2017年3月26日日曜日

ロンドン イングランド王立外科医師会(Royal College of Surgeons of England)

リンカーンズ・イン・フィールズの広場内から見たイングランド王立外科医師会

アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の秘密(The Mystery of the Spanish Crest)」は、短編集「クリスマスプディングの冒険(The Adventure of the Christmas Pudding)」(1960年)に収録されている一遍である。

イングランド王立外科医師会の入口

裕福な独り者であるチャールズ・リッチ少佐(Major Charles Rich)が、クレイトン夫妻(Mr and Mrs Clayton)、スペンス夫妻(Mr and Mrs Spence)とマクラーレン中佐(Commander McLaren)という長年来の友人5人を、自宅のフラットへ食事に招く。ところが、直前になって、招待客の一人であるクレイトン氏に、急な商用でスコットランドへ出かける必要が生じて、食事会に参加できなくなった。マクラーレン中佐と一緒にクラブで一杯飲んだ後、クレイトン氏は、駅へ向かう途中、事情を説明するために、リッチ少佐のフラットに立ち寄ったが、生憎と、リッチ少佐は外出していた。そこで、クレイトン氏は、リッチ少佐への伝言を残すべく、リッチ少佐の執事バージェス(Burgess)に居間へ案内してもらう。バージェスは、キッチンでの準備のため、クレイトン氏を居間に残したまま、その場を後にするが、リッチ少佐への伝言をしたためた後、クレイトン氏が立ち去るところを見かけていなかった。10分程して、リッチ少佐が帰宅し、バージェスを使い走りに外出させた。

イングランド王立外科医師会の建物前から
リンカーンズ・イン・フィールズの東側を見たところ―
画面奥にリンカーン法曹院(Lincoln's Inn―
2017年3月19日付ブログで紹介済)が見える

その後、クレイトン氏を除いた残り5人で、食事会は滞りなく終わったのであるが、翌朝、居間の掃除をしていたバージェスは、部屋の角に置いてあるスペイン櫃の蓋を開けると、櫃の内には首を刺し貫かれたクレイトン氏の死体が入っていたのである。スコットランドに居る筈のクレイトン氏が、スペイン櫃の内に居たのか?そして、彼は櫃の内で何をしていたのか?

リンカーンズ・イン・フィールズの広場内から見た
イングランド王立外科医師会(その2)

リッチ少佐は、クレイトン氏殺害の容疑で、警察に逮捕される。リッチ少佐はクレイトン夫人に魅かれており、リッチ少佐にとって、クレイトン氏は邪魔な存在だったと、警察は推測する。そして、食事会の直前、帰宅したリッチ少佐は、居間で彼への伝言をしたためているクレイトン氏に出会い、口論の末、クレイトン氏を刺し殺して、スペイン櫃内に押し込んだ単純明快な事件だと、警察は考えたのである。

リンカーンズ・イン・フィールズの通りから見た
イングランド王立外科医師会

クレイトン夫人と共通の友人経由、クレイトン夫人から依頼を受けたエルキュール・ポワロは首をひねった。刺し殺されたクレイトン氏の死体をスペイン櫃内に押し込んだまま、リッチ少佐は、その櫃がある居間で残りの招待客4人と一緒に食事会を行い、翌朝、執事のバージェスがクレイトン氏の死体を発見するまで、そのまま死体を放置していたことになる。リッチ少佐は、それ程までに愚かなのだろうか?ポワロの灰色の脳細胞が動き出す。


英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「スペイン櫃の秘密」(1991年)の回では、一旦帰宅して、クレイトン夫人に「緊急な用件でスコットランドへ出かける必要があるので、リッチ少佐との食事会には出席できなくなった。」と告げたクレイトン氏が、駅へ向かう途中、カーチス大佐(Colonel Curtissーアガサ・クリスティーの原作に登場するマクラーレン中佐に相当)と一緒に、軍人クラブで一杯飲む場面があるが、この軍人クラブの外観として、イングランド王立外科医師会(Royal College of Surgeons of England)が入居している建物が撮影に使用されている。


イングランド王立外科医師会が入居する建物は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のホルボーン地区(Holborn)内にあり、リンカーンズ・イン・フィールズ(Lincoln's Inn Fieldsー2016年7月2日付ブログで紹介済)の南側に、広場に面するように建っている。
ちなみに、リンカーンズ・イン・フィールズの東側、北側および西側はロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)に属しているが、南側のみシティー・オブ・ウェストミンスター区に属している。

イングランド王立外科医師会の紋章

イングランド王立外科医師会の前身は、14世紀後半まで遡る。
同医師会は、1797年にシティー(City)内のオールドベイリー通り(Old Bailey)沿いにあった外科医師会館から現在のリンカーンズ・イン・フィールズ35−43番地(35 - 43 Lincoln's Inn Fields)に移転した後、1800年に「ロイヤル」の称号を得て、「ロンドン王立外科医師会(Royal College of Surgeons in London)」という名前に変更。

ジョージ・ダンス(子)が住んでいた
ガワーストリート91番地(91 Gower Street)
ガワーストリート91番地の建物外壁には、
ジョージ・ダンス(子)がここに住んでいたことを示す
ブループラークが架けられている

1805年から1813年にかけて、英国の建築家であるジョージ・ダンス(子)(George Dance the Younger:1741年ー1825年)とジェイムズ・ルイス(James Lewis:1750年ー1820年)が設計した建物が建設されるが、英国の建築家であるサー・ジョン・ソーン(Sir John Soane:1753年ー1837年)の診断によって、建物の構造的な欠陥が発見される。

イングランド銀行(Bank of England)を囲む外壁内に設置されている
サー・ジョン・ソーンの像―
彼の代表作の一つがイングランド銀行であるが、
残念ながら、後に大幅に改修されてしまった

そのため、建替えのための公開コンペが行われ、「ビッグベン(Big Ben)」の愛称で親しまれているエリザベスタワー(Elizabeth Tower)を含むウェストミンスター宮殿(Palace of Westminster)の再建等で有名な英国の建築家サー・チャールズ・バリー(Sir Charles Barry:1795年ー1860年)によって、1833年に同ビルは建て替えられる。
そして、同医師会は、1843年に名前を現在の「イングランド王立外科医師会」へと変更する。

現在も残る
サー・チャールズ・バリー設計の柱廊式玄関

第二次世界大戦(1939年ー1945年)の1941年、ドイツ軍による爆撃により、同医師会が入居した建物にも焼夷弾がヒットして被害を蒙ったが、建物の柱廊式玄関や図書室等は、サー・チャールズ・バリーが建て替えたままの姿を現在も残している。

柱廊式玄関の上部
イングランド王立外科医師会の建物入口

同医師会の名前は「イングランド王立外科医師会」となっているが、イングランドとウェールズの外科医(歯科医を含む)が所属する職能団体で、外科的な医療を統制して、患者の治療と外科技術について最高水準を促進、前進させることを目的としている。

2017年3月25日土曜日

ロンドン ケニントンパークゲート/オードリーコート46番地(Kennington Park Gate / 46 Audley Court)

これは、地下鉄ベーカーストリート駅(Baker Street Tube Station)へと至る
マリルボーンロード(Marylebone Road)の地下通路内の壁に描かれている

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)の冒頭、1878年にジョン・H・ワトスンはロンドン大学(University of Londonー2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospitalー2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。

英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Barー2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospitalー2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。

こうして、ベーカーストリート221B(221B Baker Streetー2014年6月22日/6月29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。彼らが共同生活を始めて間もなく、ホームズの元にスコットランドヤードのグレッグスン警部(Inspector Gregson)から事件発生を告げる手紙が届く。ホームズに誘われたワトスンは、ホームズと一緒に、ブリクストンロード(Brixton Road)近くの現場ローリストンガーデンズ3番地(3 Lauriston Gardensー2017年3月4日付ブログで紹介済)へと向かった。ホームズ達が到着した現場には、グレッグスン警部とレストレード警部(Inspector Lestrade)が二人を待っていた。現場で死亡していたのは、イーノック・J・ドレッバー(Enoch J. Drebber)の名刺を持つ、立派な服装をした中年の男性だった。

ディアストーカーを冠り、パイプを咥えたホームズの横顔―
彼の顔の辺りには、地下鉄ベーカーストリート駅構内を支える
地面らしきものがガラス越しに見えている

「何か判りましたか?」と、二人(グレッグスン警部とレストレード警部)が尋ねた。
「僕が差し出がましく君達を手助けすると、君達から手柄を横取りすることになるかもしれない。」と、ホームズは答えた。「今のところ、君達は非常にうまくやっているので、誰かに横槍を入れられたら嫌だろう。」ホームズは、話している間、皮肉一杯の口調だった。「今後、君達の捜査の進捗状況について教えてもらえるのであれば。」と、彼は続けた。「喜んで、僕が出来る限りの手助けをさせてもらうよ。それまでの間、僕は死体を発見した巡査と話がしたい。その巡査の名前と住所を教えてくれないか?」
レストレード警部は、自分の手帳に目をやった。「ジョン・ランス巡査です。」と、彼は言った。「彼は、現在、非番です。ケニントンパークゲートのオードリーコート46番地へ行けば、彼に会えるでしょう。」
ホームズは、レストレード警部が教えた住所を書き留めた。

'What do you think of it, sir?' they both asked.
'It would be robbing you of the credit of the case if I was to presume to help you,' remarked my friend. 'You are doing so well now that t would be a pity for anyone to interfere.' There was a world of sarcasm in his voice as he spoke. 'If you will let me know how your investigation go,' he continued, 'I shall be happy to give you any help I can. In the meantime I should like to speak to the constable who found the body. Can you give me his name and address?'
Lestrade glanced at his note-book, 'John Rance,' he said. 'He is off duty now. You will find him at 46 Audley Court, Kennington Park Gate.'
Holmes took a note of the address.

開設した当時の地下鉄ベーカーストリート駅

話をしている間、私達が乗った辻馬車は薄汚れた通りと物寂しい脇道を次々と縫うように通り抜けていった。最も薄汚れた通りに来ると、御者は辻馬車を停めた。「あれがオードリーコートです。」と、濁った色をしたレンガが中に見える細い隙間を指差しながら、彼は言った。「御二人が戻って来るまで、ここでお待ちします。」
残念ながら、オードリーコートは魅力的な場所ではなかった。狭い小道を進むと、むさ苦しい住居に囲まれた石畳の中庭へと出た。私達は薄汚れた子供達の一団の間を、そして、色あせた下着を干した群れも通り抜けて、46番地へと辿り着いた。46番地の戸口には、ランスという名前が彫られた真鍮の小片が取り付けられていた。戸を叩くと、幸い巡査は寝室に居たので、彼が寝室から出て来るまで、私達は小さな客間へ通されて、彼を待った。
間もなく、彼は寝室から出て来たものの、睡眠を邪魔されて、少しばかり不機嫌そうだった。「警察本部に報告書を提出済ですが...」と、彼は言った。
ホームズはポケットから半ソブリン金貨を取り出すと、考え込むようにもてあそんだ。「僕達は君から直接全てを聞きたいと思っているんだ。」と、彼は言った。
「話せることならば、喜んで何でもお話します。」と、巡査は半ソブリン金貨に目をやりながら答えた。

This conversation had occurred while our cab had been threading its way through a long succession of dingy streets and dreary by-ways. In the dingiest of them our driver came to a stand. 'That's Audley Court in there,' he said, pointing to a narrow slit in the line of dead-coloured brick. 'You'll find me here when you come back.'
Audley Court was not an attractive locality. The narrow passage led us into a quadrangle paved with flags and lined by sordid dwellings. We picked our way among groups of dirty children, and through lines of discoloured linen, until we came to Number 46, the door of which was decorated with a small slip of brass on which the name Rance was engraved. On enquiry we found that the constable was in bed, and we were shown into a little front parlour to await his coming.
He appeared presently, looking a little irritable at being disturbed in his slumbers. 'I made my report at the office,' he said. 
Holmes took a half-sovereign from his pocket and played with it pensively. 'We thought that we should like to hear it all from your own lips,' he said.
'I shall be most happy to tell you anything I can,' the constable answered with his eyes upon the little gold disk.

ブリクストンロード近くのローリストンガーデンズ3番地でイーノック・J・ドレッバーの死体を発見したジョン・ランス巡査(Constable John Rance)が住んでいるケニントンパークゲートのオードリーコート46番地(46 Audley Court, Kennington Park Gate)は、テムズ河(River Thames)の南側にあることになっているが、残念ながら、ロンドンにおける現在の住所表記上、ケニントンパークゲートも、オードリーコート(46番地)も存在しておらず、両方とも架空の住所である。

2017年3月19日日曜日

ロンドン リンカーン法曹院/ニュースクエア(Lincoln's Inn / New Square)

リンカーンズ・イン・フィールズ(Lincoln's Inn Fileds)から見たニュースクエア

アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の秘密(The Mystery of the Spanish Crest)」は、短編集「クリスマスプディングの冒険(The Adventure of the Christmas Pudding)」(1960年)に収録されている一遍である。

リンカーンズ・イン・フィールズの通りから見た
リンカーン法曹院のグレートホール/ニューホール

裕福な独り者であるチャールズ・リッチ少佐(Major Charles Rich)が、クレイトン夫妻(Mr and Mrs Clayton)、スペンス夫妻(Mr and Mrs Spence)とマクラーレン中佐(Commander McLaren)という長年来の友人5人を、自宅のフラットへ食事に招く。
ところが、直前になって、招待客の一人であるクレイトン氏に、急な商用でスコットランドへ出かける必要が生じて、食事会に参加できなくなった。マクラーレン中佐と一緒にクラブで一杯飲んだ後、クレイトン氏は、駅へ向かう途中、事情を説明するために、リッチ少佐のフラットに立ち寄ったが、生憎と、リッチ少佐は外出していた。
そこで、クレイトン氏は、リッチ少佐への伝言を残すべく、リッチ少佐の執事バージェス(Burgess)に居間へ案内してもらう。バージェスは、キッチンでの準備のため、クレイトン氏を居間に残したまま、その場を後にするが、リッチ少佐への伝言をしたためた後、クレイトン氏が立ち去るところを見かけていなかった。10分程して、リッチ少佐が帰宅し、バージェスを使い走りに外出させた。

リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場から見た
リンカーン法曹院のグレートホール/ニューホール

その後、クレイトン氏を除いた残り5人で、食事会は滞りなく終わったのであるが、翌朝、居間の掃除をしていたバージェスは、部屋の角に置いてあるスペイン櫃の蓋を開けると、櫃の内には首を刺し貫かれたクレイトン氏の死体が入っていたのである。スコットランドに居る筈のクレイトン氏が、スペイン櫃の内に居たのか?そして、彼は櫃の内で何をしていたのか?

リンカーン法曹院の
グレートホール/ニューホールと入口の門

リッチ少佐は、クレイトン氏殺害の容疑で、警察に逮捕される。リッチ少佐はクレイトン夫人に魅かれており、リッチ少佐にとって、クレイトン氏は邪魔な存在だったと、警察は推測する。そして、食事会の直前、帰宅したリッチ少佐は、居間で彼への伝言をしたためているクレイトン氏に出会い、口論の末、クレイトン氏を刺し殺して、スペイン櫃内に押し込んだ単純明快な事件だと、警察は考えたのである。

リンカーン法曹院の入口の門

クレイトン夫人と共通の友人経由、クレイトン夫人から依頼を受けたエルキュール・ポワロは首をひねった。刺し殺されたクレイトン氏の死体をスペイン櫃内に押し込んだまま、リッチ少佐は、その櫃がある居間で残りの招待客4人と一緒に食事会を行い、翌朝、執事のバージェスがクレイトン氏の死体を発見するまで、そのまま死体を放置していたことになる。リッチ少佐は、それ程までに愚かなのだろうか?ポワロの灰色の脳細胞が動き出す。

リンカーン法曹院の入口の門上部

英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「スペイン櫃の秘密」(1991年)の回では、ヘイスティングス大尉と一緒に劇場でオペラを観劇していたポワロは、幕間に以前事件を解決してあげたことがあるレディー・キャロライン・チャタートン(Lady Caroline Chatterton)から声をかけられ、彼女の友人であるクレイトン夫人が夫のクレイトン氏に殺されるのではないかという奇妙な相談を受ける。後日、ヘイスティングス大尉を伴って、レディー・チャタートンの自宅を訪問したポワロは、彼女から更に詳しい説明を受けるのであるが、彼女の話の中で、クレイトン氏が歩いている場所として、リンカーン法曹院(Lincoln's Inn)があるニュースクエア(New Square)が撮影に使用されている。
後の場面で、リッチ少佐の食事会へ行けなくなった理由をクレイトン夫人に対して話すクレイトン氏の様子から、クレイトン氏の職業は弁護士と類推されるので、それに合わせて、この場所で撮影されたものと思われる。

リンカーン法曹院の入口ゲートを抜けると、
ニュースクエア内に入る

リンカーン法曹院/ニュースクエアは、ロンドンの中心部ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のホルボーン地区(Holborn)内にある。
リンカーン法曹院の正式名は「The Honourable Society of Lincoln's Inn」で、法廷弁護士の養成や認定を行う機関である。リンカーン法曹院はロンドンに4つある法曹院の1つで、他は「ミドルテンプル(Middle Temple)」、「インナーテンプル(Inner Temple)」と「グレイ法曹院(Gray's Inn)」の3つである。

撮影当時、リンカーン法曹院の
グレートホール/ニュースクエアの外壁改修工事が
行われていた

元々、司法訓練は、シティー(City)において、主に聖職者が行っていたが、イングランド王のヘンリー3世(Henry III of England:1207年ー1272年)による勅令によって、シティー内の施設を司法訓練用に使用することが認められなくなるとともに、聖職者による司法訓練が禁止された。そのため、司法関係者は、当時シティー外のウェストミンスターホール(Westminster Hall)にあった裁判所に近いホルボーン地区へと活動場所を移すこととなった。シティーからホルバーン地区への司法関係者の移転を積極邸に支援したのが、リンカーン法曹院が現在建っている辺りに屋敷を有していた第3代リンカーン伯爵ヘンリー・ド・レイシー(Henry de Lacy, 3rd Earl of Lincoln:1251年ー1311年)である。1311年、ロンドンの自宅で死去した彼は、セントポール大聖堂に埋葬されたが、1666年のロンドン大火(Great Fire of London)によって、彼の遺骨は焼失してしまった。

15世紀前半(1422年頃)に当地に法曹院が設立され、徒弟制による司法訓練が開始された。その際、当地への司法関係者の移転を奨励した第3代リンカーン伯爵ヘンリー・ド・レイシーに因んで、「リンカーン法曹院」と名付けられたと言われている。

リンカーン法曹院の幹部員である
ヘンリー・サールの名前に因んで名付けられたサールストリート

ニュースクエアはリンカーン法曹院の南側に位置しており、真ん中にある広場の三方を囲むように、建物が建っている。ニュースクエアはリンカーン法曹院を構成する3つの区画の1つであり、17世紀末に整備された。ニュースクエアは、当時当地を整備した法曹院の幹部員(Bencher)であるヘンリー・サール(Henry Serle)の名前に因んで、「サールコート(Serle Court)」と呼ばれていたが、法曹院を構成する区画の1つであるオールドスクエア(Old Square)に対して、「ニュースクエア」へと変更された。

画面の左側がリンカーンズ・イン・フィールズで、
画面の右側がサールストリート

TV版において、クレイトン氏がニュースクエア内を歩く場面は、ニュースクエアの南側から北側を向いて撮影されており、画面の奥にリンカーン法曹院の「グレイトホール/ニューホール(Great Hall / New Hall)」が見えるが、残念ながら、ニュースクエア内は、関係者のみ立ち入り可で、一般人の立ち入りが制限されている。

2017年3月18日土曜日

ロンドン ストランド通り/アメリカ両替所(Strand / American Exchange)

ブリクストンロードの近くにあるローリストンガーデンズ3番地で死体となって発見された
イーノック・J・ドレッバーが住所として気付扱いにしていたアメリカ両替所があった場所

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)の冒頭、1878年にジョン・H・ワトスンはロンドン大学(University of Londonー2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospitalー2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。

アメリカ両替所があった場所は、画面右下の「WEST STRAND」の文字「D」の下辺り

英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Barー2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospitalー2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。

アメリカ両替所があったのは、画面のやや真ん中下辺りで、
赤と黒に彩色されたタクシーがストランド通りへと出て来るところ

こうして、ベーカーストリート221B(221B Baker Streetー2014年6月22日/6月29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。彼らが共同生活を始めて間もなく、ホームズの元にスコットランドヤードのグレッグスン警部(Inspector Gregson)から事件発生を告げる手紙が届く。ホームズに誘われたワトスンは、ホームズと一緒に、ブリクストンロード(Brixton Road)近くの現場ローリストンガーデンズ3番地(3 Lauriston Gardensー2017年3月4日付ブログで紹介済)へと向かった。ホームズ達が到着した現場には、グレッグスン警部とレストレード警部(Inspector Lestrade)が二人を待っていた。現場で死亡していたのは、イーノック・J・ドレッバー(Enoch J. Drebber)の名刺を持つ、立派な服装をした中年の男性だった。

夕方、帰宅のため、チャリングクロス駅へと向かう人達の流れ

「彼の住所はどこになっているんだい?」(ホームズ)
「ストランド通りのアメリカ両替所です。ー気付になっています。手紙は両方ともギオン汽船会社(→正式名は、Liverpool and Great Western Steamship Company)からで、リヴァプール発の船の出航に関するものです。この不幸な男がちょうどニューヨークへ戻ろうとしていたのは、間違いありません。」
「このスタンガーソンという男については、何か調べたのかい?」(ホームズ)
「直ぐに調べました。」と、グレッグスンが言った。「全ての新聞に問い合わせの広告を出させました。部下の一人をアメリカ両替所へ行かせましたが、まだ戻って来ていません。」

'At what address?'
'American Exchange, Strand - to be left till called for. They are both from the Guion Steamship Company, and refer to the sailing to their boats from Liverpool. It is clear that this unfortunate man was about to return to New York.'
'Have you made any enquiries as to this man Stangerson?'
'I did it at once, sir,' said Gregson. 'I have had advertisements sent to all the newspapers, and one of my men has gone to the American Exchange, but he has not returned yet.'

現在、アメリカ両替所は残っておらず、
チャリングクロス駅からタクシーが出て来る道となっている

ブリクストンロード近くのローリストンガーデンズ3番地で死体となって発見されたイーノック・J・ドレッバーのポケット内にあった二通の手紙の発送元になっていたアメリカ両替所(American Exchange)は、実際に、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)内にあるストランド通り(Strand)沿いに建っていたものの、残念ながら、現在は残っていない。具体的な場所は、チャリングクロス駅(Charing Cross Stationー2014年9月20日付ブログで紹介済)の建物を出た左手側、現在、信号機が設置されているところである。

2017年3月12日日曜日

ロンドン フォーチュン劇場(Fortune Theatre)

フォーチュン劇場―
ここで、アガサ・クリスティー作の戯曲版「ホロー荘の殺人」が1951年6月7日に上演された

アガサ・クリスティー作「ホロー荘の殺人(The Hollow)」(1946年)は、ある年の9月末の週末、行政官だったサー・ヘンリー・アンカテル(Sir Henry Angkatell)と夫人のルーシー・アンカテル(Lucy Angkatell)は、友人のクリストウ夫妻をロンドン近くの自宅ホロー荘へ招待して、彼らをもてなす計画をするところから、話が始まる。

アルビオンタヴァーンという名の
パブが営業していた跡地に
フォーチュン劇場が1924年に建設された

夫のジョン・クリストウ(John Christow)はハーリーストリート(Harley Streetー2015年4月11日付ブログで紹介済)で成功をおさめた外科医で、夫人のガーダ・クリストウ(Gerda Christow)は純真かつ無邪気な性格で、夫のジョンに対して崇拝に近い位の愛情を捧げていた。ただ、ガーダは簡単な室内ゲームも満足にできないのが、ルーシー・アンカテルにとって頭の痛い点だった。

フォーチュン劇場の正面(その1)

クリストウ夫妻の他には、以下の人物が招待されていた。

(1)ミッジ・ハードキャッスル(Midge Hardcastle):ルーシー・アンカテルの従妹で、服飾関係の店員として働いている。
(2)エドワード・アンカテル(Edward Angkatell):サー・ヘンリー・アンカテルの従弟で、アンカテル家の領地エインズウィック(Ainswick)の法廷相続人。
(3)ヘンリエッタ・サヴァナク(Henrietta Savernake):彫刻家
(4)デイヴィッド・アンカテル(David Angkatell):ルーシー・アンカテルの従兄弟で、学生。

更に、ルーシー・アンカテルがバグダッドで出会ったエルキュール・ポワロが偶然ホロー荘の近くに別荘を借りていたため、彼女は彼を日曜日の昼食に招いていた。

フォーチュン劇場の入口を横から見たところ

招待客が到着して、週末が始まると、ルーシー・アンカテルの心配が的中することになった。ミッジ・ハードキャッスルはエドワード・アンカテルのことを愛していたが、当人のエドワード・アンカテルはヘンリエッタ・サヴァナクにエインズウィックの女主人になってほしいと思っている。ところが、ヘンリエッタ・サヴァナクはジョン・クリストウと不倫関係にあったのだ。そして、デイヴィッド・アンカテルはそんな彼らを嫌っていた。

フォーチュン劇場のステージドア

ポワロの向かいの別荘を借りている女優のヴェロニカ・クレイ(Veronica Clay)がきらしたマッチを借りようとホロー荘へとやって来たで、状況は更に緊迫度を増した。ヴェロニカ・クレイは以前ジョン・クリストウと交際しており、彼に外科医の仕事を捨てて、自分と一緒にハリウッドへ来るように誘ったが、彼は彼女の要請を断り、彼女としては、それを良しとはしていなかった。そして、これが15年振りの再会であった。ジョン・クリストウは、以前のようにヴェロニカ・クレイの魅力に抗いできず、結局、彼女を別荘まで送って行くことになった。ジョン・クリストウが、午前3時にヴェロニカ・クレイの別荘からホロー荘へと戻って来た際、誰かに見られているように感じた。ところが、誰の姿も見当たらず、妻のガーダが寝室で寝ていることを確認すると、ジョン・クリストウは安心して、床に就くのであった。

フォーチュン劇場の正面(その2)

翌日の日曜日、ルーシー・アンカテルに昼食へ招かれたポワロは、ホロー荘を訪れた。執事のガジョン(Gudgeon)に案内されて、昼食前の一杯のため、プールの側の東屋(あずまや)へ向かったポワロであったが、プールのところにホロー荘の主夫妻や招待客達が集まっているのを目にする。そして、彼らが囲んでいたのは、銃で撃たれ、血を流して倒れているジョン・クリストウと、銃を手にして傍らに立つガーダ・クリストウという芝居染みた光景であった。当初、ポワロは、名探偵である自分を歓迎するための余興だと考えたが、直ぐに冗談事ではないことが判る。正に、ポワロの目の前で、本物の殺人事件が発生したのであった。

フォーチュン劇場では、
スーザンヒルの原作をベースにした
「黒衣の女―ある亡霊の物語」が1989年から上演され、
ロングランを続けている

アガサ・クリスティーは、後に自伝において、「ホロー荘の殺人」のことを次のように記している。
「いつも思っていたことだったが、『ホロー荘の殺人』では、ポワロを登場させたことは失敗だった。私は自分の小説にポワロを出すことに慣れっこになっていたから、この小説にも、当然、彼が入ってきたのだが、それが失敗だった。」と。

そのため、アガサ・クリスティーは、「ホロー荘の殺人」を戯曲化した際、ポワロガ登場しない筋書きに変更している。ポワロの代わりに、スコットランドヤードの Inspector Colquhoun と Detective Sergeant Penny が事件の捜査にあたる。
また、ストーリーを簡略化させる関係上、デイヴィッド・アンカテルは登場人物から外されている。それに加えて、ヘンリエッタ・サヴァナクの名前がヘンリエッタ・アンカテル(Henrietta Angkatell)へ、ミッジ・ハードキャッスルの名前がミッジ・ハーヴェイ(Midge Harvey)へと変更されている。

フォーチュン劇場の外壁に架けられた
「黒衣の女―ある亡霊の物語」の広告(その1)

アガサ・クリスティー作の戯曲版「ホロー荘の殺人」は、1951年6月7日、フォーチュン劇場(Fortune Theatre)において上演された。
フォーチュン劇場は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)内にあるラッセルストリート(Russell Street)に面して建つ劇場である。

フォーチュン劇場の外壁に架けられた
「黒衣の女―ある亡霊の物語」の広告(その2)

フォーチュン劇場が現在建つ場所には、以前、アルビオンタヴァーン(Albion Tavern)という名のパブが営業しており、その土地を劇作家で興行主でもあったローレンス・コーウェン(Laurence Cowen:1865年ー1942年)が購入して、建築家のアーネスト・シャウフェルバーグ(Ernest Schaufelberg)に設計を依頼。1922年から1924年にかけて、劇場は建設された。フォーチュン劇場は、第一次世界大戦(1914年ー1918年)以降にロンドンで建設された最初の劇場で、かつ、コンクリートを用いて建てられたロンドン内で最も古い建物である。

フォーチュン劇場の正面外壁上部には、
「テレプシコーラ」像が設置されている

建物の正面外壁上部には、彫刻家M・H・クリックトン(M. H. Crichton)が制作した「テレプシコーラ(ギリシア語: Terpsichore、英語: Terpsichora)」像が設置されている。なお、「テレプシコーラ」は、ギリシア神話に登場する文芸の女神の一人で、合唱や舞踏を司っている。そのため、「テレプシコーラ」とは、「踊りの楽しみ」を意味する。

「テレプシコーラ」像のアップ

竣工した劇場は、1924年8月8日に「フォーチュンスリラー劇場(Fortune Thriller Theatre)」として正式にオープンした。
同劇場では、1989年から英国の作家スーザン・ヒル(Susan Hill:1942年ー)の原作「黒衣の女ーある亡霊の物語(The Woman in Black)」をベースにした作品がロングランを続けている。2001年には上演回数5千回を達成している。2008年9月には、日英外交関係150周年を記念して、日本の俳優の上川隆也(1965年ー)と斎藤晴彦(1940年ー2014年)による日本語での上演が行われた。

フォーチュン劇場の観客収容人数は432名で、ウェストエンド(West End)内の劇場では二番目に小さいと言われている。
同劇場は、1960年に改修され、1994年5月にはイングリッシュ・ヘリテージ(English Heritage)によって「グレードⅡ(Grade II)」の建物に指定されている。

2017年3月11日土曜日

ロンドン バラード&ランズ/コーンヒル通り(Barraud & Lunds / Cornhill)

大英博物館(British Museum)内に展示されているバラード&ランズ製の懐中時計

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)の冒頭、1878年にジョン・H・ワトスンはロンドン大学(University of Londonー2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospitalー2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。

上記の懐中時計の説明

英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Barー2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospitalー2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。



こうして、ベーカーストリート221B(221B Baker Streetー2014年6月22日/6月29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。彼らが共同生活を始めて間もなく、ホームズの元にスコットランドヤードのグレッグスン警部(Inspector Gregson)から事件発生を告げる手紙が届く。ホームズに誘われたワトスンは、ホームズと一緒に、ブリクストンロード(Brixton Road)近くの現場ローリストンガーデンズ3番地(3 Lauriston Gardensー2017年3月4日付ブログで紹介済)へと向かった。ホームズ達が到着した現場には、グレッグスン警部とレストレード警部(Inspector Lestrade)が二人を待っていた。現場で死亡していたのは、立派な服装をした中年の男性だった。

地下鉄バンク駅入口から見たシティー内風景―
真正面が王立取引所(Royal Exchange)だった建物で、
三菱地所が開発したパタノスタースクエア(Paternoster Square)へ移転済。
画面右奥へ延びる通りがコーンヒル通り


「彼のポケットから何か見つかったかい?」(ホームズ)
「ここに全部あります。」と、グレッグスンは階段の一番下の段に乱雑に並べられたものを指し示しながら言った。「金の時計は、番号は97163、ロンドンのバラード製のものです。時計用の金鎖は、非常に重くて、メッキではありません。金の指輪は、フリーメイソンの図案になっています。金のピンには、ブルドッグの頭が付いていて、その目にはルビーが入っています。ロシアの鞣し革製の名刺入れで、中にはクリーブランドのイーノック・J・ドレッバー名義の名刺がありました。ワイシャツのE.J.D.と一致します。財布はなく、7ポンド13シリングの小銭だけです。ボッカチオの『デカメロン』の文庫版で、見返しにジョーゼフ・スタンガーソンという名前が書かれています。その他には、手紙が二通で、一通はE.J.ドレッバー宛で、もう一通はジョーゼフ・スタンガーソン宛です。」

コーンヒル通りを西側から東方面へ見たところ

コーンヒル通りを東側から西方面へ眺めたところ

'What did you find in his pockets?'
'We have it all here,' said Gregson, pointing to a litter of objects upon one of the bottom steps of the stairs. 'A gold watch, No. 97163 by Barraud of London. Gold Albert chain, very heavy and solid. Gold ring, with masonic device. Gold pin - bulldog's head, with rubies as eyes. Russian-leather card-case, with cards of Enoch J. Drebber of Cleveland, corresponding with the E. J. D. upon the linen. No purse, but loose money to the extent of seven pounds thirteen. Pocket edition of Boccaccio's Decameron, with name of Joseph Stangerson upon the flyleaf. Two letters - one addressed to E. J. Drebber and one to Joseph Stangerson.'

コーンヒル通りの西端

City and South London Railway の
主任技師(Chief Engineer)である
James Henry Greathead(1844年ー1896年)

ブリクストンロード近くのローリストンガーデンズ3番地で死亡していたイーノック・J・ドレッバー(Enoch J. Drebber)のポケットに入っていた金時計を製造したバラードの正式名は「バラード&ランズ(Barraud & Lunds)」で、実在の時計製造/修理業者である。

王立取引所だった建物の裏側にあるロイヤルエクスチェンジ広場

同広場内には、ロイターズ(Reuters)を設立した
Paul Julius Reuter(1816年―1899年)の像が置かれている

「バラード&ランズ」は、1750年にフランシスーガブリエル・バラード(Francis-Gabriel Barraud:1727年ー1795年)によって創業されたと言われていたが、以下の変遷が正しいようである。

1796年: ポール・フィリップ・バラード(Paul Philip Barraud)が創業 → 「バラード、コーンヒル(Barraud, Cornhill)」
1809年: ポール・フィリップ・バラードの長男フレデリック・ジョーゼフ・バラード(Frederick Joseph Barraud)が共同経営者となる → 「バラード&サン(Barraud & Son)」
1814年: ポール・フィリップ・バラードの次男ジョン・バラード(John Barraud)が共同経営者となる → 「バラーズ(Barrauds)」
1820年: ポール・フィリップ・バラードが死去
1838年: ジョン・リチャード・ランド(John Richard Lund)が共同経営者となる → 「バラーズ&ランド(Barrauds & Lund)」
1849年: フレデリック・ジョーゼフ・バラードが死去 → 「バラード&ランド(Barraud & Lund)」
1869年: ジョン・リチャード・ランドの息子であるジョン・アレキサンダー・ランド(John Alexander Lund)が共同経営者となる → 「バラード&ランズ(Barraud & Lunds)」


英国の詩人である Thomas Gray(1716年―1771年)が生誕した場所

「バラード&ランズ」が創業されたのはコーンヒル通り(Cornhill)で、ロンドンの経済活動の中心地であるシティー(City)内に位置している。地下鉄バンク駅(Bank Tube Station)から地下鉄オルドゲート駅(Aldgate Tube Station)方面へ向かって、コーンヒル通りが東に延びている。

コーンヒル通り沿いに建つ
St. Peter-Upon-Cornhill Church of England