2017年1月29日日曜日

ロンドン サヴォイプレイス(Savoy Place)

美術館でマルク・シャガールの絵画等を鑑賞した後、
エルキュール・ポワロとヴェラ・ロサコフ伯爵夫人がタクシーに乗って美術館を後にする場面として
サヴォイプレイスが撮影に使用されている

アガサ・クリスティー作「二重の手がかり(The Double Clue)」は、短編集「ポワロ初期の事件(Poirot's Early Cases)」(1974年)に収録されている作品である。


ある日、エルキュール・ポワロは、宝石コレクターとして非常に有名なマルカス・ハードマン(Marcus Hardman)から事件の調査依頼を受ける。マルカス・ハードマンは自宅でお茶会(ティーパーティー)を開催したが、その後、金庫がこじ開けられ、中に保管してあった宝石が盗まれていることを発見したのである。マルカス・ハードマンが開催したお茶会には、以下の4人が招待されていた。

(1)ジョンストン氏(Mr Johnston)ー南アフリカの実業家
(2)ヴェラ・ロサコフ伯爵夫人(Countess Vera Rossakoff)ーロシアからの亡命貴族
(3)バーナード・パーカー(Bernard Parker)ーマルカス・ハードマンの仕事のパートナー
(4)レディー・ランコーン(Lady Runcorn)ー中年の社交家

サヴォイプレイスに設置されている
マイケル・ファラデーのブロンズ像

マルカス・ハードマンの依頼に応じて、宝石が盗まれた現場をポワロが調べた結果、金庫を開けるのに使用されたと思われる男性用手袋と「BP」というイニシャルが刻まれたシガレットケースが残されているのを発見する。シガレットケースに刻まれたイニシャル「BP」とは、バーナード・パーカーのことを指しているのだろうか?

マイケル・ファラデーのブロンズ像アップ

ポワロの訪問を受けたバーナード・パーカーは、手袋が自分の物であることを認めるが、シガレットケースについては、自分の物ではないと強く否定する。
その後、ロサコフ伯爵夫人の訪問を受けたポワロが、その日の夜、ロシア語文法に関する本を読みふける姿をアーサー・ヘイスティングス大尉は見かける。その翌日、マルカス・ハードマン宅を訪れたポワロは、「宝石を盗んだ犯人が判明しました。」と告げる。マルカス・ハードマンの自宅金庫から宝石を盗んだ真犯人は、お茶会の招待客4人のうち、一体、誰なのか?

工学技術協会が入居している建物「サヴォイプレイス」を
東側から西へ向かって眺めたところ

英国の TV 会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「二重の手がかり」(1991年)の回では、宝石コレクターであるマルカス・ハードマンより彼の自宅から盗難された宝石の捜索依頼を受けたものの、何故か、ポワロは気乗りしない様子を見せる。そこで、アーサー・ヘイスティングス大尉とミス・フェリシティ・レモンの二人が、ポワロに代わって、マーカス・ハードマンがパーティーに招待した客の中から、宝石を盗んだ犯人を見つけ出そうと、容疑者の一人である南アフリカの実業家マーティン・ジョンストンがオフィスを構えるビルを訪ねる。一方、美術館でマルク・シャガール(Marc Chagall:1887年ー1985年)の絵画等を鑑賞したポワロとヴェラ・ロサコフ伯爵夫人は、美術館の外へ出ると、タクシーに乗って、美術館を後にする。これらの場面は、サヴォイプレイス(Savoy Place)において撮影されている。

工学技術協会が入居している建物「サヴォイプレイス」を
西側から東へ向かって見たところ

フランスに居住するサヴォイ家のピーター伯爵(Peter II, Count of Savoy:1203年ー1268年)は、姪が英国王ヘンリー3世(Henry III:1207年ー1272年 在位期間:1216年ー1272年)と結婚したことに伴い、英国に移住した。1246年、彼はヘンリー3世からリッチモンド伯爵(Earl of Richmond)に叙せられて、現在のストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)とテムズ河(River Thames)の間の土地を与えられた。1263年、彼はそこにサヴォイパレス(Savoy Palace)を建設したのである。それに因んで、この一帯にはサヴォイの名を冠した通りが多くある。

ヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ内の風景

サヴォイプレイスは、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)内にあり、地下鉄エンバンクメント駅(Embankment Tube Station)から地下鉄テンプル駅(Temple Tube Station)の前を通り、地下鉄ブラックフライアーズ駅(Blackfriars Tube Station)へ向かって、テムズ河沿いに東へ延びるヴィクトリアエンバンクメント通り(Victoria Embankment)とトラファルガースクエア(Trafalgar Square)からシティー(City)へ向かって東に延びるストランド通りに南北を挟まれており、ヴィクトリアガーデンズ(Victoria Embankment Gardens)の北側に位置している。

ポワロとヴェラ・ロサコフ伯爵夫人がタクシーで
美術館を後にする場面に使用されたサヴォイプレイス

1268年にサヴォイ家のピーター伯爵が死去した後、サヴォイプレイスは病院、牢獄、そして、英国陸軍の兵舎等、様々な変遷を辿る。

サヴォイプレイスを飾る植栽

現在、サヴォイプレイスの一番東側には、通り名と同じ「サヴォイプレイス」という建物が建っており、1909年以降、工学技術協会(Institution of Engineering and Technology : IET)の本部が入居している。また、建物の前には、アイルランド人の彫刻家ジョン・ヘンリー・フォリー(John Henry Foley:1818年ー1874年)が制作した英国の化学者/物理学者で、電磁気学や電気化学の分野での貢献で有名なマイケル・ファラデー(Michael Faraday:1791年ー1867年)のブロンズ像が設置されている。

サヴォイプレイス側に面したサヴォイホテルの入口

また、サヴォイプレイスの中間辺りには、サヴォイホテル(Savoy Hotel)が建っているが、詳細については、2016年6月12日付ブログを御参照いただきたい。ちなみに、サヴォイホテルは、アガサ・クリスティー作「愛国殺人(→英国での原題は「One, Two, Buckle My Shoe(いち、にい、私の靴の留め金を締めて)」であるが、日本でのタイトルは米国版「The Patriotic Murders」をベースにしている)」(1940年)において、歯科医が使用する麻酔剤の過剰投与により、アムバライオティス氏(Mr Amberiotis)が死亡しているのが発見された場所である。

南アフリカの実業家マーティン・ジョンストンが
構えるオフィスは、ニューアデルフィビル内にある
設定になっている―
アーサー・ヘイスティングス大尉と
ミス・フェリシティ・レモンの二人がここを訪れる

サヴォイプレイスの一番西側には、ニューアデルフィビル(New Adelphi Building)が建っているが、ここに南アフリカの実業家マーティン・ジョンストンがオフィスを構えている設定となっている。ITV1 で放映された「Agatha Christie's Poirot」の「盗まれたロイヤルルビー(The Theft of the Royal Ruby)」(1991年)では、ファールーク王子(Prince Farouk)が宿泊するホテルとして撮影に使用されている。こちらに関しては、2016年1月10日付ブログを御参照願いたい。

2017年1月28日土曜日

エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)

カナダで出版されたエドガー・アラン・ポー作の詩「大鴉(The Raven)」
(Ryan Price のイラスト付き)

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)は、元軍医局のジョン・H・ワトスン医学博士の回想録で、物語の幕を開ける。

1878年に、ワトスンはロンドン大学(University of Londonー2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospitalー2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。
英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Barー2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospitalー2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。
こうして、ベーカーストリート221B(221B Baker Streetー2014年6月22日/6月29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。

ロンドンの書店内に並ぶエドガー・アラン・ポーの著作と
彼関連の作品(その1)

ホームズとワトスンが共同生活を始めてしばらくした頃、ホームズはワトスンに対して、初対面にもかかわらず、何故、ワトスンがアフガニスタンから戻って来たことが判ったのか、その種明かしをする。

「種明かしをされると、とても単純なことなんだな。」と、私は笑いながら言った。「君を見ていると、エドガー・アラン・ポーの作品に登場するデュパンを連想してしまうよ。小説以外で、そんな人物が居るとは思ってもみなかったな。」
シャーロック・ホームズは(椅子から)立ち上がると、パイプに火をつけた。「君としては、僕をデュパンになぞらえることで、お世辞を言っているつもりなんどろうね。」と、彼は言った。「ところで、僕の意見を言わせてもらえば、デュパンは非常に出来の悪い人物だ。15分もの間黙っていた後、タイミングよく友人の考えに口を挟むあの悪ふざけは、非常に派手で、薄っぺらなやり方と言える。彼にある種の分析的な才能はあるが、ポーが創造しようとしていた非凡な人間では決してないね。」

'It is simple enough as you explain it,' I said, smiling. 'You remind me of Edgar Allan Poe's Dupin. I had no idea that such individuals did exist outside of stories.'
Sherlock Holmes rose and lit his pipe. 'No doubt you think that you are complimenting me in comparing me to Dupin,' he observed. 'Now, in my opinion, Dupin was a very inferior fellow. That trick of his of breaking in on his friends' thoughts with an apropos remark after a quarter of an hour's silence is really very showy and superficial. He had some analytical genius, no doubt; but he was by no means such a phenomenon as Poe appeared to imagine.'

ロンドンの書店内に並ぶエドガー・アラン・ポーの著作と
彼関連の作品(その2)

世界初の名探偵と言われるC・オーギュスト・デュパン(C. Auguste Dupin)を生み出したのは、米国の小説家/詩人で、かつ、雑誌編集者のエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe:1809年ー1849年)である。

デュパンが初登場した世界初の推理小説である「モルグ街の殺人(The Murders in the Rue Morgue)」は、ポー自身が編集主筆を務めていた「グラハムズ・マガジン(Graham's Magazine)」の1841年4月号に掲載された。「グラハムズ・マガジン」は、米国フィラデルフィア(Philadelphia)のジョージ・レックス・グラハム(George Rex Graham:1813年ー1894年)によって1841年に創刊され、ポーが初代の編集主筆を勤めたが、残念ながら、1858年に廃刊となった。
デュパンが活躍するのは、他には、以下の短編小説の2編。
(1)「マリー・ロジェの謎(The Mystery of Marie Roget)」(1842年ー1843年)
(2)「盗まれた手紙(The Purloined Letter)」(1844年)
ポーが執筆して、これら3作品に登場させたデュパンは、コナン・ドイルが半世紀後に生み出したホームズの原型となったのである。

ロンドンの書店内に並ぶエドガー・アラン・ポーの著作と
彼関連の作品(その3)

上記の3作品に加えて、エドガー・アラン・ポーは、ゴシック風の恐怖小説である「アッシャー家の崩壊(The Fall of the House of Usher)」(1839年)や「黒猫(The Black Cat)」(1843年)、暗号小説の草分けである「黄金虫(The Gold-Bug)」、そして、詩「大鴉(The Raven)」(1845年)等の作者として非常に有名である。

2017年1月21日土曜日

ロンドン ローフォードロード50番地(50 Lawford Road)

英国の作家/ジャーナリストであるジョージ・オーウェルが住んでいた
ローフォードロード50番地の建物

英国の TV 会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「二重の手がかり」(1991年)の回では、宝石コレクターであるマルカス・ハードマンより彼の自宅から盗難された宝石の捜索依頼を受けたものの、何故か、ポワロは気乗りしない様子を見せる。そこで、アーサー・ヘイスティングス大尉とミス・フェリシティ・レモンの二人が、ポワロに代わって、マーカス・ハードマンがパーティーに招待した客の中から、宝石を盗んだ犯人を見つけ出そうと、独自に捜査を開始する。一方、ポワロはパーティーの招待客の一人であるヴェラ・ロサコフ伯爵夫人と一緒に美術館でマルク・シャガール(Marc Chagall:1887年ー1985年)の絵画等を鑑賞していた。ポワロとヴェラ・ロサコフ伯爵夫人が居た美術館として、ロンドン大学(University of London)内に建つセナトハウス(Senate House)のクラッシュホール(Crush Hall)が撮影に使用されている。

第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、セナトハウスは英国の情報省(Ministry of Informations)によって使用されている。英国の作家/ジャーナリストであるジョージ・オーウェル(George Orwell:1903年ー1950年)の妻エイリーン(Eileen)が第二次世界大戦中に情報省検閲局(Censorship Department)に勤務して、セナトハウスで働いていた。彼女の勤務経験を踏まえ、「1984年(Nineteen Eighty-Four)」(1949年)において、ジョージ・オーウェルは、全体主義的近未来の「ビッグブラザー(Big Brother)」が率いる真理省(Ministry of Truth)の記録局(Records Department)を創作している。

ジョージ・オーウェル作「1984年」が上演されていた
劇場の看板(その1)

ジョージ・オーウェル作「1984年」は、1950年代に発生した第三次世界大戦(核戦争)を経た1984年の世界をその物語の舞台としている。世界は、(1)オセアニア(Oceaniaー旧アメリカ合衆国を元にして、南北アメリカ大陸、旧英国、アフリカ南部やオーストラリアを領有)、(2)ユーラシア(Eurasiaー旧ソビエト連邦を元にして、欧州大陸からロシア極東にかけての地域を領有)、そして、(3)イースタシア(Eastasiaー旧中国や旧日本を中心にして、東アジアを領有)という3つの超大国によって分割統治されていた。そして、これらの3大国は、同盟と敵対を絶えず繰り返しながら、間にある紛争地域をめぐって、戦争を行っていた。

オセアニアにおいて、ユーラシアに対峙するエアストリップ・ワン(Airstrip (緊急用滑走路) One)の最大都市であるロンドン市内にh、政府省庁が入った4つのピラミッド状の建築物が聳え建っており、主人公のウィンストン・スミス(Winston Smith)は真理省記録局に勤務する党員で、歴史記録の改竄作業を担当していた。
オセアニアは、「ビッグブラザー」が指導する党が支配する全体主義的な国家で、思想や言語等、あらゆる市民生活に対して、党の統制が加えられていた。更に、「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビに加え、市内中に仕掛けられた隠しマイクによって、屋内屋外を問わず、市民の全ての行動が監視されていたのである。

以前より、完璧な服従を強いる党の支配体制に不満を抱いていたウィンストン・スミスは、古道具屋で偶然見つけて購入したノートに自分の考えを書き留めていくという党によって禁止された行為に手を染めていく。真理省創作局に勤務し、党の方針に疑問を抱くジューリア(Julia)と知り合い、逢瀬を重ねるにつれて、ウィンストン・スミスは反革命活動へと転じて、現在「人民の敵」として指名手配を受けている伝説的な裏切り者エマニュエル・ゴールドスタイン(Emmanuel Goldstein)が指揮する反政府地下組織「兄弟同盟」に惹かれていくのであった。

ジョージ・オーウェル作「1984年」が上演されていた
劇場の看板(その2)

「1984年」を執筆したジョージ・オーウェルの本名はエリック・アーサー・ブレア(Eric Arthur Blair)で、インドの高等文官であった父リチャードと母アイダの下、英国植民地時代のインドに出生した。彼が1歳の時、母、姉や妹と一緒に英国へ帰国。
イートンカレッジ(Eton College)を出たジョージ・オーウェルは1922年に英国を離れ、インド警察の訓練所に入所した後、5年間ビルマ各地で勤務するものの、警察官として帝国主義の片棒を担ぐことが嫌になり、1927年に休暇で英国へ帰国した際、辞表を提出すると、二度とビルマへは戻らなかった。このビルマ時代の経験が、彼の最初の小説「ビルマの日々(Burmese Days)」(1934年)の基になっている。


英国に戻ったジョージ・オーウェルは、最底辺生活者のルポルタージュ作品を執筆しようと考え、1928年から1929年にかけて、皿洗いとして働きながらパリで暮らし、1930年から1931年にかけて、ロンドンとロンドン周辺を放浪する。そして、その経験をベースに、1933年、彼は最初の著作「パリ・ロンドン放浪記(Down and Out in Paris and London)」を刊行する。


その後、スペイン内戦に義憤を感じたジョージ・オーウェルは1937年1月にマルクス主義統一労働党アラゴン戦線分隊に伍長として参戦し、フランコのファシズム軍に対抗したが、同年5月、前線で咽喉部に貫通銃創を受け、危うく命を落とすところであった。そして、1938年、彼はスペイン内戦体験をベースに「カタロニア讃歌(Homage to Catalonia)」を刊行した。

ジョージ・オーウェルがここに住んでいたことを示す
ブループラーク

第二次世界大戦中、ジョージ・オーウェルは英国陸軍へ志願するも断られ、内地で軍曹として勤務する。その後、BBC に入社して、東南アジア向け宣伝番組の制作に従事する。
第二次世界大戦後の1947年に、彼は結核に罹患し、療養と「1984年」の執筆を兼ねて、父祖の地スコットランドの孤島ジュラにある荒れた農場に引き蘢る。同地は結核の治療には適した場所ではなく、1949年に彼は「1984年」を刊行するも、彼の健康状態は悪化の一途を辿るのであった。
そして、1950年、彼はロンドンにおいて46歳で死去した。

ローフォードロード50番地の建物外壁に
手前の薔薇の赤色が映える

ジョージ・オーウェルがロンドンで住んでいた家は、ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のケンティッシュタウン地区(Kentish Town)内にあるローフォードロード50番地(50 Lawford Road)である。
ケンティッシュタウン地区は、リージェンツパーク(Regent's Parkー2016年11月19日付ブログで紹介済)の北側にあるカムデンタウン地区(Camden Town)の更に北側に位置している。ケンティッシュタウン地区の西側には、ハムステッドヒース(Hampstead Heathー2015年4月25日付ブログで紹介済)やパーラメントヒル(Parliament Hill)等の広大なヒースが所在するハムステッド地区(Hampstead)がある。


ローフォードロードは、ユーストン駅(Euston Stationー2015年10月31日付ブログで紹介済)から北上するケンティッシュタウンロード(Kentish Town Road)の東側にあり、平行して走るバーソロミューロード(Bartholomew Road)とパトシャルロード(Patshull Road)に南北に挟まれている。

2017年1月15日日曜日

ロンドン ロンドン大学/セナトハウス(University of London / Senate House)

エルキュール・ポワロとヴェラ・ロサコフ伯爵夫人の二人が訪れた
美術館として、ロンドン大学のセナトハウスが撮影に使用されている

アガサ・クリスティー作「二重の手がかり(The Double Clue)」は、短編集「ポワロ初期の事件(Poirot's Early Cases)」(1974年)に収録されている作品である。


ある日、エルキュール・ポワロは、宝石コレクターとして非常に有名なマルカス・ハードマン(Marcus Hardman)から事件の調査依頼を受ける。マルカス・ハードマンは自宅でお茶会(ティーパーティー)を開催したが、その後、金庫がこじ開けられ、中に保管してあった宝石が盗まれていることを発見したのである。マルカス・ハードマンが開催したお茶会には、以下の4人が招待されていた。

(1)ジョンストン氏(Mr Johnston)ー南アフリカの実業家
(2)ヴェラ・ロサコフ伯爵夫人(Countess Vera Rossakoff)ーロシアからの亡命貴族
(3)バーナード・パーカー(Bernard Parker)ーマルカス・ハードマンの仕事のパートナー
(4)レディー・ランコーン(Lady Runcorn)ー中年の社交家

マルカス・ハードマンの依頼に応じて、宝石が盗まれた現場をポワロが調べた結果、金庫を開けるのに使用されたと思われる男性用手袋と「BP」というイニシャルが刻まれたシガレットケースが残されているのを発見する。シガレットケースに刻まれたイニシャル「BP」とは、バーナード・パーカーのことを指しているのだろうか?

ポワロの訪問を受けたバーナード・パーカーは、手袋が自分の物であることを認めるが、シガレットケースについては、自分の物ではないと強く否定する。
その後、ロサコフ伯爵夫人の訪問を受けたポワロが、その日の夜、ロシア語文法に関する本を読みふける姿をアーサー・ヘイスティングス大尉は見かける。その翌日、マルカス・ハードマン宅を訪れたポワロは、「宝石を盗んだ犯人が判明しました。」と告げる。マルカス・ハードマンの自宅金庫から宝石を盗んだ真犯人は、お茶会の招待客4人のうち、一体、誰なのか?

正面玄関に該るマレットストリート側から見たセナトハウス

英国の TV 会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「二重の手がかり」(1991年)の回では、宝石コレクターであるマルカス・ハードマンより彼の自宅から盗難された宝石の捜索依頼を受けたものの、何故か、ポワロは気乗りしない様子を見せる。そこで、アーサー・ヘイスティングス大尉とミス・フェリシティ・レモンの二人が、ポワロに代わって、マーカス・ハードマンがパーティーに招待した客の中から、宝石を盗んだ犯人を見つけ出そうと、独自に捜査を開始する。一方、ポワロはパーティーの招待客の一人であるヴェラ・ロサコフ伯爵夫人と一緒に美術館でマルク・シャガール(Marc Chagall:1887年ー1985年)の絵画等を鑑賞していた。ポワロとヴェラ・ロサコフ伯爵夫人が居た美術館として、ロンドン大学(University of London)内に建つセナトハウス(Senate House)のクラッシュホール(Crush Hall)が撮影に使用されている。

セナトハウスを含むロンドン大学は、ロンドンの中心部ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内にあり、大英博物館(British Museum)の北側に位置している。

セナトハウスの真下に設置されている大学内表示板

当時、ケンジントン地区(Kensington)をベースとしていたロンドン大学は、第一次世界大戦(1914年ー1918年)後、拡張余地を見つけることが急務であった。1921年に英国政府がロンドン大学のためにブルームズベリー地区をベッドフォード公爵(Duke of Bedford)から購入したが、ロンドン大学内の多くはケンジントン地区からブルームズベリー地区への移転には否定的だった。ところが、1926年に英国の経済学者のウィリアム・ヘンリー・ベヴァリッジ(William Henry Beveriege:1879年ー1963年)が副学長(Vice President)に選出されたことにより、大きな転機をを迎えた。彼が大学の移転を支持したため、ブルームズベリー地区への移転へと大きく舵がきられることとなった。英国では、学長(President)は名誉職なので、副学長が事実上の学長の役割を果たしている。なお、ウィリアム・ヘンリー・ベヴァリッジは、1946年に初代ベヴァリッジ男爵(1st Baron of Beveriege)に叙せられている。

マレットストリートから見上げたセナトハウス

1931年に新ロンドン大学の設計責任者に任命された英国の建築家であるチャールズ・ヘンリー・ホールデン(Charles Henry Holden:1875年ー1960年)は、アールデコ様式の設計案を提示した。
1932年に建設工事が始まり、大学職員の移転の第一陣が1936年に行われた。
1936年11月28日に学長を含む大学上層部が工事の進捗状況を確認するために建設現場を視察した際、廃物を運ぶ大型金属容器が建設作業員によるミスで頭上から落下し、その時の負傷が原因で、2日後に学長が病院で亡くなるという不幸な事故が発生している。
その後、資金不足のため、チャールズ・ヘンリー・ホールデンによる当初の設計案は縮小される中、1937年にセナトハウスが竣工する。当初の設計案では、構内の南側に高層塔(=セナトハウス)を、そして、北側に低層塔の建設が計画されていたが、第二次世界大戦(1939年ー1945年)の勃発もあり、北側の低層塔が建設されることはなかった。

大学の構内(北側)からセナトハウスを望む

セナトハウスは19階建てで、高さは約64mを誇り、ブルームズベリー地区のどこからも見ることができる。同ビルの正面玄関は西側のマレットストリート(Marlet Street)に、そして、裏玄関はラッセルスクエア(Russel Square)に面している。同ビル内には、副学長のオフィスやセナトハウス図書館等が入っている。

セナトハウスは、1969年に「グレードⅡ(Grade II)」の指定を受ける。2006年の大改修を経て、同ビルは大学の施設としてだけではなく、会議場やイベント会場等としても使われるようになり、ロンドン ファッションウィーク(London Fashion Week)の会場として使用された。

大学の外(北側)からセナトハウスを望む

TV 版のポワロシリーズでは、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に流行ったアールデコ関係の建物や内装等が画面上多く使用されている。セナトハウスについても、チャールズ・ヘンリー・ホールデンによるアールデコ設計案に基づいて建設されているため、今回、美術館として使用されたのであろう。

2017年1月14日土曜日

ロンドン チャーターハウスストリート(Charterhouse Street)

City and Surburban Bank City branch が建っていたものと思われる
チャーターハウスストリート

サー・アーサー・コナン・ドイル作「赤毛組合(The Red-Headed League)」(「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」1891年8月号に掲載)の冒頭、ジョン・H・ワトスンがベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れると、彼は燃えるような赤毛の初老の男性ジェイベス・ウィルスン(Jabez Wilson)から相談を受けている最中であった。ジェイベス・ウィルスンは、ロンドンの経済活動の中心地であるシティー(City)近くにあるザクセンーコーブルクスクエア(Saxe-Coburg Squareー2016年1月1日付ブログで紹介済)において質屋(pawnbroker)を営んでおり、最近非常に奇妙な体験をしたと言うので、ホームズとワトスンの二人は彼から詳しい事情を聞くのであった。


ジェイベス・ウィルスンの話に興味を覚えたホームズは、彼が質屋で雇っているヴィンセント・スポールディング(Vincent Spaulding)のことについて質問した。彼の説明を聞いたホームズには、何か思い当たる節があるようだった。ジェイベス・ウィルスンが辞去した後、ホームズはワトスンを誘って、地下鉄でシティー近くまで行き、ジェイベス・ウィルスンが営む質屋へと向かった。ホームズは質屋のドアをノックし、応対に出て来たヴィンセント・スポールディングに道を尋ねると、その場を立ち去った。質屋の前の敷石をステッキで数回叩き、そして、ヴィンセント・スポールディングの膝の汚れを確認したホームズがワトスンに告げた内容は、「あの男(ヴィンセント・スポールディング)はロンドンで4番目に狡賢く、3番目に大胆な奴だ。」だった。ホームズとワトスンの二人が質屋の裏の大通りへ出ると、そこには、タバコ屋、新聞販売所、レストランや馬車製造会社の倉庫等の他に、銀行(City and Surburban Bank)の支店(City branch)が建ち並んでいた。

ホルボーンサーカス内に設置されている
アルバート公(Albert Prince Consort)像
画面奥からチャーターハウスストリートが始まる

セントジェイムズホール(St. James's Hallー2014年10月4日付ブログで紹介済)でサラサーテ(パブロ・マルティン・メリトン・デ・サラサーテ・イ・ナバスクエス Pablo Martin Meliton de Sarasate y Navascuez:1844年ー1908年 スペイン出身の作曲家兼ヴァイオリン奏者)の演奏会を楽しんだ後、ホームズはワトスンに「今夜仕事を手伝ってほしい。」と頼む。一旦自宅に戻ったワトスンが夜再度ベーカーストリート221Bを訪れると、そこには、ホームズの他に、スコットランドヤードのピーター・ジョーンズ(Peter Jones)とザクセンーコーブルクスクエアに支店がある銀行の頭取であるメリーウェザー氏(Mr Merryweather)が居た。ホームズは、ワトスンを含めた4人でこれからジョン・クレイ(John Clay)という犯罪者を捕まえるのだと言う。また、ピーター・ジョーンズによると、ジョン・クレイは彼が以前から追っている重罪犯とのこと。ホームズも、ジョン・クレイとは1~2度関わりを持ったことがあるらしい。ホームズ達4人は、2台の馬車に分かれて、ベーカーストリートからザクセンーコーブルクスクエアの質屋の裏側にある銀行へと向かった。

画面奥がホルボーンサーカスで、ここからシティー内に入る

それでは、ホームズ達4人が重罪犯ジョン・クレイを捕まえるべく向かった先である City and Surburban Bank の City branch は、一体どこに建っていたのであろうか?コナン・ドイルの原作上、銀行が建っていた通り名に関する具体的な記述はなく、ジェイベス・ウィルスンが営む質屋の裏の大通り沿いに建っているという説明があるのみである。

ファリンドンロードからチャーターハウスストリートを眺めたところ

2016年1月1日付ブログで紹介済の通り、ジェイベス・ウィルスンが営む質屋があったザクセンーコーブルクスクエアは実在の場所ではない。コナン・ドイルの原作上の諸条件を総合すると、ホームズとワトスンの二人が地下鉄を降りたアルダースゲート(Aldersgate)の現在の駅名である地下鉄バービカン駅(Barbican Tube Stationー2017年1月1日付ブログで紹介済)の近くにあるチャーターハウススクエア(Chaterhouse Square)がザクセンーコーブルクスクエアの最有力候補値である。


また、ホームズ達4人を乗せた2台の馬車がファリントンストリート(Farrington Street)に到達した際、ホームズは「もうすぐ近くだ。('We are close there now,')」と言っている。2017年1月7日付ブログで紹介済の通り、ファリントンストリートも実在の通りではないが、肉市場であるスミスフィールドマーケット(Smithfield Market)の西側を南北に延びるファリンドンロード(Farringdon Road)/ファリンドンストリート(Farringdon Street)が、コナン・ドイルの原作上のファリントンストリートに該当すると思われる。


つまり、ホームズ達4人は、ファリンドンロード/ファリンドンストリートからチャーターハウススクエアへと向かったことになる。そう考えると、ファリンドンロード/ファリンドンストリートとチャーターハウススクエアを繫ぐチャーターハウスストリート(Charterhouse Street)沿いに、City and Surburban Bank の City branch は建っていたものと考えられる。


チャーターハウススクエアは四角形に近い広場で、同スクエアの北側と東側には、裏通りに該る通りが近接しておらず、ジョン・クレイがジェイベス・ウィルスンの質屋から銀行までのトンネルを掘るには、かなり至難の技である。また、地下鉄アルダースゲート駅(現在の地下鉄バービカン駅)からザクセンーコーブルクスクエア(最有力候補地:チャーターハウススクエア)経由、サラサーテの演奏会が行われるセントジェイムズホールがあるピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)へ向かおうとしていたホームズにとって、銀行がチャーターハウススクエアの北側、もしくは、東側の裏通り沿いに建っていたとすると、地理関係的には、ピカデリーサーカスから逆に遠ざかることになってしまう。

肉市場であるスミスフィールドマーケット

チャーターハウススクエアの南側には、ロングレーン(Long Lane)と呼ばれる裏通りは存在するものの、チャーターハウススクエアとロングレーンの間には、地下鉄バービカン駅と地下鉄ファリンドン駅(Farringdon Tube Station)を結ぶ線路が横たわっており、ジョン・クレイがジェイベス・ウィルスンの質屋から銀行までのトンネルを掘ることは不可能である。

スミスフィールドマーケットを過ぎた後、
チャーターハウスストリートの北側から南側を眺めたところ

チャーターハウススクエアの西側の場合、スミスフィールドマーケットの北側を走るチャーターハウスストリートが二つに分かれて、チャーターハウススクエアに合流している。この二つに分かれたチャーターハウスストリートとチャーターハウススクエアに囲まれた一角があり、チャーターハウススクエアに面した側にジェイベス・ウィルスンが営む質屋が建っていて、その裏側、即ち、チャーターハウスストリートに面している側に City and Surburban Bank の City branch が建っていたと考えると、一番説明がつきやすい。

チャーターハウスストリートを
チャーターハウススクエアに向かって進む

なお、チャーターハウスストリートは、シティーの北側境界線上にあり、ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)とロンドン・イズリントン区(London Borough of Islington)に接している。

チャーターハウススクエア内―
画面奥に見えるのが、チャーターハウス

チャーターハウスストリートの西側はホルボーンサーカス(Holborn Circus)から始まるが、この辺りはロンドン・カムデン区に属している。チャーターハウスストリートは、ロンドン・イズリントン区とロンドン・カムデン区を東西に分るファリンドンロードを横切って、シティー内に入る。そして、スミスフィールドマーケットの北側を通過して、チャーターハウススクエアへと至るのである。

ITV1 で放映された「Agatha Christie's Poirot」において、
エルキュール・ポワロが住むフラットとして撮影に使用されたフローリンコート
(Florin Court―2014年6月29日付ブログで紹介済)がチャーターハウススクエア内にある

チャーターハウスストリートの北側には、ロンドン港湾局(Port of London Authority)の旧本社が建っているが、詳しくは、2016年6月19日付ブログを御参照いただきたい。

チャーターハウスストリート沿いに建つ
ロンドン港湾局の旧本社