2018年10月18日木曜日

ロンドン ウィローロード2番地(2 Willow Road)

ハンガリーのブダペスト出身の建築家であるエルノ・ゴールドフィンガーが建てた現代建築のテラスハウス–
左側からウィローロード1番地、2番地、そして、3番地の順となっている

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage → 2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区内には、「ウィローロード2番地(2 Willow Road)」と呼ばれる現代建築のテラスハウスが建っている。

1939年の完成後、エルノ・ゴールドフィンガーは、
亡くなる1987年まで、妻のウルスラや子供達と一緒に、
真ん中のウィローロード2番地の家に住み続けた

ハンガリーのブダペスト出身の建築家で、家具のデザイナーでもあったエルノ・ゴールドフィンガー(Erno Goldfinger:1902年ー1987年)は、妻のウルスラ(Ursula)と一緒に、ブダペストからロンドンへと移住し、1934年にロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のハイゲート地区(Highgate)内にあるハイポイント(Highpoint → 2015年11月22日付ブログで紹介済)に住んだ。

ウィローロードを挟んで、
ウィローロード1–3番地の反対側にある
ハムステッドヒース(Hampstead Heath)

エルノ・ゴールドフィンガーは、1939年にハムステッド地区内のウィローロード(Willow Road)沿いの土地を再開発して、コンクリートと赤煉瓦でウィローロード1番地から3番地で成る隣接したテラスハウスを建設した。彼の再開発により、以前建っていた多くの家屋が取り壊される関係上、近隣の住民は、彼に対して強く反対した。当時、彼に異を唱えた住民の中には、英国のスパイ小説家 / 冒険小説家出あるイアン・ランカスター・フレミング(Ian Lancaster Fleming:1908年ー1964年→2018年2月3日 / 2月10日付ブログで紹介済)が居て、このことが要因となり、彼が発表したジェイムズ・ボンド(James Bond → 2018年1月28日付ブログで紹介済)シリーズに登場する悪人として、エルノ・ゴールドフィンガーに因み、オーリック・ゴールドフィンガー(Auric Goldfinger)と名付けられたと一般に言われている。

ウィローロード1–3番地の家の前を通るのが、
ウィローロード

ウィローロード1番地から3番地のテラスハウスのうち、真ん中の一番広い2番地について、エルノ・ゴールドフィンガーは自分達が住むための家として設計しており、1939年に竣工した後、1987年に亡くなるまでの間、妻のウルスラや子供達と一緒に、ウィローロード2番地の家に住み続けた。また、彼は、ウィローロード2番地の家の中に置く家具に関しても、自分でデザインしたのである。

真ん中のウィローロード2番地の家は、現在、
ナショナルトラストによって管理運営され、一般公開されているが、
左右の1番地と3番地の家は、個人の所有のため。
一般公開はされていない

1987年にエルノ・ゴールドフィンガーが亡くなった後、1995年からウィローロード2番地の家は、ナショナルトラスト(National Trust)によって管理運営され、一般公開されている。なお、ウィローロード2番地の両側の1番地と3番地の家は、個人の所有となっているため、一般公開されていない。

2018年10月14日日曜日

ロンドン キーツハウス(Keats House)- その2


1818年に、英国のロマン主義の詩人であるジョン・キーツ(John Keats:1795年ー1821年)は、友人のチャールズ・アーミテージ・ブラウン(Charles Armitage Brown)と一緒に、スコットランドを旅行した際、偶然知り合った、ウェントワースプレイス(Wentworth Place→現在のキーツハウス(Keats House))の隣りの家に住むファニー・ブローン(Fanny Brawne)と知り合った。
スコットランド旅行から戻って来た後、ジョン・キーツは、チャールズ・アーミテージ・ブラウンが住むウェントワースプレイスへと移り住み、1818年12月から1820年にかけて居住した。そして、1819年には、ジョン・キーツは、ファニー・ブローンと婚約を交わしたのである。


ところが、1810年に母の命を、そして、1818年に弟トムの命を奪った結核に、ジョン・キーツも罹り、彼の病状は次第に悪化していく。そこで、医者の勧めに応じて、彼は英国の寒い気候を避け、イタリアで療養することを決め、ウェントワースプレイスを去ることになった。


ジョン・キーツは、ローマのスペイン広場近くに住まいを決めて、詩作を続けたが、残念ながら、彼の病状は好転せず、彼はファニー・ブローンとの結婚を諦める。そして、友人達の手厚い看護を受けながら、1821年2月23日、ジョン・キーツは、ロンドンから遠く離れたローマにおいて、25歳という若さで死去し、ローマの新教徒墓地に葬られた。


ジョン・キーツの死後、彼の妹ファニー・キーツ(Fanny Keats)が、夫と一緒に、1828年から1831年にかけて、ウェントワースプレイスに住み、兄ジョン・キーツの婚約者であったファニー・ブローンと知り合いになった。1829年にファニー・ブローンの母親が事故で亡くなり、1830年にはブローン一家はこの地を去ってしまう。


ウェントワースプレイスは、19世紀に入り、取り壊しの可能性もあったが、1925年5月9日に「キーツ メモリアル ハウス(Keats Memorial House)」として一般に公開された。
キーツハウスは、改修工事のため、2007年11月1日に一旦閉鎖され、改修工事後の2009年7月24日に再オープンして、現在に至っている。
現在、キーツハウスは、Grade I listed building に指定されている。

英国の出版社である Faber & Faber Ltd. から
2016年に出版されている
「ジョン・キーツ詩集」の表紙
(Series design by Faber /
Illustration by Angela Harding)

キーツハウスの隣りの家は、1931年7月16日に「キーツ博物館(Keats Museum)」として開館した。博物館の一部は、現在、ボランティアが運営する図書館として使用されている。

英国の出版社である Faber & Faber Ltd. から
2016年に出版されている
「ジョン・キーツ詩集」の裏表紙
(Series design by Faber /
Illustration by Angela Harding)

2018年10月13日土曜日

ロンドン セントジェイムズ教会(St. James’s Church)

ピカデリー通り(Piccadilly)側から見たセントジェイムズ教会(その1)

1666年に発生したロンドン大火(The Great Fire of London→2018年9月8日 / 9月15日 / 9月22日 / 9月29日付ブログで紹介済)により、シティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)内の8割以上が焼き払われた。その際に焼失した旧セントポール大聖堂(Old St. Paul’s Cathedral)を現在のセントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral→2018年8月18日 / 8月25日 / 9月1日付ブログで紹介済)として再建したのは、英国の建築家で、天文学者や数学者としての顔も有していたサー・クリストファー・マイケル・レン(Sir Christopher Michael Wren:1632年ー1723年)である。サー・クリストファー・マイケル・レンは、シティー・オブ・ロンドン内において、セントポール大聖堂以外にも、数多くの教会の再建に努めたが、彼が設計 / 建築した教会としては珍しく、シティー・オブ・ロンドン外に位置するのが、セントジェイムズ教会(St. James’s Church)である。

ピカデリー通り(Piccadilly)側から見た
セントジェイムズ教会(その2)

セントジェイムズ教会は、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James’s)内に所在している。この地区は、以前、セントジェイムズ記念病院の一部だったが、テューダー朝第2代イングランド王であるヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年)がその跡地にセントジェイムズ宮殿(St. James’s Palace)を建設している。

ジャーミンストリート(Jermyn Street)側から見た
セントジェイムズ教会(その1)

その後、1662年に入り、初代セントアルバンス伯爵ヘンリー・ジャーミン(Henry Jermyn, 1st Earl of St. Albans:1605年ー1684年)が、セントマーティン教会の教区の一部であったセントジェイムズスクエア(St. James’s Square→2015年10月25日付ブログで紹介済)を自分の居住地として再開発する許可を取得した。初代セントアルバンス伯爵ヘンリー・ジャーミンは、セントジェイムズスクエアの北側に新たな教会を建設するため、1672年にサー・クリストファー・マイケル・レンをその建築家に任命した。

ジャーミンストリート(Jermyn Street)側から見た
セントジェイムズ教会(その2)

サー・クリストファー・マイケル・レンによる設計に基づき、セントジェイムズ教会は建設された。セントジェイムズ教会は、ポートランドストーン(Portland stone)と呼ばれる堆積岩の石灰岩と赤煉瓦で建てられており、建物の西端には四角い尖塔を伴っている。

ジャーミンストリート(Jermyn Street)側から見た
セントジェイムズ教会(その3)

竣工後、セントジェイムズ教会は、1684年7月13日、当時のロンドン司教(Bishop of London)であるヘンリー・コンプトン(Henry Compton:1632年ー1713年)によって献堂された。残念ながら、初代セントアルバンス伯爵ヘンリー・ジャーミンは、1684年1月に死去したため、この献堂に立ち会うことはできなかった。そして、1685年には、セントジェイムズ教会用の教区が新たに創設された。

ジャーミンストリート(Jermyn Street)側から見た
セントジェイムズ教会(その4)

セントジェイムズ教会は、シティー・オブ・ロンドン外に位置していることに加えて、1666年のロンドン大火後に建設されているため、当然のことながら、ロンドン大火による被害は蒙っていないものの、第二次世界大戦(Second World War:1939年ー1945年)中の1940年、ドイツ軍によるロンドン大空襲により、大きな被害を受けた。その後、サー・アルバート・エドワード・リチャードソン(Sir Albert Edward Richardson:1880年ー1964年)の設計に基づき、修復された。

セントジェイムズ教会前の広場に設置された
クリスマスツリー

セントジェイムズ教会は、ロンドン中心部に位置する国際的なコンサート会場としても有名で、ランチタイムの無料リサイタル(週3回)やイーブニングコンサート(平日と土曜日の夜)が開催されている。
また、セントジェイムズ教会前の広場では、「ピカデリーマーケット(The Piccadilly Market)」が、1981年から週6日間(月曜日ー土曜日)開催されている。
月曜日 / 火曜日: Food Market
水曜日ー土曜日: Arts and Craft Market 

2018年10月7日日曜日

ロンドン キーツハウス(Keats House)- その1

キーツハウス内の庭園から見たキーツハウスの全景(その1)

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage → 2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区内には、英国のロマン主義の詩人であるジョン・キーツ(John Keats:1795年ー1821年)が住んでいた家があり、現在、「キーツハウス(Keats House)」という博物館として一般に公開されている。

キーツハウスの入口案内版

ハムステッドヒース(Hampstead Heath → 2015年4月25日付ブログで紹介済)の南側を延びるイーストヒースロード(East Heath Road)をハムステッドヒース駅(Hampstead Heath Railway Station)へと向かって東へ下って行くと、イーストヒースロードは、右手から延びてくるダウンシャーロード(Downshire Road)と交差すると、サウスエンドロード(South End Road)へと名前を変える。ダウンシャーロードを過ぎた後、次に右手に見えるキーツグローヴ(Keats Grove)へと右折する。キーツグローヴをそのまま進み、サウスエンドロード(北側)とヒースハーストロード(Heath Hurst Road - 南側)に挟まれたキーツグローヴの左手に、キーツハウスは建っている。


キーツハウスは、1814年から1815年にかけて、ウィリアム・ウッズ(William Woods)によって建てられて、1815年11月から1816年2月の間に竣工したものと考えられている。キーツハウスが建っている通りの名前は、当初、キーツグローヴではなく、ジョンストリート(John Street)で、キーツハウス自体も、当初は、「ウェントワースプレイス(Wentworth Place)」と呼ばれていた。ウェントワースプレイスは、元々、隣りに建つ家と一対を成していた。

キーツハウス内の庭園から見たキーツハウスの全景(その2)

友人のチャールズ・アーミテージ・ブラウン(Charles Armitage Brown)がウェントワースプレイスに住んでいたこともあって、ジョン・キーツは1817年頃からこの家を訪問するようになった。

英国の出版社である Faber & Faber Ltd. から
2016年に出版されている
「ジョン・キーツ詩集」の表紙
(Series design by Faber /
Illustration by Angela Harding)

1818年、ジョン・キーツが、チャールズ・アーミテージ・ブラウンと一緒に、スコットランドを旅行した際、偶然、ウェントワースプレイスの隣りの家に住むファニー・ブローン(Fanny Brawne)と知り合った。

英国の出版社である Faber & Faber Ltd. から
2016年に出版されている
「ジョン・キーツ詩集」の裏表紙
(Series design by Faber /
Illustration by Angela Harding)

スコットランド旅行から戻って来た後、ジョン・キーツは、チャールズ・アーミテージ・ブラウンが住むウェントワースプレイスへと移り住み、1818年12月から1820年にかけて居住した。そして、1819年には、ジョン・キーツは、ファニー・ブローンと婚約を交わしたのである。

2018年10月6日土曜日

ロンドン ロンドン大火記念塔(Monument to the Great Fire of London)

ロンドン大火記念塔を下から見上げたところ

地下鉄モニュメント駅(Monument Tube Station)の近くに、ロンドン大火記念塔(Monument to the Great Fire of London)が建っている。

ロンドン大火が発生した
トマス・ファリナーのパン屋があったプディングレーンから
ロンドン大火記念塔を望む

1666年に発生して、旧セントポール大聖堂(Old St. Paul’s Cathedral→2018年8月18日 / 8月25日 / 9月1日付ブログで紹介済)を含むシティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)の8割以上を焼き払ったロンドン大火(The Great Fire of London→2018年9月8日 / 9月15日 / 9月22日 / 9月29日付ブログで紹介済)からの復興を記念する塔(column)の建設が、1660年の王政復古(Restoration)後の英国王であるチャールズ2世(Charles II:1630年ー1685年 在位期間:1660年ー1685年)による主導の下、1669年に英国議会により承認された。

ロンドン大火によって最初に焼き払われた
聖マーガレット教会が建っていた場所を示すプレート

当初、記念塔の建設場所として、ロンドン大火によって最初に焼き払われた聖マーガレット教会(St. Margaret’s)が建っていたフィッシュストリートヒル(Fish Street Hill)か、あるいは、ロンドン大火が発生したトマス・ファリナー(Thomas Farriner / Thomas Faryner)のパン屋があった場所が計画されていた。

ロンドン大火記念塔の台座(東側ーその1)
ロンドン大火記念塔の台座(東側ーその2)

チャールズ2世からの命を受けた英国の建築家 / 天文学者 / 数学者で、同年に王室建設局(Royal Board of Works)の建築総監(Surveyor General)に任命されていたサー・クリストファー・マイケル・レン(Sir Christopher Michael Wren:1632年ー1723年)は、英国の物理学者 / 化学者で、世界で初めてグレゴリー式望遠鏡をつくったロバート・フック(Robert Hooke:1635年ー1703年)と一緒に、記念塔の設計に取り掛かった。
1671年に彼らの設計案がシティー・オブ・ロンドンにより承認された後、フィッシュストリートヒルを建設場所として、1671年から1677年にかけて建設された。

ロンドン大火記念塔の一番上の台座には、
ロンドン大火を表す金色の炎が設置されている

ロンドン大火記念塔は、ポートランドストーン(Portland stone)と呼ばれるドーリア式の柱(Doric column)で、一番上の台座には、ロンドン大火を表す金色の炎が設置されている。
ロンドン大火の高さは61mで、記念塔が建っている場所からロンドン大火が発生したトマス・ファリナーのパン屋があったプディングレーン(Pudding Lane)の地点までの距離と同じである。

ロンドン大火記念塔の台座(西側ーその1)
ロンドン大火記念塔の台座(西側ーその2)
ロンドン大火記念塔の台座(西側ーその3)

地上から311段の螺旋階段を登りきると、上の展望台からは、シティー・オブ・ロンドン内の360度パノラマ風景を見ることができる。1788年から1842年にかけて、6名が展望台から投身自殺を遂げたため、安全上の観点から、また、自殺防止の観点から、展望台には金網が張られることになった。

ロンドン大火記念塔への入口(その1)
ロンドン大火記念塔への入口(その2)

ロンドン記念塔の台座があるモニュメントストリート(Monument Street)は、2006年に歩行者専用道路へと改修された。
また、ロンドン大火記念塔は、改修工事のため、2007年7月に一旦閉鎖され、約1年半にわたる改修工事後の2009年2月に再オープンした。
ロンドン大火記念塔は、現在、グレード I(Grade I listed building)に指定されている。

ロンドン大火記念塔の台座があるモニュメントストリートは、
現在、歩行者専用道路となっている

ロンドン大火記念塔の近くにある地下鉄モニュメント駅は、記念塔に因んで命名されている。