英国の首相を務めたアーサー・ネヴィル・チェンバレンが住んでいた住居が シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の ベルグラーヴィア地区(Belgravia)内にある |
アガサ・クリスティー作「複数の時計(The Clocks)」(1963年)は、エルキュール・ポワロシリーズの長編で、今回、ポワロは殺人事件の現場へは赴かず、また、殺人事件の容疑者や証人への尋問も直接は行わないで、ロンドンにある自分のフラットに居ながらにして(=完全な安楽椅子探偵として)、事件の謎を解決するのである。
キャサリン・マーティンデール(Miss Katherine Martindale)が所長を勤めるキャヴェンディッシュ秘書紹介所(Cavendish Secretarial Bureau)から派遣された速記タイピストのシーラ・ウェッブ(Sheila Webb)は、ウィルブラームクレッセント通り19番地(19 Wilbraham Crescent)へと急いでいた。シーラ・ウェッブが電話で指示された部屋(居間)へ入ると、彼女はそこで身なりの立派な男性の死体を発見する。男性の死体の周囲には、6つの時計が置かれており、そのうちの4つが何故か午後4時13分を指していた。鳩時計が午後3時を告げた時、ウィルブラームクレッセント19番地の住人で、目の不自由な女教師ミリセント・ペブマーシュ(Miss Millicent Pebmarsh)が帰宅する。自宅内の異変を感じたミリセント・ペブマーシュが男性の死体へと近づこうとした際、シーラ・ウェッブは悲鳴を上げながら、表へと飛び出した。そして、彼女は、ちょうどそこに通りかかった青年コリン・ラム(Colin Lamb)の腕の中に飛び込むことになった。
実は、コリン・ラム青年は、警察の公安部員(Special Branch agent)で、何者かに殺された同僚のポケット内にあったメモ用紙に書かれていた「M」という文字、「61」という数字、そして、「三日月」の絵から、ウィルブラームクレッセント19番地が何か関係して入るものと考え、付近を調査していたのである。「M」を逆さまにすると、「W」になり、「ウィルブラーム」の頭文字になる。「三日月」は「クレッセント」であり、「61」を逆さまにすると、「19」となる。3つを繋げると、「ウィルブラームクレッセント通り19番地」を意味する。
イートンスクエアガーデンズ(Eaton Square Gardens)−その1 |
クローディン警察署のディック・ハードキャッスル警部(Inspector Dick Hardcastle)が本事件を担当することになった。
シーラ・ウェッブは、ミリセント・ペブマーシュの家へ今までに一度も行ったことがないと言う。また、ミリセント・ペブマーシュは、キャヴェンディッシュ秘書紹介所に対して、シーラ・ウェッブを名指しで仕事を依頼する電話をかけた覚えはないと答える。更に、シーラ・ウェッブとミリセント・ペブマーシュの二人は、ウィルブラームクレッセント通り19番地の居間で死体となって発見された男性について、全く覚えがないと証言するのであった。
ミリセント・ペブマーシュの居間においてキッチンナイフで刺されて見つかった身元不明の死体は「R.・H・カリイ(R. H. Curry)」とされたが、スコットランドヤードの捜査の結果、全くの偽名であることが判明し、身元不明へと逆戻りする。彼が目の不自由な老婦人の居間で刺殺される理由について、スコットランドヤードも、そして、コリン・ラムも、皆目見当がつかなかった。途方に暮れたコリン・ラムは、ポワロに助けを求める。年若き友人からの頼みを受けて、ポワロの灰色の脳細胞が事件の真相を解き明かす。
イートンスクエアガーデンズ(Eaton Square Gardens)−その2 |
英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie’s Poirot」の「複数の時計」(2011年)では、アガサ・クリスティーの原作とは異なり、ウィルブラームクレッセント62番地の住人がラムジィ夫妻(Mr and Mrs Ramsay)と息子2人から(フランスの武器製造会社と取引がある会社に勤める)クリストファー・マバット(Christopher Mabbutt)と娘2人に変更された。
時代背景についても、アガサ・クリスティーの原作では、第二次世界大戦(1939年ー1945年)後の米ソ冷戦状態をベースにしているが、TV版の場合、他のシリーズ作品と同様に、第一次世界大戦(1914年ー1918年)と第二次世界大戦の間、それも、第二次世界大戦開戦間近という設定が行われている。そのため、英国の仮想敵国を原作のソビエト連邦からアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツへと変更している。
そして、物語のサブプロットとして、クリストファー・マバットがドイツ側に英国の機密情報を渡すスパイの一人であることが物語の終盤に判明し、MI6 の秘密情報部員(intelligence officer)であるコリン・レイス大尉(Liteunant Colin Raceーアガサ・クリスティーの原作では、警察の公安部員であるコリン・ラム)が率いるチームによって、クリストファー・マバットは会社を出てフランスへと赴く直前に逮捕される。コリン・レイス大尉による取り調べを受ける中、クリストファー・マバットは、次のように述べる。
イートンスクエアガーデンズ(Eaton Square Gardens)−その3 |
「我々は英国の愛国者だからこそ、ヒトラーに英国の機密情報を渡すのだ。もしチェンバレンの宥和政策が続かず、(主戦派の)チャーチルのような輩が権力に就いた場合、我々は前の対戦(=第一次世界大戦)より100倍もひどい戦争に引き込まれることになるからだ。」
イートンスクエア通りの南側から北側を見たところ |
‘We are patriots who pass information to Hitler, because if Chamberlain’s policy of appeasement doesn’t hold and someone like Churchill gets his hands on power, we will be dragged into a war 100 times worse than the last one.’
アーサー・ネヴィル・チェンバレンが住んでいた住居の住所は、 37 Eaton Square, Belgravia, London SW1W 9DH |
クリストファー・マバットが言うチェンバレンとは、英国の首相も務めた政治家アーサー・ネヴィル・チェンバレン(Arthur Neville Chamberlain:1869年ー1940年)のことである。
住居の外壁には、 アーサー・ネヴィル・チェンバレンがここに住んでいたことを示す ブループラークが架けられている(その1) |
アーサー・ネヴィル・チェンバレンは、バーミンガム市長(1873年ー1876年)、通商大臣(1880年ー1885年)、自治大臣(1886年)、そして、植民地大臣(1895年ー1903年)を歴任したジョーゼフ・チェンバレン(Joseph Chamberlain)の次男として、バーミンガムに出生。
メイソンサイエンスカレッジ(Mason Science Collegeーバーミンガム大学(University of Birmingham)の前身)で科学と治金学(金属工学)を学んだ後、監査法人に就職し、その後、父のジョーゼフが経営するバハマ(当時、英国の植民地)の農園へ派遣され、そこで農園経営を学ぶ。
そして、実業界で成功を収めた彼は、その名声を後ろ盾にして、1911年バーミンガム市会議員に、次に、父のジョーゼフと同じように、1915年バーミンガム市長となる。
続いて、1918年に下院議員に当選すると、保健大臣(1923年、1924年ー1929年+1931年)や財務大臣(1923年ー1924年+1931年ー1937年)の要職を務めた後、1937年に保守党党首 / 首相の座に就き、第一次チェンバレン内閣 / 第二次チェンバレン内閣(1937年ー1940年)を組閣した。
住居の外壁には、 アーサー・ネヴィル・チェンバレンがここに住んでいたことを示す ブループラークが架けられている(その2) |
TV版の「複数の時計」の時代設定の頃、英国やフランス等は軍事増強と領土の拡大を推し進めるドイツやイタリア等との間で政治的緊張を増していた時期であり、アーサー・ネヴィル・チェンバレンは、ドイツのアドルフ・ヒトラーやイタリアのべニート・ムッソリーニに対して宥和政策を行い、1938年9月29日のミュンヘン協定に基づき、「これ以上の領土要求を行わない。」との約束をヒトラーと交わす代償として、ドイツ系住民が多数を占めていたチェコスロヴァキアのズデーデン地方をドイツに帰属させることを全面的に認めた。結果的に、このミュンヘン協定によって、第二次世界大戦の勃発が1年程引き延ばされたことになるが、その一方で、ドイツ側に軍備を増強させる時間的な猶予を与えたことになり、また、ヒトラーに「英国からドイツの近隣諸国への侵攻を容認された。」と勘違いさせる要因となったと、後年の専門家等からは強く批判されている。
アーサー・ネヴィル・チェンバレンが住んでいた住居は 高級住宅街内にある |
アーサー・ネヴィル・チェンバレンによる宥和政策にもかかわらず、1939年9月1日にドイツ軍はポーランドへと侵攻し、その2日後の9月3日、英国は対ドイツ宣戦布告を行って、ここに第二次世界大戦が勃発した。
アーサー・ネヴィル・チェンバレンが住んでいた住居の外壁上部 |
1940年4月に英国はドイツ軍のノルウェー作戦の阻止に失敗し、同年5月10日、ドイツ軍がベネルクス3国(オランダ / ベルギー / ルクセンブルグ)へ侵攻の矛先を転じると、アーサー・ネヴィル・チェンバレンはその責任を取って首相を辞任する。後任には、主戦派のウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill:1874年ー1965年)が保守党や労働党等を含む挙国一致内閣を組閣して、対応に当たった。アーサー・ネヴィル・チェンバレンは、この挙国一致内閣下、枢密院議長として残ったが、その後、体調を崩したため、同年10月に閣僚から退く。そして、同年11月9日、胃癌によりこの世を去っている。
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