2018年9月30日日曜日

ロンドン エルスワーシーロード39番地(39 Elsworthy Road)

アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツによるユダヤ人迫害を逃れるため、
オーストリアのウィーンから英国へと亡命したジークムント・フロイトが
マレスフィールドガーデンズ20番地へと移る前に
一時的に住んでいたエルスワーシーロード39番地の家の正面

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage→2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区内には、オーストリアから英国へ亡命したジークムント・フロイト(Sigmund Freud:1856年ー1939年)が住んでいたエルスワーシーロード39番地(39 Elsworthy Road)の家がある。


オーストリアのウィーンにおいて、精神医学者 / 精神分析学者 / 精神科医として活動していたジークムント・フロイトは、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツによるオーストリア併合に伴うユダヤ人迫害を逃れるべく、故郷の町ウィーンを捨てて、ロンドンへ移住することを余儀なくされた。ジークムント・フロイト一家は、フランス初の女性精神分析学者であるマリー・ボナパルト(Marie Bonaparte:1882年ー1962年)の支援を受け、パリ経由で、1938年6月6日、英国へと亡命したのである。


ロンドンへやって来たジークムント・フロイトは、一時期、現在のロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のプリムローズヒル地区(Primrose Hill)内にあるエルスワーシーロード39番地の家に滞在した後、同じロンドン・カムデン区のハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるマレスフィールドガーデンズ20番地(20 Maresfield Gardens→2018年9月2日付ブログで紹介済)へと移り、翌年の1939年9月23日に癌のため死去するまで、この家に居住した。


ロンドン最大の公園であるリージェンツパーク(Regent’s Park→2016年11月19日付ブログで紹介済)の外周(北側)を通るプリンス アルバート ロード(Prince Albert Road)から地下鉄スイスコテージ駅(Swiss Cottage Tube Station)へと向かい、アベニューロード(Avenue Road)を北上して、右手に見えるエルスワーシーロード(Elsworthy Road)へと右折する。途中、エルスワーシーロードは、エルスワーシーロード(右側)とワダムガーデンズ(Wadham Gardensー左側)の二手に分かれるが、右側のエルスワーシーロードをそのまま直進し、エルスワーシーロードがワダムガーデンズと再度合流する少し手前の右手に、エルスワーシーロード39番地が建っている。


エルスワーシーロードは、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)との区界に近いロンドン・カムデン区のプリムローズヒル地区内にあり、シティー・オブ・ウェストミンスター区に属する高級住宅街であるセントジョンズウッド地区(St. John’s Wood→2014年8月17日付ブログで紹介済)に接しているため、エルスワーシーロードの辺りも、高級住宅街となっている。

エルスワーシーロード39番地の家の前に立って、
エルスワーシーロードを西側から東側へと見たところ

また、プリンス アルバート ロードを挟んで、リージェンツパークと隣り合っているプリムローズヒル(Primrose Hill)がエルスワーシーロードの南側にあるため、日中でも非常に閑静な場所で、人通りは少ない。ただ、混雑する大通りを避けるための抜け道に使う人が居て、車の往来はやや多い。

2018年9月29日土曜日

ロンドン大火(The Great Fire of London)–その4

ロンドン大火後から350年後の2016年に
英国のロイヤルメール(Royal Mail)が発行した記念切手(その5)

1666年にシティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)の8割以上を焼き払ったロンドン大火(The Great Fire of London)は、日本では「世界の三大大火」の一つとして数えられている。残りについては、諸説あるが、ローマ大火(64年)、明暦の大火(1657年)、ハンブルグ大火(1842年)、シカゴ大火(1871年)、そして、サンフランシスコ地震に伴う大火(1906年)等のうちから、2つを加えるケースが多い。

1666年の前年に該る1665年にロンドンで猛威を振るい、「The Great Plague」と呼ばれたペストの大流行は、ロンドン大火の後、何故か、ロンドンから姿を消してしまう。
一般の定説によると、ロンドン大火の炎がペスト菌を一掃(=消毒)した後、英国の建築家であるサー・クリストファー・マイケル・レン(Sir Christopher Michael Wren:1632年ー1723年)の尽力によって、ロンドン大火が焼き払った後のシティー・オブ・ロンドン内で新築される建物が全て煉瓦造り、もしくは、石造りで建てられたことが、ペスト菌の駆逐(=予防)に繋がったと言われている。
実際のところ、ロンドン大火により焼失したのは、シティー・オブ・ロンドンの中心部から西にかけての地区であるが、一方、ペストが大流行したのは、シティー・オブ・ロンドンの外側であった。シティー・オブ・ロンドンの外側には、ロンドン大火による被害が及ばず、ロンドン大火の後も、木造建築の家屋が残っていたにもかかわらず、不思議なことに、ペストは再発しなかったのである。
ロンドン以外の英国や西ヨーロッパでも、このロンドン大火を境にして、ペストの大流行は次第に発生しなくなっていくが、真の理由はいまだに解っていない。

ロンドン大火後から350年後の2016年に
英国のロイヤルメール(Royal Mail)が発行した記念切手(その6)

ロンドン大火の後、ロンドンに住む人々の恐怖を煽ったのは、外国人による陰謀説や放火説だった。ロンドン大火の前年の1665年から第二次英蘭戦争(Second Anglo-Dutch War:1665年ー1667年)が勃発しており、オランダ人による仕業とする声が多かった。また、オランダに味方するフランス人による仕業、あるいは、アイルランド人による仕業という声も上がった。それら以外にも、英国人カトリック教徒による仕業、更には、ユダヤ人による仕業という声もあったが、どの説にも有力な証拠は見つからなかった。

そんな最中、フランス人の時計職人であるロベール・ユベール(Robert Hubert:1640年ー1666年)が「自分はローマ教皇のスパイで、ウェストミンスター地区(Westminster)で放火した。」と自白して、ロンドン郊外で拘束されるという事態が発生した。その後、彼は「」プディングレーン(Pudding Lane)のパン屋に放火した。」と供述を変更し、更に二転三転した。当時、陰謀説や放火説を信じている人々が多かったこともあり、意外なスピード判決で有罪が確定した後、1666年9月28日にロベール・ユベールはタイバーン絞首場(Tyburn)で処刑されてしまう。ところが、彼の処刑後、ロンドン大火の発生当時、彼は北海(North Sea)を進む船上に居て、ロンドン大火が鎮火した2日後にロンドンに到着したことが判明する。当時の情勢として、ロンドン大火の責任を誰かに押し付けて、スケープゴートとして血祭りに上げなければ、世間の一般大衆が納得しなかったのではないかと思われる。

2018年9月23日日曜日

ロンドン ケンウッドハウス(Kenwood House)

「白亜の館」と呼ばれるケンウッドハウスの裏面(その1)

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage→2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区内には、ケンウッドハウス(Kenwood House)がある。

ケンウッドハウスの正面玄関と両脇にあるウィング

ハムステッド地区の北側に広がる丘陵であるハムステッドヒース(Hampstead Heath→2018年4月25日付ブログで紹介済)は、ヒース(Heath)と呼ばれる低木が一面に生い茂っていることから、その様に呼ばれている。丘陵のあちこちに18世紀のコテージ、ヴィクトリア朝様式の家や池が点在している。ハムステッドヒースの大部分はロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)内にあるが、1989年以降、管理はシティー・オブ・ロンドン・コーポレーション(City of London Corporation)によって行われている。

ハムステッドヒースレーン(Hampstead Lane)から
ケンウッドハウスに至るノースウッド(North Wood)の森

ハムステッドヒースの歴史は10世紀後半まで遡るが、当時は「Hempstede」と呼ばれていた。11世紀後半から12世紀前半にかけて、ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)が所有していたが、貴族等個人の所有を経て、19世紀から20世紀にかけて、ロンドン市当局が購入を徐々に進め、現在に至っている。

「白亜の館」と呼ばれるケンウッドハウスの裏面(その2)

ケンウッドハウスは、ハムステッドヒースの北端に建っている。現在は、イングリッシュヘリテージ(English Heritage)が管理する美術館となっているが、以前は貴族の館であった。

ケンウッドハウス内の図書室の天井装飾(その1)

ケンウッドハウスの歴史は17世紀前半まで遡る。
英国で著名な判事であった初代マンスフィールド伯爵ウィリアム・マレー(William Murray, 1st Earl of Mansfield:1705年ー1793年)は、仕事の拠点をスコットランドからロンドンに移したため、1754年にケンウッドハウスと周辺の土地を購入し、彼と同じスコットランド出身の建築家ロバート・アダム(Robert Adam:1728年ー1792年)にケンウッドハウスの改修を依頼した。ロバート・アダムは、1764年から1779年までの16年の歳月をかけて、ケンウッドハウスの外観および内装の改修を終えた。北側に面している正面玄関は巨大なイオニア式石柱を備えた柱廊となり、南側に面している裏面は、既に存在していた西側の温室とバランスをとるため、東側に図書室を増築した上、真っ白なファサードを備えた、まさに「白亜の館」となっている。
その後、1793年から1796年にかけて、ジョージ・ソンダース(George Saunders)が正面玄関の両脇に2つのウィングを増築している。

ケンウッドハウス内の図書室の天井装飾(その2)

20世紀に入って、新たに法制化された相続税の関係で、マンスフィールド伯爵家による維持が困難となり、ケンウッドハウスの売却を決定。そして、1925年にギネスビール社会長の初代アイヴィー伯爵エドワード・セシル・ギネス(Edward Cecil Guinness, 1st Earl of Iveagh:1847年ー1927年)が購入した。その2年後の1927年、彼が死去した際、ケンウッドハウスは、彼が購入後に展示していた絵画コレクションと一緒に、国に遺贈されて、現在に至っている。

左側の絵画がレンブラント・ハルメンス・ファン・レイン作「自画像」で、
右側の絵画がヨハネス・フェルメール作「ギターを弾く女」

現在、ケンウッドハウス内に展示されている絵画コレクションの中でも、

(1)オランダ人画家レンブラント・ハルメンス・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz Van Rijn:1606年ー1669年)晩年の「自画像(Portrait of the Artist)」
(2)オランダ人画家ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer:1632年ー1675年)の「ギターを弾く女(The Guitar Player)」
(3)英国人画家トマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)の「ハウ伯爵夫人メアリーの肖像(Mary, Countess of Howe)」

の3作品が特に有名である。

2018年9月22日土曜日

ロンドン大火(The Great Fire of London)–その3

ロンドン大火が発生したプディングレーンの近くの広場に設置されている
ロンドン大火を題材にした大理石のベンチ(その1)

ロンドン大火(The Great Fire of London)が発生した場所と最後の火が完全に鎮火した場所には、不思議な符号が存在している。


ロンドン大火が発生した場所は、シティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)のプディングレーン(Pudding Lane)にある王室御用達のパン屋であるトマス・ファリナー(Thomas Farriner / Thomas Faryner)の店で、1666年9月2日の日曜日、日付が変わったばかりの深夜の1-2時頃、彼の店から出火した。

プディングレーン沿いに建つオフィスビルの外壁に設置されているロンドン大火の記念プレートで、
ロンドン大火が発生した王室御用達のパン屋であるトマス・ファリナーの店が
近くにあったことを示している
ロンドン大火が発生したプディングレーンの近くの広場に設置されている
ロンドン大火を題材にした大理石のベンチ(その2)

前年の1665年から英国はオランダとの間で第二次英蘭戦争(Second Anglo-Dutch War:1665年ー1667年)に突入しており、トマス・ファリナーの店では、海軍食料局向けに堅パンを製造していて、海軍から堅パンの大量注文を受け、毎日深夜までフル操業の状態だった。木造建築だった家屋への火の手は早く、トマス・ファリナー一家は、上階の窓から隣家へと跳び移ったが、窓から跳び移ることを恐れた下女は、炎と煙に包まれて、最初の犠牲者となったのである。

画面手前を左右に延びている通りがギルップールストリートで、
画面手前中央から画面奥へ延びている通りがコックレーン

そして、ロンドン大火の最後の火が完全に鎮火した場所が、ギルップールストリート(Giltspur Street→2018年6月9日 / 6月16日 / 6月23日付ブログで紹介済)とコックレーン(Cock Lane→2018年6月30日 / 7月7日付ブログで紹介済)が交差する北西の角にあるパイコーナー(Pye Corner)である。


1666年9月2日(日)に発生したロンドン大火は、セントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral→2018年8月18日 / 8月25日 / 9月1日付ブログで紹介済)を含むシティー・オブ・ロンドン一帯を焼き払った後、4日目の同年9月5日(水)になって、火の勢いは漸く弱まり、完全に鎮火したのは、9月6日(木)だった。そして、ロンドン大火の最後の火が完全に鎮火したのが、このパイコーナーであった。

ギルップールストリートとコックレーンが交差する
北西の角にあるパイコーナー

現在、パイコーナーには、金色の少年の姿をした記念碑がビルの外壁に設置され、「This Boy is in Memory Put up for the late FIRE of LONDON Occasion’d by the Sin of Gluttony 1666. (この少年の像は、大食という大罪によって引き起こされた先のロンドン大火を記念して設置された。)」という言葉が添えられている。

パイコーナーに建つオフィスビルの外壁に設置されている
The Golden Boy of Pye Corner

「大食(Gluttony)」とは、キリスト教における「七つの大罪(Seven Deadly Sins)」のうちの一つである。ロンドン大火は、プディングレーンで出火して、パイコーナーで鎮火しており、「プディング」も「パイ」も食べ物に関連しているため、「大食」という大罪に結び付けられたものと、一説には言われている。

パイコーナーに建つオフィスビルの外壁に設置されている
The Golden Boy of Pye Corner の説明板

なお、「The Golden Boy of Pye Corner」と呼ばれるロンドン大火の記念碑は、元々、ここで営業していたパブ「The Fortune of War」の入口に設置されていたが、1910年にパブが取り壊されたため、現在は、その後に建てられたオフィスビルの 1st Floor(日本の2階)に該る外壁に設置されているのである。

2018年9月16日日曜日

ロンドン カムデンアーツセンター(Camden Arts Centre)

オークライトロードから
カムデンアーツセンターの入口を見上げたところ

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage→2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区内には、カムデンアーツセンター(Camden Arts Centre)がある。


カムデンアーツセンターは、(1)ジュビリーライン(Jubilee Line)とメトロポリタンライン(Metropolitan Line)が停まる地下鉄フィンチリーロード駅(Finchley Road Tube Station)からノーザンライン(Northern Line)が停まる地下鉄ゴルダースグリーン駅(Golders Green Tube Station)へと向かって北西に延びるフィンチリーロード(Finchley Road)と(2)フィンチリーロードから枝分かれして、ジュビリーラインが停まる地下鉄スイスコテージ駅(Swiss Cottage Tube Station)とノーザンラインが停まる地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)を結ぶフィッツジョンズアベニュー(Fitzjohn’s Avenue)へと向かって北に延びるオークライトロード(Arkwright Road)が交差する北西の角に建っていて、入口はオークライトロード側に面している。

フィンチリーロードの反対側から見た
カムデンアーツセンター

カムデンアーツセンターは、英国の建築家であるアーノルド・テイラー(Arnold Taylor)によって設計され、1897年にハムステッド中央図書館(Hampstead Central Library)として開館した。開館時、後援者で、Prudential Assurance Company の副会長(Deputy Chairman)でもあったサー・ヘンリー・ハーベン(Sir Henry Harben)が出席した。


カムデンアーツセンターの入口脇にある案内板

ハムステッド中央図書館は、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、ドイツ軍に夜ロンドン大空襲(1940年)や V2 ロケット攻撃(1945年)を生きのびた。

カムデンアーツセンター内にある庭園

ハムステッド中央図書館の蔵書量が増え続けた結果、地下鉄スイスコテージ駅の近くに新しく建てられた図書館へと全ての蔵書を1964年までに移管した後、1965年にハムステッドアーツセンター(Hampstead Arts Centre)へと名前を変え、ローカルコミュニティーに絵画、詩作、印刷やデザイン等を教える場所として生まれ変わった。そして、1967年に名前をハムステッドアーツセンターから今のカムデンアーツセンターへと変更した。

庭園から見たカムデンアーツセンターの建物

現在、カムデンアーツセンターは、現代美術の展覧と教育の場として機能している。

カムデンアーツセンターの建物は、グレード II の指定を受けている

カムデンアーツセンターが入る建物は、グレード II(Grade II listed building)の指定を受けていて、2004年には大規模が改修工事が行われている。

2018年9月15日土曜日

ロンドン大火(The Great Fire of London)–その2

ロンドン大火後から350年後の2016年に
英国のロイヤルメール(Royal Mail)が発行した記念切手(その3)

1666年9月3日の月曜日、ロンドン大火(The Great Fire of London)はシティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日 付ブログで紹介済)の北部と西部へと更に拡がり、翌日の9月4日の火曜日には、シティー・オブ・ロンドンのランドマークに該るセントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral→2018年8月18日 / 8月25日 / 9月1日付ブログで紹介済)に遂に到達する。
当時、旧セントポール大聖堂(Old St. Paul’s Cathedral)は、現在の姿とは異なって、中央に高い尖塔を有していた。1561年の落雷により破壊されており、オックスフォード大学の天文学教授で、王室建築副総監(survey-general of the King’s Works)でもあったサー・クリストファー・マイケル・レン(Sir Christopher Michael Wren:1632年ー1723年)は、ロンドン大火発生前から旧セントポール大聖堂の修復計画に携わっていたが、そんな彼の目の前で、旧セントポール大聖堂は、大聖堂なら安全と逃げ込んだ市民と一緒に、ロンドン大火に焼き尽くされてしまった。

ロンドン市長(Lord Mayor of London)のサー・トマス・ブラッドワース(Sir Thomas Bloodworth:1620年ー1682年)の優柔不断さとリーダーシップ欠如が、ロンドン大火による被害を拡大する大きな要因となった一方、英国王チャールズ2世(Charles II:1630年ー1685年 在位期間:1660年ー1685年)による先導に基づき、シティー・オブ・ロンドン内の消火活動が進められた。

ロンドン大火後から350年後の2016年に
英国のロイヤルメール(Royal Mail)が発行した記念切手(その4)

9月4日の夜により、ロンドン大火発生時から吹き荒れていた東風が収まり始めたことが幸いして、ロンドン大火発生から4日目に該る9月5日の水曜日に入り、ロンドン大火は漸く終焉へと向かったが、完全に鎮火したのは、9月6日の木曜日だった。
ロンドン大火による4日間にわたる灼熱地獄は、シティー・オブ・ロンドン内の8割以上を焼き尽くして、その被害は、13千の一般家屋、87の教会、そして、旧セントポール大聖堂等に及んだのである。

ロンドン大火の鎮火から1週間も経たない9月10日の月曜日に、サー・クリストファー・マイケル・レンは、英国王チャールズ2世に対して、シティー・オブ・ロンドンの再建案を提出して、その数日後には、チャールズ2世より「悲しむべき大火による災害に関する国王陛下の布告」が発表される。
そして、サー・クリストファー・マイケル・レンの尽力によって、1667年に再建法が制定された。再建法は、従来の街並みを取り戻すのではなく、大災害が二度と発生しない「防災都市」へとシティー・オブ・ロンドンを生まれ変わらせることを主眼とし、新築の建物は全て煉瓦造り、もしくは、石造りとされ、木造建築は禁止された。また、ロンドン大火の際の飛び火を防ぐため、主要な通りについては、建物と建物の間に十分な距離を確保することも規定された。

こうして、シティー・オブ・ロンドンは、急速な勢いで復興の道を歩み、1670年までに一般家屋の再建をほぼ完了させるという目覚ましいスピードであった。
また、ロンドン大火を受けて、1681年に世界初の火災保険がロンドンに生まれることにも繋がったのである。

2018年9月9日日曜日

ロンドン ジークムント・フロイト像(Statue of Sigmund Freud)

タヴィストック クリニック前に設置されている
ジークムント・フロイト像(その1)

オーストリアのウィーンにおいて、精神医学者 / 精神分析学者 / 精神科医として活動していたジークムント・フロイト(Sigmund Freud:1856年ー1939年)は、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツによるオーストリア併合に伴うユダヤ人迫害を逃れるべく、故郷の町ウィーンを捨てて、ロンドンへ移住することを余儀なくされた。ジークムント・フロイトが1938年に亡命して、亡くなる1939年までの晩年を過ごした家は、現在、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるフロイト博物館(Freud Museum→2018年9月2日付ブログで紹介済)として一般公開されている。フロイト博物館からジュビリーライン(Jubilee Line)が停まる地下鉄スイスコテージ駅(Swiss Cottage Tube Station)方面へと向かって数分歩いたところに、ジークムント・フロイト像(Statue of Sigmund Freud)が設置されている。

タヴィストック クリニック前に設置されている
ジークムント・フロイト像(その2)

具体的に言うと、地下鉄スイスコテージ駅からノーザンライン(Northern Line)が停まる地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)へと向かって丘を上るフィッツジョンズアベニュー(Fitzjohn’s Avenue)と、フィッツジョンズアベニューから枝分かれして、同じくノーザンラインが停まる地下鉄ベルサイズパーク駅(Belsize Park Tube Station)へと向かって延びるベルサイズレーン(Belsize Lane)が交差する北西の角に、ジークムント・フロイト像は建っている。

タヴィストック クリニック前に設置されている
ジークムント・フロイト像(その3)

ジークムント・フロイト像が設置されている場所の背後には、「タヴィストック クリニック(Tavistock Clinic)」という心理医療施設(精神科病院)の建物があり、1920年にヒュー・クリクトン=ミラー博士(Dr. Hugh Crichton-Miller)によって設立された。現在、同施設は、タヴィストック&ポートマン NHS 基金トラスト(The Tavistock and Portman NHS Foundation Trust)の配下にある。

タヴィストック クリニック前に設置されている
ジークムント・フロイト像(その4)

なお、ジークムント・フロイト像は、クロアチア出身の彫刻家であるオスカー・ネモン(Oscar Nemon:1906年ー1985年)によって制作された。ジークムント・フロイト像が精神医学者 / 精神分析学者 / 精神科医であったことを考えると、彼の像がここに設置されたのも、「成る程」とうなづける。

2018年9月8日土曜日

ロンドン大火(The Great Fire of London)–その1

ロンドン大火後から350年後の2016年に
英国のロイヤルメール(Royal Mail)が発行した記念切手(その1)

ロンドン大火(The Great Fire of London)とは、1666年に発生して、セントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral→2018年8月18日 / 8月25日 / 9月1日付ブログで紹介済)等が所在する中世都市ロンドンの大部分を焼き払った大火のことである。

ロンドン大火が起きた1666年の前年に該る1665年には、「The Great Plague」と呼ばれるペスト大流行がロンドンで猛威を振るった。14世紀中頃にロンドンにおいて最初に流行ったペストは、17世紀に入ると、ロンドンで三度に渡って大流行した。一度目が1603年、二度目が1625年、そして、三度目が1665年で、三度目の大流行では、死者が63千人を越えて、同世紀最高の流行となった。

前年のペスト大流行により疲弊し切っていたロンドンでは、翌年(1666年)の6月下旬から猛暑が始まり、7月と8月の2ヶ月間、極端に降雨量が少ない夏が続き、空気や建物(当時のロンドンでは、石材や煉瓦が部分的に使われているものの、木造建築が主流)が非常に乾燥していた。そんな最悪の状況下、ロンドン大火が発生したのである。

1666年9月2日の日曜日、日付が変わったばかりの深夜の1-2時頃、シティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)のプディングレーン(Pudding Lane)にある王室御用達のパン屋であるトマス・ファリナー(Thomas Farriner / Thomas Faryner)の店から出火した。
前年の1665年から英国はオランダとの間で第二次英蘭戦争(Second Anglo-Dutch War:1665年ー1667年)に突入しており、トマス・ファリナーの店では、海軍食料局向けに堅パンを製造していて、海軍から堅パンの大量注文を受け、毎日深夜までフル操業の状態だった。木造建築だった家屋への火の手は早く、トマス・ファリナー一家は、上階の窓から隣家へと跳び移ったが、窓から跳び移ることを恐れた下女は、炎と煙に包まれて、最初の犠牲者となったのである。

「ロンドンの災いは、愚か者の深酒と頻繁い起きる火事」と言われる程、火事は日常茶飯事だったため、当初、火事の知らせを聞いたロンドン市長(Lord Mayor of London)のサー・トマス・ブラッドワース(Sir Thomas Bloodworth:1620年-1682年)は、「またか!」とばかりに、ろくに取り合わず、初期対応を誤ってしまった。
トマス・ファリナーのパン屋から出火した炎は、出火当夜吹き荒れていた東からの強風に煽られて、テムズ河(River Thames)岸沿いに西へ向かって延焼し始めた。飛び火したテムズ河岸沿いの倉庫街には、清教徒革命(Puritan Revolution:1642年ー1649年)時から、火薬、タール、油や石炭等、ありとあらゆる可燃物が大量に貯蔵されていたため、火災は爆発的な勢いを得て、シティー・オブ・ロンドンの中心部へと向かい、侵攻を開始した。

ロンドン大火後から350年後の2016年に
英国のロイヤルメール(Royal Mail)が発行した記念切手(その2)

風上に該るロンドン塔(Tower of London→2018年4月8日 / 4月15日 / 4月22日付ブログで紹介済)近くの官舎に住む海軍省の役人(文官)であるサミュエル・ピープス(Samuel Pepys:1633年ー1703年)からの進言に基づき、英国王チャールズ2世(Charles II:1630年ー1685年 在位期間:1660年-1685年)が下した命を受け、事態を重く見たサー・トマス・ブラッドワースが、「鳶口(とびくち)」(fire hook→棒の先に鉄製の鉤を付けたもの)を使い、火が出た家の周囲にある家屋を取り壊して、延焼を防ぐ指示を出したが、時既に遅かったのである。

2018年9月2日日曜日

ロンドン フロイト博物館(Freud Mseum)

マレスフィールドガーデンズの歩道から見上げたフロイト博物館

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage→2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区内には、フロイト博物館(Freud Mseum)がある。


オーストリアのウィーンにおいて、精神医学者 / 精神分析学者 / 精神科医として活動していたジークムント・フロイト(Sigmund Freud:1856年ー1939年)は、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツによるオーストリア併合に伴うユダヤ人迫害を逃れるべく、故郷の町ウィーンを捨てて、ロンドンへ移住することを余儀なくされた。ジークムント・フロイト一家は、フランス初の女性精神分析学者であるマリー・ボナパルト(Marie Bonaparte:1882年ー1962年)の支援を受け、パリ経由で、1938年6月6日、英国へと亡命したのである。

マレスフィールドガーデンズの反対側から見た
フロイト博物館(その1)

ロンドンへやって来たジークムント・フロイトは、一時期、現在のロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のプリムローズヒル地区(Primrose Hill)内にあるエルスワーシーロード39番地(39 Elsworthy Road)の家に滞在した後、同じロンドン・カムデン区のハムステッド地区(Hampstead→2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるマレスフィールドガーデンズ20番地(20 Maresfield Gardens)へと移り、翌年の1939年9月23日に癌のため死去するまで、この家に居住した。

ここがフロイト博物館であることを示す看板

ジークムント・フロイトは、英国へ亡命した後も、研究を継続し、ユダヤ人は何故迫害されるのかを改めて問い直した「モーゼと一神教(Mose and Monotheism)」をこの家で完成させたのである。

ジークムント・フロイトが1938年から1939年にかけて
ここに住んでいたことを示すブループラークが、
建物の外壁に架けられている

女性精神分析学者の先駆けでもあったジークムント・フロイトの娘アンナ・フロイト(Anna Freud:1895年ー1982年)は、父親の死後も、マレスフィールドガーデンズ20番地の家に住み、児童精神分析を開拓していった。

ジークムント・フロイトの娘アンナ・フロイトが
1938年から1982年にかけて
ここに住んでいたことを示すブループラークも、
建物の外壁に架けられている

1982年10月9日にアンナ・フロイトが亡くなった後、彼女の遺志に基づき、この家は博物館へと改装され、1986年7月に「フロイト博物館」として開館した。

マレスフィールドガーデンズの反対側から見た
フロイト博物館(その2)

フロイト博物館では、玄関ホール、書斎、図書室や食堂等が一般公開されている。ジークムント・フロイトがウィーンからロンドンへと持ってくることができた自身の家具や生活調度品等も展示されている。その中でも一番の展示物は、ジークムント・フロイトが精神分析の面接中に患者を横にならせた長椅子である。また、画家のサルバドール・ダリが描いたジークムント・フロイトの肖像画も、展示コレクションに含まれている。

フロイト博物館の入口のアップ

通りを挟んだ反対側に建つマレスフィールドガーデンズ12番地(12 Maresfield Gardens)には、アンナ・フロイトセンター(Anna Freud Centre)があり、児童の精神的発達や精神療法に関する研究を行うとともに、専門家の研修を行なっている。

フロイト博物館の前に置かれているゴミ箱には、
博物館の入館チケットに該るシールが、
博物館から帰る観光客によって残されている

ロンドン以外にも、フロイト博物館は2つある。一つは、ジークムント・フロイトが出生したチェコのプジーボル(Pribor)で、もう一つは、彼が活動していたオーストリアのウィーンである。