスコットランドへ出かける必要があるので、リッチ少佐との食事会には出席できなくなった。」と告げたクレイトン氏が、駅へ向かう途中、カーチス大佐(Colonel Curtissーアガサ・クリスティーの原作に登場するマクラーレン中佐に相当)と一緒に、軍人クラブで一杯飲む場面があるが、この軍人クラブの外観として、イングランド王立外科医師会(Royal College of Surgeons of England)が入居している建物が撮影に使用されている。
イングランド王立外科医師会が入居する建物は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のホルボーン地区(Holborn)内にあり、リンカーンズ・イン・フィールズ(Lincoln's Inn Fieldsー2016年7月2日付ブログで紹介済)の南側に、広場に面するように建っている。
ちなみに、リンカーンズ・イン・フィールズの東側、北側および西側はロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)に属しているが、南側のみシティー・オブ・ウェストミンスター区に属している。
イングランド王立外科医師会の紋章 |
イングランド王立外科医師会の前身は、14世紀後半まで遡る。
同医師会は、1797年にシティー(City)内のオールドベイリー通り(Old Bailey)沿いにあった外科医師会館から現在のリンカーンズ・イン・フィールズ35−43番地(35 - 43 Lincoln's Inn Fields)に移転した後、1800年に「ロイヤル」の称号を得て、「ロンドン王立外科医師会(Royal College of Surgeons in London)」という名前に変更。
ジョージ・ダンス(子)が住んでいた ガワーストリート91番地(91 Gower Street) |
ガワーストリート91番地の建物外壁には、 ジョージ・ダンス(子)がここに住んでいたことを示す ブループラークが架けられている |
1805年から1813年にかけて、英国の建築家であるジョージ・ダンス(子)(George Dance the Younger:1741年ー1825年)とジェイムズ・ルイス(James Lewis:1750年ー1820年)が設計した建物が建設されるが、英国の建築家であるサー・ジョン・ソーン(Sir John Soane:1753年ー1837年)の診断によって、建物の構造的な欠陥が発見される。
イングランド銀行(Bank of England)を囲む外壁内に設置されている サー・ジョン・ソーンの像― 彼の代表作の一つがイングランド銀行であるが、 残念ながら、後に大幅に改修されてしまった |
そのため、建替えのための公開コンペが行われ、「ビッグベン(Big Ben)」の愛称で親しまれているエリザベスタワー(Elizabeth Tower)を含むウェストミンスター宮殿(Palace of Westminster)の再建等で有名な英国の建築家サー・チャールズ・バリー(Sir Charles Barry:1795年ー1860年)によって、1833年に同ビルは建て替えられる。
そして、同医師会は、1843年に名前を現在の「イングランド王立外科医師会」へと変更する。
現在も残る サー・チャールズ・バリー設計の柱廊式玄関 |
第二次世界大戦(1939年ー1945年)の1941年、ドイツ軍による爆撃により、同医師会が入居した建物にも焼夷弾がヒットして被害を蒙ったが、建物の柱廊式玄関や図書室等は、サー・チャールズ・バリーが建て替えたままの姿を現在も残している。
柱廊式玄関の上部 |
イングランド王立外科医師会の建物入口 |
同医師会の名前は「イングランド王立外科医師会」となっているが、イングランドとウェールズの外科医(歯科医を含む)が所属する職能団体で、外科的な医療を統制して、患者の治療と外科技術について最高水準を促進、前進させることを目的としている。
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