2025年7月24日木曜日

鮎川 哲也作「黒い白鳥」(The Black Swan Mystery by Tetsuya Ayukawa)- その2

英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2024年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

鮎川 哲也作「黒い白鳥」の裏表紙
(Cover design by Megan Rayner /
Image credit by Retro AdArchives + Alamy Stock Photo)


日本の推理作家である鮎川 哲也(1919年ー2022年 / 本名:中川 透(Toru Nakagawa)が、1959年7月から同年12月にかけて、岩谷書店の「宝石」誌上に連載した後、1960年2月に講談社から出版した長編推理小説で、鬼貫警部シリーズ(Inspector Onitsura)のうち、長編第3作目に該る「黒い白鳥(The Black Swan Mystery)」は、東和紡績会社(Towa Textiles Company)の


(1)常務の娘である須磨 敦子(Atsuko Suma)



(2)専務の妻である菱沼 文江(Fumie Hishinuma)


の二人は、銀座(Ginza)でショッピングを楽しんでいた。

その際、須磨 敦子は、菱沼 文江より、結婚相手として、同社の社長秘書である灰原 猛(Takeshi Haibara)を薦められて、困っていた。


そんな最中、6月2日埼玉県(Saitama Prefecture)久喜駅(Kuki Station)近くの線路沿いにおいて、八の字髭をぴんと生やした男性の射殺死体が発見された。その男性の射殺死体は、何処かで列車の屋根に載せられて、そこまで運ばれたものと考えられた。

そして、その被害者の身許が、労使抗争に揺れる東和紡績会社の社長である西ノ幡 豪輔(Gosuke Nishinohata)が判明する。


敗色濃厚な組合側の妄動か、それとも、冷遇の憂き目に遭う新興宗教の報告か囁かれる中、容疑者として、


*東和紡績会社の労働組合委員長である恋ヶ窪 義雄(Yoshio Koigakubo)

*東和紡績会社の労働組合副委員長である鳴海 秀作(Shusaku Narumi)

*沙満教の懐刀である知多 半平(Hanpei Chita)


等が浮上するも、捜査を担当する上野署の須藤部長刑事(Inspector Sudo)と関刑事(Constable Seki)の二人は、彼らを犯人と断定できるだけの決定的な動機と証拠を見出せないまま、次第に操作は膠着状態に陥る。

更に、須藤部長刑事と関刑事を嘲笑うように、第二、そして、第三の事件が発生する。


物語の中盤、膠着する捜査を警視庁の鬼貫警部と丹羽刑事(Constable Niwa)の二人が引き継ぐ。

捜査を引き継いだ鬼貫警部は、西ノ幡社長が銀行の貸し金庫に預けていた写真に注目して、一条の糸を手繰り、東京から京都、大阪、更に九州へと向かう。そして、鬼貫警部は、香椎線終着駅の町で、決定的な発見をするのであった。


物語の前半(捜査担当者:須藤部長刑事と関刑事)は、西ノ幡社長殺害の動機探し → 容疑者のアリバイ検証が繰り返され、やや散漫な印象を受けるものの、フーダニットの本格推理の様相を呈しているが、 物語の後半半(捜査担当者:鬼貫警部と丹羽刑事)になり、容疑者が次第に一人に絞られていくと、作者である鮎川哲也お得意のアリバイ崩しがメインとなる展開へシフトしていく。


2025年7月23日水曜日

旅客船ルシタニア号(RMS Lusitania)- その2

フランスの Groupe Paquet 社から2017年に出ている
アガサ・クリスティー作「秘密機関(MISTER BROWN)」の
グラフィックノベル版の本編1ページ目の1コマ(その1)
(Scenario & dessin d'Emilio Van der Zuiden /
Couleur de Fabien Alquier)-
旅客船ルシタニア号が、アイルランドの沖合いで、
ドイツ帝国海軍の U ボートに魚雷攻撃を受ける直前の場面が描かれている。


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)の長編第2作目で、かつ、は、トマス・ベレズフォード(Thomas Beresford - 愛称:トミー(Tommy))とプルーデンス・カウリー(Prudence Cowley - 愛称:タペンス(Tuppence))の記念すべきシリーズ第1作目に該る「秘密機関(The Secret Adversary)」(1922年)の物語冒頭に出てくる旅客船ルシタニア号(RMS Lusitania)は、実在の船で、英国の海運会社であるキュナードライン(Cunard Line)が所有する当時世界最大の旅客船だった。


第一次世界大戦(1914年ー1918年)が勃発すると、ルシタニア号や他の大型旅客船がドイツ海軍の標的になるのではないかと言う懸念が高まった。

そのため、ルシタニア号は、第一次世界大戦勃発後の最初の航路において、船の正体を隠して、視覚的に発見されにくくするために、全体をくすんだ灰色で塗装された。


一方で、英国海軍本部は、当初の計画通り、ルシタニア号を武装商巡洋艦への転用を検討したが、英国を含む連合国側がドイツ帝国(Imperial Germany)と他の同盟国に対して海上封鎖を実施した結果、航路への脅威がほぼ完全になくなり、ルシタニア号や他の大型旅客船は、もう安全であると考えられた。


第一次世界大戦勃発の翌年の1915年5月7日、ルシタニア号は、運命の日を迎える。

同船は、米国ニューヨーク(New York)から英国リヴァプール(Liverpool)へと向かっていた。

同船は、同年5月1日に、ニューヨークを予定時刻よりも2時間遅れで出港。これは、直近で軍事用に徴用された船舶に乗船予定だった乗客41名と船員達を、出港直前で受け入れたためだった。

その結果、ルシタニア号には、1,257名の乗客と702名の船員が乗船していた。


英国を含む連合国側がドイツ帝国と他の同盟国に対して海上封鎖を行ったことを受けて、この約3ヶ月前に、ドイツ帝国は、英国の船舶に対する潜水艦による無制限の攻撃を発表していた。


フランスの Groupe Paquet 社から2017年に出ている
アガサ・クリスティー作「秘密機関(MISTER BROWN)」の
グラフィックノベル版の本編1ページ目の1コマ(その2)
(Scenario & dessin d'Emilio Van der Zuiden /
Couleur de Fabien Alquier)-
アイルランドの沖合いで、
ドイツ帝国海軍の U ボートに魚雷攻撃を受ける
旅客船ルシタニア号が、
アイルランドの沖合いで沈没する場面が描かれている。

1915年5月7日の午後2時過ぎ、ルシタニア号は、アイルランド(Ireland)沖15㎞ の地点で、ドイツ帝国海軍(Imperial Germany Navy)の潜水艦 Uボート(U-boat)から、無警告で魚雷攻撃を受けた。

この時、潜水艦 Uボートは、ヴァルター・シュヴィーガー中尉(Kapitänleutnant Walther Schwieger)が指揮していたが、残りの燃料が少ない上に、魚雷も3発しか残っていない状況だった。更に、当初、海上は、視界も悪く、ヴァルター・シュヴィーガー中尉は、ドイツ帝国本国への帰還を考えていた。

同日の午後1時前に、潜水艦 Uボートが浮上した際、司会は大幅に良くなっており、Uボートに近づいて来る船舶(ルシタニア号)を発見して、同船に向けて、無警告で魚雷を発射。ただし、この時点において、ヴァルター・シュヴィーガー中尉は、魚雷攻撃を行った船舶がどこの国のどの船なのかについては、判っていなかった。ただ、大型の旅客船と言う認識しかなかったのである。


ヴァルター・シュヴィーガー中尉が指揮する Uボートが放った魚雷の1つが、午後2時10分に、ルシタニア号に命中した後、船内で2回目の爆発が発生して、僅か18分後の午後2時28分に、同船は沈没した。

その結果、1,198名が死亡。


上記の犠牲者の中に、128名の米国人が含まれていたため、米国の世論は、反ドイツ帝国へと大きく傾いた。

第一次世界大戦中、米国は孤立主義政策を保持していたが、ルシタニア号事件は、第一次世界大戦の参戦の直接的な原因とはならなかったものの、同政策を一転して、2年後の第一次世界大戦の参戦へと繋がる契機となったのである。


2025年7月22日火曜日

旅客船ルシタニア号(RMS Lusitania)- その1

HarperCollins Publishers 社から2008年に出ている
アガサ・クリスティー作「秘密機関」の
グラフィックノベル版の本編1ページ目の1コマ
(Adapted by Mr. Francois Riviere /
Illustrated by Mr. Frank Leclercq)-
旅客船ルシタニア号が、アイルランドの沖合いで沈没する場面が描かれている。

 アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)の長編第2作目で、かつ、は、トマス・ベレズフォード(Thomas Beresford - 愛称:トミー(Tommy))とプルーデンス・カウリー(Prudence Cowley - 愛称:タペンス(Tuppence))の記念すべきシリーズ第1作目に該る「秘密機関(The Secret Adversary)」(1922年)の物語冒頭(Prologue)は、旅客船ルシタニア号(RMS Lusitania)で始まる。

It was 2 p.m. on the afternoon of May 7th, 1915. The Lusitania had been struck by two torpedoes in succession and was sinking rapidly, while the boats were being launched with all possible speed. The women and children were being lined up awaiting their turn. Some sill clung desperately to husbands and fathers; One girl stood alone, silghtly apart from the rest. She was quite young, not more than eighteen. She did not seem afraid, and her grave steadfast eyes looked straight ahead.


1915年5月7日、午後2時。汽船ルシタニア号はドイツの潜水艦が発射した2発の魚雷を受けて、大西洋に沈みはじめた。すぐに救命ボートが下ろされ、女性と子どもたちが一列にならんだ。何人かは夫や父親にしがみついたり、しっかり抱きしめられていた。その列から少し離れたところに一人の女性が立っていた。18歳ぐらいの若い女性で、怖がっている様子はなく、落ち着いて前を見つめていた。

(嵯峨 静江訳)


旅客船ルシタニア号は、実在の船である。

なお、「RMS」は「Royal Mail Ship / Royal Mail Steamer」の略で、「英国郵便汽船」を意味する艦船接頭辞となっている。


ルシタニア号は、英国の海運会社であるキュナードライン(Cunard Line)が所有する英国船籍のオーシャンライナー(Ocean Liner)だった。

キュナードラインは、世界最大のクルーズ客船運行会社であるカーニヴァルコーポレーション(Carnival Corporation - 二元上場会社で、米国のマイアミ(Miami)と英国のロンドンに本社が所在)の傘下にあった。


ルシタニア号は、スコットランドの造船会社であるジョン・ブラウン・アンド・カンパニー(John Brown and Company)によって建造され、1906年6月7日に進水式を迎えた。

同船が建造された際、必要に応じて、武装商巡洋艦へ改造できると言う条件の下、建造費と運営費について、英国政府から補助金が支払われた。


ルシタニア号は、当時世界最大の旅客船で、就航後、定期航路に就き、旅客輸送、郵便物輸送や貨物郵送を行っていた。


HarperCollins Publishers 社から2008年に出ている
アガサ・クリスティー作「秘密機関」の
グラフィックノベル版の表紙
(Cover Design and Illustration by Ms. Nina Tara)-
ドイツ帝国軍の U ボート(U-boat)が放った魚雷2発を受けて、
沈没していく旅客船ルシタニア号が描かれている。
また、画面右下に浮かんでいる救命浮き輪には、
ルシタニア号(LUSITANIA)の名前が表記されている。

第一次世界大戦(1914年ー1918年)が勃発すると、ルシタニア号や他の大型旅客船がドイツ海軍の標的になるのではないかと言う懸念が高まった。

そのため、ルシタニア号は、第一次世界大戦勃発後の最初の航路において、船の正体を隠して、視覚的に発見されにくくするために、全体をくすんだ灰色で塗装された。


一方で、英国海軍本部は、当初の計画通り、ルシタニア号を武装商巡洋艦への転用を検討したが、英国海軍が制海権を得て、ドイツ帝国海軍(Imperial Germany Navy)を牽制できるようになると、航路への脅威がほぼ完全になくなり、ルシタニア号や他の大型旅客船は、もう安全であると考えられた。


第一次世界大戦勃発の翌年の1915年5月7日、ルシタニア号は、運命の日を迎える。

同船は、米国ニューヨーク(New York)から英国リヴァプール(Liverpool)へと向かっていた。


2025年7月21日月曜日

コナン・ドイル作「高名な依頼人」<英国 TV ドラマ版>(The Illustrious Client by Conan Doyle )- その3

ジェレミー・ブレットがシャーロック・ホームズとして主演した
英国のグラナダテレビ制作「シャーロック・ホームズの冒険」の
DVD コンプリートボックス2巻目の裏表紙 -
画面一番左の写真が、「高名な依頼人」の場面で、
手前の人物が、David Langton が演じるサー・ジェイムズ・デマリー大佐、
左奥の人物が、ジェレミー・ブレット(Jeremy Brett:1933年ー1995年)が演じる
シャーロック・ホームズで、
 右奥の人物が、エドワード・ハードウィック(Edward Hardwicke:1932年ー2011年)が演じる
ジョン・H・ワトスン。


シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、50番目に発表された作品で、英国の「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1925年2月号と同年3月号に、また、米国の「コリアーズ ウィークリー(Collier’s Weekly)」の1924年11月8日号に掲載されたサー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作「高名な依頼人(The Illustrious Client → 2025年6月18日 / 6月23日 / 6月27日 / 7月5日 / 7月7日付ブログで紹介済)」は、英国のグラナダテレビ(Granada Television Limited)が制作した「シャーロック・ホームズの冒険(The Adventures of Sherlock Holmes)」(1984年ー1994年)において、TV ドラマとして映像化された。具体的には、第5シリーズ(The Case-book of Sherlock Holmes)の第5エピソード(通算では第31話)として、英国では1991年に放映されている。

グラナダテレビが制作した英国 TV ドラマ版の場合、コナン・ドイルの原作対比、次のような差異があるので、前回に引き続き、述べたい。


(7)

<原作>

原作の場合、サー・ジェイムズ・デマリー大佐(Colonel Sir James Damery:今回の事件の表向きの依頼人)の訪問を受けたその日(1902年9月3日)の夜、ジョン・H・ワトスンは、本業の医師として急ぎの仕事があったため、その晩、シンプソンズ(Simpson’s → 2014年11月23日付ブログで紹介済)でシャーロック・ホームズと会い、彼からデマリー大佐との会見以降の経過を聞いている。


現在の「シンプソンズ」入口


ホームズとワトスンの二人がシンプソンズからベーカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)に戻ると、そこには、シンウェル・ジョンスン(Shinwell Johnson:ロンドンの裏社会に通じた情報屋で、ホームズの協力者)とキティー・ウィンター(Kitty Winter:アデルバート・グルーナー男爵(Baron Adelbert Gruner)の元愛人で、被害者)が二人を待っていた。

<英国 TV ドラマ版>

英国 TV ドラマ版の場合、原作とは異なり、ワトスンは、外出先(おそらく、本業の医師としての仕事)からベーカーストリート221B へと戻って来る。

そして、アデルバート・グルーナー男爵との直接交渉に出かけていたホームズは、少し遅れて帰って来た。その際、ホームズは、次のように述べている。


大英博物館の正面入口 -
グレイトラッセルストリートに面している。

「大英博物館(→ 2014年5月26日付ブログで紹介済)に寄っていたので、遅くなった。その上、渋滞につかまったんだ。グレイトラッセルストリート(→ 2025年7月15日付ブログで紹介済)で、乗合馬車が横転してね。二人が亡くなった。興奮した馬を鎮めなければならなかった。(I was delayed at the museum, and then the press of traffic. An omnibus overturned in Great Russell Street. Two dead, a horse had to be put down.)」



そこには、シンウェル・ジョンスンとキティー・ウィンターが二人を待っていた。


(8)

<英国 TV ドラマ版>

シンウェル・ジョンスンとキティー・ウィンターの二人がベーカーストリート221B を辞去したのと入れ違いに、ハドスン夫人(Mrs. Hudson)が、ホームズの元へ電報を持って来る。ホームズから電報を見せられたワトスンは、その内容を見て、驚く。何者からの脅迫だった。

<原作>

原作の場合、英国 TV ドラマ版のような場面はない。


(9)

<英国 TV ドラマ版>

ベーカーストリート221B を辞去したシンウェル・ジョンスンとキティー・ウィンターの後を、二人の男があとをつけている。

それに気付いたシンウェル・ジョンスンとキティー・ウィンターは走って逃げる。

二人の男に追い付かれたシンウェル・ジョンスンは、彼らに素手で対峙。シンウェル・ジョンスンは、二人を殴って、そのうちの一人を運河へ突き落とし、撃退。

<原作>

原作の場合、英国 TV ドラマ版のような場面はない。


(10)

<英国 TV ドラマ版>

アデルバート・グルーナー男爵は、キングストン(Kingston)近くのヴァーノンロッジ(Vernon Lodge)において、音楽を聴きながら、手帳(女性の写真を含む詳細が記されている)の内容を見直している。そして、彼は、手帳の最後のページに、ヴァイオレット・ド・メルヴィル(Violet de Merville:ド・メルヴィル将軍(General de Merville)の令嬢で、アデルバート・グルーナー男爵の婚約者)の写真を貼り付ける。

そこに、執事が来客を告げる。シンウェル・ジョンスンとキティー・ウィンターの後をつけていた二人の男が、アデルバート・グルーナー男爵に対して、前夜の失敗を報告する。

<原作>

原作の場合、英国 TV ドラマ版のような場面はない。


(11)

<英国 TV ドラマ版>

ホームズは、キティー・ウィンターを連れて、ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢の元を訪れるものの、残念ながら、彼女への説得は不調に終わる。

その際、キティー・ウィンターは、自分の髪をかき上げると、右の首筋と胸元をヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢に見せる。キティー・ウィンターの首筋には、酷い傷が、また、彼女の胸元には、やけただれた跡(硫酸をかけられた跡)があった。


バークリースクエアガーデンズ(Berkeley Square Gardens)の内部 -
なお、シャーロック・ホームズとキティー・ウィンターが訪ねた
ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢の住まいであるバークリースクエア104番地は架空の住所であり、
同スクエアには3桁の番地は存在していない。


<原作>

原作の場合、英国 TV ドラマ版と同様に、ホームズは、キティー・ウィンターを連れて、説得のために、ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢の元を訪れている。

ただし、英国 TV ドラマ版とは異なり、キティー・ウィンターは、自分の首筋と胸元をヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢には見せていない。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号 / 3月号に掲載された挿絵(その4)-
シャーロック・ホームズは、
彼の協力者である情報屋のシンウェル・ジョンスンから紹介されたキティー・ウィンターを伴って、
1902年9月4日の午後5時半に、
バークリースクエア104番地に住む
ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢の元を訪れた。
生憎と、
ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢の態度は頑なで、
ホームズ達の説得には、全く耳を傾けず、
ホームズの計画は不調に終わってしまった。
画面左側から、シャーロック・ホームズ、キティー・ウィンター、
そして、
ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢。
挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(Howard Keppie Elcock:1886年ー1952年)


(12)

<英国 TV ドラマ版>

ホームズは、どこかのレストランにおいて、ワトスンに合流。そして、ホームズは、ワトスンに対して、ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢への説得の結果を報告している。

<原作>

翌日(1902年9月4日)の夜、ワトスンは、ストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)のレストラン(おそらく、シンプソンズだと思われる)において、ホームズと食事をする。その際、ワトスンは、ホームズから、ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢への説得の結果報告を受けている。


(13)

<英国 TV ドラマ版>

その後、ホームズとワトスンは、レストランの前で別れる。

一人になったホームズが、ベーカーストリート221B へ戻る途中、杖を持った暴漢二人に襲われる。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号 / 3月号に掲載された挿絵(その6)-
1902年9月6日の昼の12時頃、
カフェロイヤル前のリージェントストリートの路上において、
アデルバート・グルーナー男爵が放った二人組の暴漢に襲撃される。
ホームズは、ステッキで応戦するものの、
頭部と身体に大怪我を負ってしまう。

挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(1886年ー1952年)


リージェントストリート沿いの
カフェロイヤルの入口 -
大改装のため、カフェ・ロイヤルは2008年12月に一旦閉鎖され、
約4年間の改装工事を経て、
2012年12月に5つ星ホテルとして新しく生まれ変わり、現在に至っている。


グラスハウスストリート(Glasshouse Street
→ 2025年7月10日付ブログで紹介済)に面した
カフェロイヤルの裏口

カフェロイヤル前のリージェントストリートにおいて、
シャーロック・ホームズを襲撃した
アデルバート・グルーナー男爵の手下達が逃走した先の
グラスハウスストリー


<原作>

原作の場合、英国 TV ドラマ版とは異なり、ホームズとワトスンがストランド通りのレストランで食事をした日の2肥後(1902年9月6日)の昼の12時頃、カフェロイヤル(Cafe Royal → 2014年11月30日付ブログで紹介済)の外のリージェントストリート(Regent Street)の路上において、ホームズは、ステッキを持った二人組の暴漢に襲われる。


2025年7月20日日曜日

アガサ・クリスティー作「秘密機関」<小説版>(The Secret Adversary by Agatha Christie )- その2

2015年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「秘密機関」の
ペーパーバック版の表紙
(Cover design : 
HarperCollinsPublishers Ltd. /
Agatha Christie Ltd. 2015
)


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)の長編第2作目で、かつ、は、トマス・ベレズフォード(Thomas Beresford - 愛称:トミー(Tommy))とプルーデンス・カウリー(Prudence Cowley - 愛称:タペンス(Tuppence))の記念すべきシリーズ第1作目に該る「秘密機関(The Secret Adversary)」(1922年)の場合、1915年5月7日の午後2時、大西洋(Atlantic Ocean)上から、その物語が始まる。


旅客船ルシタニア号(RMS Lusitania)は、第一次世界大戦(1914年-1918年)の最中、米国ニューヨーク(New York)から英国リヴァプール(Liverpool)へと向かっていた。

なお、ルシタニア号は、英国の海運会社であるキュナードライン(Cunard Line)が所有する当時世界最大の旅客船だった。


1915年5月7日の午後2時、旅客船ルシタニア号は、アイルランド(Ireland)沖15㎞ の地点で、ドイツ帝国海軍(Imperial Germany Navy)の潜水艦 Uボート(U-boat)から2発の魚雷攻撃を受けて、沈没の危機に瀕していたのである。

一人の若い女性が、救命ボートに乗り込む順番を待つ女性と子供の集団を、少し離れたところに立って見つめていた。不思議なことに、その女性は、現状を恐れている様子はなく、彼女の視線は、真っ直ぐ前に向けられていた。


すると、一人の男性がその若い女性の元に近付くと、まず最初に、彼女が米国国民であること、そひて、彼女が愛国者であることを確認した。

その後、その男性は、彼女に対して、「自分は、連合国側の情勢にとって、極めて重要な機密書類が入った包みを、米国から英国へと運搬する役目を担っている。現状を考慮すると、自分の代わりに、あなたにそれを英国まで運んでもらいたい。(I’m carrying papers - vitally important papers. They may make all the difference to the Allies in the war. You understand? These papers have got to be saved! They’ve more chance with you than with me. Will you take them?)」と説明する。

「何故、自分に?」と尋ねる彼女に、その男性は「救命ボートによる避難は、女性と子供が優先だからだ。(Becasue of “women nd children first.”)」と付け加えた。


更に、その男性は、「二人とも無事に生き延びることができた場合、自分は「タイムズ」誌の個人欄に広告を出す。3日以内に広告が掲載されなかった場合には、重要な機密書類が入った包みをロンドンの米国大使館へ持参して、大使に直接手渡ししてほしい。(Watch the newspapers! I’ll advertise in the personal column of The Times, beginning “Shipmate”. At the end of three days if there’s nothing - well, you’ll know I’m down and out. Then take the packet to the American Embassy, and deliver it into the Ambassador’s own hands.)」と依頼したのである。

彼女は、男性の手から重要な機密書類が入った包みを受け取ると、救命ボートに乗り込む順番を待つ女性と子供の集団に加わった。


彼女の名前は、ジェーン・フィン(Jane Finn)。


第一次世界大戦が終わり、世界が復興へと向かう中、ロンドンの地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station)のドーヴァーストリート(Dover Street)出口において、昔馴染みのトミーとタペンスは、偶然出くわした。

二人は、お互いに戦後の就職難に悩まされていた。トミーの方は、大戦中の1916年に負傷しており、一方、タペンスの方は、大戦中ずーっと、ボランティアとして、様々な形で働いていたのである。


2025年7月19日土曜日

コナン・ドイル作「高名な依頼人」<英国 TV ドラマ版>(The Illustrious Client by Conan Doyle )- その2

ジェレミー・ブレットがシャーロック・ホームズとして主演した
英国のグラナダテレビ制作「シャーロック・ホームズの冒険」の
DVD コンプリートボックス2巻目の表紙


シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、50番目に発表された作品で、英国の「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1925年2月号と同年3月号に、また、米国の「コリアーズ ウィークリー(Collier’s Weekly)」の1924年11月8日号に掲載されたサー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作「高名な依頼人(The Illustrious Client → 2025年6月18日 / 6月23日 / 6月27日 / 7月5日 / 7月7日付ブログで紹介済)」は、英国のグラナダテレビ(Granada Television Limited)が制作した「シャーロック・ホームズの冒険(The Adventures of Sherlock Holmes)」(1984年ー1994年)において、TV ドラマとして映像化された。具体的には、第5シリーズ(The Case-book of Sherlock Holmes)の第5エピソード(通算では第31話)として、英国では1991年に放映されている。


グラナダテレビが制作した英国 TV ドラマ版の場合、コナン・ドイルの原作対比、次のよな差異がある。


(1)

<英国 TV ドラマ版>

英国 TV ドラマ版の場合、物語は、イタリアとスイスの国境の山中であるスプルーゲン峠(Splugen Pass)から始まる。

アデルバート・グルーナー男爵(Baron Adelbert Gruner)の妻であるグルーナー男爵夫人(Baroness Gruner)が、山道から転落。アデルバート・グルーナー男爵は、山肌を下り、妻の元へと駆けつける。

「あれ程、気を付けるように言ったのに!」と呼び掛けるアデルバート・グルーナー男爵に対して、グルーナー男爵夫人は、「あなたが押した。」と言うと、息を引き取った。妻の死を確認したアデルバート・グルーナー男爵が顔を上げると、山道の木々の間から、羊飼いの少年と犬が二人を見ていた。

<原作>

原作の場合、シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンが、ノーサンバーランドアベニュー(Northumberland Avenue → 2015年3月28日付ブログで紹介済)のトルコ式風呂(Turkish Bath)に居るところから、物語が始まるので、英国 TV ドラマ版のような始まり方はしていない。


スプルーゲン峠における「事故」については、1902年9月3日の午後4時半に、ベーカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)を訪れたサー・ジェイムズ・デマリー大佐(Colonel Sir James Damery:今回の事件の表向きの依頼人)が、ホームズとワトスンに対して、口頭で説明している。

勿論、サー・ジェイムズ・デマリー大佐の説明を待つまでもなく、ホームズは、スプルーゲン峠における「事故」に関しては、既に知っていた。


また、スプルーゲン峠の場所であるが、英国 TV ドラマ版の場合、「イタリアとスイスの国境」と言及されているが、原作の場合、文脈からは、「プラハ(Prague)」だと考えられる。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号 / 3月号に掲載された挿絵(その1)-
1902年9月3日、トルコ風呂で寛いでいたジョン・H・ワトスンに対して、
シャーロック・ホームズは、
カールトンクラブのサー・ジェイムズ・デマリー大佐から届いた手紙を見せる。
「ある特別な件について、依頼したい。」とのことだった。
画面左側の人物が、ジョン・H・ワトスンで、
画面右側の人物が、シャーロック・ホームズ。
挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(Howard Keppie Elcock:1886年ー1952年)



ノーサンバーランドアベニューと
ノーサンバーランドストリート(Northumberland Street)が接する角に建つ
シャーロック・ホームズパブ


(2)

<英国 TV ドラマ版>

場面は、イタリアとスイスの国境の山中であるスプルーゲン峠から英国のロンドンへと移り、ホームズとワトスンの二人は、トルコ式風呂に居る。

ワトスンは、ホームズから、「今日の午後4時半に、サー・ジェイムズ・デマリー大佐がベーカーストリート221B にやって来る」ことを伝えられる。

<原作>

英国 TV ドラマ版との間に、大きな差異はない。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号 / 3月号に掲載された挿絵(その2)-
1902年9月3日の午後4時半に、ベイカーストリート221Bを訪れた
サー・ジェイムズ・デマリー大佐は、
待っていたシャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンに対して、
「ド・メルヴィル将軍の娘であるヴァイオレット・ド・メルヴィルが、
悪名高いオーストリア貴族のグルーナー男爵に騙されて、婚約してしまった。
これは、ある非常に高名な方からの依頼で、この婚約を破棄させてほしい。」と説明した。
画面左側から、シャーロック・ホームズ、ジョン・H・ワトスン、
そして、サー・ジェイムズ・デマリー大佐。
挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(1886年ー1952年)


(3)

<英国 TV ドラマ版>

午後4時半にベーカーストリート221B を訪れたサー・ジェイムズ・デマリー大佐との会話の中で、ホームズは、「アデルバート・グルーナー男爵がグルーナー男爵夫人殺害の唯一の証人である羊飼いの少年を亡き者にしたことは、間違いない。(Just as I am certain that he disposed of the only witness, that innocent shepherd boy.)」とコメントしている。

<原作>

原作の場合、このような場面はない。


(4)

<英国 TV ドラマ版>

サー・ジェイムズ・デマリー大佐が「アデルバート・グルーナー男爵は、現在、英国に滞在しています。(Baron Gruner is now in England.)」と伝えると、ホームズは、すかさず、「キングストン(Kingston)近くのヴァーノンロッジ(Vernon Lodge)に住んでいると聞いています。(Residing near Kingston, I’m informed. Vernon Lodge. A large home.)」と返答している。

<原作>

原作の場合、英国 TV ドラマ版の場合とは異なり、ホームズは、アデルバート・グルーナー男爵が現在どこに居るのかについて、事前に知っていない。

そのため、ホームズは、「アデルバート・グルーナー男爵の現住所は、どこですか?(The Baron’s present address, please?)」と尋ねたのに対して、サー・ジェイムズ・デマリー大佐は、「キングストン近くのヴァーノンロッジです。大きな屋敷です。(Vernon Lodge, near Kingston. It is a large house.)」と答えている。


(5)

<英国 TV ドラマ版>

英国 TV ドラマ版の場合、会見の最後に、ホームズは、サー・ジェイムズ・デマリー大佐に対して、本件の本当の依頼人のことを訊いている。

<原作>

原作の場合、英国 TV ドラマ版の場合とは異なり、会見の途中で、ホームズは、サー・ジェイムズ・デマリー大佐に対して、本件の本当の依頼人のことを訊いている。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号 / 3月号に掲載された挿絵(その3)-
サー・ジェイムズ・デマリー大佐からの依頼を受けた
シャーロック・ホームズは、早速、
キングストン近くのヴァーノンロッジに住む
アデルバート・グルーナー男爵のところまで、馬車で出かけた。
残念ながら、ホームズと
アデルバート・グルーナー男爵の会見は不調に終わり、
ホームズができる限り冷静に威厳を保って、いとまごいを告げた。
ホームズがドアノブに手を掛けた時、
アデルバート・グルーナー男爵は、ホームズを呼び止めると、
フランスの探偵ル・ブランの話を持ち出して、
明確な「警告」をしたのである。
画面左側の人物が、アデルバート・グルーナー男爵で、
画面右側の人物が、シャーロック・ホームズ。
挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(1886年ー1952年)


(6)

<英国 TV ドラマ版>

サー・ジェイムズ・デマリー大佐が帰った後、ホームズは、ハドスン夫人(Mrs. Hudson)に電報を依頼する。

そして、ホームズは、キングストン近くのヴァーノンロッジを訪れて、アデルバート・グルーナー男爵と直接交渉を行うものの、残念ながら、交渉は決裂。


ローストビーフが有名なシンプソンズは、
ストランド通り沿いに立っている。


<原作>

サー・ジェイムズ・デマリー大佐が帰った後、ワトスンには、本業の医師として急ぎの仕事があったため、その晩、シンプソンズ(Simpson’s → 2014年11月23日付ブログで紹介済)でホームズと会い、彼からデマリー大佐との会見以降の経過を聞いている。

つまり、ホームズが、キングストン近くのヴァーノンロッジを訪れて、アデルバート・グルーナー男爵と直接交渉を行うものの、残念ながら、交渉が決裂したことについては、英国 TV ドラマ版の場合とは異なり、ホームズから口頭で報告を受けているに過ぎない。


2025年7月18日金曜日

鮎川 哲也作「黒い白鳥」(The Black Swan Mystery by Tetsuya Ayukawa)- その1

英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2024年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

鮎川 哲也作「黒い白鳥」の表紙
(Cover design by Megan Rayner /
Image credit by Retro AdArchives + Alamy Stock Photo)


英国の出版社であるプーシキン出版(Pushkin Press)から、2024年に鮎川 哲也(Tetsuya Ayukawa)作「黒い白鳥(The Black Swan Mystery)」の英訳版が出ているので、紹介したい。


作者の鮎川 哲也(1919年ー2022年 / 本名:中川 透(Toru Nakagawa))は、日本の推理作家で、1919年2月14日に東京府巣鴨(Sugamo district of Tokyo)に出生。

彼の父親が南満州鉄道(South Manchurian Railway Co.)地質調査所の測量技師(surveyor)になった関係で、小学校3年生の時に、一家で満州大連(Dalian)に移住して、旧制中学校を卒業するまで、大連で少年時代を過ごした。

旧制中学校を卒業した後、東京の音楽関係の上級学校や拓殖大学商学部へと進学するが、病のため、大連へ戻ることが多かった。

1944年、父親の定年退職に伴い、大連から東京に戻るものの、戦禍に遭ったため、九州に疎開。そして、アイルランド生まれの英国の推理作家であるフリーマン・ウィルス・クロフツ(Freeman Wills Crofts:1879年ー1957年)作「ポンスン事件(The Ponson Case)」(1921年)の影響を受けて、自分でも推理小説を書き始める。


第二次世界大戦(1939年ー1945年)/ 太平洋戦争(1941年-1945年)後、上京して、GHQ に勤務しつつ、1950年、「宝石」の長編部門(100万円の懸賞)に「ペトロフ事件」を送り、第一席に入選した結果、推理作家としてデビューしたが、出版社との関係が悪化したため、「ペトロフ事件」は出版されなかった。

当時、「宝石」の発行元である岩谷書店が経営不振にあった関係上、鮎川 哲也への賞金の支払が棚上げされた。一方で、鮎川 哲也は結核の治療費の支払に窮していたため、岩谷書店に対して、賞金の支払を頑強に請求。その結果、岩谷書店の社長の怒りを買ってしまい、鮎川 哲也は、長期間にわたって、「宝石」への執筆が叶わなかったのである。


その後、1956年に講談社が公募した「書下し長編探偵小説全集」の第13巻に、鮎川 哲也は、「黒いトランク」を応募して、当選。この時点で、彼は筆名を「中川 透」から「鮎川 哲也」へと改名。


「ペトロフ事件」と「黒いトランク」の両作品において、鬼貫警部(Inspector Onitsura)が探偵役を務め、以降、主にアリバイ崩しを主眼とした推理小説で活躍する。


「黒い白鳥」は、鮎川 哲也が1959年7月から同年12月にかけて因縁の「宝石」誌上に連載した後、1960年2月に講談社から出版した長編推理小説で、鬼貫警部シリーズのうち、長編第3作目に該る。

鮎川 哲也は、「黒い白鳥」と1959年11月に講談社から書下ろしで発表した「憎悪の化石」(鬼貫警部シリーズの長編第4作目)の2作を以って、第13回日本探偵作家クラブ賞を受賞している。


その頃、日本の推理小説界において、社会派推理小説が主流となりつつあったが、鮎川 哲也は、星影 龍三シリーズの長編第1作目「りら荘事件」(1956年9月から1957年12月にかけて、「探偵実話」に連載した後、1958年8月に、光風社から出版)や銀座三番館のバーテンを探偵役としたシリーズ(1972年ー)等、寡作ながらも、一貫して本格推理小説を執筆し続けた。


執筆以外にも、鮎川 哲也は、アンソロジーの編纂を通して、戦前の作家 / 作品を発掘するとともに、後進の育成にも力を入れた。

1988年に、東京創元社から「鮎川 哲也と十三の謎」と題してシリーズを観光して、若手作家に作品発表の場を与え、当該シリーズの第12巻として、新作「白樺荘事件」を予告していたものの、残念ながら、未完に終わった。

また、1990年に、東京創元社主催の長編推理小説新人賞として、「鮎川 哲也賞」が創設された。

更に、1993年から、光文社の「本格推理」の編集長として、新人作家の発掘に尽力。


2001年に、本格推理小説への多大な貢献が評価されて、鮎川 哲也は、第1回本格ミステリー大賞特別賞を受賞したが、翌年の2002年9月24日に、83歳で死去。

鮎川 哲也の没後、第6回日本ミステリー文学大賞が贈られている。