2017年4月30日日曜日

ロンドン ジョンソン博士の家(Dr. Johnson's House)

「ジョンソン博士の家」として一般公開されているゴフスクエア17番地の建物

18世紀の英国において、小説家、詩人、評論家、道徳家、文芸評論家、伝記作家、編集者、そして、辞書編纂者として多岐にわたり、英国の文学界に多大な貢献をしたサミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson:1709年ー1784年)が住んでいた家、所謂、「ジョンソン博士の家(Dr. Johnson's House)」が、シティー・オブ・ロンドン(City of London)のゴフスクエア(Gough Square)内に建っている。


トラファルガースクエア(Trafalgar Square)からシティー・オブ・ロンドンへ向かって東に延びるストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)は、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)とシティー・オブ・ロンドンの境界線にあるテンプルバー(Temple Bar)を越えると、フリートストリート(Fleet Streetー2014年9月21日付ブログで紹介済)へと名前を変える。フリートストリートがフェッターレーン(Fetter Lane)を過ぎたところで、左手にある細い小道を北上すると、ゴフスクエアと呼ばれる小さい広場に出る。この広場に面した「ゴフスクエア17番地」の建物が、「ジョンソン博士の家」である。

早朝のゴフスクエア(東側)

ゴフスクエア17番地の5階建ての家(地階を含む)は、インドや中国等と羊毛の取引を行っていたリチャード・ゴフ(Richard Gough)によって、17世紀の終わり頃に建てられた。彼の名前に因んで、この建物が面している広場は、ゴフスクエアと呼ばれるようになったと思われる。

早朝のゴフスクエア(西側)
1737年にサミュエル・ジョンソンが生まれ故郷のイングランド中部のスタフォードシャー州(Staffordshire)のリッチフィールド(Lichfield)からロンドンに出て来た後、1748年から1759年までの間、この家を借りて、ここで執筆活動をしていた。一番重要なのは、彼がここで1755年に「英語辞典(A Dictionary of the English Language)」2巻の編纂を完成させたことである。約150年後の1928年に「オックスフォード英語辞典(Oxford English Dictionary)」が完成するまでの間は、サミュエル・ジョンソンによる英語辞典が英国におけるスタンダードとなった。
1737年にロンドンに出て来てから、1784年に亡くなるまでの間、サミュエル・ジョンソンは、シティー・オブ・ロンドン内で計18軒の家に住んだとのことだが、今も現存しているのは、ゴフスクエア17番地の建物1軒のみである。

「ジョンソン博士の家」の入口

19世紀に入ると、ゴフスクエア17番地の建物は、ホテル、印刷屋や倉庫等に使用された。
1876年に、王立芸術協会(Royal Society of Arts)が、ジョンソン博士がここに住んでいたことを示すプラークを建物の外壁に架けている。

1876年に「王立芸術協会」が
ゴフスクエア17番地の建物の外壁に架けたプラーク

政治家で、新聞事業家(兄達が経営する新聞会社の社長も務めた)でもあった初代ハームズワース男爵セシル・ビショップ・ハームズワース(Cecil Bisshopp Harmsworth, 1st Baron Harmsworth:1869年ー1948年)が、1911年4月にゴフスクエア17番地の建物を購入し、建築家アルフレッド・バー(Alfred Burr)の指導の下、建物の改装工事を実施して、1914年に「ジョンソン博士の家」として一般公開した。
現在、「ジョンソン博士の家」は、「ジョンソン博士の家信託(Dr. Johnson's House Trust Ltd.)」によって運営されている。

「ジョンソン博士の家」の公開日/時間等が表示されたプレート

「ジョンソン博士の家」が面して建つゴフスクエアの反対側(東側)には、サミュエル・ジョンソンが勝っていた猫ホッジ(Hodge)のブロンズ像が設置されている。

ゴフスクエア内には、
サミュエル・ジョンソンが飼っていた
猫ホッジのブロンズ像が設置されている
サミュエル・ジョンソンが飼っていた猫ホッジのブロンズ像アップ

一方、サミュエル・ジョンソンのブロンズ像は、トラファルガースクエアからシティー・オブ・ロンドンへ向かって東に延びるストランド通りがフリートストリートへと名前を変える辺り、つまり、シティー・オブ・ウェストミンスター区とシティー・オブ・ロンドンの境界線近くに建っている。具体的には、王立裁判所(Royal Court of Justiceーイングランドとウェールズの最高法廷)の前で、ストランド通りの中州に建つセントクレメントディンズ教会(St. Clement Danes)の裏側に、彼の像はひっそりと佇んでいる。

セントクレメントディンズ教会の裏側に建つ
サミュエル・ジョンソンのブロンズ像

2017年4月29日土曜日

チャールズ1世(Charles I)

チャリングクロス交差点(Charing Crossー2016年5月25日付ブログで紹介済)内に建つ
チャールズ1世の騎馬像

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)の冒頭、1878年にジョン・H・ワトスンはロンドン大学(University of Londonー2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospitalー2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。

チャールズ1世の騎馬像の後ろにあるのは、
トラファルガーの海戦において、フランス/スペイン連合艦隊を打ち破った
英国海軍提督の初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン
(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson)の記念柱(Nelson Column)

英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Barー2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospitalー2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。

片足を上げている騎馬像の場合、
「不慮の死」を表わすと言われており、
実際、チャールズ1世は公開処刑されている

こうして、ベーカーストリート221B(221B Baker Streetー2014年6月22日/6月29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。彼らが共同生活を始めて間もなく、ホームズの元にスコットランドヤードのグレッグスン警部(Inspector Gregson)から事件発生を告げる手紙が届く。ホームズに誘われたワトスンは、ホームズと一緒に、ブリクストンロード(Brixton Road)近くの現場ローリストンガーデンズ3番地(3 Lauriston Gardensー2017年3月4日付ブログで紹介済)へと向かった。ホームズ達が到着した現場には、グレッグスン警部とレストレード警部(Inspector Lestrade)が二人を待っていた。現場で死亡していたのは、イーノック・J・ドレッバー(Enoch J. Drebber)の名刺を持つ、立派な服装をした中年の男性だった。

チズウィックハウス2階中央の Tribunal ルームの壁に架けられている
「英国王チャールズ1世と家族の肖像画」―
フランドル出身の画家アンソニー・ヴァン・ダイク
(Anthony van Dyck:1599年―1641年)が描いている

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
アンソニー・ヴァン・ダイクの肖像画の葉書
(Sir 
Anthony van Dyck / 1640年頃 / Oil on canvas
560 mm x 460 mm) 

イーノック・J・ドレッバーの死体を発見したのは、ジョン・ランス巡査(Constable John Rance)であるという話をレストレード警部から聞くと、ホームズとワトスンの二人は、早速、彼が住むケニントンパークゲート(Kennington Park Gate)のオードリーコート46番地(46 Audley Courtー2017年3月25日付ブログで紹介済)へと向かう。そこで、ジョン・ランス巡査から死体発見の経緯を聞いたホームズは、ワトスンに対して、「彼は犯人を捕まえられる絶好のチャンスをみすみすとふいにしたのさ。」と嘆くのであった。

ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
チャールズ1世の肖像画の葉書
(Daniel Mytens
 / 1631年 / Oil on canvas
2159 mm x 1346 mm) 

イーノック・J・ドレッバーの死体を持ち上げた際、床に落ちた女性の結婚指輪に気付いたホームズは、この指輪が犯人に繋がるものだと考え、朝刊全紙に広告を掲載して、
(1)金の結婚指輪がブリクストンロード近くのパブ「ホワイトハート(White Hart)」とホーランドグローヴ通り(Holland Grove)の間の道路で見つかったこと
(2)落とし主は、今晩8時から9時までの間に、ベーカーストリート221Bのワトスン博士を訪ねること
と告げるのであった。

ハムハウス(Ham Houseー2016年4月3日付ブログで紹介済)の
全景(前庭を含む)

ハムハウス内の壁に架けられているチャールズ1世の肖像画

「今午後8時だ。」と、私は懐中時計を見ながら言った。
「そうだな。おそらく、落とし主(犯人)は、あと数分でやって来るだろう。扉を少し開けておいてくれ。それでいい。それから、鍵を内側から差してくれ。ありがとう。僕が昨日露店で買ったこの古本は奇妙だな。ー「諸国民間の法規」ー1642年にローランズ(スペイン領低地地方)のリエージュにおいてラテン語で出版されたものだ。この小さな茶色い背表紙の本が出版された時、チャールズ(1世)の頭はまだ胴体にしっかりと付いていたんだ。」
「出版者は誰だい?」
「フィリップ・ド・クロイ、何者だろう?本の見返しに、かなり色あせたインクで『グリオルミ・ホワイト蔵書』ウィリアム・ホワイトとは誰だろう?多分、17世紀の実務的な法律家だろう。彼の筆跡には、法律家特有の癖がある。おや、待っていた人が来たようだ。」
シャーロック・ホームズがそう話している時、呼び鈴の音が鋭く鳴った。彼は静かに立ち上がり、椅子を扉の方へ動かした。使用人がホールを横切って、扉を開ける時に、鋭い掛け金の音がするのが聞こえた。

バンケティングハウス(その1)

"It is eight o'clock now," I said, glancing at my watch.
"Yes. He will probably be here in a few minutes. Open the door sightly. That will do. Now put the key on the inside. Thank you! This is a queer old book. I picked up at a stall yesterday - 'De Jure inter Gentes' - published in Latin at Liege in the Lowlands, in 1642. Charles' head was still firm on his shoulders when this little brown-backed volume was struck off."
"Who is the printer?"
"Philippe de Croy, whoever he may have been. On the fly-leaf, in very faded ink, is written 'Ex libris Guliolmi Whyte'. I wonder who William Whyte was. Some pragmatical seventeenth century lawyer, I suppose. His writing has a legal twist about it. Here comes our man, I think."
As he spoke there was a sharp ring at the bell. Sherlock Holmes rose softly and moved his chair in the direction of the door. We heard the servant pass along the hall, and the sharp click of the latch as she opened it.

バンケティングハウス(その2)

ホームズの話に出てきた「チャールズ」とは、ステュアート朝の2代目国王(イングランド、スコットランドとアイルランドの王)チャールズ1世(Charles I:1600年ー1649年 在位期間:1625年ー1649年)のことである。
彼は、ステュアート朝の初代国王ジェイムズ1世(James I:1566年ー1625年 在位期間:1603年ー1625年)の次男として出生したが、兄ヘンリー・フレデリック・ステュアート(Henry Frederick Stuart:1594年ー1612年)が腸チフスに倒れて18歳の若さで死亡したため、1616年に王太子(Prince of Wales)に叙位された。

バンケティングハウス(その3)

1625年に父ジェイムズ1世の死去に伴い、王位を継承して、チャールズ1世となる。彼は、父王と同様に「王権神授説」を信奉して、議会と対立。1628年に議会は「権利の請願(Petition of Right)」を提出し、課税には議会の承認を得ることを求めたが、チャールズ1世は1629年に議会を解散して、議会の指導者を投獄する等、専制政治を実行した。更に、彼は国教統一にも乗り出し、ピューリタン(Puritan)を弾圧したため、各地での反乱を引き起こす引き金となった。

ルーベンスが描いたバンケティングハウス内の天井画

1642年、チャールズ1世が反国王派の議員を逮捕しようとしたことに伴い、議会派と王党派の内戦が勃発。これが、ピューリタン革命(Puritan Revolution:1642年ー1649年)である。
当初、内戦は王党派が優勢であったが、鉄騎隊を率いるオリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell:1599年ー1658年)が議会派を勝利に導いた。1646年、チャールズ1世は議会派に降伏して、囚われの身となる。一旦脱出するものの、1648年、再度幸降伏する。

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
オリヴァー・クロムウェルの肖像画の葉書
(Robert Walker / 1649年頃 / Oil on panel
1257 mm x 1016 mm) 

ハンティンドン(Huntingdon)にあるオリヴァー・クロムウェル像―
ハンティンドンは、オリヴァー・クロムウェルの出生地である

1649年1月27日、チャールズ1世の処刑が宣告され、同年1月30日、フランドルの画家パーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens:1577年ー1640年)に内装や天井画を依頼したホワイトホール宮殿(Palace of Whitehall)のバンケティングハウス(Banqueting House)前で公開処刑(斬首)された。

バンケティングハウスの入口上に設置されているチャールズ1世の胸像

ホームズがワトスンに対して、「チャールズ(1世)の頭は...」と話したのは、この斬首のことを念頭に置いていたからである。
なお、英国の歴史上、公開処刑を受けた国王は、チャールズ1世のみである。

2017年4月23日日曜日

サミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson)

ストランド通りの中州に建つセントクレメントディンズ教会の裏手にあるサミュエル・ジョンソン像

サミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson:1709年ー1784年)は、18世紀の英国において、小説家、詩人、評論家、道徳家、文芸評論家、伝記作家、編集者、そして、辞書編纂者として多岐にわたり、英国の文学界に多大な貢献をした人物である。

サミュエル・ジョンソン像の全景

サミュエル・ジョンソンは、1709年9月18日、イングランド中部の州スタフォードシャー(Staffordshire)のリッチフィールド(Lichfield)に出生。彼の父親は小さな書店主であった。
彼はオックスフォードのペンブルックカレッジ(Pembroke College)で学ぶが、家が貧しかったため、学資の工面が続かず、1年程で中退を余儀なくされ、故郷へ戻って、教員となった。
1735年、20歳年上で未亡人のエリザベス・ポーター(Elizabeth Porter:1689年ー1752年)と結婚した。

シティー・オブ・ウェストミンスター区と
シティー・オブ・ロンドンを境界線に建つ
テンプルバー(Temple Bar)

1737年に、サミュエル・ジョンソンはロンドンに出て来て、雑誌への寄稿を行うとともに、伝記、詩集や悲劇等を発表した。
1746年に、彼は「英語辞典(A Dictionary of the English Language)」の刊行計画を公表する。アカデミーフランセーズが1694年にフランス語辞典を完成させるまでに約40年間を要したため、個人で英語辞典を編纂することは到底無理だと一般に考えられていたが、刊行計画の公表から9年後の1755年に、彼は英語辞典2巻を完成させた。この業績により、同年、彼はオックスフォード大学から「文学修士(Master of Arts degree)」の学位を、授与された。また、1775年に、同大学より「法学博士(Doctor of Laws degree)」の学位を授与されている。約150年後に「オックスフォード英語辞典(Oxford English Dictionary)」(1928年)が完成するまでの間は、サミュエル・ジョンソンによる英語辞典が、英国における基礎となったのである。

ストランド通り沿いに建つ王立裁判所
(イングランドとウェールズの最高法廷)

1759年に、彼は小説「ラセラス(The History of Rasselas, Prince of Abissinia)」を発表。
1763年に、彼は約30歳年下でスコットランドの法律家/伝記作家であるジェイムズ・ボズウェル(James Boswell:1740年ー1795年)と知り合い、以後親交を結んだ。サミュエル・ジョンソンは、ジェイムズ・ボズウェルと一緒にスコットランドを旅した記録として、「スコットランド西方諸島の旅(A Journey to the Western Island of Scotland)」(1775年)を発表し、ジェイムズ・ボズウェルは、伝記として「サミュエル・ジョンソン伝(The Life of Samuel Johnson)」(1791年)に発表している。
1765年には、サミュエル・ジョンソンは「ウィリアム・シェイクスピア戯曲集(The Plays of William Shakespeare)」を刊行している。
他にも、彼は17-18世紀の詩人の伝記と評論をまとめた「詩人列伝(Lives of the Poets)」(1779年ー1781年)を発表した。

ストランド通りの中州に建つセントクレメントディンズ教会―
サミュエル・ジョンソン像はこの裏手に建っている

18世紀の英国において「文壇の大御所」と呼ばれたサミュエル・ジョンソンは、1784年12月13日の晩に死去して、ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)に埋葬された。歴代の王、女王や政治家等が埋葬されており、現在、墓地としては既に満杯状態で、新たに埋葬するスペースはなくなっている。

サミュエル・ジョンソン像は、
セントクレメントディンズ教会の裏手に
ひっそりと佇んでいる

親しみを込めて「ジョンソン博士(Dr. Johnson)」と呼ばれる彼のブロンズ像が、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)からシティー・オブ・ロンドン(City of London)へ向かって東に延びるストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)がフリートストリート(Fleet Streetー2014年9月21日付ブログで紹介済)へと名前を変える辺り、つまり、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)とシティー・オブ・ロンドンの境界線近くに建っている。具体的には、王立裁判所(Royal Court of Justiceーイングランドとウェールズの最高法廷)の前で、ストランド通りの中州に建つセントクレメントディンズ教会(St. Clement Danes)の裏手に、彼の像はひっそりと佇んでいるため、あまり気付かれないのが残念である。彼が住んでいた家「ジョンソン博士の家(Dr. Johnson's House)」が近くにある関係上、ここに彼の像が設置されたのだと思われるが、彼が英国の文学界に果たした役割を考えると、設置場所としては、少しばかり可哀想な扱いである。

2017年4月22日土曜日

リチャード・ズーチ作「諸国民間の法規」(’De Jure inter Gentes' by Richard Zouche)

クライストチャーチ(Christ Church)は、オックスフォード大学最大のカレッジで、
オックスフォード主教管区の大聖堂でもある

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)の冒頭、1878年にジョン・H・ワトスンはロンドン大学(University of Londonー2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospitalー2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。

ラドクリフカメラ(Radcliffe Camera)の近くに建つ
University Church of St. Mary the Virgin

英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Barー2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospitalー2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。


こうして、ベーカーストリート221B(221B Baker Streetー2014年6月22日/6月29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。彼らが共同生活を始めて間もなく、ホームズの元にスコットランドヤードのグレッグスン警部(Inspector Gregson)から事件発生を告げる手紙が届く。ホームズに誘われたワトスンは、ホームズと一緒に、ブリクストンロード(Brixton Road)近くの現場ローリストンガーデンズ3番地(3 Lauriston Gardensー2017年3月4日付ブログで紹介済)へと向かった。ホームズ達が到着した現場には、グレッグスン警部とレストレード警部(Inspector Lestrade)が二人を待っていた。現場で死亡していたのは、イーノック・J・ドレッバー(Enoch J. Drebber)の名刺を持つ、立派な服装をした中年の男性だった。


イーノック・J・ドレッバーの死体を発見したのは、ジョン・ランス巡査(Constable John Rance)であるという話をレストレード警部から聞くと、ホームズとワトスンの二人は、早速、彼が住むケニントンパークゲート(Kennington Park Gate)のオードリーコート46番地(46 Audley Courtー2017年3月25日付ブログで紹介済)へと向かう。そこで、ジョン・ランス巡査から死体発見の経緯を聞いたホームズは、ワトスンに対して、「彼は犯人を捕まえられる絶好のチャンスをみすみすとふいにしたのさ。」と嘆くのであった。


オックスフォード・ブルックス大学
(Oxford Brookes University)の構内(その1)

イーノック・J・ドレッバーの死体を持ち上げた際、床に落ちた女性の結婚指輪に気付いたホームズは、この指輪が犯人に繋がるものだと考え、朝刊全紙に広告を掲載して、
(1)金の結婚指輪がブリクストンロード近くのパブ「ホワイトハート(White Hart)」とホーランドグローヴ通り(Holland Grove)の間の道路で見つかったこと
(2)落とし主は、今晩8時から9時までの間に、ベーカーストリート221Bのワトスン博士を訪ねること
と告げるのであった。

オックスフォード・ブルックス大学の構内(その2)
オックスフォード・ブルックス大学の構内(その3)

「今午後8時だ。」と、私は懐中時計を見ながら言った。
「そうだな。おそらく、落とし主(犯人)は、あと数分でやって来るだろう。扉を少し開けておいてくれ。それでいい。それから、鍵を内側から差してくれ。ありがとう。僕が昨日露店で買ったこの古本は奇妙だな。ー「諸国民間の法規」ー1642年にローランズ(スペイン領低地地方)のリエージュにおいてラテン語で出版されたものだ。この小さな茶色い背表紙の本が出版された時、チャールズ(1世)の頭はまだ胴体にしっかりと付いていたんだ。」
「出版者は誰だい?」
「フィリップ・ド・クロイ、何者だろう?本の見返しに、かなり色あせたインクで『グリオルミ・ホワイト蔵書』ウィリアム・ホワイトとは誰だろう?多分、17世紀の実務的な法律家だろう。彼の筆跡には、法律家特有の癖がある。おや、待っていた人が来たようだ。」
シャーロック・ホームズがそう話している時、呼び鈴の音が鋭く鳴った。彼は静かに立ち上がり、椅子を扉の方へ動かした。使用人がホールを横切って、扉を開ける時に、鋭い掛け金の音がするのが聞こえた。

オックスフォード・ブルックス大学近くの住宅街

"It is eight o'clock now," I said, glancing at my watch.
"Yes. He will probably be here in a few minutes. Open the door sightly. That will do. Now put the key on the inside. Thank you! This is a queer old book. I picked up at a stall yesterday - 'De Jure inter Gentes' - published in Latin at Liege in the Lowlands, in 1642. Charles' head was still firm on his shoulders when this little brown-backed volume was struck off."
"Who is the printer?"
"Philippe de Croy, whoever he may have been. On the fly-leaf, in very faded ink, is written 'Ex libris Guliolmi Whyte'. I wonder who William Whyte was. Some pragmatical seventeenth century lawyer, I suppose. His writing has a legal twist about it. Here comes our man, I think."
As he spoke there was a sharp ring at the bell. Sherlock Holmes rose softly and moved his chair in the direction of the door. We heard the servant pass along the hall, and the sharp click of the latch as she opened it.

オックスフォードの中心街へと向かう通り

ホームズが露店で買った古本「諸国民間の法規(Of the law between Peopoles)」は、英国のリチャード・ズーチ(Richard Zouche:1590年ー1661年)が執筆したもので、彼はオックスフォード大学(University of Oxfordー2015年11月21日付ブログで紹介済)の法学教授(1619年ー1660年)や高等海事裁判所の判事(1641年ー1649年+1660年)等を歴任している。
「諸国民間の法規」は2部形式の本で、第1部のタイトルが「国家間の法律関係(De Jure inter Gentes)」とのこと。
同作は、1650年にオックスフォードで、そして、1651年にオランダのライデンで刊行されたそうなので、「緋色の研究」の内容とは異なっているように思える。

オックスフォード・ブルックス大学内の駐車場(その1)
オックスフォード・ブルックス大学内の駐車場(その2)

ちなみに、ローランズ(スペイン領低地地方)とは、現在のオランダとベルギーを含めた一帯の地理的呼称のことで、一般的には「ネーデルランズ(Nederlands)」と呼ばれていたが、スコットランドでは「ローランズ(Lowlands)」と呼ばれていた。
原作者のコナン・ドイルがスコットランドのエディンバラ(Edinburgh)出身だったため、ホームズの口を借りて、スペイン領低地地方を「ローランズ」と呼ばせているが、物語的には、ホームズはスコットランド出身であることを意味する。

2017年4月16日日曜日

<第300回> ロンドン ラットランドプレイス(Rutland Place)

ウィラビー研究所の外観として撮影に使用された建物が
ラットランドプレイス沿いに建っている

アガサ・クリスティー作「象は忘れない(Elephants can remember)」は1972年に発表された作品であるが、1975年に刊行されたエルキュール・ポワロ最後の事件となる「カーテン(Curtain)」が第二次世界大戦(1939年ー1945年)中の1943年に予め執筆されていることを考えると、執筆順では、本作品が最後のポワロ譚と言える。


推理作家のアリアドニ・オリヴァー(Ariadne Oliver)は、文学者昼食会において、バートン=コックス夫人(Mrs Burton-Cox)と名乗る婦人から奇妙なことを尋ねられる。それは、オリヴァー夫人が名付け親となったシーリア・レイヴンズクロフト(Celia Ravenscroft)という娘の両親が十数年前に起こした心中事件のことだった。バートン=コックス夫人がオリヴァー夫人に発した問いは、「あの娘の母親が父親を殺したんでしょうか?それとも、父親が母親を殺したんでしょうか?」だった。自分の名付け子すら満足に思い出せないオリヴァー夫人にとって、謎めいた心中事件のことなど、何も覚えていなかったのである。

チャーターハウススクエアに面して建つフローリンコート―
ポワロが住むホワイトへイヴンマンションズの外観として撮影に使用されている。
なお、ラットランドプレイスは、画面左奥にある

バートン=コックス夫人から尋ねられたことが非常に気になったオリヴァー夫人は、名付け子であるシーリアに連絡をとり、ひさしぶりに再会する。シーリアによると、彼女はバートン=コックス夫人の息子デズモンド(Desmond)と婚約中で、バートン=コックス夫人としては、シーリアの両親のどちらが相手を殺したのかが、シーリアとデズモンドが結婚した場合、遺伝的に好ましいのかどうかという問題に関わってくるらしい。


シーリアの説明によると、亡くなる数年前にインドで退役したアリステア・レイヴンズクロフト将軍(General Alistair Ravenscroft)は、妻のマーガレット(Margaret Ravenscroft)と一緒に、英国南西部のコンウォール州(Cornwall)にある海辺の家へと移って、静かな生活を送っていた。ある日、いつも通り、レイヴンズクロフト夫妻は飼い犬を連れて散歩に出かけたが、その後、レイヴンズクロフト将軍が保有する銃で二人とも撃たれて死亡しているのが発見された。
警察はレイヴンズクロフト夫妻の死を心中と見做したが、心中に至る動機は遂に見つからなかった。夫妻が経済的に困っていた様子はない上に、夫婦仲もよく、彼らを殺害しようと考える敵等は居なかったからである。
当時、シーリアは12歳で、スイスの学校へ行っていて、コンウォール州にある海辺の家には住んでいなかった。その頃、海辺の家に居たのは、家政婦、シーリアの元家庭教師、それにシーリアの伯母だけであった。彼らにも、夫妻を殺すような動機は見当たらなかったである。


オリヴァー夫人から相談を受けたポワロは、レイヴンズクロフト夫妻と関わりがあった人達を訪ねて、心中事件の前後のことを象のように詳細に記憶している人を捜すよう、彼女にアドバイスを送る。
一方で、ポワロは独自に真相の究明に乗り出し、旧友のスペンス元警視(ex Superintendent Spence)に依頼して、当時の事件担当者だったギャロウェイ元警視(ex Superintendent Garroway)を紹介してもらい、事件の調査内容を尋ねるのであった。

ウィラビー研究所の玄関口として撮影に使用された

英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「象は忘れない」(2013年)の回では、文学者昼食会において、バートン=コックス夫人から奇妙なこと(名付け親となったシーリア・レイヴンズクロフトの両親が十数年前に起こした心中事件のこと)を尋ねられた推理作家のオリヴァー夫人は、ホワイトへイヴンマンションズ(Whitehaven Mansions)に住むポワロの元を相談に訪れる。オリヴァー夫人がポワロに詳しい説明をしていると、突然の電話に彼らの話は中断される。電話は、ポワロの知り合いである精神科医のデイヴィッド・ウィラビー(Dr. David Willoughby)からで、自分と同じ精神科医である父親がウィラビー研究所(Willoughby Institute)の地下の元治療室にあるバスタブの中で死亡しているのが発見されたと言う。事態を重く見たポワロは中座すると、タクシーを捕まえて、ウィラビー研究所へと急行する。


ポワロがウィラビー研究所に着くと、そこにはデイヴィッド・ウィラビー博士の他に、スコットランドヤードのビール警部(Inspector Beale)が彼を待っていた。二人に案内されて、研究所の地下室へと降りたポワロは、デイヴィッド・ウィラビー博士からの連絡通り、元治療室のバスタブの中に彼の父親の遺体が沈んでいるのを確認する。彼の父親は縛られて、身動きができない状態で、ビール警部の説明によると、まず最初に何かで頭を殴られて気絶した後、縛られたままの状態で溺死させられた、とのこと。デイヴィッド・ウィラビー博士によれば、彼の父親は、自分の研究を続けるため、引き続き、地下にある元治療室をそのままの状態に保っていたらしいが、精神科医としては、かなり以前に隠退しており、殺害の動機を持つ人物に検討がつかない、とのことだった。

ラットランドプレイスの突き当たりは、
セントバーソロミュー・メディカルカレッジの入口になっている

アガサ・クリスティーの原作では、過去の事件だけで、現代の事件は発生しないが、TV版の場合、約90分間、過去の事件だけで視聴者の興味を繋ぎ止めるのは難しいと製作者側が判断して、現代の事件を追加したものと思われる。


ポワロがオリヴァー夫人との話を中座して駆け付けたウィラビー研究所は、TV版では明確に言及されていないものの、医療関係者が多く開業するハーリーストリート(Harley Streetー2015年4月11日付ブログで紹介済)沿いにある設定と推測される。ただし、実際には、ウィラビー研究所の建物外観は、ハーリーストリートではなく、ラットランドプレイス(Rutland Place)沿いに建つ建物を使用して撮影されている。


ラットランドプレイスは、シティー・オブ・ロンドン(City of London)の北側に位置するロンドン・イズリントン区(London Borough of Islington)内に所在している。具体的には、肉市場であるセントラルマーケッツ(Central Markets→シティー・オブ・ロンドンに属する)とは、チャーターハウスストリート(Charterhouse Streetー2017年1月14日付ブログで紹介済→大部分がシティー・オブ・ロンドンに属する)を間に挟んで、反対側にあるチャーターハウススクエア(Charterhouse Squareー2016年1月1日付ブログで紹介済→ロンドン・イズリントン区に属する)から北へ向かって延びる約20m程の短い通りが、ラットランドプレイスである。ラットランドプレイスの北側は、セントバーソロミュー・メディカルカレッジ(St. Bartholomew's Medical College)のキャンパス入口へと通じている。

ラットランドプレイスからチャーターハウススクエアを見たところ―
TV版の物語後半、シーリア・レイヴンズクロフトが
ウィラビー研究所を訪れた際、
この角度でそのシーンが撮影されている

チャーターハウススクエアから見て右側に建つ手前の建物の外観が、ウィラビー研究所として撮影に使用されている。
実は、ポワロが住むホワイトへイヴンマンションズの外観として撮影に使用されているフローリンコート(Florin Court, 6 - 9 Charterhouse Squareー2014年6月29日付ブログで紹介済)はチャーターハウススクエアに面しており、フローリンコートから左側へ少し移動すると、そこはウィラビー研究所の外観に使用された建物で、ほとんど目と鼻の先という位の近さである。TV版では、ポワロはタクシーに乗って駆け付けるような流れになっているが、実際の撮影は近距離で行われているのである。

チャーターハウススクエア内からフローリンコートを望む

TV画面上、ポワロがウィラビー研究所を何回か訪れた際、ウィラビー研究所の玄関ドアや玄関口辺りが映るのみで、建物全体を映さないだけではなく、ホワイトへイヴンマンションズに該るフローリンコートが映り込まないよう、細心の注意が払われている。
また、物語の後半、シーリア・レイヴンズクロフトが、彼女の母親であるマーガレットの双子で、彼女の伯母に該る土ロシアの治療記録を見せてもらうため、ウィラビー研究所を訪れるシーンがあるが、このシーンはセントバーソロミュー・メディカルカレッジのキャンパス入口側からチャーターハウススクエアへ向かって撮影されているが、左手に建つフローリンコートが画面上に映らないような角度にTVカメラが向けられているという注意の入れようである。