2017年3月11日土曜日

ロンドン バラード&ランズ/コーンヒル通り(Barraud & Lunds / Cornhill)

大英博物館(British Museum)内に展示されているバラード&ランズ製の懐中時計

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)の冒頭、1878年にジョン・H・ワトスンはロンドン大学(University of Londonー2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospitalー2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。

上記の懐中時計の説明

英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Barー2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospitalー2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。



こうして、ベーカーストリート221B(221B Baker Streetー2014年6月22日/6月29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。彼らが共同生活を始めて間もなく、ホームズの元にスコットランドヤードのグレッグスン警部(Inspector Gregson)から事件発生を告げる手紙が届く。ホームズに誘われたワトスンは、ホームズと一緒に、ブリクストンロード(Brixton Road)近くの現場ローリストンガーデンズ3番地(3 Lauriston Gardensー2017年3月4日付ブログで紹介済)へと向かった。ホームズ達が到着した現場には、グレッグスン警部とレストレード警部(Inspector Lestrade)が二人を待っていた。現場で死亡していたのは、立派な服装をした中年の男性だった。

地下鉄バンク駅入口から見たシティー内風景―
真正面が王立取引所(Royal Exchange)だった建物で、
三菱地所が開発したパタノスタースクエア(Paternoster Square)へ移転済。
画面右奥へ延びる通りがコーンヒル通り


「彼のポケットから何か見つかったかい?」(ホームズ)
「ここに全部あります。」と、グレッグスンは階段の一番下の段に乱雑に並べられたものを指し示しながら言った。「金の時計は、番号は97163、ロンドンのバラード製のものです。時計用の金鎖は、非常に重くて、メッキではありません。金の指輪は、フリーメイソンの図案になっています。金のピンには、ブルドッグの頭が付いていて、その目にはルビーが入っています。ロシアの鞣し革製の名刺入れで、中にはクリーブランドのイーノック・J・ドレッバー名義の名刺がありました。ワイシャツのE.J.D.と一致します。財布はなく、7ポンド13シリングの小銭だけです。ボッカチオの『デカメロン』の文庫版で、見返しにジョーゼフ・スタンガーソンという名前が書かれています。その他には、手紙が二通で、一通はE.J.ドレッバー宛で、もう一通はジョーゼフ・スタンガーソン宛です。」

コーンヒル通りを西側から東方面へ見たところ

コーンヒル通りを東側から西方面へ眺めたところ

'What did you find in his pockets?'
'We have it all here,' said Gregson, pointing to a litter of objects upon one of the bottom steps of the stairs. 'A gold watch, No. 97163 by Barraud of London. Gold Albert chain, very heavy and solid. Gold ring, with masonic device. Gold pin - bulldog's head, with rubies as eyes. Russian-leather card-case, with cards of Enoch J. Drebber of Cleveland, corresponding with the E. J. D. upon the linen. No purse, but loose money to the extent of seven pounds thirteen. Pocket edition of Boccaccio's Decameron, with name of Joseph Stangerson upon the flyleaf. Two letters - one addressed to E. J. Drebber and one to Joseph Stangerson.'

コーンヒル通りの西端

City and South London Railway の
主任技師(Chief Engineer)である
James Henry Greathead(1844年ー1896年)

ブリクストンロード近くのローリストンガーデンズ3番地で死亡していたイーノック・J・ドレッバー(Enoch J. Drebber)のポケットに入っていた金時計を製造したバラードの正式名は「バラード&ランズ(Barraud & Lunds)」で、実在の時計製造/修理業者である。

王立取引所だった建物の裏側にあるロイヤルエクスチェンジ広場

同広場内には、ロイターズ(Reuters)を設立した
Paul Julius Reuter(1816年―1899年)の像が置かれている

「バラード&ランズ」は、1750年にフランシスーガブリエル・バラード(Francis-Gabriel Barraud:1727年ー1795年)によって創業されたと言われていたが、以下の変遷が正しいようである。

1796年: ポール・フィリップ・バラード(Paul Philip Barraud)が創業 → 「バラード、コーンヒル(Barraud, Cornhill)」
1809年: ポール・フィリップ・バラードの長男フレデリック・ジョーゼフ・バラード(Frederick Joseph Barraud)が共同経営者となる → 「バラード&サン(Barraud & Son)」
1814年: ポール・フィリップ・バラードの次男ジョン・バラード(John Barraud)が共同経営者となる → 「バラーズ(Barrauds)」
1820年: ポール・フィリップ・バラードが死去
1838年: ジョン・リチャード・ランド(John Richard Lund)が共同経営者となる → 「バラーズ&ランド(Barrauds & Lund)」
1849年: フレデリック・ジョーゼフ・バラードが死去 → 「バラード&ランド(Barraud & Lund)」
1869年: ジョン・リチャード・ランドの息子であるジョン・アレキサンダー・ランド(John Alexander Lund)が共同経営者となる → 「バラード&ランズ(Barraud & Lunds)」


英国の詩人である Thomas Gray(1716年―1771年)が生誕した場所

「バラード&ランズ」が創業されたのはコーンヒル通り(Cornhill)で、ロンドンの経済活動の中心地であるシティー(City)内に位置している。地下鉄バンク駅(Bank Tube Station)から地下鉄オルドゲート駅(Aldgate Tube Station)方面へ向かって、コーンヒル通りが東に延びている。

コーンヒル通り沿いに建つ
St. Peter-Upon-Cornhill Church of England

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