2018年7月29日日曜日

カーター・ディクスン作「ユダの窓」(The Judas Window by Carter Dickson)–その2

中央刑事裁判所の建物上部全景

エイヴォリー・ヒューム(Avory Hume)の死体を見て、名状しがたい恐怖に狼狽えたジェイムズ・キャプロン・アンズウェル(James Caplon Answell)が部屋を見回したところ、彼が通って来たオーク材の重いドアには、内側から差し錠が掛かっている上に、二つ並んだ窓には、スティール製のシャッターが頑丈に閉まっていて、誰も出入りできな状況だった。また、部屋の中には、誰か他の第三者が身を潜めるような場所は、どこにもなかった。

中央刑事裁判所の入口が
「Old Bailey(オールドベイリー通り)」に面しているため、
中央刑事裁判所自体が「オールドベイリー」という通称で呼ばれている

ドアを叩く音を聞いて、やむなく彼がドアを開けると、エイヴォリー・ヒュームの執事のダイアー、秘書のアメリア・ジョーダン、そして、ヒューム家の隣人であるランドルフ・フレミングの3人が部屋の中へと入って来て、事件が発覚したのであった。

中央刑事裁判所の入口(オリジナル)

ジェイムズ・キャプロン・アンズウェルは、「エイヴォリー・ヒュームから手渡されたウィスキーソーダの中に、何かが入っていて、意識を失ってしまったので、何が起きたのか、全く判らない。」と主張するが、サイドボードの上に置かれたウィスキーのデカンター、ソーダ水のサイフォンおよび4つのタンブラーグラスには、薬物が入れられた形跡はなく、また、彼の身体からも薬物の兆候は見つからなかった。

中央刑事裁判所の入口(オリジナル)に横に架けられている
「中央刑事裁判所」の表示

ジェイムズ・キャプロン・アンズウェルが驚いたことに、彼が着ていたコートのポケットから、彼の従兄弟であるレジナルド・アンズウェル大尉(Captain Reginald Answell)のピストルが出てきたが、彼はそんな物をここに持参し来た覚えがなかった。更に、運が悪いことに、エイヴォリー・ヒュームの胸に深く突き刺さったアーチェリーの矢からは、ジェイムズ・キャプロン・アンズウェルの指紋だけが検出されたのであった。

建物の上部に設置された「正義の女神」像

ジェイムズ・キャプロン・アンズウェルは、エイヴォリー・ヒューム謀殺の罪名で逮捕された上、被告として起訴され、3月4日に中央刑事裁判所(Central Criminal Court→2016年1月17日付ブログで紹介済)において裁判が行われることとなった。
裁判の過程で、ジェイムズ・キャプロン・アンズウェルに不利な証言が相次ぐ中、彼の弁護人に就いた法廷弁護士の資格を有するヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)が、「犯人は、どの部屋にも存在する「ユダの窓」(Judas Window)から、エイヴォリー・ヒュームに対して、クロスボウでアーチェリーの矢を射たのだ。」と論述するのである。

中央刑事裁判所のサウスブロック–
現在、建物への出入りには、
こちらが使用されている

江戸川乱歩が「カー問答」(1950年)の中で、ジョン・ディクスン・カー / カーター・ディクスンの作品を最も面白い第1位のグループから最もつまらない第4位のグループまで評価分けをしているが、本作品「ユダの窓」は、第1位のグループに入った6作品の中で、5番目に挙げられている。
また、海外においても、「Locked Room Murders」(1979年、1991年)の著者であるロバート・エイデイが「密室ミステリーの最高峰」と絶賛している。

ニューゲートストリート(Newgate Street)から見た
中央刑事裁判所の建物全景

「ユダの窓」は、1964年にペーパーバックで上梓された際、「The Crossbow Murder」と改題されている。

2018年7月22日日曜日

ロンドン クイーン アン ストリート23番地(23 Queen Ann Street)

英国のロマン主義の画家であるジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーが住んでいた
クイーン アン ストリート23番地は、
1st Floor(日本では、2階)から英国の国旗が掲げられている建物である

18世紀末から19世紀中頃にかけて活躍した英国のロマン主義の画家である「J・M・W・ターナー(J. M. W. Turner)」こと、ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner:1775年ー1851年)が住んでいた家が、クイーン アン ストリート23番地(23 Queen Ann Street)にある。クイーン アン ストリート23番地は、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のマリルボーン地区(Marylebone)内に所在している。


クイーン アン ストリート(Queen Ann Street→2014年11月15日付ブログで紹介済)は、東西に延びる通りで、東側はチャンドスストリート(Chandes Street)から始まり、西側はウェルベックストリート(Welbeck Street→2015年5月16日付ブログで紹介済)に突き当たって終わっている。
なお、チャンドスストリートは、サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」等に登場したランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)の西側を南北に延びる通りである。また、ウェルベックストリートは、「最後の事件(The Final Problem)」において、シャーロック・ホームズが、犯罪界のナポレオンであるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)配下の者が乗った二頭立ての馬車に襲撃された通りである。

クイーン アン ストリート23番地の建物全景

クイーン アン ストリート23番地の Ground Floor / 1st Floor

クイーン アン ストリートは、英国のステュアート朝(House of Stuart)最後の君主であるアン女王(Queen Ann:1665年ー1714年)に因んで名付けられている。アン女王は、1702年3月に(最後の)イングランド王国・スコットランド王国君主およびアイルランド女王(Queen of England, Scotland and Ireland)として即位し、1707年5月にスコットランドがイングランドに併合されたことに伴い、(最初の)グレートブリテン王国君主およびアイルランド女王(Queen of Great Britain and Ireland)として、1714年8月まで君臨した。


クイーン アン ストリート23番地は、ウィンポールストリート(Wimpole Street)とウェルベックストリートに東西を挟まれたクイーン アン ストリートの南側にある建物で、現在はフラットになっている模様。

クイーン アン ストリート23番地の入り口(その1)

クイーン アン ストリート23番地の入り口(その2)

ロンドンの劇場街コヴェントガーデン(Covent Garden)に生まれ、若くして成功と名声を手にいれたジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーは、1812年にそれまで住んでいたハーリーストリート64番地(64 Harley Street)からクイーン アン ストリート23番地へと引っ越して、亡くなる1851年まで、その家を所有したそうである。クイーン アン ストリート23番地の駐車場入口上の外壁に、画家ターナーがここに住んでいたことを記すプレートが掲げられている。

画家ターナーが
クイーン アン ストリート23番地に
住んでいたことを記すプレート(その1)

画家ターナーがクイーン アン ストリート23番地に
住んでいたことを記すプレート(その2)

なお、彼が亡くなった場所は、クイーン アン ストリート23番地ではなく、1846年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(Royal Academy of Arts)の副会長を辞した後に居を構えたケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のチェルシー地区(Chelsea)内にあるテムズ河(River Thames)沿いの家であった。

2018年7月21日土曜日

カーター・ディクスン作「ユダの窓」(The Judas Window by Carter Dickson)–その1

東京創元社から出版されている創元推理文庫
カーター・ディクスン作「ユダの窓」の表紙–
       カバーイラスト:ヤマモト マサアキ 氏
カバーデザイン:折原 若緒 氏
  カバーフォーマット:本山 木犀 氏

「ユダの窓(The Judas window)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、別のペンネームであるカーター・ディクスン(Carter Dickson)名義で1938年に発表した推理小説で、ヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)シリーズの長編第7作目に該る。当作品は、米国ではモロウ社(Morrow)から、そして、英国ではハイネマン社(Heinemann)から出版された。

亡き母の財産を相続した裕福な若者であるジェイムズ・キャプロン・アンズウェル(James Caplon Answell)は、ある年のクリスマスパーティーにおいて、従兄弟のレジナルド・アンズウェル大尉(Captain Reginald Answell)からメアリー・ヒューム(Mary Hume)を紹介された。直ぐにお互いに惹かれあった二人は、年明けには婚約に至る。1月4日、サセックス州(Sussex)からロンドンのフラットに戻ったジェイムズ・キャプロン・アンズウェルのところに、メアリーの父親で、キャピタルカウンティーズ銀行の元取締役であるエイヴォリー・ヒューム(Avory Hume)から電話があり、同日の夕方、自宅へ招待された。

指定されたその日の午後6時過ぎに、ロンドン市内のヒューム家を訪れたジェイムズ・キャプロン・アンズウェルは、エイヴォリー・ヒュームが待つ書斎へと案内される。エイヴォリー・ヒュームの執事ダイアーと一緒に、玄関からホールの大階段の横を通って書斎へと向かうジェイムズ・キャプロン・アンズウェルは、2階の手すり越しに彼を見下ろしている秘書のアメリア・ジョーダンを見かける。

早川書房から出版されているハヤカワ文庫
カーター・ディクスン作「ユダの窓」の表紙
(カバー装画: 山田 雅史氏)

ジェイムズ・キャプロン・アンズウェルが案内された書斎は、屋敷の裏手に該る部屋だった。ダイアーに招き入れられた書斎は、天井の高い事務室風の部屋で、部屋の真ん中にはモダンな事務机が鎮座し、その上ではモダンな卓上スタンドが明るい光を投げかけていた。部屋の右側の壁には、サイドボードが設えており、左側の壁に二つ並んだ窓には、スティール製のシャッターが付けられていた。そして、入って正面の壁には、飾り気のない白大理石のマントルピースがあり、その真上には、部屋で唯一の装飾となるアーチェリーの矢が3本、三角形に組み合わされて飾られていた。エイヴォリー・ヒュームの説明によると、アーチェリーが趣味の彼が入会している「ケント州森の狩人クラブ」の年次大会において、最初に金的(=的の真ん中)を射た際の賞品とのことだった。

エイヴォリー・ヒュームがサイドボードの上に置かれたデカンターの栓を開け、二人分のウィスキーソーダを作った。ジェイムズ・キャプロン・アンズウェルは、エイヴォリー・ヒュームから手渡されたウィスキーソーダを飲んだ途端、忽ち意識を失ってしまった。薄れゆく意識の中で、「ウィスキーソーダに何か入っていた。」ということが、彼の頭の中をよぎった。

暫くして、胃のむかつきを抑えながら、何とか堪えて目を開けたジェイムズ・キャプロン・アンズウェルが懐中時計を見ると、時計の針は午後6時半を指していた。彼が、窓とデスクの間に左わきを下にして横たわっているエイヴォリー・ヒュームを仰向けにすると、その胸にはアーチェリーの矢が深々と突き刺さっていたのである。そのアーチェリーの矢は、マントルピースの真上に飾られていた3本のうちの1本で、壁の矢は2本に減っていた。エイヴォリー・ヒュームの胸から突き出た矢には、3枚の羽根が付いていたが、中央の矢羽根は半分にちぎれていた。

2018年7月15日日曜日

ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner)–その3

テイト・ブリテン美術館に所蔵されている
ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー作「Norham Castle, Sunrise」(1845年)

1804年にハーリーストリート(Harley Street→2015年4月11日付ブログで紹介済)の自宅近くにオープンした自分自身の作品を展示するギャラリーの運営が軌道に乗り始めると、ギャラリーを父親に任せて、J・M・W・ターナー(J. M. W. Turner)こと、ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner:1775年ー1851年)は、英国外へと足を伸ばし、フランス、スイス、オランダやベルギー等へスケッチ旅行に出かけることが増えていく。
そして、J・M・W・ターナーにとって大きな転機となったのは、1819年、44歳の時に初めて訪れたイタリアであった。ルネサンス期以来、イタリアは西洋美術の中心地であり続け、英国等の北方ヨーロッパ出身の画家達にとっては、いつか訪れてみたい「憧れ」の地だったのである。イタリア訪問中、J・M・W・ターナーは、北方ヨーロッパにはない明るい陽光とそこから生まれる豊かな色彩に息を飲み、そして、魅せられた。イタリアの中でも、彼は「水の都」と呼ばれるヴェネツィア(Venice)に惹かれ、4週間に満たない滞在中に、400枚を超えるスケッチを残した。ヴェネツィアをこよなく愛したJ・M・W・ターナーは、その後、同地を何度も訪れている。

イタリア旅行後、J・M・W・ターナーの作品上、画面における光と空気の関係性を追求することに主眼が置かれた。彼は、イタリア滞在中、目に焼き付けた光を分解して、空気や大気の動きを色によって描き出す研究に、その後の画家人生を捧げたのである。そのため、彼が描く対象の形態は、次第に曖昧になり、最終的には、ほとんど抽象画に近づいていった。彼の絵画は、ただただ、まばゆいばかりの光の海、波と霧の渦でしかないものまで行き着いたのである。J・M・W・ターナーの最終学歴は小学校で、その上、難読症でもあったが、雲の成り立ちに関する気象学者の講義に出席したり、ニュートンの光学理論やゲーテの色彩論に基づいて、光を描いたりと、自分の不利なところを補う人一倍の探究心を持って、独学で突き進んでいった。

ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの遺体が埋葬された
セントポール大聖堂の正面を見上げたところ

強い絆で結ばれていた父親が1829年に死去すると、J・M・W・ターナーは失意のどん底で苦しんだ。そんな彼を側で支えてくれたのが、25歳年下の未亡人ソフィア・キャロライン・ブース(Sophia Caroline Booth)であった。
老齢を迎えて、1846年にロイヤルアカデミー(Royal Academy)の副会長の座を辞したJ・M・W・ターナーは、現在のチェルシー地区(Chelsea)にあるテムズ河(River Thames)沿いのチェイニーウォーク(Cheyne Walk)に居を構え、ソフィア・キャロライン・ブースと一緒に暮らしながら、作品の制作を続けた。その後、1851年に体調を崩し、彼は病床に絵の具を持ち込んで、作品を制作したが、同年12月19日、コレラ(cholera)が原因で世を去り、76歳の生涯を閉じた。彼の遺体は、セントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral)に埋葬された。

ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの遺体が埋葬された
セントポール大聖堂のドームと側面を見上げたところ

J・M・W・ターナーは、自分の手元にあった主要作品を全て国家に遺贈したので、彼の作品の多くは、ロンドンのナショナルギャラリー(National Gallery)やテイト・ブリテン美術館(Tate Britain→2018年2月18日付ブログで紹介済)で見ることができる。特に、テイト・ブリテン美術館には、400点にのぼる油彩画と2万点に及ぶ水彩画が所蔵されている。

2018年7月14日土曜日

ロンドン ホウジアレーン(Hosier Lane)

ホウジアレーンの中央辺りから、ギルップールストリート方面を見上げたところ–
現在、画面右手奥では、ホテルが建設されている

米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、別のペンネームであるカーター・ディクスン(Carter Dickson)名義で発表した長編第2作目で、ヘンリー・メルヴェール卿(Sir Henry Merrivale)が探偵役を務める長編第1作目となる「黒死荘の殺人(The Plague Court Murder→2018年5月6日 / 5月12日付ブログで紹介済)」では、降霊会の最中、黒死荘(The Plague Court)の庭に建つ石室内において、心霊学者のロジャー・ダーワース(Roger Darworth)が血の海の中で無残にも事切れていた。石室は厳重に戸締りされている上に、石室の周囲には、足跡が何も残されていなかった。それに加えて、殺害されたロジャー・ダーワースの傍らには、前日の午後、ロンドン博物館から盗まれた曰く付きの短剣が真っ赤な血に染まって残されていたのである。


ロジャー・ダーワースが殺害された黒死荘があった場所の第二候補先は、コックレーン(Cock Lane→2018年6月30日 / 7月7日付ブログで紹介済)と同様に、ロンドンの経済活動の中心地であるシティー・オブ・ロンドン(City of London)内にあり、サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」において、シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンが初めて出会ったセントバーソロミュー病院(St. Bartholomew’s Hospital→2014年6月14日付ブログで紹介済)の近くにある。

ギルップールストリート側から
ホウジアレーンを下る(その1)
ギルップールストリート側から
ホウジアレーンを下る(その2)

セントバーソロミュー病院を右手に見て、ギルップールストリート(Giltspur Street→2018年6月9日 / 6月16日 / 6月23日付ブログで紹介済)を北上。左手に見えるコックレーンを過ぎて、更に北上し、有名な肉市場であるスミスフィールドマーケット(Smithfield Market)の手前にあるウェストスミスフィールド(West Smithfield)と呼ばれるロータリー前で左折したところにあるホウジアレーン(Hosier Lane)が、それである。

スミスフィールドストリート側から
ホウジアレーンを見上げたところ(その1)
スミスフィールドストリート側から
ホウジアレーンを見上げたところ(その2)

ホウジアレーンの東側は、ギルップールストリートから始まり、西側は、スミスフィールドマーケットから南下するスミスフィールドストリート(Smithfield Street)に突き当たって終わっている。また、ホウジアレーンは、コックレーンの北側で、コックレーンに並行するように東西に延びる通りである。

ホウジアレーンとスミスフィールドストリートが
交差した角に建つオフィスビルのG階(地上階)には、
Karaoke Box が入っている

ホウジアレーンの「hosier」とは、靴下や昔の男性用タイツ等を意味する「hose」と「~する者(職業を表す)」を意味す「ier」が合わさって出来上がった単語で、「男性用洋品商」や「靴下肌着類製造業者 / 販売業者」を意味している。現在、ホウジアレーンの両側には、オフィスビル等が建ち並んでいるが、以前、通り沿いに男性用洋品商が店を開いていて、それに因み、「ホウジアレーン」と名付けられたのかもしれない。

2018年7月8日日曜日

ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner)–その2

テイト・ブリテン美術館(Tate Britain → 2018年2月18日付ブログで紹介済)に所蔵されている
ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー作「Peace - Burial at Sea」(1842年)

初期の「J・M・W・ターナー(J. M. W. Turner)」こと、ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner:1775年ー1851年)は、なるべく、ロイヤルアカデミー受けのする写実的な作品を制作した。彼の初期作品が具象的で、歴史画や神話的な風景画をベースにした作品が多いのは、そのためである。

J・M・W・ターナーは、ロイヤルアカデミー内において、順調に出世街道を邁進していくが、間もなく、他のロイヤルアカデミー会員から、彼の態度の悪さについて、次々と文句が出始める。ロイヤルアカデミーには、あらゆる階級の人達に門戸を開いているという建て前はあるものの、実際のところ、ロイヤルアカデミー会員は貴族やそれに準ずる裕福な家庭の出身者が大半を占めていたのである。そんな高尚な会員の中、生まれも育ちも下町で、喧嘩っ早い性格だったJ・M・W・ターナーは、浮いた存在だった。当時、彼は若くて態度が悪かったが、才能が非常にあったため、それを嫉妬する気持ちもあり、多くのロイヤルアカデミー会員達は、彼に対して反感を抱いたのである。そのため、ロイヤルアカデミーが年1回主催する展覧会において、彼の作品を意図的に見えにくい場所に展示するといった陰湿な嫌がらせを受けたりしたものの、それに彼が屈することは、決してなかった。

逆に、J・M・W・ターナーは、1807年に32歳の若さで、ロイヤルアカデミーの遠近法教授という地位を得た後、最終的には、ロイヤルアカデミーの副会長まで昇りつめた。そして、1846年に副会長を辞するまで、40年以上にわたって、彼はロイヤルアカデミーに居座り続けたのであった。

テイト・ブリテン美術館に所蔵されている
ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー作「War. The Exile and the Rock Limpet」(1842年)

母親のメアリーが精神疾患を悪化させて、精神病院に入院し、最終的にそこで亡くなっていることもあって、それがJ・M・W・ターナーの女性観に大きな影響を与えたものと思われる。そのためか、当時では珍しく、彼は生涯を通じて結婚をしなかったが、彼が25歳(1800年)の頃から、早世した友人の未亡人で、自分よりも10歳年上のサラ・ダンビー(Sarah Danby)と関係を持ち、彼女の4人の子供と彼の父親を含めた7人で一緒に暮らしていた。そして、彼とサラ・ダンビーの間には、1801年と1811年に二人の娘が生まれ、その関係は10年以上続いた。

母親のメアリーが精神病院で亡くなった1804年、彼女の呪縛から解き放たれたのか、J・M・W・ターナーは、サラ・ダンビーや子供達と一緒に暮らしていたハーリーストリート(Harley Street→2015年4月11日付ブログで紹介済)の自宅近くに、自分自身の作品を展示するギャラリーをオープンした。

彼の父親は、コヴェントガーデン(Covent Garden→2016年1月9日付ブログで紹介済)の理髪店を畳み、ギャラリーの留守番、キャンバスづくりや顧客への書類作成等の雑用をして、約25年間にわたって、息子を影で支えた。母親の愛情とは全く縁のなかったJ・M・W・ターナーではあったが、父親との絆は非常に強く、長く続いたのである。

2018年7月7日土曜日

ロンドン コックレーン(Cock Lane)–その2

ギルップールストリートからコックレーンの入口を見たところ

創元推理文庫版カーター・ディクスン(Carter Dickson)作「黒死荘の殺人(The Plague Court Murder)」(南條竹則 / 高沢治訳)によると、『ハリディ(ディーン・ハリディ(Dean Halliday)ー黒死荘の現当主)は先頭に立ち、ギルップールストリートを歩き始めた。ギルップールを外れたなと思う頃には、我々は、両側を煉瓦塀に挟まれた、じめじめした狭い小路を歩いていた。』という記述が見受けられる。
ニューゲートストリート(Newgate Street→2018年5月19日付ブログで紹介済)の角で、タクシーを降りたディーン・ハリディ、本編の語り手であるケン・ブレーク(Ken Blake)とスコットランドヤードのハンフリー・マスターズ主任警部(Chief Inspector Humphery Masters)の3人は、黒死荘へ向かうべく、ギルップールストリート(Giltspur Street→2018年6月9日 / 6月16日 / 6月23日付ブログで紹介済)を北上しているのである。

ギルップールストリートと
コックレーンが交差した北西の角に設置されている
ロンドン大火の記念碑

現在の地図上、ギルップールストリートの右手(=東側)にはセントバーソロミュー病院(St. Bartholomew’s Hospital→2014年6月14日付ブログで紹介済)があり、ギルップールストリートから右折できる通りは存在していない。
ギルップールストリートの左手(=西側)には、南側からコックレーン(Cock Lane)、そして、ホウジアレーン(Hosier Lane)という二つの狭い小路が延びており、別途出てくる「高い煉瓦塀のトンネル」という表現に、両方とも適している。カーター・ディクスンの原作では、「ギルップールを外れたなと思う頃には、」という記述があるだけで、ハリディ達がコックレーンとホウジアレーンのどちらへ入ったのかについては、残念ながら、確定的な証拠はないのである。

The Golden Boy of Pye Coner(その1)

中世の頃、コックレーンは Cokkes Lane と呼ばれ、売春宿が建ち並んでいた。

The Golden Boy of Pye Coner(その2)

ギルップールストリートとコックレーンが交差する北西の角は、パイコーナー(Pye Corner)と呼ばれている。1666年9月2日(日)に発生したロンドン大火(Great Fire of London)が、セントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral)を含むシティー・オブ・ロンドン(City of London)一帯を焼き払い、4日目の同年9月5日(水)になって、火の勢いは漸く弱まり、完全に鎮火したのは、9月6日(木)だった。そして、ロンドン大火の最後の火が完全に鎮火したのが、このパイコーナーであった。現在でも、パイコーナーには、金色の少年の姿をした記念碑がビルの外壁に設置され、「This Boy is in Memory Put up for the late FIRE of LONDON Occasion’d by the Sin of Gluttony 1666. (この少年の像は、大食という大罪によって引き起こされた先のロンドン大火を記念して設置された。)」という言葉が添えられている。

The Golden Boy of Pye Coner(その3)

「大食(Gluttony)」は、キリスト教における「七つの大罪(Seven Deadly Sins)」のうちの一つである。ロンドン大火は、プディングレーン(Pudding Lane)で出火して、パイコーナーで鎮火しており、「プディング」も「パイ」も食べ物に関連しているため、「大食」という大罪に結び付けられたものと、一説には言われている。

なお、「The Golden Boy of Pye Corner」と呼ばれるロンドン大火の記念碑は、元々、ここで営業していたパブ「The Fortune of War」の入口に設置されていたが、1910年にパブが取り壊されたため、現在は、その後に建てられたオフィスビルの 1st Floor(日本の2階)に該る外壁に設置されているのである。

2018年7月1日日曜日

ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner)–その1

テイト・ブリテン美術館(Tate Britain
→ 2018年2月18日付ブログで紹介済)内に展示されている
ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーによる「自画像」(1799年)

一般的には、「J・M・W・ターナー(J. M. W. Turner)」として知られているジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner:1775年ー1851年)は、英国のロマン主義の画家である。

J・M・W・ターナーは、1775年4月23日、ロンドンの劇場街コヴェントガーデン(Covent Garden)に近いメイデンレーン21番地(21 Maiden Lane)に出生。メイデンレーン21番地は、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)内に所在している。
彼の父親ウィリアム・ターナー(William Turner:1745年ー1829年)は、同じ場所で床屋を営んでおり、母親メアリー・マーシャル(Mary Marshall)は肉屋の出であった。彼は、曽祖父、祖父と父の名前を全て足して、ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーと名付けられた。

彼の妹メアリー・アン(Mary Ann)は、3年後の1778年に生まれたが、1783年に幼くして亡くなってしまったため、1785年に母親が精神疾患を発症した。父親は仕事で忙しく、彼の世話を十分にすることができなかった。そこで、彼は母方の叔父であるジョーゼフ・マロード・ウィリアム・マーシャル(Joseph Mallord William Marshall)に引き取られ、その後も親戚の住まいを転々とする。母親のメアリーは、1799年に精神病院に入院し、1800年に転院、そして、1804年にその病院で亡くなっている。
温かな家庭とは縁遠い生活を送ることになったJ・M・W・ターナーは、その寂しさを紛らわせるためか、絵に興味を持ち、本格的に絵描きになることを考え始めた。

J・M・W・ターナーは、数人の建築家の下に弟子入りして、スケッチの仕事に携わった後、13歳の時に、風景画家のトマス・マートン(Thomas Malton)の下で修行して、絵画の基礎を学んだ。
14歳にして、既に実地経験を豊富に積んだJ・M・W・ターナーは、1789年にロイヤルアカデミー(Royal Academy)付属の美術学校(Antique School)への入学を許されたのである。

ロイヤルアカデミー付属の美術学校を卒業したJ・M・W・ターナーは、絵の題材を求めて、マーゲイト(Margate)、ブリストル(Bristol)やワイト島(Isle of Wight)等、英国各地を旅した。ワイト島でのスケッチをベースにし、彼が描いて1796年に発表した初めての油彩画「海の漁師達(Fishermen at Sea)」は、画壇や批評家から好意的に受け入れられ、翌年の1797年に発表した2作品も非常に好評で、22歳にして、彼は早くも名声を手に入れたのである。
そして、1799年に24歳の若さで、彼はロイヤルアカデミーの準会員(associate member)となり、1802年に27歳で正会員(full member)となった。
同年、彼は、フランスやスイスを皮切りに、ヨーロッパ大陸を旅して、ルーヴル美術館(Louvre Museum)でも学んでいる。