フレデリック・ショパンが、1848年のロンドンでの演奏旅行時に滞在したのが、 セントジジェイムズプレイス4番地で、 建物外壁には、そのことを示すブループラークが架けられている |
サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)の冒頭、1878年にジョン・H・ワトスンはロンドン大学(University of Londonー2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospitalー2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。
英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Barー2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospitalー2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。
セントジェイムズプレイス4番地の前から東側を見たところ― 画面奥を横切るのは、セントジェイムズストリート (St. James's Street) |
こうして、ベーカーストリート221B(221B Baker Streetー2014年6月22日/6月29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。彼らが共同生活を始めて間もなく、ホームズの元にスコットランドヤードのグレッグスン警部(Inspector Gregson)から事件発生を告げる手紙が届く。ホームズに誘われたワトスンは、ホームズと一緒に、ブリクストンロード(Brixton Road)近くの現場ローリストンガーデンズ3番地(3 Lauriston Gardensー2017年3月4日付ブログで紹介済)へと向かった。ホームズ達が到着した現場には、グレッグスン警部とレストレード警部(Inspector Lestrade)が二人を待っていた。現場で死亡していたのは、イーノック・J・ドレッバー(Enoch J. Drebber)の名刺を持つ、立派な服装をした中年の男性だった。
セントジェイムズプレイス4番地の建物全景 |
イーノック・J・ドレッバーの死体を発見したのは、ジョン・ランス巡査(Constable John Rance)であるという話をレストレード警部から聞くと、ホームズとワトスンの二人は、早速、彼が住むケニントンパークゲート(Kennington Park Gate)のオードリーコート46番地(46 Audley Courtー2017年3月25日付ブログで紹介済)へと向かう。そこで、ジョン・ランス巡査から死体発見の経緯を聞いたホームズは、ワトスンに対して、「彼は犯人を捕まえられる絶好のチャンスをみすみすとふいにしたのさ。」と嘆くのであった。そして、ホームズとワトスンは、ベーカーストリート221Bへと一旦戻る辻馬車の中で、話を続けた。
「指輪だよ、犯人はあの指輪を取り返すために現場に戻って来たのさ。もし犯人を捕まえる方法が他になくても、いつでもあの指輪を餌にして犯人を誘き寄せることができる。ワトスン、僕が犯人を絶対に捕まえてみせる。ー僕が犯人を捕まえる方に、2対1で賭けてもいい。君には礼を言わなければならない。君が居なければ、僕がこれまでに出会った中でも最も素晴らしい事件を逃していたかもしれない。『緋色の習作』と言うのは、どうだろう?芸術家が使う用語を使ってはいけないことはないだろう。『人生』という名の無色の糸かせの中を『殺人』という名の緋色の糸が通っているんだ。僕達がすべきことは、その絡まった糸を解し(ほづし)、糸かせから解いて(ほどいて)、全てを明らかにすることだ。そろそろ、昼食の時間だ。それから、ノーマン・ネルダだ。彼女のヴァイオリンの最初の音と弓使いは、実に素晴らしいんだ。彼女が本当に素晴らしく奏でるあのショパンの曲は、何だったかな?トゥラ~ラ~ラ~リラ~リラ~レイ。」
辻馬車の座席に凭れると、このアマチュア探偵は雲雀のように楽しげに歌ったのである。その一方で、人間の心の多面性について、私は思いを巡らせていた。
'The ring, man, the ring: that was what he came back for. If we have no other way of catching him, we can always bait our line with the ring. I shall have him, Doctor - I'll lay you two to one that I have him. I must thank you for it all. I might not have gone but for you, and so have missed the finest study I ever came across: a study in scarlet, eh? Why shouldn't we use a little art jargon. There's the scarlet thread of murder running through the colourless skein of life, and our duty is to unravel it, and isolate it, and expose every inch of it. And now for lunch, and then for Norman Neruda. Her attack and her bowing are splendid. What's that little thing of Chopin's she plays so magnificently: Tra-la-la-lira-lira-lay.'
Leaning back in the cab, this amateur bloodhound carolled away like a lark while I meditated upon the many-sidedness of the human mind.
セントジェイムズプレイス4番地の前から西側を見たところ |
モラヴィア(チェコスロヴァキアの中部地方ー元オーストリア(ハプスブルグ帝国)領)のヴァイオリン演奏家であるノーマン・ネルダ(Norman Neruda:1838年ー1911年→2017年4月1日付ブログで紹介済)がコンサートで演奏する曲を作曲したフレデリック・フランソワ・ショパン(Frederic Francois Chopin:1810年ー1849年)は、ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家である。彼は、ピアニストとしても有名であった。
彼は、慢性的な肺の疾患(肺結核)から体調がずーっと優れない上に、1847年、フランスの女流作家であるジョルジュ・サンド(George Sand:1804年ー1876年)との10年間に及ぶ関係に終止符を打ったことに伴い、ひどい鬱状態に陥っていた。
そんな最中の1848年、フレデリック・ショパンは、フランスと英国へ演奏旅行に出かけている。ロンドンでは、ヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)の御前演奏等を行い、成功を納めたものの、日程の厳しさは、彼の体調を更に悪化させる羽目となり、1849年10月17日、姉のルドヴィカ等に看取られながら、パリのヴァンドーム広場(Place Vendome)にあるアパートで息を引き取った。そして、彼の葬儀は、約2週間後の同年10月30日、パリのマドレーヌ寺院(Eglise de la Madeleine)で行われ、世界中から多くの人が参列したと言う。
ロンドンでの演奏旅行時に、フレデリック・ショパンが滞在したのは、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James's)内にあるセントジェイムズプレイス4番地(4 St. James's Place)で、そのことを示すブループラークが建物の外壁に架けられている。
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