2015年1月31日土曜日

ロンドン ロンバードストリート(Lombard Street)

地下鉄バンク駅の入口辺りからみたロンバードストリート

サー・アーサー・コナン・ドイル作「株式仲買店員(The Stockbroker's Clerk)」において、バーミンガム(Birmingham)へ向かう一等車の内で、今回の事件の依頼人であるホール・パイクロフト(Hall Pycroft)によるシャーロック・ホームズとジョン・ワトスンへの説明は続く。

ロンバードストリートの先には、
「20 フェンチャーチストリート」ビルが聳えている

「ついに、私はロンバードストリートにある大手株式仲買店モーソン・アンド・ウィリアムズ商会に欠員を1名見つけたのです。あなた方はEC地区のことをあまりよく御存知ではないかと思いますが、モーソン・アンド・ウィリアムズ商会はロンドンでも最も資金力がある会社です。欠員への応募は郵送のみになっていたため、私は(前の店主のコクソンさんに書いてもらった)推薦状と申込書を送りました。ただし、採用されるとは露程にも思っていませんでした。ところが、折り返し返事が来ました。もし私が次の月曜日に商会を訪問して、面接で何も問題がなければ、私をすぐにでも採用してくれると言うのです。こうしたことがどうなっているのか、良く判りません。社長自身が応募の手紙の山に手を突っ込んで、一番最初につかんだ申込書の人を採用すると言う人も居ます。とにかく、今度は私にツキが巡ってきた訳で、これ以上嬉しいことはありません。給料はコクソン商会に勤務していた時よりも週に1ポンド多いのですが、仕事の内容はコクソン商会に居た時と全く同じです。」
'At last I saw a vacancy at Mawson & Williams's, the great stockbroking firm in Lombard Street. I dare say E.C. is not much in your line, but I can tell you that this is about the richest house in London. The advertisement was to be answered by letter only. I sent in my testimonial and application, but without the least hope of getting it. Back came an answer by return, saying that if I would appear next Monday I might take over my new duties at once, provided that my appearance was satisfactory. No one knows how these things are worked. Some people say that the manager just plunges his hand into the heap and takes the first that comes. Anyhow it was my inning that time, and I don't ever wish to feel better pleased. The screw was a pound a week rise, and the duties just about the same as at Coxon's.'

ロンバードストリートの中間辺りから
地下鉄バンク駅の方を望む

パイクロフト氏が欠員を見つけたモーソン・アンド・ウィリアムズ商会があるロンバードストリート(Lombard Street)は、彼が以前勤務していたコクソン・アンド・ウッドハウス商会があったドレイパーズガーデンズ(Drapers' Gardens)と同じく、ロンドンの金融街シティー(City)内に所在している。ロンバードストリートは、イングランド銀行(Bank of England)が上に建つ地下鉄バンク駅(Bank Tube Station)から東方面へ延びる通りで、南北に走るグレースチャーチストリート(Gracechurch Street)を横切ると、以前に紹介したフェンチャーチストリート(Fenchurch Street)へと名前を変える。

ロンバードストリートの両側には、前にあった店舗の看板が
未だに数多く残っている

ロンバードストリートは銀行通りで、エドワード2世(Edward II:1284年ー1327年<在位期間 1307年ー1327年>)の治世以前からここにイタリア商人が集まっていた。当時、イタリア北部のロンバルディア地方出身の商人がヨーロッパの商業を独占していたため、この通りはロンバードストリートと呼ばれるようになった。「ロンバード」とは、「ロンバルディア」の英語読みである。

細長いロンバードストリートを
ブラックキャブ(ロンドンタクシー)が走り抜けて行く

近年、不動産再開発の波がシティー内にも押し寄せてはいるものの、ロンバードストリートの両側の建物はその波に抗って、いまだに昔のままである。

2015年1月24日土曜日

シャーロック・ホームズの更なる冒険 / オペラ座の天使 (The Angel of the Opera)


シャーロック・ホームズの更なる冒険 / オペラ座の天使
(The further adventures of Sherlock Holmes / The Angel of the Opera)
(著者) Sam Siciliano 1994年
(出版) Titan Books    2011年

本作品は、ミュージカルや映画等の原作となっている、フランスの作家ガストン・ルルー(Gaston Leroux:1868年ー1927年)による小説「オペラ座の怪人(The Phantom of the Operaー原題:Le Fantome de L'Opera)」(1909年ー1910年)をベースにしている。
他の物語のようにワトスンの未発表原稿という形式は採らず、ホームズの従兄弟でかつ友人であるヘンリー・ヴェルニール医師(Dr. Henrry Vernier)によって話が進められていく。彼は「ワトスンがストランド誌に発表しているホームズではなく、真のホームズを世間に知らせる目的で筆をとった。」とコメントしている。

19世紀末(1890年代)の1月、ホームズはヘンリーと一緒に英国のウェールズ(Wales)に居て、ある事件の捜査をしていた。ホームズはその事件を解決するのだが、犯人のローウェル少佐(Major Lowell)は自殺し、彼の娘で盲目のピアニストであるスーザン・ローウェル(Susan Lowell)が一人後に残される。この20ページ程のプロローグが、本作品のエピローグへの重要な伏線となる。

ウェールズでホームズはロンドンから転送されたパリ・オペラ座(Paris Opera House)からの手紙を受け取る。それはオペラ座(ガルニエ宮:Le Palais Garnier)の支配人であるフェルミン・リチャード(Firmin Richard)と アルマン・モンシャルミン(Armand Moncharmin)からのもので、オペラ座に出没するゴースト(Opera Ghost)の調査を依頼するものであった。同年2月、ホームズとヘンリーはドーバー海峡(Strait of Dover)を渡る。パリ・オペラ座では、「オペラ座の怪人(Le Fantome de l'Opera)」からの手紙がホームズ達を待っていた。手紙は、毎月の支払の2ヶ月遅延と、それを仲介していたマダム・ジリー(Madame Giry)の解雇についてのクレームであった。
(1)マダム・ジリーの復職
(2)月給2万フランの支払と5番ボックス席の常時確保
(3)次の演目「ファウスト(Faust)」のマルグリット(Marguerite)への若手女優クリスティーヌ・ダーエ(Christine Daae)の抜擢、つまり、マダム・カルロッタ(Madame Carlotta)からの変更
を要求していた。

早速ホームズ達は調査を開始し、クリスティーヌ、彼女の恋人ラウル・ド・シャニー(Raul De Chagny)子爵、マダム・ジリーやマダム・カルロッタに会う。
クリスティーヌは自分の楽屋裏から聞こえる「天使の声」の指導を受けて歌唱力を付け、オペラ座内で頭角をあらわすが、恋人のラウルは彼女が謎の声に魅了されている様子を見て悩み苦しんでいた。物語の中盤、クリスティーヌは謎の声に導かれ、オペラ座の地下に広がる広大な水路空間に誘われる。ホームズ、ヘンリーとラウルはその後を追う。そして、ついに、オペラ座の怪人エリック(Erik)がその姿を現すのである。

本作品では、クリスティーヌとラウルは、実際若いのだから仕方ないのだが、子供っぽいと言うか、身勝手な人物として描かれている。これが、報われぬ恋に悩むエリックの悲惨さを強調するとともに、エピローグに向けて、エリックの救いになっているのだが、この時点でエリックはまだそのことを知らない。物語の終盤、「緋色の研究(A Study in Scarlet)」事件にも登場した捜査犬トビー(Toby)がロンドンから到着し、ホームズ達を助け活躍する。ホームズファンの心理をくすぐるところである。最後、エリックは最終手段としてパリ・オペラ座を爆破しようとするのだが、果たしてホームズ達はこれを阻止出来るのか?

物語のエピローグの舞台は、またウェールズに戻る。ホームズ達は、父親を亡くした盲目のピアニストであるスーザンのために、とても素敵なプレゼントを携えてきた。そこには、外見の美醜によって判断されない、真の人間性によってのみ構築される世界が出現する。それは、子供っぽく身勝手なクリスティーヌやラウルには到達できない世界。
確か、原作とは異なり、本作品において、エリックは最後までマダム・カルロッタ達を殺害しておらず、本作品を読みながら、何故原作と異なるようにしているのか?と疑問を感じていたが、エピローグに至って、初めて本作品の作者の意図が判った。原作のように、エリックが殺人を犯していた場合、彼はスーザンの救いにはなれなかったし、また、スーザンも彼の救いにはならなかったと言える。原作のように、オペラ座の地下への潜入場面はあって、それなりに盛り上がるシーンはあるものの、マダム・カルロッタの殺害に至る有名なシャンデリアの落下シーン等の見せ場にはやや欠けるが、エピローグまで読み通すと、本作品は原作とは違う意味ですばらしく、とてもすてきな結末だったと思う。原作はクリスティーヌとラウルにとってのハッピーエンディングで、本作はエリックにとってのハッピーエンディングという訳である。


読後の私的評価(満点=5.0)

1)事件や背景の設定について ☆☆☆☆半(4.5)
言わずと知れたパリ・オペラ座の怪人とホームズの対決で、ドラキュラやジキル博士/ハイド氏等と比肩する闘いである。ホームズファンとしては、是非とも実現してほしい対決の一つである。ガストン・ルルーの小説は1909年から1910年にかけて発表されているが、時代設定が19世紀末となっており、本作品とうまくリンクしている。

2)物語の展開について ☆☆☆☆(4.0)
プロローグとして、ウェールズでの事件捜査があったりして、なかなか本筋に入らなかったり、マダム・カルロッタの殺害に至る有名なシャンデリアの落下シーンがなく、やや見せ場に欠けるきらいはあるものの、全て最後のシーン(=オペラ座の怪人であるエリックによってのハッピーエンディング)に向けて計算された展開であり、原作通りではないが、とても素敵な結末だったので、良しとしたい。

3)ホームズ / ワトスンの活躍について ☆☆☆☆(4.0)
サー・アーサー・コナン・ドイルの聖典で描写されるやや冷徹とも言えるホームズ像とは異なり、最終手段としてパリ・オペラ座そのものを爆破しようとするエリックに対して、平和的な解決を模索するホームズ像が示され、記録者であるヘンリー・ヴェルニエ医師がコメントした通り、真のホームズ像を世間に知らしめる目的は達成できたかと思う。ホームズは、エリックだけではなく、ウェールズの盲目のピアニストであるスーザンをも救うというヒューマンな解決をしている点を高く評価したい。

4)総合 ☆☆☆☆(4.0)
ガストン・ルルーの原作を小説、ミュージカルや映画等で知っていたので、本作品はなかなか面白く読めた。原作とは筋がやや異なっていたり、途中話の盛り上がりにやや欠けたりする点はあるものの、物語の最後にとても素敵な結末が提示され、満足である。うまく着地してくれたので良かった。クリスティーヌやラウルが子供っぽく、身勝手な描写になっている分、報われぬ恋に悩むエリックの悲惨さとエピローグにおけるエリックの救いがとても強調されている。

2015年1月23日金曜日

トーキー(Torquay) ロイヤル トアベイ ヨットクラブ(Royal Torbay Yacht Club)

ロイヤル トアベイ ヨットクラブの建物

アガサ・クリスティー作「エンドハウスの怪事件(Peril at End House)」(1932年)において、エルキュール・ポワロとアーサー・ヘイスティングス大尉が宿泊したマジェスティックホテル(Majestic Hotel)のモデルとなったインペリアルホテル(Imperial Hotel)からプリンセスピア(Princess Pier)と呼ばれる桟橋に囲まれたヨットハーバーへ向かって、岬の中腹をビーコンヒル通り(Beaconhill)に沿って下って行くと、湾に向かう道の右側に「ロイヤル トアベイ ヨットクラブ(Royal Torbay Yacht Club)」が建っている。

ヨットクラブが建つ土台の外壁に架けられている
アガサ・クリスティー・マイル

1900年代初め、アガサ・クリスティーの父親フレデリック・アルヴァ・ミラー(Frederick Alvah Millerーアメリカ人の資産家)がこのヨットクラブのメンバーであった。そのため、インペリアルホテルの玄関ホール内にも架けられていた「アガサ・クリスティー・マイル(Agatha Christie Mile)ートーキー(Torquay)におけるアガサ・クリスティーゆかりの場所を紹介するプレート)」がヨットクラブが建つ土台の外壁にも架けられている。

プリンセスピアと呼ばれる桟橋に囲まれたヨットハーバー内に停泊するヨット

ヨットクラブの始まりは1863年(8月9日)にまで遡る。「トアベイ アンド サウスデヴォン クラブ(Torbay and South Devon Club)」が前身となっているが、創設当時はどちらかと言うと社交クラブとしての意味合いが強かった。当クラブの創設時に、現在の土地および建物を購入した、とのこと。
その後、本来のヨットクラブとしての「トーキー ヨットクラブ(Torquay Yacht Club)」が1875年に創設され、当時のヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年<在位期間:1837年ー1901年>)からロイヤルの称号を得て、「ロイヤル トーキー ヨットクラブ(Royal Torquay Yacht Club)」となった。そして、「トアベイ アンド サウスデヴォン クラブ」と「ロイヤル トーキー ヨットクラブ」が統合して、1885年に現在の「ロイヤル トアベイ ヨットクラブ」が出来上がった。上記の統合後、当ヨットクラブは1887年から130年近くにわたって毎年「トアベイ ロイヤル レガッタ(Torbay Royal Regatta)」というヨットレースを開催している。建物の外観をみた限りでは判らないが、由緒と伝統があるヨットクラブなのである。

ヨットハーバーの向こうに沈む夕陽

なお、アガサ・クリスティー(旧姓 アガサ・メアリー・クラリッサ・ミラー(Agatha Mary Clarissa Miller):1890年9月15日ー1976年1月12日)の父フレデリックは働かないことを旨とする紳士階級に属しており、祖父が遺した遺産を投資家に預けて運用させていた。ところが、投資の失敗により、父は破産、更には、奇しくもヴィクトリア女王が死去した同じ年の1901年11月に心臓麻痺で亡くなってしまった(享年55歳)。当時、アガサ・クリスティーはまだ11歳であったが、後のインタビューにおいて、彼女は「自分の子供時代は、この時に終わった。」と語っている。

2015年1月17日土曜日

ロンドン ドレイパーズガーデンズ(Drapers' Gardens)

ドレイパーズガーデンズ近辺ー
スロッグモートンアベニュー(Throgmorton Avenue)と
オースティンフライアーズ通り(Austin Friars)が交差する角

サー・アーサー・コナン・ドイル作「株式仲買店員(The Stockbroker's Clerk)」の前半、バーミンガム(Birmingham)へ向かう一等車の内で、今回の事件の依頼人であるホール・パイクロフト(Hall Pycroft)がシャーロック・ホームズとジョン・ワトスンに対して、自分が一体どんな窮地に陥り、ホームズの元を訪ねるに至ったかについて語り始める。

ドレイパーズガーデンズ近くにひっそりとある庭園

「私はドイレパーズガーデンズにあるコクソン・アンド・ウッドハウス商会に勤めておりました。御記憶かと思いますが、ヴェネズエラ公債の件で、今年の春の初め頃、商会は多額の負債を背負って、倒産しました。私は5年間商会に勤務してきましたので、倒産の際、店主のコクソンさんは私のために立派な推薦状を書いてくれました。もちろん、27人の店員全員が同時に路頭に迷うことになった訳で、いろいろとあたってみましたが、私と同じような境遇の連中が他にも大勢居るため、長い間、私は次の職を見つけることができませんでした。」
'I used to have a billet at Coxon & Woodhouse's, of Drapers' Gardens, but they were let in early in the spring through the Venezuelan loan, as no doubt you remember, and came a nasty cropper. I had been with them five years, and old Coxon gave me a ripping good testimonial when the smash came, but of course we clerks were all turned adrift, the twenty-seven of us, I tried here and there, but there were lots of other chaps on the same lay as myself, and it was a perfect frost for a long time.'

画面奥に聳え立っている近代的なビルは、
ドレイパーズホール(Drapers' Hall)

パイクロフト氏が勤務していたコクソン・アンド・ウッドハウス商会があったドレイパーズガーデンズ(Drapers' Gardens)は、ロンドンの金融街シティー(City)内に所在している。具体的には、西はムーアゲート通り(Moorgate)、北はロンドンウォール通り(London Wall)、東はオールドブロードストリート(Old Broad Street)、そして南はスロッグモートンストリート(Throgmorton Street)に囲まれた地域内の一角である。イングランド銀行(Bank of England)の裏手(北側)に該る。

ドレーパーズガーデンズに建つ高層ビル「ブラックロック」

イングランド銀行の近辺には、以前、ロンドン証券取引所(London Stock Exchangeー現在は、セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral)の近くに、三菱地所が再開発したパタノスタースクエア(Paternoster Square)へ移転済)があったため、ドレイパーズガーデンズ辺りには株式仲買店主や店員達の住居が集中していたそうで、袋小路や幅の狭い通り(車の通り抜けができないものもある)等がいまだに残っている。
ただ、この辺りも、シティーに押し寄せる不動産再開発の波には抵抗できず、いくつかの古いビルが取り壊されて、新しいビルの建設が進んでいる。ドレイパーズガーデンズも例外ではなく、近年再開発されて、「ブラックロック(BlackRock)」と命名された高層ビルが聳え立っている。

2015年1月16日金曜日

ロンドン セントレオナルズテラス18番地(18 St. Leonard's Terrace)

セントレオナルズテラス18番地の全景

「吸血鬼ドラキュラ(Dracula)」(1897年)を執筆したブラム・ストーカー(Bram Stoker)こと、アブラハム・ストーカー(Abraham Stoker:1847年ー1912年)は、アイルランドのダブリンで、アイルランド政庁の公務員の父母の下に、7人兄弟の3人目として出生。1846年に16歳でダブリンのトリニティーカレッジ(Trinity College)に入学し、1870年までそこで勉学に勤しんだ。7歳頃までは非常に病弱であったが、大学時代は 'University Athlete' と呼ばれる程の競技選手にまで成長したのである。
大学卒業後、ストーカーは次第に演劇に興味を抱き、劇評を書き始め、大学の先輩であるジョーゼフ・シェリダン・レ・ファニュ(Joseph Sheridan Le Fanu:1814年ー1873年/女吸血鬼小説「カーミラ(Carmilla)」(1871年)の作者として有名)が発行していた新聞「ダブリン・イーブニング・メール(Dublin Evening Mail)」に寄稿。1876年12月にダブリンのシアターロイヤル(Theatre Royal)でウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)作「ハムレット(Hamlet)」を上演していたサー・ヘンリー・アーヴィング(Sir Henry Irving:1838年ー1905年)の劇評をストーカーが書き、それが縁でアーヴィング卿と親しい友人になる。
1878年にストーカーはオスカー・ワイルド(Oscar Wilde:1854年-1900年)の恋人だったフローレンス・バルコム(Florence Balcombe)と結婚する。偶然ではあるが、ストーカーは大学時代からワイルドと知り合いであった。

チェルシー地区内で真っ赤に咲き誇る薔薇の花々

その後、ストーカー夫妻はロンドンに移り住み、ライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)を拠点としていたアーヴィング卿の依頼に応じて、ストーカーはアーヴィング劇団の世話人兼ライシアム劇場の支配人に就任し、27年間にわたって務めた。ライシアム劇場では、ストーカーの功績を讃えて、同劇場の外壁にアーヴィング卿と一緒に彼の名前もプレートとして掲げられている。
この期間を通じて、ストーカーはロンドンの上流階級に知られるようになる。その中の一人が、シャーロック・ホームズシリーズの作者であるサー・アーサー・コナン・ドイルである。実際、「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)において、彼はライシアム劇場を物語の舞台として使用している。

ライシアム劇場の外壁に刻まれている
ブラム・ストーカーの名前

1890年に英国北東部の港街ウィットビー(Whitby)を訪れた際、ストーカーは「吸血鬼ドラキュラ」の構想を得たと言われている。ウィットビーは、「吸血鬼ドラキュラ」において、トランシルヴァニア(Transylvania)からやって来たドラキュラ伯爵(Count Dracula)が上陸する英国での最初の場所である。
その後、図書館で「串刺し公ヴラド・ツェペシュ(Vlad Tepes the Impaler)」と呼ばれたワラキア公ヴラド3世(Vlad III Dracula of Wallachia:1431年ー1476年)の記述を見つけたストーカーは自分の構想をまとめ、1897年に「吸血鬼ドラキュラ」を出版。アーヴィング卿がこれをただちに演劇化したため、彼の小説は非常に大きな反響を得たとのこと。なお、一般に、ドラキュラのモデルは、ワラキア公ヴラド・ツェペシュとされているが、実際のモデルはアーヴィング卿だったという説も存在している。

セントレオナルズ18番地の外壁に架けられている
イングリッシュヘリテージ管理のブループラーク

そのブラム・ストーカーがロンドンで住んでいた家が、高級住宅地の一つチェルシー地区(Chelsea)内に所在している。具体的な住所は「18 St. Leonard's Terrace, Chelsea SW3 4QG」。地下鉄のスローンスクエア駅(Sloane Square Tube Station)からテムズ河(River Thames)方面に向かって南西に延びるキングスロード(King's Road)を南側に入ったところで、非常に静かな住宅街内にある。
家の外壁には、ブラム・ストーカーがここに住んでいたことを示すイングリッシュヘリテージ(English Heritage)管理のブループラーク(Blue Plaque)が架けられている。

2015年1月11日日曜日

シャーロック・ホームズの更なる冒険 / シャーロック・ホームズ対ドラキュラ (Sherlock Holmes vs. Dracula)


シャーロック・ホームズの更なる冒険 / シャーロック・ホームズ対ドラキュラ
(The further adventures of Sherlock Holmes / Sherlock Holmes vs. Dracula)
著者  Loren D. Estleman 1978年
出版  Titan Books     2012年

本作品は、映画や後の小説等に大きな影響を与え続けているアイルランド人の作家ブラム・ストーカー(Bram Stoker:1847年ー1912年)による小説「吸血鬼ドラキュラ(Dracula)」(1897年)をベースにしている。
1890年8月初めの蒸し暑いある日、シャーロック・ホームズとジョン・ワトスンは調査依頼の電報を受け取る。続いて、依頼人本人の訪問を受ける。彼は、デイリーグラフ(Daily Graph)のジャーナリストをしているトマス・パーカー(Thomas Parker)で、取材のため、英国北東部の港街ウィットビー(Whitby)に居た。嵐が近づく中、外国船が港に入って来る。港のサーチライトが甲板に横たわる男の死体を浮かび上がらせる。その時、パーカーは、甲板の下から巨大な犬に似た何かが飛び出して暗闇の中に姿を消し去るのを目撃したのである。ホームズとワトスンは、早速ウィットビーに赴き調査を開始するものの、残念ながら、めぼしい進展はみられなかった。

一方、9月末、ロンドン北部のハムステッドヒース(Hampstead Heath)では、子供が白いドレスを着たブロンドの女性に誘われて行方不明になる事件が、4件連続して発生していた。しばらくして子供達は戻って来るのだが、命に別状はないものの、非常に衰弱していたり、喉には何かの動物に咬まれた傷痕が残っていた。これらがウィットビーでの事件と何か関連があると考えたホームズとワトスンは、ハムステッドヒースに向かう。ヒース全体を眺望できる場所で待つこと数時間、ヒースの中から突如叫び声があがった。ホームズ達が駆けつけてみると、喉に咬まれた傷痕がある子供を発見した。翌日一人で捜査に出かけ陽が暮れても戻って来ないホームズの身を案じたワトスンは、単身ハムステッドヒースへ再度出かける。そこでワトスンはついに白いドレスを着たブロンドの女性を見つけた。浮浪者に変装の上、既にヒース内を捜索していたホームズがワトスンに合流して、一緒に女性の後を追う。

霧と暗闇に包まれた地下埋葬室(礼拝・納骨堂)内に入ったホームズとワトスンはそこで、アムステルダム大学のエイブラハム・ヴァン・ヘルシング教授(Professor Abraham Van Helsing)、精神病院長のジャック・セワード医師(Dr. Jack Seward)、アーサー・ホルムウッド(ゴダルミング卿)(Arthur Holmwood, Lord Godalming)、そして米国テキサス州の大地主であるクウィンシー・モリス(Quincey Morris)に出会う。ヴァン・ヘルシング教授の口からドラキュラ伯爵(Count Dracula)のことが語られる。彼らも、ホームズ達と同様に、ゴダルミング卿の婚約者で、ウィットビーに住んでいたルーシー・ウェステンラ(Lucy Westenra)を追っていたのであるが、彼女は吸血鬼となっていた。彼女を吸血鬼に変えたのは、8月8日嵐をついてウィットビー港に入港した外国船に乗船していたドラキュラ伯爵の仕業であった。
これで、2つの事件が一つに収束したのである。更に、ヴァン・ヘルシング教授は、ドラキュラ伯爵がロンドンの住居(カーファックス屋敷)の購入を計画していること、そして、ある依頼を受け、同年5月にトランシルヴァニア(Transylvania)のドラキュラ城(Castle Dracula)に出向き、囚われの身となっていた新人事務弁護士ジョナサン・ハーカー(Jonathan Harker)を救出したことについても言及した。ただし、ヴァン・ヘルシング教授達は本件を秘密裡に処理する方針で、ホームズとワトスンに対して、本件を自分達に委ねて手を引くように要求した。果たして、ホームズ達の反応は如何に?

ここまでで物語の半分辺りで、残念ながら、物語のもう一人の主人公であるドラキュラ伯爵はまだその姿を現していない。読者としては、ホームズとドラキュラ伯爵の戦いを早く読みたくて、待ち遠しいところである。ウィットビーでの事件、ロンドンのハムステッドヒースでの事件、そして、ヴァン・ヘルシング教授達との出会いを経て、ドラキュラ伯爵が英国の闇の奥で暗躍する様が、次第に明らかになってくる。読む側としては既に予想できているが、非常にわくわくする。ややもどかしい感じはあるものの、いくつかの流れが一つに収束するように物語を徐々に盛り上げて行く著者の腕前はなかなかのものだと思う。

皆さんが推測する通り、ヴァン・ヘルシング教授達の指示に従うホームズとワトスンではなく、彼らに先んじて、ロンドン・パディントン駅(Paddington Station)に到着する前のミナ・ハーカー(Mina Harker:ジョナサン・ハーカーの妻ーブラム・ストーカーの原作では婚約者)に接触し、ドラキュラ伯爵の情報を得る。そして、100ページを過ぎたところで、ベーカー街221Bにドラキュラ伯爵がついにその姿を現すのである。ここから物語は舞台をロンドンからウィットビーへと移し、ホームズとドラキュラ伯爵の戦いは展開する。ホームズが如何にしてドラキュラ伯爵を英国から彼の故郷であるトランシルヴァニアへ撃退するのかが、物語の肝となる。あまり詳しくは書かないが、ホームズは、ドラキュラ伯爵がトランシルヴァニアからウィットビーに持って来たある重要なもの、ドラキュラ伯爵が英国にその身を定住させるのに必要なものを処分することによって、ドラキュラ伯爵にトランシルヴァニアへお帰り願うのである。ホームズファンには非常に残念ではあるが、著者としても、ストーカーの原作にある程度忠実に倣う必要があったためか、最終的にドラキュラ伯爵をトランシルヴァニアで退治するのは、原作通り、ヴァン・ヘルシング教授達なのである。ホームズファンとしては、ホームズがドラキュラ伯爵を退治するところを読みたい気持ちがあるが、「餅は餅屋」でヴァンパイア・ハンターが本業であるヴァン・ヘルシング教授達に委ねる方が、物語的には無難かと思われる。決して、ヴァン・ヘルシング教授達を貶める意図はないが、ホームズにはドラキュラ伯爵との頭脳戦に勝利してもらうのが、彼の役どころなのではないかと考える。そういった意味では、ストーカーの原作および設定をうまく活かしつつ、ホームズがその身を置く推理小説の土俵の上に物語をうまく着地させた訳で、なかなかおもしろかった。


読後の私的評価(満点=5.0)

1)事件や背景の設定について ☆☆☆☆半(4.5)
ホームズとドラキュラの対決が実現。ホームズファンとしては、これも是非読みたかった対決の一つである。ブラム・ストーカーの小説は1897年に出版されており、ちょうどうまくホームズが生きた時代とマッチしている。

2)物語の展開について ☆☆☆☆☆(5.0)
英国北部の港街ウィットビーへのドラキュラ伯爵の上陸、ロンドン北部のハムステッドヒースでの女性吸血鬼事件、そして、ドラキュラ伯爵を追うヴァン・ヘルシング教授達との出会いと舞台を展開しつつ、複数の流れが物語の中盤でついに一つに収束して、ついにドラキュラ伯爵が登場。ここから、物語の終盤、つまり、ホームズがドラキュラ伯爵をどのようにして英国から撃退するのかに向けて、物語をうまく盛り上げている。

3)ホームズ / ワトスンの活躍について ☆☆☆☆半(4.5)
ブラム・ストーカーの原作があるため、最終的にトランシルヴァニアでドラキュラ伯爵を退治するのを、ヴァン・ヘルシング教授達に譲っているものの、ホームズは、彼が最も得意とする頭脳戦でドラキュラ伯爵を英国から撃退しており、活躍度は非常に高い。

4)総合 ☆☆☆☆半(4.5)
ブラム・ストーカーの原作の設定を活かしつつ、ドラキュラ伯爵が属するホラー小説ではなく、ホームズが属する推理小説という土俵内で、物語をうまく着地させており、非常に面白かった。本著者は、先に紹介した「ジキル博士とホームズ(Dr. Jekyll and Mr. Holmes)」(1979年)と同じ人ではあるが、本作品の出来の方が遥かに良かった。正直、「ジキル博士とホームズ」に比べて、本作品の方が非常にのびのびと書かれているように感じる。「ジキル博士とホームズ」の方は、スティーヴンソンの原作に非常に忠実であったことが、逆にかなり制約を受けてしまったものと思われる。

2015年1月10日土曜日

トーキー(Torquay) インペリアルホテル(Imperial Hotel)

インペリアルホテルの入口を表示する立て看板

アガサ・クリスティー作「エンドハウスの怪事件(Peril at End House)」(出版社によっては、「邪悪の家」という邦題を使用しているケースあり)は、コンウォール(Cornwall)州セントルー(St. Loo)が舞台となる。

ホテルの部屋に付随するベランダからトアベイを望む

エルキュール・ポワロとアーサー・ヘイスティングス大尉は、マジェスティックホテル(Majestic Hotel)のテラスで優雅な休暇を楽しんでいた。テラスから庭へと通じる階段でポワロが足を踏み外したところ、丁度運良くそこに通りかかったニック・バックリー(Nick Buckley)に助けられ、事なきを得る。彼女は、ホテルの近くにある岬の突端に立つやや古びた屋敷エンドハウスの女主人であった。ニックがポワロを助けた直後、蜂か何かがニックの頭の方に飛んで来たようで、彼女はそれを追い払う仕草をする。ポワロ達と少し話をした後、ニックはエンドハウスへ帰ったが、彼女はそれまでかぶっていた帽子をテラスのテーブルの上に忘れて行った。ポワロが残された帽子を手に取ってみると、帽子のつばには穴があいており、その上、近くには弾丸が落ちていたのである。ということは、ニックが蜂による一刺しだと思ったのは実際には銃による狙撃だったのだ!
先程の会話の中で、ニックが「最近3回も命拾いをした。」と話していたことをポワロは思い出す。1回目は、彼女のベッドサイドに架けてあった絵が夜中に突然落ちてきて、彼女の頭を直撃しそうになったこと、2回目は、彼女がエンドハウス専用の小道を歩いていた際、石が突然彼女に向かって落ちてきたこと、更に、3回目は、彼女が運転していた車のブレーキが壊されていたことである。そして、4回目は、先程の銃による狙撃である。これまでの状況を考える限り、明らかに何者かがニックの命を狙っていると思われる。しかも、4回目は名探偵である自分の目前で!事態を重くみたポワロは、ニックの命を守るべく、ヘイスティングスを連れて、エンドハウスに赴く。

画面の奥中央に見えるのが、インペリアルホテル

ポワロ達と再度面会したニックは、自分には命を狙われる覚えはないと楽観的に答えるが、ポワロは彼女に対して、誰か信頼できる人物をしばらくの間そばにおくよう、強く勧める。そこで、ニックは従姉妹のマギー・バックリー(Maggie Buckley)を呼ぶことにする。
マギーが到着した日の夜、エンドハウスではパーティーが開催され、ポワロとヘイスティングスもニックに招かれて出席する。海岸で行われる花火大会を皆が見物する最中、またもや新たな事件が発生するのであった。屋敷の庭で、マギーが何者かに銃で撃たれ、殺されてしまう。ニックの赤いショールを肩に羽織っていたために、マギーはニックと間違えられたのだろうか?これで5回目である。
翌日、世界的に有名な飛行家マイケル・シートン(Michael Seton)が飛行中の墜落事故により死亡したというニュースが飛び込んでくる。彼はある富豪の遺産相続人で、マグダラ・バックリー(Magdala Buckley)と密かに婚約していて、彼女に全財産を遺す遺言書を作成していた。そして、ニックはポワロに対して、「ニックは愛称で、自分の本名はマグダラ・バックリーだ。」と告げる。つまり、巨万の富が彼女に転がり込んでくるのだ。これが、彼女が何度も命を狙われる理由なのだろうか?

インペリアルホテルが建つ岬の中腹から降りて来ると、そこには青く輝く美しいトアベイの海岸がある

ポワロとヘイスティングスが宿泊したコンウォール州セントルーのマジェスティックホテルは架空の場所で、アガサ・クリスティーの生まれ故郷であるデヴォン(Devon)州トーキー(Torquay)にあるインペリアルホテル(Imperial Hotel)がそのモデルだと一般に言われている。トーキーは「英国のリヴィエラ(English Riviera)」と呼ばれる避暑地で、日本の熱海のような雰囲気が感じられる。インペリアルホテルはトアベイ(Torbay)という湾を見下ろす岬の中腹に建つ1866年創業の地中海スタイルのホテルである。ホテルからは、トアベイだけではなく、プリンセスピア(Princess Pier)と呼ばれる桟橋で囲まれたヨットハーバー等、湾の素晴らしい景色を望むことが可能。ホテルへは、トーキーの街中心部からトアベイを巡るトアベイロード(Torbay Road)とヴィクトリアパレード(Victoria Parade)の海岸通りを経て、ビーコンヒル(Beaconhill)、そして、パークヒルロード(Parkhill Road)と岬の斜面を上ると、徒歩15分程で着くことができる。

インペリアルホテルの建物正面外観

創業当時、インペリアルホテルはロンドン以外に建てられた初の5つ星ホテルで、今でもトーキー随一の豪華なホテルではあるが、現在の外観からは、かつて英国のロイヤルファミリーや海外の皇族等が滞在したことを彷彿させるような面影はなく、どこの海辺にでもありそうな(ただし、少しだけグレードが高い)普通のホテルといった感じである。というのも、創業当時の建物は、第二次世界大戦時(1939年ー1945年)に大きな被害を蒙り、その後改築工事はあったものの、昔の栄光を取り戻すことはできなかったのだ。

インペリアルホテルの玄関ホールー
画面の左手に「アガサ・クリスティー・マイル」が見える

ホテルの玄関を入ると、玄関ホール奥の壁には、アガサ・クリスティーの肖像が架けられている。これは、「アガサ・クリスティー・マイル(Agatha Christie Mile)」と呼ばれているもので、トーキーにおけるクリスティーゆかりの場所に掲げられているプレートである。このプレート、日本の瓦のような形をしており、プレートの上方にある丸窓の中で、クリスティーが顎の辺りで両手を組み、じっとこちらを見つめているように感じられる。一歩ホテルの内に入ると、外観の印象とは違って、創業当時の古き良きヴィクトリア時代の雰囲気が残っている。

インペリアルホテルの玄関ホールに架けられている「アガサ・クリスティー・マイル」の近影

「エンドハウスの怪事件」は、日本ではあまり評価されていないようであるが、意外な犯人で、かつ、それを覆い隠すミスディレクションというアガサ・クリスティーの技巧が非常にうまく発揮されており、個人的には、彼女の作品の中でもベスト5に入る位、筋がよく練られていると思う。現在では、犯人の意外性はそれ程ではないかもしれないが、本作品が出版された当時(1932年)は、かなりの大技だったのではないだろうか。

2015年1月4日日曜日

ロンドン パディントン地区(Paddington district)

パディントン駅前のプレイドストリートー
画面の建物は、パディントン駅に隣接したホテル

サー・アーサー・コナン・ドイル作「株式仲買店員(The Stockbroker's Clerk)」は、ジョン・ワトスンの近況から始まる。彼は「四つの署名(The Sign of the Fourー事件発生年月:1888年9月)」で知り合った事件の依頼人メアリー・モースタン(Mary Morstan)と結婚し、ベーカーストリート221Bを出て、パディントン地区(Paddington district)に移り住んでいたのである。

ワトスンが開業した医院があった場所の候補地の一つー
「イーストボーンテラス」
画面右手でクロスレールプロジェクトによる工事が進んでいる

「結婚から程なくして、私はパディントン地区にある医院を買い取った。医院の売り手は、ファーカー氏という老人で、かつては非常に優れた開業医であったが、寄る年波と舞踏病(=筋肉の不規則痙攣)の症状に悩まされていたこともあり、近年患者の数もめっきりと減ってしまったのである。世間一般の人々にとっては無理もない話であるが、他人の病を治す医者はまず自分自身が健康であることが必要で、自分の薬で自分の病も治せないような医者の腕前には疑いの目が向けられるものだ。それ故に、ファーカー医師が衰えていくに従って、医院の業績も傾いていき、私が彼から医院を買い取った際には、彼の年収も年1,200ポンドから年300ポンド少々にまで落ち込んでいた。しかし、私は自分の若さと体力に自信があったので、2~3年もあれば、以前のように医院を繁盛させることができると確信していた。

Shortly after my marriage I had bought a connection in the Paddington district. Old Mr Farquhar, from whom I purchased it, had at one time an excellent general practice; but his age, and an affliction of the nature of St Vitus's dance from which he suffered, had very much thinned it. The public not unnaturally goes on the principle that he who would heal others must himself be whole, and looks askance at the curative powers of the man whose own case is beyond the reach of his drugs. Thus as my predecessor weakened his practice declined, until when I purchased it from him it had sunk from twelve hundred to little more three hundred a year. I had confidence, however, in my own youth and energy, and was convinced that in a very few years the concern would be as flourishing as ever.」

ワトスンが開業した医院があった場所の候補地の一つー
「スプリングストリート」

ワトスンが開業した医院があった場所の候補地の一つー
「ロンドンストリート」

残念ながら、コナン・ドイルの原作では、ワトスンがパディントン地区のどこに医院を開業したのかは特定されていない。ただし、識者の間では、候補地がいくつか挙げられている。

ワトスンが開業した医院があった場所の候補地の一つー
「ノーフォークスクエア」

一つ目は、パディントン駅(Paddington Station)のすぐ西側にあり、北側のビショップス ブリッジロード(Bishops Bridge Road)と南側のプレイドストリート(Praed Street)を結ぶイーストボーンテラス(Eastbourne Terrace)である。後に風紀が乱れた通りに一時転落したものの、シャーロック・ホームズとワトスンが活躍した当時は上品な地域であった、とのこと。ただし、パディントン駅に近いため、非常に騒がしかったと思われる。実際、イーストボーンテラスでは、ロンドンの東部と西部を地下トンネルで結ぶクロスレールプロジェクト(Crossrail Project)の工事が進行中である。

ノーフォークスクエアの真ん中には中庭があり、
パディントン駅前の騒音は届かない

パディントン駅に近いこともあり、
小ホテルが多数軒を連ねている

他の候補地として、識者は、プレイドストリートを渡った先にあるスプリングストリート(Spring Street)、ロンドンストリート(London Street)やノーフォークスクエア(Norfolk Square)等を挙げている。実際、ノーフォークスクエアであれば、パディントン駅前を通るプレイドストリートから2ブロック程離れたところにあり、パディントン駅前の騒音も届かず静かであったと思われる。また、ノーフォークスクエア内には中庭があり、これも利点だったと言える。そういった意味では、イーストボーンテラスよりも、ノーフォークスクエアの方がより候補地に近いのではないだろうか?ノーフォークスクエアはパディントン駅に近いこともあり、現在、英国の地方や海外からの観光客をターゲットにした小ホテルが多数軒を並べている。 

2015年1月3日土曜日

ロンドン スロッグモートンストリート(Throgmorton Street)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「白面の兵士(The Blanched Soldier)」では、ボーア戦争(Anglo-Boer War:1899年ー1902年)終結直後の1903年1月のある朝、ジェイムズ・M・ドッド(James M Dod)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を相談に訪れる。ジョン・ワトスンは当時結婚しており、ホームズとは一緒に住んでいなかったため、この事件には全く関与していない。よって、非常に異例ではあるが、本作品の場合、ホームズの一人称で話が進められていく。

スロッグモートンストリートの西側から東方面に望む

自分は窓を背にして座り、訪問者には光が十分に当たる反対側の椅子に座ってもらうのが、私の習慣だった。ジェイムズ・M・ドッド氏は、どのように話を始めたらよいのか、いくらか途方に暮れているようだったが、私は彼に助け舟を出す事はしなかった。何故ならば、彼が黙っている間、私にはより長い間彼を観察する時間ができるからである。依頼人にこちらの能力を見せた方が得策と考えたので、私は彼に観察の結果を少しばかり話した。
「南アフリカからお戻りになられたのですね。」
「ええ。」彼は少し驚いて答えた。
「義勇農騎兵隊ですか?」
「その通りです。」
「ミドルセックス連隊という訳だ。」
「おっしゃる通りです。ホームズさん、あなたはまるで魔法でも使われているようだ。」
彼の唖然とした表情を見て、私は微笑んだ。
「私の部屋に精悍な紳士が入ってみえて、お顔が英国の太陽ではありえない程日焼けし、ハンカチをポケットではなく袖に入れていたとしたら、その素性を見分けるのはそれ程難しくありません。あなたは短い顎髭を生やされているから、正規兵ではなかったことが判ります。それに、あなたの髪は騎兵隊の髪型です、ミドルセックス連隊に関しては、あなたの名刺から、スロッグモートンストリートの株式仲買人の方だと判っていました。ミドルセックス連隊以外に志願できる連隊が他にありますか?」
「あなたは何でもお見通しなんですね。」

It is my habit to sit with my back to the window and to place my visitors in the opposite chair, where the light falls full upon them. Mr James M. Dodd seemed somewhat at a loss how to begin the interview. I did not attempt to help him, for his silence gave me more time for observation. I have found it wise to impress clients with a sense of power, and so I gave him some of my conclusions.
'From South Africa, sir, I perceive.'
'Yes, sir', he answered, with some surprise.
'Imperial Yeomanry, I fancy.'
'Exactly.'
'Middlesex Corps, no doubt.'
'That is so. Mr Holmes, you are wizard.'
I smiled at his bewildered expression.
'When a gentleman of virile appearance enters my room with such tan upon his face as English sun could never give, and with his handkerchief in his sleeve instead of in his pocket, it is not difficult to place him. You wear a short beard, which shows that you were not a regular. You have the cut of a riding man. As to Middlesex, your card has already shown that you are a stockbroker from Throgmorton Street. What other regiment would you join?'
'You see everything.'

右手に見えるのが、イングランド銀行の裏側ー
スロッグモートンストリートは画面の一番奥にある

ドッド氏によると、2年前の1901年1月、ボーア戦争に出征した際に親しくなったゴドフリー・エムズワース(Godfrey Emsworth)が負傷して英国に復員した後、音信不通になってしまったと言う。ドッド師がゴドフリーの父エムズワース大佐(Colonel Emsworth:クリミア戦争(Crimean War:1853年ー1856年)でヴィクトリア十字勲章を受章)へ手紙を書いて、ゴドフリーの所在を尋ねたところ、「息子は世界一周の旅に出ている。」という返事があっただけだった。これに納得できなかったドッド氏は、ゴドフリーの実家があるベッドフォード(Bedford)のタックスベリーオールドパーク(Tuxbury Old Park)へ赴き、エムズワース大佐からゴドフリーの所在を聞き出そうとするが、梨の礫であった。当日、ゴドフリーの実家に泊まることになったドッド氏が夜自分の部屋の外をみてみると、そこに幽霊のように真っ白な顔をしたゴドフリーが立っていた。ドッド氏と目が合ったゴドフリーは急いで闇の中に姿を消してしまう。翌日、ゴドフリーを捜そうとするドッド氏であったが、エムズワース大佐に屋敷から追い出されてしまったのである。

左手に見える建物は、イングランド銀行

スロッグモートンストリート(Throgmorton Street)は、ロンドンの金融街シティー(City)内に所在している。具体的に言うと、地下鉄バンク駅(Bank Tube Station)上に建つイングランド銀行(Bank of England)の裏手(北側)にある細い通りである。すぐ近くにロンドン証券取引所(London Stock Exchangeーセントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral)に隣接したパタノスタースクエア(Paternoster Squareー三菱地所が再開発)へ移転済)があった関係で、昔はスロッグモートンストリートにロンドンの株式仲買人が集まっていた。この辺りも、シティーに押し寄せる不動産開発の波に抗いきれず、近代的なビルの建設が始まっている。

ロッグモートンストリートの左手でも、ビルの建替えが進んでいる

スロッグモートンストリートの名前は、テューダー(Tudor)朝時代の外交官で政治家でもあったニコラス・スロッグモートン卿(Sir Nicholas Throgmorton:1516年ー1571年)に由来している。
彼は、エドワード4世(Edward IV:1537年ー1553年<在位期間 1547年ー1553年>)の死去後、レディー・ジェーン・グレイ(Lady Jane Gray:1536年/1537年ー1554年)を女王の位につけるのに力があった人物であるが、レディー・ジェーン・グレイは1553年にイングランド女王になったものの、わずか9日間(7月10日ー7月19日)で女王の座から追われ、翌年(1554年)処刑されている。そのため、レディー・ジェーン・グレイは「9日間の女王(The Nine Days Queen)」とも呼ばれている。
レディー・ジェーン・グレイの後のメアリー1世(Mary I:1516年ー1558年<在位期間 1553年ー1558年>)に続いて女王の位についたエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年<在位期間 1558年ー1603年>)の下で、スロッグモートン卿はフランス大使やスコットランド大使等を務めたが、スコットランド女王のメアリー・ステュアート(Mary Stuart, Queen of Scots:1542年ー1587年)をエリザベス1世に代わって、イングランド女王としようとする計画に加担したため、1569年にスコットランドから召還の上、一時的に幽閉された。最終的には、裁判に付されることはなかったが、以後亡くなるまで、エリザベス1世の信任を取り戻すことは二度となかった、とのこと。

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
エリザベス1世の肖像画の葉書
(Unknown English artist / 1600年頃 / Oil on panel
1273 mm x 997 mm) 

ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
メアリー・ステュアートの肖像画の葉書
(After Nicholas Hilliard / Inscribed 1578 / Oil on panel
791 mm x 902 mm)