2015年6月28日日曜日

ロンドン イングランド銀行(Bank of England)ーその2

スレッドニードルストリートに面した
イングランド銀行本店建物の正面

イングランド銀行の正式名称は「Governor and Company of the Bank of England」で、英国の中央銀行である。イングランド銀行の本店は、英国の経済活動の中心地であるシティー(City)内にあり、スレッドニードルストリート(Threadneedle Street)に面していることから「スレッドニードルストリートの老婦人(The Old Lady of Threadneedle Street)」と呼ばれることがある。

イングランド銀行裏手角—
手前の通りがプリンシズストリート(Princes Street)で、
左手奥の通りがロスベリー通り(Lothbury)

名誉革命(Glorious Revolution:1688年)の後、ステュアート朝のウィリアム3世(William Ⅲ:1650年ー1702年 在位:1689年ー1702年)とメアリー2世(Mary Ⅱ:1662年ー1694年 在位:1689年ー1702年)の共同統治下にあったイングランドは、神聖ローマ帝国のプファルツ選定侯の継承戦争に端を発した大同盟戦争(War of the Grand Alliance:1688年ー1697年)に参戦していた。膨張政策を採るフランス国王ルイ14世対アウグスブルグ同盟に結集した欧州諸国の戦いであった。1690年、ビーチーヘッドの海戦(Battle of Beachy Head)において、フランス艦隊に敗北を喫したイングランドは、海軍増強のため、早急に軍事費を手当てする必要があった。名誉革命間もないため、市場から軍事費を調達することは不可能に近かった。そこで、スコットランド人のウィリアム・パターソン(William Paterson:1658年ー1719年)と財務長官で、初代ハリファックス伯爵チャールズ・モンタギュー(Charles Montagu, 1st Earl of Halifax:1661年ー1715年)によって、1694年にイングランド銀行が創設され、同年7月27日にウィリアム3世とメアリー2世により認可された。

イングランド銀行裏手全景—建物が増築されていることが判る

イングランド銀行は、当初シティー内のウォルブルック(Walbrook)に創設されたが、1734年に現在地に移転し、その後、次第に敷地を拡張して、現在に至っている。
英国の古典主義を代表する建築家であるサー・ジョン・ソーン(Sir John Soane:1753年ー1837年)は、1788年にロバート・テイラー(Robert Taylor:1714年ー1788年)の後を継いで、イングランド銀行の建築家に就任し、その後、1833年まで45年間にわたり、その任を務めた。

プリンシズストリート側からロスベリー通りを望む—
右手奥にサー・ジョン・ソーンの像が見える

その後、イングランド銀行が敷地を拡張する過程で、英国の建築家ハーバート・ベーカー(Herbert Baker:1862年ー1946年)によって、サー・ジョン・ソーンが設計したオリジナル部分はほとんど失われてしまい、「シティーにおける20世紀最大の建築上の罪(the greatest architectural crime, in the City of London, of the twentieth century)」と言われている。
その代わり、イングランド銀行の裏手ではあるが、ロスベリー通り(Lothbury)に面した建物の外壁内に、サー・ジョン・ソーンの像が彼の栄誉を称えるために設置されている。

サー・ジョン・ソーン像(その1)
サー・ジョン・ソーン像(その2)

1998年に制定されたイングランド銀行法(Bank of England Act 1998)により、イングランド銀行は、現在、以下の機能を有している。
(1)イングランドとウェールズにおける通貨発行権
(2)政府の銀行+「最後の貸し手」としての銀行のの銀行
(3)外国為替と金準備の管理
(4)政府の証券(国債)の登録
(5)政府統合基金の運営
イングランド銀行は、以前、銀行業界の規制・監督権も有していたが、同法に基づき、これは金融サービス機構(FSA)に移管されている。

プリンシズストリートからロスベリー通りへの
ショートカットの外壁にある装飾(その1)
プリンシズストリートからロスベリー通りへの
ショートカットの外壁にある装飾(その2)

アガサ・クリスティー作「百万ドル債券盗難事件(The Million Dollar Bond Robbery)」をベースにして、英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」は、アガサ・クリスティーの原作に概ね沿っているが、以下のような差異や追加が行われている。
(1)TV版では、フィリップ・リッジウェイ(Philip Ridgeway)とヴァヴァソア氏(Mr Vavasour)の血縁関係(原作では、甥と伯父の関係)は特に言及されていない。また、フィリップはヴァヴァソア氏の秘書エズミー・ダルリーシュ(Esmess Dalgleish)と婚約している設定となっている上、ギャンブルにのめり込んで、借金で首がまわらない状況に陥っている。
(2)原作では、ショー氏(Mr Shaw)がロンドン&スコティッシュ銀行(London and Scottish Bank)の支店長で、ヴァヴァソア氏が副支店長であるが、TV版では、立場が逆転して、ヴァヴァソア氏の方がショー氏の上司のようになっている。
(3)TV版では、元々、ショー氏が1百万ドルの自由公債をニューヨークへ運搬する任に就く予定で、フィリップはショー氏がニューヨークへ行けなくなった場合の代替要員である。朝の通勤途上、ショー氏が謎の赤い車に轢き殺されそうになったり、オフィスで飲んだ紅茶にストリキニーネが入っていて重態になったため、運搬の任がフィリップに回ってきたという流れになっている。
(4)原作では、1百万ドルの自由公債が盗難された後に、ポワロは事件の相談を受けているが、TV版では、ポワロとヘイスティングス大尉は、フィリップの護衛と1百万ドルの自由公債の盗難防止のため、彼と一緒にニューヨーク行きの汽船に乗船している。
(5)原作では、フィリップが乗船した汽船はリヴァプール(Liverpool)発ニューヨーク行きのオリンピア(Olympia)であるが、TV版では、クイーンメアリー(RMS Queen Mary)の処女航海(サザンプトン(Southampton)発ニューヨーク行き:1936年5月27日)が舞台となっている。
(6)ストーリーの重要な部分に該るが、原作では、フィリップが乗船したオリンピアでは、隣のキャビンに、メガネをかけた中年の男性が居て、航海中一歩も外に出なかったことになっている。しかし、TV版では、フィリップの隣のキャビンには、ヘイスティングス大尉も心引かれたミランダ・ブルックス(Miranda Brooks)と呼ばれる謎の女性が滞在していた。

2015年6月27日土曜日

ロンドン パークレーン427番地(427 Park Lane)

マーブルアーチ側からパークレーンを望む

シャーロック・ホームズが、犯罪界のナポレオンと呼ばれるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)と一緒に、スイスにあるライヘンバッハの滝壺にその姿を消してから、既に3年が経過していた。サー・アーサー・コナン・ドイル作「空き家の冒険(The Empty House)」は、そこから始まるのである。
1894年の春、メイヌース伯爵(Earl of Maynooth)の次男である青年貴族ロナルド・アデア(Ronald Adair)がパークレーン427番地(427 Park Lane)の自宅で殺害された事件のニュースで、ロンドンは大騒ぎだった。


ロナルド・アデア閣下は、当時オーストラリア植民地の一つで知事をしていたメイヌース伯爵の次男であった。アデア閣下の母親は、白内障の手術を受けるために、オーストラリアから英国に帰国していて、息子のロナルドと娘のヒルダと一緒に、パークレーン427番地に住んでいた。アデア閣下は上流階級の集まりにも入っていたが、判っているところでは、敵はなく、また、特に悪癖もなかった。彼はカーステアーズのエディス・ウッドレー嬢と婚約したが、数ヶ月前に双方の合意の下、この婚約は解消された。ただし、婚約の解消によって、双方に感情的なしこりが残った形跡はなかった。彼は穏やかな気質で、かつ、落ち着いた性格だったので、上記を除くと、彼の生活は狭くて、かつ、因習的な人間関係の中にとどまっていた。1894年3月30日の午後10時から午後11時20分の間に、この悠々自適な青年貴族は、非常に奇妙で予期しない形で死を迎えたのであった。

パークレーンからハイドパークの
サウスキャリエッジドライブ(South Carriage Drive)への入口
ハイドパークコーナー寄りの
アキリーズウェイ(Achilles Way)内に設置されているオブジェ

The Honourable Ronald Adair was the second son of the Earl of Maynooth, at that time Governor of one of the Australian Colonies. Adair's mother had returned from Australia to undergo an operation for cataract, and she, her son Ronald, and her daughter Hilda were living together at 427 Park Lane. The youth moved in the best society, had, so far as was known, no enemies, and no particular vices. He had been engaged to Miss Edith Woodley, of Carstairs, but the engagement had been broken off by mutual consent some months before, and there was no sign that it had left any very profound feeling behind it. For the rest the man's life moved in a narrow and conventional circle, for his habits were quiet and his nature unemotional. Yet it was upon this easy-going young aristocrat that death came in more strange and unexpected form between the hours of ten and eleven-twenty on the night of March 30, 1894.

パークレーンの西側には、ハイドパークが広がる
ハイドパークの東側は、高級地区メイフェア—
パークレーンは、車の往来が非常に多い

パークレーン(Park Lane)はシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)内にあり、北側のマーブルアーチ(Marble Arch)と南側のハイドパークコーナー(Hyde Park Corner)を結ぶ約 1.2 Km の重要な幹線道路である。現在、真ん中に緑地帯が設けられており、左右4車線の道路がハイドパーク(Hyde Park)の東側を南北に延びている

ドーチェスターホテル
ロンドン ヒルトンホテル パークレーン
メトロポリタンホテル ロンドン

パークレーンの西側はハイドパークで、東側は高級地区メイフェア(Mayfair)で、道路沿いには、(1)ロンドン マリオットホテル パークレーン (London Marriott Hotel Park Lane)、(2)グローヴナーハウスホテル(Grosvenor House Hotel)、(3)ドーチェスターホテル(The Dorchester)、(4)ロンドン ヒルトンホテル パークレーン(London Hilton on Park Lane)、(5)メトロポリタンホテル ロンドン(Metropolitan Hotel London)やインターコンチネンタル ロンドンパークレーン(InterContinental London Park Lane)等の高級ホテルとスポーツカーのショールーム等が並んでいる。
ハイドパークが望めることから、18世紀以降、パークレーンの東側は上流階級の住居として非常に人気があった。ウェストミンスター伯爵(Duke of Westminster)の住居だったグローヴナーハウス(Grosvenor House)の跡地にグローヴナーホテルが、また、ホルフォード家(Holford family)の住居だったドーチェスターハウス(Dorchester House)の跡地にはドーチェスターホテルが建っている。

マーブルアーチ寄りの緑地帯には、
戦争に従軍した動物への慰霊碑が建てられている
近くには、赤いチューリップが咲き誇っている
動物への慰霊碑に、チューリップの赤色がうまくマッチしている
夕陽を背にした動物への慰霊碑

1960年度代にパークレーンを左右3車線に拡大した際に、区画整理が行われ、通り沿いにあった住居の大部分が撤収されたため、左右4車線となった現在、パークレーンの東側はほぼホテル街となっていて、住居のまま残っている場所は数える程しか残っていない。また、車の往来が非常に多く、ロンドンの中でも最も騒音が非常に激しい通りの一つである。

青年貴族ロナルド・アデアが住んでいた
パークレーン427番地と思われる建物(その1)
青年貴族ロナルド・アデアが住んでいた
パークレーン427番地と思われる建物(その2)

パークレーンの番地数は、ハイドパークコーナーからマーブルアーチへ向かって増えていくが、100番台前半で終わるため、青年貴族ロナルド・アデアが住んでいたパークレーン427番地は、現在の住所表記上は存在しておらず、架空の住所である。

2015年6月21日日曜日

ロンドン イングランド銀行(Bank of England)—その1

イングランド銀行の建物正面

アガサ・クリスティー作「百万ドル債券盗難事件(The Million Dollar Bond Robbery)」(1924年ー「ポワロ登場(Poirot Investigates)」に収録)は、フィリップ・リッジウェイ(Philip Ridgeway)の婚約者エズミー・ダルリーシュ(Esmee Dalgleish)がエルキュール・ポワロの元を事件の相談に訪れるところから始まる。

地下鉄バンク駅の出口手前にある踊り場—
右側へ上がると、スレッドニードルストリートやイングランド銀行へ、
左側へ上がると、プリンシズストリートやロスベリー通りへ行ける

彼女によると、フィリップは、ロンドン&スコティッシュ銀行(London and Scottish Bank)に勤務しており、同行の副支店長ヴァヴァソア氏(Mr Vavasour)の甥である。フィリップは、伯父で副支店長のヴァヴァソア氏と支店長のショー氏(Mr Shaw)の指示を受けて、米国における同行の信用枠を増額するため、1百万ドルの自由公債をニューヨークへ運搬する役目を請け負った。1百万ドルの自由公債は、フィリップの面前でカウントされ、封印された上で、特別な鍵でしか解錠できない革製の旅行鞄に入れられた。
ところが、フィリップが乗船した汽船オリンピア(Olympia)がニューヨークに着く数時間前に、鞄の中から自由公債が全て紛失していることが判明。ニューヨーク税関が船を封鎖して、船内を捜索するも、紛失した自由公債は発見できなかった。更に、紛失した自由公債は、汽船オリンピアがニューヨークに着く前に売却されていたことが、後で判ったのである。果たして、1百万ドルの自由公債はどのようにして盗難されたのか?
フィリップの婚約者エズミーの依頼を受けて、ポワロが捜査に乗り出す。


スレッドニードルストリート側に面した
地下鉄バンク駅の出口

英国TV会社ITV1が放送していたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「百万ドル債券盗難事件」(1991年)は、強い雨が降るある朝、ショー氏とヴァヴァソア氏の2人が地下鉄バンク駅(Bank Tube Station)からスレッドニードルストリート(Threadneedle Street)側に面した出口から外に出て来る場面から始まる。
強い雨の中、傘をさして、プリンシズストリート(Princes Street)をロンドン&スコティッシュ銀行へと向かう2人、そして、彼らの後をつける謎の赤い車。プリンシズストリートとロスベリー通り(Lothbury)の角にある花屋スタンドに立ち寄るヴァヴァソア氏。ヴァヴァソア氏をその場に残して、ショー氏は独りロスベリー通りを横断しようとしたその瞬間、謎の赤い車が突然加速して、ショー氏へと向かって来る。それに気付いて、ショー氏の助けに入ろうとするヴァヴァソア氏と花屋の主人。間一髪のところで、ショー氏は謎の赤い車に轢き殺されるところだった。
元々、1百万ドルの自由公債をニューヨークへ運搬する役目には、ショー氏が選ばれていたのだが、何者かがそれを妨害しようと、ショー氏をつけ狙っているようである。果たして、誰がショー氏の命を奪おうとしているのか?謎の赤い車と同じ車を保有しているフィリップ・リッジウェイが疑われるが、彼は数週間前に自分の車を既に売却したと主張するのであった。

プリンシズストリート沿いにある
イングランド銀行建物の外壁の扉装飾

ショー氏とヴァヴァソア氏が出て来た地下鉄バンク駅の出口やヴァヴァソア氏が花を買おうとして立ち寄った花屋のスタンドがあった場所は、実際には、イングランド銀行(Bank of England)の建物の一部である。


プリンシズストリート側に面した
地下鉄バンク駅の出口

地下鉄バンク駅の出口は、今現在も、TVドラマとは全く変わらないまま存在している。本当は、もう一つ、プリンシズストリート側に面した出口があり、位置関係的には、こちらの方が近いが、こちらの出口の前の歩道はかなり狭いこと、また、出口の前には横断歩道用の信号機があること等から、ドラマの撮影上難しいということで、スレッドニードルストリート側に面した出口の方が、撮影場所として選ばれたものと思われる。

プリンシズストリート側から見た
ロスベリー通りへのショートカット

TVドラマでは、画面左手のところに
花屋のスタンドが営業していた

また、ヴァヴァソア氏が立ち寄った花屋のスタンドは、プリンシズストリートからロスベリー通りへのショートカットに該る場所で営業していたが、厳密には、イングランド銀行の敷地内であり、許可なく、ここでの営業はできないはずである。もちろん、ドラマの撮影時には、イングランド銀行から事前の許可を得たものと思うものの、ドラマの場面を観ていて、ちょっと気になった。ただし、ドラマの中では、ショー氏とヴァヴァソア氏がロンドン&スコティッシュ銀行へと向かう途中に横を通った建物がイングランド銀行であるという描写は、特になかった。


右側の通りがプリンシズストリートで、
左側の通りがロスベリー通り—
ショー氏は画面左手にある横断歩道の辺りで
謎の赤い車に轢き殺されそうになった

アガサ・クリスティーの原作(ポワロは、フィリップの婚約者エズミーから、1百万ドルの自由公債盗難後に、事件捜査の依頼を受けている)とは異なり、TVシリーズでは、ポワロは、ロンドン&スコティッシュ銀行から、1百万ドルの自由公債運搬前に、事件捜査の依頼をうけており、彼は、ヘイスティングス大尉を連れて、同行を訪問している。ロンドン&スコティッシュ銀行も、ドラマの場面に出てくるが、おそらく、ロンバードストリート(Lombard Street)で撮影されたものと思われる。ただし、ロンバードストリートは、実際には、地下鉄バンク駅からショー氏とヴァヴァソア氏が向かったプリンシズストリートやロスベリー通りとは全く正反対の場所にあり、位置関係的には、整合性がとれていない。

2015年6月20日土曜日

ロンドン マウントヴァーノン通り7番地(7 Mount Vernon)

ロバート・スティーヴンソンが住んでいたマウントヴァーノン通り7番地

「宝島(Treasure Island)」(1883年)や「ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件(Strange Case of Dr Jekyll and Mr Hyde)」(1886年)等の作品で知られるロバート・ルイス・バルフォア・スティーヴンソン(Robert Louis Balfour Stevenson:1850年ー1894年)は、スコットランドのエディンバラ生まれの小説家、詩人でエッセイストである。


彼は、灯台建設を専門とする技術者である父トマス・スティーヴンソン(Thomas Stevenson)と母マーガレット・バルフォア(Margaret Balfour)の間に生まれる。祖父のロバート(Rober Stevenson)、そして、伯父/叔父のアラン(Alan Stevenson)やデイヴィッド(David Stevenson)も、父のトマスと同様に、灯台建設に従事する技術者であった。
生憎と、彼は生まれつき病弱だったため、生涯各地を転地療養することになる。ただし、これが彼の処女作である紀行文へとつながっていく。
スティーヴンソン家の流れを汲むべく、1867年11月に彼はエディンバラ大学の土木工学科に入学するが、土木工学に興味を持つことができず、後に法科に転科して、弁護士になる。彼の出生時の名前は 'Robert Lewis Balfour Stevenson' であったが、18歳の時(1868年)に、セカンドネームの「Lewis」を「Louis」に変更し、更に23歳の時(1873年)には、名前の間に入っていた Balfour を外してしまう。

「ロバート・スティーヴンソンがここに住んでいた」ことを示すプレート
—建物玄関の右の外壁に架けられている

彼の興味は、段々と旅行と著作だけに特化していく。
友人のサー・ウォルター・シンプソン(Sir Walter Simpson)と一緒に出かけたベルギーやフランスでのカヌー旅行がベースとなり、彼は処女作として紀行文「内陸の旅人(An Inland Voyage)」を1878年に発表することになる。
その前の1876年9月、彼はパリで後の妻となるファニー・ヴァン・デ・グリフト・オズボーン(Fanny Van de Grift Osbourne:1840年ー1914年)と出会う。彼女は米国のインディアナポリス出身で、当時既婚で2人の子供が居た。長女が絵画の勉強でパリに留学するため、1875年に彼女もパリに来ていたのである。夫の度重なる不貞行為に嫌気をさしていたファニー・オズボーンとロバート・スティーヴンソンは、1877年に入る頃には恋人関係になっていた。1878年8月に彼女が米国のサンフランシスコへ戻っても、当初、彼は旅行を続けていた。1年後の1879年8月に、彼は船でニューヨークへ、そして、陸路でサンフランシスコへ向かうが、これが彼の健康状態を悪化させる。一方、彼女は、夫が病気を患ったことに伴い、1879年に夫と離婚し、ロバート・スティーヴンソンの看病に努めた。そして、体調が改善したロバート・スティーヴンソンとファニー・オズボーンは1880年5月に結婚し、彼女の2人の子供を連れて英国に戻り、その後は精力的に創作に取り組んだのである。

マウントヴァーノン通り—画面左手奥に7番地の建物がある

その頃に執筆/発表したのが、「宝島」や「ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件」等であったが、彼の健康上の理由から英国各地を転々としていた。彼が「ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件」を執筆した場所は、英国南部海岸沿いのボーンマスであった。
彼は、コカインを飲んだ後、まるで別人になったかのように原稿が進んだ自分の体験に基づいて、「ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件」を執筆したのである。現在では、コカインの恐ろしい依存性が一般的に知られていて、世界中で麻薬として規制されているが、当時はコカインが有害だという情報が英国にはまだ届いておらず、強壮剤、あるいは、興奮剤としてもてはやされていたため、誰でもコカインを簡単に入手することができた。ロバート・スティーヴンソンはコカインを飲んで、最初の原稿を三日三晩で仕上げたが、妻に「人物が書けていない。」と批判されたので、その原稿を暖炉に放り込んで焼き捨ててしまった。彼はもう一度コカインを飲んで、再度三日間で書き直したのが、現在も出版されている版となっている。この「ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件」は、シャーロック・ホームズシリーズの作者で、同じスコットランド出身のサー・アーサー・コナン・ドイルにも高く評価されている。

ある日曜日の昼下がり—起伏に富むマウントヴァーノン通り

1887年に父親が死去したのを機に、彼は妻子とともに米国へ移住する。その後、出版社の依頼で取材した南太平洋の島々の環境が自分の健康に適していると考え、1890年サモア諸島のウポル島に移り住み、残りの生涯をそこで過ごした。そして、1894年12月3日、ワインを飲んでいる際、突然発作を起こして、ウポル島で44歳の生涯を終えた。原因は脳溢血とされている。

マウントヴァーノン通り(左側)と
ホーリーウォーク(Holy Walk—右側)が交差する角に、
ロバート・スティーヴンソンが住んでいた7番地がある

バート・スティーヴンソンが住んでいた家が、ハムステッド(Hampstead)内にある。ハムステッドはロンドン北部の閑静な高級住宅地で、地下鉄ノーザンライン(Northern Line)が通るハムステッド駅(Hampstead Tube Station)を中心として、何本もの通りが起伏を描いて広がるとともに、それらの通り沿いに18世紀のタウンハウスが整然と並んでいる。
ハムステッド駅の前を南北に延びるヒースストリート(Heath Street)に交差するホーリーヒル通り(Holy Hill)を上って行くと、直ぐ左手に歩行者専用道が現れる。ホーリーヒル通りを離れて、この急勾配の歩行者専用道を進むと、その突き当たりがマウントヴァーノン通り(Mount Vernon)である。マウントヴァーノン通り7番地(7 Mount Vernon)に、ロバート・スティーヴンソンは住んでいた。ホーリーヒル通りもかなり道幅が狭いが、マウントヴァーノン通りは更に狭く、車一台が通るので精一杯な位である。この辺りは、通りが非常に入り組んでいる上に、道幅が狭いため、車を含めて、付近の住民しか通らないので、ハムステッドの中でも、夜間になると寂しい位に静かである。

急勾配のホーリーウォーク
—画面奥にマウントヴァーノン通りがある

マウントヴァーノン通りを南に下って行くと、チャーチロウ(Church Row)に突き当たる。この通りは、コナン・ドイル作「サー・チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン(Sir Charles Augustus Milverton)」において、ハムステッドにある彼の屋敷に侵入すべく、ホームズとジョン・ワトスンがオックスフォードストリート(Oxford Street)から乗って来た馬車を降りた場所である。

ホーリーウォークの途中にある教会

2015年6月14日日曜日

ロンドン 地下鉄ハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Station)

地下鉄ハイドパークコーナー駅のプラットフォーム

アガサ・クリスティー作「茶色の服の男(The Man in the Brown Suit)」(1924年)に登場する主人公のアン・ベディングフェルド(Anne Beddingfeld)は、常に冒険を求める好奇心に溢れた若い女性である。
著名な考古学者である父親チャールズ・ベディングフェルド教授(Professor Charles Beddingfeld)を亡くして孤児となった彼女は、ロンドンのケンジントン地区(Kensington)にある弁護士のフレミング氏(Mr. Flemming)の家に一時身を寄せることになる。生憎と、父親がアンに87ポンドしか遺してくれなかったため、彼女は早速生活の糧を見つける必要があった。

プラットフォームの壁に設置されている駅名の表示

ある日、アンは、結果がおもわしくない採用面接から帰る途中、地下鉄のハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Station)のプラットフォームで電車を待っていた。その時、顎髭を生やした、小柄で細身の男がプラットフォームから下に誤って転落して死亡するという事件に、彼女は遭遇する。プラットフォームから転落して死亡した男が着ていたコートからは、防虫剤の臭いが漂っていた。
その場に居合わせた人達の中に、茶色の服を着た医師が居て、彼が死体を検分するが、アンは彼が医師ではないことを見抜く。また、偽者の医師が死体のポケットから抜き取ったものの、うっかりと落としていったメモを彼女は拾うことになる。そのメモには、’17.122 キルモーデンキャッスル(17.122 Kilmorden Castle)’と書かれてあった。プラットフォームから転落死した男は、L. B. カートン(L. B. Carton)という名前で、事故死として扱われてしまう。

ハイドパーク側にある地下鉄への入口

地下鉄への入口上にある地名の表示

アンはメモの内容を解読しようとするが、あまりにもデータが不足していた。ある日、彼女がロンドン汽船会社の事務所の前を通った際、「キルモーデンキャッスル」が地名ではなく、英国のサザンプトン(Southampton)から南アフリカのケープタウン(Cape Town)へと向かう汽船の名であることが判った。更に、その船は’1922年1月17日’にサザンプトンを出航することになっていた。彼女は事件の真相を探るため、汽船キルモーデンキャッスルに乗船するのであった。

地下鉄の改札口へ向かう連絡通路の壁に
架けられている行き先の表示

連絡通路の壁に描かれている
ハイドパークコーナー駅近辺の歴史的な一コマの一つ

地下鉄ハイドパークコーナー駅は、ハイドパーク(Hyde Park)の南東の角ハイドパークコーナー(Hyde Park Corner)にある駅で、ピカデリーライン(Piccadilly Line)が通っている。当駅の東隣りはグリーンパーク(Green Park)に面している地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station)で、西隣りはハロッズ(Harrods)デパートの近くにある地下鉄ナイツブリッジ駅(Knightsbridge Tube Station)である。


地上にあった改札口が入った建物には、
現在、ホテルが入居している—
外壁の赤茶色の部分が当時のままである

ホテル玄関の両側にあるのは、
地下鉄の改札口とプラットフォームを結ぶリフト用のシャフトで、
現在も、通風口として残されている—
植栽でうまく隠されている

地下鉄ハイドパークコーナー駅は1906年12月15日にオープンした。
当初は、地上にある改札口と地下のプラットフォームはリフトで結ばれる仕組みとなっていたが、プラットフォームからのエスカレーターが設置され、1932年5月23日に地下の改札口がオープンしたことに伴い、地上の改札口が入った建物は使用されなくなった。最近では、2010年6月まではピザ屋が当該建物に入居していたが、その後、大改装が行われて、現在は、ホテルのウェルスレー(The Wellesley)が入居している。その結果、ハイドパークコーナー駅は、地上に改札口等を含む関連施設を伴わない数少ない地下鉄の駅の一つとなっている。

ナイツブリッジ駅へと西方面に向かう線の
プラットフォーム

主人公のアンは、採用面接の後、ケンジントン地区のフレミング氏の家へ帰る途中で、地下鉄ハイドパークコーナー駅のプラットフォームにおいて事件に遭遇した訳で、これを実際の駅に当てはめると、ハイドパークコーナー駅からナイツブリッジ駅へと西方面に向かう線のプラットフォームが事件の舞台だと言える。