最初の夫アーチボルド・クリスティー(Archibald Christie:1889年ー1962年)の浮気が原因で、1928年に彼と離婚したアガサ・クリスティーは、中東旅行の際に知り合った考古学者のサー・マックス・エドガー・ルシアン・マローワン(Sir Max Edgar Lucien Mallowan:1904年ー1978年)と1930年に再婚する。
当時、マックス・マローワンはブルームズベリー地区(Bloomsbury)にある大英博物館(British Museum)で考古学の研究を行っていたため、通勤の利便性を考慮して、二人は地下鉄ノッティングヒルゲート駅(Notting Hill Gate Tube Stationーセントラルライン(Central Line)一本で大英博物館の最寄駅である地下鉄トッテナムコートロード駅(Tottenham Court Road Tube Station)へ行く事が可能)近辺で住む家を捜した。そして、同年にキャンプデンストリート47/48番地(47 & 48 Campden Street)の家を購入したものの、アガサ・クリスティーはこの物件に100%満足できなかった。そのため、1934年にキャンプデンストリートの2本南にある通りのシェフィールドテラス58番地(58 Sheffield Terrace)の家を購入し、より良い物件を手に入れた。
アガサ・クリスティーとマックス・マローワンの夫妻はシェフィールドテラス58番地の家を購入したものの、そこは賃貸して、デヴォン州(Devon)のグリーンウェイハウス(Greenway House)に住んでいた。しかし、1939年に第二次世界大戦が勃発すると、グリーンウェイハウスは英国海軍省によって接収され、米軍の宿舎として使用されることになったため、彼らはデヴォン州からロンドンへ出て来ることになった。
彼らがまずフラットを借りたのは、高級地区メイフェア(Mayfair)内にあるハーフムーンストリート(Half Moon Street)であった。貴族、外科医、内科医や弁護士等が多く住む通りであったが、彼らが入ったフラットの状況はあまりにもひどく、1週間で転居することとなった。
次に、彼らがフラットを借りたのは、ハーフムーンストリートの割合と近くにあるパークプレイス(Park Place)であった。
パークプレイスは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)からハイドパーク(Hyde Park)へ向かって西に延びるピカデリー通り(Piccadilly)を間にして、メイフェア地区とは反対側に位置するセントジェイムズ地区(St. James's)内にある通りである。ピカデリー通りの南側に建つリッツ(The Ritz)ホテルから少しピカデリーサーカス方面へ戻ったところに、セントジェイムズストリート(St. James's Street)が南北に延びている。このセントジェイムズストリートをセントジェイムズパーク(St. James's Park)方面へ南に下って行くと、通りを半分程下った進行方向右手にパークプレイスがあり、奥は行き止まりとなっている。
ハーフムーンストリートにあるフラットを1週間で出た後、アガサ・クリスティーとマックス・マローワンの夫妻はこの通りに1939年の短期間だけ滞在していた。
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