2016年3月13日日曜日

ロンドン アルバート公記念碑(Albert Memorial)

アルバート公記念碑の全景

アガサ・クリスティー作「ひらいたトランプ(Cards on the Table)」(1936年)は、エルキュール・ポワロが謎多き裕福な蒐集家であるシャイタナ氏(Mr Shaitana)からブリッジパーティーへの招待を受けるところから、物語が始まる。「まだ告発されていない殺人犯を招いた上でのパーティーだ。」と言うシャイタナ氏の趣旨に興味を覚えたポワロは、パーティーへの参加を決める。

アルバート公記念碑を囲む柵のアップ

シャイタナ氏の自宅で行われたパーティーに招待されたのは、以下の8人だった。
(1)探偵組
*エルキュール・ポワロ
*バトル警視(Superintendent Battle)ースコットランドヤードの警察官
*レイス大佐(Colonel Race)ー秘密情報局の情報部員
*アリアドニ・オリヴァー夫人(Mrs Ariadne Oliver)ー女流推理作家
(2)容疑者組
*ロバーツ医師(Dr Roberts)ー成功をおさめた中年の医師
*ロリマー夫人(Mrs Lorrimer)ーブリッジ好きな初老の女性
*デスパード少佐(Major Despard)ー未開地を探索する探検家
*アン・メレディス(Anne Meredith)ー内気で若く麗しい女性

アルバート公記念碑を見上げたところ

食事の最中、シャイタナ氏はパーティーの出席者に対して、謎めいた告発を行う。そして、食事が済むと、容疑者組の4人はメインルーム(客間)で、また、探偵組の4人は別の部屋でブリッジを始めることとなった。シャイタナ氏はメインルームの暖炉の側に置かれた椅子を自分の居場所として、ブリッジへの参加を辞退する。
ブリッジが終わり、ポワロとレイス大佐がシャイタナ氏に暇を告げようとした際、彼らはシャイタナ氏が彼の蒐集品であるナイフで胸を刺されて死んでいるのを発見する。
果たして、シャイタナ氏が謎めいた告発をした対象の人物は誰だったのか?そして、その人物がシャイタナ氏を刺殺したのだろうか?
名探偵、警察官や情報部員等が同席しているパーティーの最中、大胆にも行われた犯行を解き明かすべく、ポワロの灰色の脳細胞が、ブリッジの点数表の内容にその糸口を見いだすのであった。

金色に輝くアルバート公像

英国のTV会社ITV1で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「ひらいたトランプ」(2006年)の回では、シャイタナ氏が住むピーコックハウス(Peacock House→外観はデベナムハウス<2016年2月21日付ブログ御参照>が、そして、内部はレイトンハウス博物館<2016年3月5日付ブログ御参照>が、撮影に使用されている)で、彼が刺し殺された翌朝、探偵役であるポワロ、アリアドニ・オリヴァー夫人、ジム・ウィラー警視(Superintendent Jim Wheelerーアガサ・クリスティーの原作では、バトル警視)とヒューズ大佐(Colonel Hughesーアガサ・クリスティーの原作では、レイス大佐)の4人が歩く場面の背景として、アルバート公記念碑(Albert Memorial)が使用されている。

横から見たアルバート公像

世界最大で最強の国を誇った大英帝国の黄金期を築いたヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)を支えた夫君がアルバート公(Albert Prince Consort:1819年ー1861年)で、アルバート公記念碑は彼の業績を記念する像である。
アルバート公は、元々、ドイツ出身だたこともあって、1840年にヴィクトリア女王と結婚した以降も、英国民になかなか受け入れられなかったが、1851年に彼が世界で最初の万国博覧会(Great Exhibition)であるロンドン万博を大成功に導いたことにより、やっと英国民に受け入れられることとなった。

ケンジントンロードを挟んで
反対側に建つロイヤルアルバートホール

大成功をおさめたロンドン万博の余剰金を使って、後に、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のブロンプトン地区(Brompton)には、アルバート公の名を冠したヴィクトリア&アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)やロイヤルアルバートホール(Royal Albert Hall)が建設された。

アルバート公像の四方に設置されている「農業」像
アルバート公像の四方に設置されている「商業」像

1861年12月14日、アルバート公が42歳の若さで腸チフスにより死去したため、彼の記念碑を建設する計画が1862年1月に始まり、記念碑の設計案は最終的に二つに絞り込まれて、1863年2月にヴィクトリア女王に渡された。そして、その2ヶ月後の同年4月に、ゴシック復興様式(Gothic Revival Style)をベースとする建築家サー・ジョージ・ギルバート・スコット(Sir George Gilbert Scott:1811年ー1878年)の設計案が承認された。
その後、アルバート公記念碑の建設が始まり、10年近くの歳月を要し、ヴィクトリア女王による除幕が行われたのは、1872年7月にあったが、金色に輝くアルバート公の像が設置されたのは、3年後の1875年である。
アルバート公記念碑の建設費用として、当時のお金で12万ポンドを要したと言われている。現在の貨幣価値で言うと、約1千万ポンド(約20億円)に相当するとのこと。

アルバート公像の四方に設置されている「工学/技術」像
アルバート公像の四方に設置されている「製造業」像

アルバート公記念碑は、地下鉄ナイツブリッジ駅(Knightsbridge Tube Station)から地下鉄ハイストリートケンジントン駅(High Street Kensington Tube Station)へ向かって西に延びるケンジントンロード(Kensington Road)を間に挟んで、ロイヤルアルバートホールとは反対のケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)の南端に建ち、ロイヤルアルバートホールを見守っている。

アルバート公記念碑の四隅に置かれている「アジア」像
アルバート公記念碑の四隅に置かれている「アフリカ」像

アルバート公の像の四方には、大英帝国の繁栄をモチーフにした以下の像が設置されている。
(1)農業(Agriculture)
(2)商業(Commerce)
(3)工学/技術(Engineering)
(4)製造業(Manufactures)

アルバート公記念碑の四隅に置かれている「アメリカ」像
アルバート公記念碑の四隅に置かれている「ヨーロッパ」像

また、記念碑の四隅には、大英帝国が支配した大陸をモチーフにした以下の像が置かれている。
(1)アジア(Asia)
(2)アフリカ(Africa)
(3)アメリカ(America)
(4)ヨーロッパ(Europe)

0 件のコメント:

コメントを投稿