東側のチェルシーエンバンクメント通り(Chelsea Embankment)から見たアルバート橋― 夜間は、LEDの電球でライトアップされている |
アガサ・クリスティー作「黄色いアイリス(Yellow Iris)」は、1939年に刊行された短編集「レガッタデーの事件(The Regatta Mystery)」に収録されている短編の一つである。
エルキュール・ポワロの元に、女性の声で危機を訴える匿名の電話がかかってくるところから、物語の幕が上がる。女性に指定されたレストラン「白鳥の園」にポワロが急いで到着したが、肝心の女性の姿がその場にはなかった。唯一黄色いアイリスが置かれたテーブルがあり、気になったポワロがそのテーブル客達に話しかけると、4年前ニューヨークのレストランで青酸カリの入った飲み物で不審な死を遂げたアイリス・ラッセル(Iris Russell)を偲んでいると言う。そのテーブルには、以下の5人の客が居た。
(1)バートン・ラッセル(Barton Russell)ーアイリスの夫
(2)ポーリン・ウェザビー(Pauline Wetheby)ーアイリスの妹
(3)アンソニー・チャペル(Anthony Chapell)ーポーリンの婚約者
(4)スティーヴン・カーター(Stephen Carter)ー外務省で極秘事項に関係している噂の男
(5)ローラ・ヴァルデス(Lola Valdez)ーダンサー
皆、アイリスが衆人の面前で自殺をする理由で思い当たらないと、ポワロに告げる。ポワロがテーブル客達の話を聞いている間に、4年前と全く同じ状況下、ポーリンが青酸カリの入った飲み物を飲んで、アイリスと同様に、不審な死を遂げたのである。
ポワロの面前で発生した謎の不審死!果たして、4年前、そして、今回の事件は単なる自殺なのか?それとも、殺人なのか?ポワロの灰色の脳細胞が動き出すのであった。
オークリーストリート(Oakley Street)と チェルシーエンバンクメント通りが交差した角から アルバート橋を見たところ(その1) |
英国のTV会社ITV1で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「黄色いアイリス」(1993年)の回では、ロンドンのジャーミンストリート(Jermyn Streetー2016年7月24日付ブログで紹介済)に開店したレストラン「白鳥の園(Le Jardin des Cygnes)」において、2年前のアイリス・ラッセルに続いて、彼女の妹ポーリン・ウェザビーまでが青酸カリの入った飲み物で殺害されるのを未然に防いだポワロであったが、生憎と、そのために夕食を食べそこなってしまう。お腹をすかせたポワロを見かねたアーサー・ヘイスティングス大尉は彼をまだ営業している店へと連れて行く。物語のエンディングで、フィッシュ&チップスを食するポワロとヘイスティングス大尉の場面があるが、物語の前半、「英国には、美味しい食べ物はない。」とヘイスティングス大尉に文句行っていたポワロが、フィッシュ&チップスを美味しそうに頬張る姿が可笑しい。この場面は、バタシーパーク(Battersea Parkー2016年7月10日付ブログで紹介済)の北西の角で撮影していると思われるが、ポワロとヘイスティングス大尉の後ろには、ライトアップされたアルバート橋(Albert Bridge)が美しく輝いてる。
オークリーストリート(Oakley Street)と チェルシーエンバンクメント通りが交差した角から アルバート橋を見たところ(その2) |
アルバート橋はテムズ河(River Thames)に架かる橋で、北岸にあるケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のチェルシー地区(Chelsea)と南岸にあるロンドン・ワンズワース区(London Borough of Wandsworth)のバタシー地区(Battersea)を結んでいる。アルバート橋の上流にはバタシー橋(Battersea Bridge)が、そして、下流にはチェルシー橋(Chelsea Bridge)が架かっている。
ケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)内に設置されている アルバート公記念碑(Albert Memorial) |
18世紀後半に架けられたバタシー橋は木製のため、19世紀後半には劣化が進み、安全な通行に懸念が呈されるようになった。また、1851年に建設が開始され、1858年に竣工したヴィクトリア橋(Victoria Bridge → 後にチェルシー橋と改名)は、そのため、深刻な交通渋滞に悩まされる。そこで、ヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)を結婚した夫君アルバート公(Albert Prince Consort:1819年ー1861年)がバタシー橋とヴィクトリア橋の間に新たな橋の建設を1860年代初期に提唱した。
シティー地区(City)に近いホルボーンサーカス(Holborn Circus)内に 設置されているアルバート公像 |
アルバート公が腸チフスが原因で急逝した後の1864年、英国議会によって新たな橋の建設が承認される。そして、橋の設計者として、英国の技術者であるロウランド・メイソン・オーディッシュ(Rowland Mason Ordish:1824年ー1886年)が任命された。ちなみに、ロウランド・メイソン・オーディッシュは、ロイヤルアルバートホール(Royal Albert Hallー2016年2月20日付ブログで紹介済)、セントパンクラス駅(St. Pancras Station)やクリスタルパレス(Crystal Palace)等の建設で有名である。
紆余曲折を経て、1870年に建設工事がスタートし、表立った式典もなく、1873年8月27日に新しい橋は正式に開通を迎えた。そして、橋の建設を提唱したアルバート公に因んで、アルバート橋と名付けられた。
西側のチェルシーエンバンクメント通りから見たアルバート橋 |
アルバート橋は、建設当初から通行時の揺れが激しく、「The Trembling Lady」という愛称で呼ばれる。そのため、1884年から1887年にかけて、英国の土木技師であるサー・ジョーゼフ・ウィリアム・バゾルゲット(Sir Joseph William Bazalgette:1819年ー1891年)が橋の補強工事を行うものの、完全な補強には至らず、橋を通行する車輛に対して、5トンの重量制限が課せられることとなった。それは、更に、1935年に2トンまで下げられた。
アルバート橋は、いつも車の往来が激しい |
1957年にロンドン・カウンティー・カウンシル(London County Council)がアルバート橋の架け替えを検討したが、英国の詩人であるジョン・ベッチェマン(John Betjeman:1906年ー1984年)等による反対のため、計画が流れる。
また、1973年には、アルバート橋を歩行者専用の橋に変更する案も検討され、ジョン・ベッチェマン等の付近住民の賛同を得るものの、今度は王立自動車クラブ(Royal Automobile Club)が反対して、またも実現しなかった。
上記のように、計画が二転三転している間の1975年に、アルバート橋は「グレードⅡ(Grade II)」の指定を受け、保存対象となる。
夕闇に浮かぶライトアップされたアルバート橋 |
その後も、アルバート橋の経年劣化は進み、ケンジントン&チェルシー王立区が改修工事を計画するものの、必要な資金が集まらなかった。そして、遂に2000年2月15日から22ヶ月間にわたって、アルバート橋を閉鎖の上、約7.2百万ポンドの資金を投入して、補強を含む痔改修工事が実施され、2011年12月2日に再オープンを迎えた。その際、夜間、アルバート橋を照らす4千を超えるタングステンのハロゲン電球は、温暖化対策のため、全てLEDの電球に変更された。
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