TV 版のポワロシリーズにおいて、レディー・アストウェルの話相手リリー・マーグレイヴが、 サー・ルーベン・アストウェルの書斎金庫内から持ち出した 兄ハンフリー・ネイラーの実験データを持参した先の場所として撮影に使用されたのが、 インペリアルカレッジ・ロンドンの建物である。 |
殺害されたサー・ルーベン・アストウェルが書斎の金庫内に保管していたハンフリー・ネイラーの実験データを持ち出したリリー・マーグレイヴは、兄
アガサ・クリスティー作「負け犬(The Under Dog)」は、短編集「負け犬他(The Under Dog and Other Stories)」(1950年)に収録されている短編の一つである。
エルキュール・ポワロの元を、レディー・アストウェル(Lady Astwell)の話相手(コンパニオン)であるリリー・マーグレイヴ(Lily Margrave)が事件の依頼に訪れる。彼女はレディー・アストウェルの指示でここに来たのだと言う。
実は、10日前に、サー・ルーベン・アストウェル(Sir Ruben Astwell)が、モン・ルポ荘(Mon Repos)内の「塔の部屋(Tower Room)」と呼ばれる特別な書斎において、何者かに後頭部を鈍器のようなもので撲られ、殺害されるという事件が発生していた。サー・ルーベン・アストウェルを殺害した犯人として、彼の甥であるチャールズ・レヴァーソン(Charles Leverson)が逮捕されるが、レディー・アストウェルは、「証拠は全くないが、直感によると、犯人は甥ではなく、サー・ルーベン・アストウェルの温厚な秘書オーウェン・トレフューシス(Owen Trefusis)だ。」と考えているのだそうだ。そこで、レディー・アストウェルは、話相手のリリー・マーグレイヴをポワロの元へ使わせて、事件の調査を頼もうとしていた。事件発生当時、モン・ルポ荘には、西アフリカから戻って来たばかりで、サー・ルーベン・アストウェルと同じ位の癇癪持ちの弟ヴィクター・アストウェル(Victor Astwell)が滞在しており、サー・ルーベン・アストウェルとの間で一悶着あったようである。
当建物の前身は、王立地質学学校の建物である |
一方、話相手のリリー・マーグレイヴはレディー・アストウェルの考えには同調しておらず、その上、彼女としては、できればポワロにこの事件の調査には関わってほしくないと思っているように、ポワロには感じられた。リリー・マーグレイヴは事件に関連する何か重要なことを隠しているようだ。リリー・マーグレイヴの不自然な態度に興味を抱いたポワロは、レディー・アストウェルの依頼を受け、モン・ルポ荘を訪れて、サー・ルーベン・アストウェルを撲殺した犯人を見つけ出すべく、捜査に乗り出すのであった。
建物入口右側の外壁彫刻 |
英国の TV 会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「負け犬」(1993年)の回では、物語の後半、殺害されたサー・ルーベン・アストウェルが書斎の金庫内に保管していたハンフリー・ネイラーの実験データを持ち出したリリー・マーグレイヴは、兄へ届けるべく、バス、列車、そして、タクシーを乗り継いで、ロンドン市内の兄の元へと向かう。彼女が到着した先として撮影に使用されたのが、インペリアルカレッジ・ロンドン(Imperial College London)の建物であった。
建物入口左側の外壁彫刻 |
インペリアルカレッジ・ロンドンは、ロンドンに本部を置く理系公立大学で、工学部(Faculty of Engineering)、理学部(Faculty of Natural Sciences)と医学部(Faculty of Medicine)の3学部から成り立っている。なお、大学の正式名称は「Imperial College of Science, Technology and Medicine」である。
インペリアルカレッジ・ロンドンは、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のブロンプトン地区(Brompton)内に所在しており、地下鉄ナイツブリッジ駅(Knightsbridge Tube Station)から地下鉄グロスターロード駅(Gloucester Road Tube Station)経由、地下鉄ハマースミス駅(Hammersmith Tube Station)へと向かうクロムウェルロード(Cromwell Road)と地下鉄ナイツブリッジ駅からハイドパーク(Hyde Park)の南側を通り、地下鉄ハイストリートケンジントン駅(High Street Kensington Tube Station)経由、地下鉄ハマースミス駅へと向かうケンジントンロード(Kensington Road)に南北を挟まれた地域内に位置している。
建物外壁の街灯と装飾 |
インペリアルカレッジ・ロンドンは、元々、前身である以下の3つのカレッジが1907年に合併し、同年7月8日に英国王エドワード7世(Edward VII :1841年ー1910年 在位期間:1901年ー1910年)から大学の創立について許可を受けた後、ロンドン大学(University of Londonー2016年8月6日付ブログで紹介済)に統合された。
(1)シティー&ギルドカレッジ(City and Guilds College)ー1876年に創立
(2)王立地質学学校(Royal School of Mines)ー1851年に創立
(3)王立科学カレッジ(Royal College of Science)ー1881年に創立
この時点での大学の名称は「Imperial College of Science and Technology」であった。
エキシビションロード沿いに建つ インペリアルカレッジ・ロンドンの正門建物(その1) |
その後、1988年にセントメアリー行院医学学校(St. Mary's Hospital Medical School)が合併して、大学の名称が現在の「Imperial College of Science, Technology and Medicine」へ変更された。更に、1995年に国立心肺機構(National Heart and Lung Institute)が、1997年にチャリングクロス&ウェストミンスター医学学校(Charing Cross and Westminster Medical School)等が合併し、ほぼ現在の形となった。
また、エキシビションロード(Exhibition Roadー2016年12月25日付ブログで紹介済)に面した正門建物が近代的なビルに建て替えられ、2004年にエリザベス2世女王によって正式にオープンされた。
エキシビションロード沿いに建つ インペリアルカレッジ・ロンドンの正門建物(その2) |
1907年の大学創立以降、インペリアルカレッジ・ロンドンはロンドン大学のカレッジの一つであったが、2005年12月に正式な交渉を開始して、創立100周年に該る2007年7月にロンドン大学からの独立を果たした。
インペリアルカレッジ・ロンドンの構内 |
インペリアルカレッジ・ロンドンの他に、周辺には王立芸術大学(Royal College of Art)や王立音楽大学(Royal College of Music)等の教育機関に加えて、ヴィクトリア&アルバート美術館(Victoria and Albert Museum)、自然史博物館(Natural History Museum)や科学博物館(Science Museum)等の博物館が所在しているが、これらの基礎が1851年にロンドンで開催された万国博覧会(Great Exhibition)を企画したアルバート公(Albert, Prince Consort:1819年ー1861年)と彼の妻であるヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)によって築かれたため、アルバート公の名を冠して、これらの建物群は「アルバートポリス(Albertpolis)」と呼ばれている。
当建物は「アストンウェッブビル」と呼ばれ、「王立地質学学校」だったことを示すように、 外壁上部に「Royal School of Mines」と刻まれている |
なお、TV 版のポワロシリーズにおいて、リリー・マーグレイヴが入って行ったインペリアルカレッジ・ロンドンの建物は「アストンウェッブビル(Aston Webb Building)」と呼ばれており、以前は王立地質学学校だったものである。そのことを示すように、建物正面入口上の外壁に、当時の大学名「Imperial College of Science and Technology」に加えて、「Royal School of Mines」の文字が刻まれている。
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