2014年11月30日日曜日

ロンドン リージェントストリート/カフェ・ロイヤル(Regent Street/Cafe Royal)

リージェントストリート沿いの
カフェ・ロイヤルの旧入口

サー・アーサー・コナン・ドイル作「高名な依頼人(The Illustrious Client)」において、サー・ジェイムズ・デマリー大佐(Colonel Sir James Damery)経由、匿名の依頼人からの頼みを受けたシャーロック・ホームズは、ド・メルヴィル将軍(General de Merville)の令嬢ヴァイオレット・ド・メルヴィル(Violet de Merville)とオーストリアのアデルバート・グルーナー男爵(Baron Adelbert Grunerーハンサムであるが、非常に残虐な男)の結婚をなんとか阻止しようと試みる。ホームズは、英国のキングストン(Kingston)に住むグルーナー男爵との直接交渉やロンドンのバークリースクエア(Berkeley Square)に住むド・メルヴィル嬢への説得を行うが、残念ながら、どちらも失敗に終わってしまう。そして、ド・メルヴィル嬢との会見の二日後、昼の12時頃、リージェントストリート(Regent Streetーピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)から北方面にのびる大通り)沿いにあるカフェ・ロイヤル(Cafe Royal)の前の路上で、ホームズはグルーナー男爵が放った手下達の襲撃を受けて、瀕死の大怪我を負ってしまうのである。

グラスハウスストリートに面した
カフェ・ロイヤルの旧裏口

チャリングクロス駅(Charing Cross Station)近辺に居たジョン・ワトスンは、夕刊紙の売り子が持つ新聞の見出しを見て、しばし呆然と立ち尽くす。そこには、黄色の地に黒色の文字で次のように書かれていた。
「シャーロック・ホームズ氏が暴漢の襲撃に遭う!(Murderous Attack upon Sherlock Holmes)」と...
「有名な私立探偵のシャーロック・ホームズ氏が今朝襲撃に遭って重態に陥ったことは非常に遺憾である。今のところ、その詳細は不明なるも、事件は12時頃、リージェントストリート沿いのカフェ・ロイヤルの前で発生した模様。襲撃はステッキで武装した二人の男達によって行われ、ホームズ氏は頭部と身体に打撃を受けて、医師団によると、重傷とのこと。当初、ホームズ氏はチャリングクロス病院に運ばれたが、その後、本人の希望でベイカーストリートの自宅に移送された。ホームズ氏を襲撃した犯人達は紳士然とした服装の男達で、カフェ・ロイヤルの中を通り、裏側のグラスハウスストリートへと抜けて、目撃者の追及から免れた模様。負傷したホームズ氏の活動と明晰な頭脳に常日頃悩まされてきた犯罪者達の一味と目される。(We learn with regret that Mr Sherlock Holmes, the well-known private detective, was the victim this morning of a murderous assault which has left him in a precarious position. There are no exact details to hand, but the event seems to have occurred about twelve o'clock in Regent Street, outside the Cafe Royal. The attack was made by two men armed with sticks, and Mr Holmes was beaten about the head and body, receiving injuries which the doctors describe as most serious. He was carried to Charing Cross Hospital, and afterwards insisted upon being taken to his rooms in Baker Street. The miscreants who attacked him appear to have been respectably dressed men, who escaped from the bystanders by passing through the Cafe Royal and out into Glasshouse Street behind it. No doubt they belonged to that criminal fraternity which has so often had occasion to bewail the activity and ingenuity of the injured man.)」

カフェ・ロイヤル前のリージェントストリートにおいて
ホームズを襲撃したグルーナー男爵の手下達が逃走した先の
グラスハウスストリート

ホームズがグルーナー男爵が放った手下達の襲撃を受けたカフェ・ロイヤルはリージェントストリート沿いにあり、住所は「68 Regent Street, Mayfair, London W1B 4DY」である。
元のカフェ・ロイヤルは、フランス人のワイン商人だったダニエル・ニコラス・セヴェノン(Daniel Nicholas Thevenon)によって1865年に創業された。フランスで自己破産した彼は、妻を伴い、1863年に英国に移住した際に、英国風の名前ダニエル・ニコルス(Daniel Nicols)に改名した。彼の息子(名前は父親と同じダニエル・ニコルス)の下でカフェ・ロイヤルは繁盛し、1890年代に入ると、ロンドンの人気スポットとなった。そこには、オスカー・ワイルド(Oscar Wilde:1854年ー1900年/代表作ー「サロメ」や「ドリアン・グレイの肖像」)、ヴァージニア・ウルフ(Virginia Wolf:1882年ー1941年/代表作ー「ダロウェイ夫人」、「灯台」、「オーランドー」や「波」)、デイヴィッド・ハーバート・ローレンス(David Herbert Lawrence:1885年ー1930年/代表作ー「チャタレイ夫人の恋人」や「息子と恋人」)やジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw:1856年ー1950年/代表作ー「ピグマリオン」や「ウォレン夫人の職業」)等、英国を代表する作家達が多数つめかけたのであった。

リージェントストリートとグラスハウスストリートを繋ぐ
エアーストリート(Air Street)沿いにあるホテルの玄関口

大改装のため、カフェ・ロイヤルは2008年12月に一旦閉鎖され、約4年間の改装工事(イスラエルの不動産会社による開発)を経て、2012年12月に159の客室を有する5つ星ホテルに新しく生まれ変わり、現在に至っている。

2014年11月29日土曜日

ロンドン バークリースクエア104番地(104 Berkeley Square)

バークリースクエアの中心は、
バークリースクエアガーデンズ(Berkeley Square Gardens)と呼ばれる
大きな公園になっている―公園の真ん中から、南側を望む。
画面左下には、現在、英国の彫刻家ヘンリー・ムーア
(Henry Moore:1898年―1986年)の作品が設置されている。

サー・アーサー・コナン・ドイル作「高名な依頼人(The Illustrious Client)」において、匿名の依頼人のために、サー・ジェイムズ・デマリー大佐(Colonel Sir James Damery)がベーカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れる。1902年9月3日午後4時半のことである。
デマリー大佐によると、ド・メルヴィル将軍(General de Merville)の令嬢ヴァイオレット・ド・メルヴィル(Violet de Merville)がオーストリアのアデルバート・グルーナー男爵(Baron Adelbert Gruner:現在、英国キングストン(Kingston)近くのヴァーノンロッジ(Vernon Lodge)に居住)に夢中になり、彼と結婚しようとしていた。実際、グルーナー男爵はハンサムであるが、非常に残虐な男である。本人曰く、彼が当時結婚していた妻は事故で死亡したと言って、プラハでの裁判では罪を免れたが、本当は彼が自分の妻を自ら殺害したものと一般には考えられていた。


ド・メルヴィル将軍をはじめ、ヴァイオレット・ド・メルヴィルの周りの者は彼女にグルーナー男爵との結婚を思いとどまるよう言い含めたものの、彼女の態度は非常に頑なで、どんな説得にも耳を貸そうとはしなかった。
「ド・メルヴィル嬢とグルーナー男爵の結婚をなんとか阻止してほしい。」というデマリー大佐の依頼を受けたホームズは早速行動を開始する。ホームズは、まずキングストンに住むグルーナー男爵を訪問し、直接交渉に及ぶが、残念ながら、これは失敗に終わってしまう。
次に、ホームズは、グルーナー男爵によって人生を台無しにされたキティー・ウィンター(Kitty Winter)を伴い、ロンドンのバークリースクエア(Berkeley Square)に住むド・メルヴィル嬢を訪ねて説得を試みる。

バークリースクエアの北側(画面手前が西で、画面奥が東)

ホームズがジョン・ワトスンに対して、次のように語っている。
「ド・メルヴィル将軍からは、会見の段取りは全て整っているという電話連絡があったし、あの火のようなミスW(キティー・ウィンターのこと)も予定通り姿を現した。それで、午後5時半に馬車が年老いた軍人が住むバークリースクエア104番地の前に我々を降ろしてくれたという訳だ。そこは、教会も足元には及ばないと思わせる位に非常に古びたロンドンのお城の一つだったよ。」

バークリースクエアガーデンズの真ん中から北側を望む。

The General phoned that all was ready, and the fiery Miss W turned up according to schedule, so that at half-past five a cab deposited us outside 104 Berkeley Square, where the old soldier resides - one of these awful grey London castles which would make a church seem frivolous …

バークリースクエアの南西の角にある交差点

ド・メルヴィル嬢が住んでいたバークリースクエアは、ロンドン中心部のウェストミンスター区(City of Westminster)のウェストエンド(West End)内にある広場である。
このスクエアは、18世紀中頃、英国の建築家ウィリアム・ケント(William Kent:1685年ー1748年)により設計された。バークリースクエアの名前は、1733年まで近くに建っていたバークリーハウス(Berkeley House)をロンドン滞在時の邸宅として使用していたグロスター州(Gloucestershire)の貴族バークリー家の名に由来している。
当スクエア内にある樹木は、1789年にロンドン市内に植えられた最古の樹木とのこと。ということは、樹齢200年を優に越えているのである。

樹齢200年を越える樹木が生い茂るバークリースクエアガーデンズ

バークリースクエアは元々は住宅街であったが、現在住宅として使用されている建物は非常に少なく、会員制クラブ、レストラン、アンティークショップ、銀行や外車販売会社等が入っているケースが多い。そのため、当スクエアを囲む住宅スペースが不動産市場に出ることは非常に稀であり、不動産価格を大きく押し上げる要因となっている。

バークリースクエア50番地の入口

バークリースクエア48番地には、英国の元首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill:1874年ー1965年)が幼少期に住んでいたそうである。
また、バークリースクエア50番地には、現在、「マッグス兄弟のアンティーク本屋(Maggs Brothers Antiquarian Booksellers)」が入居しているが、当建物内では非常に恐ろしい怪奇現象が発生するらしい。当建物の屋根裏部屋から身を投げて自殺した若い女性の幽霊がその屋根裏部屋に現れると一般に言われている。英国の外務大臣や首相を務めた政治家ジョージ・カニング(George Canning:1770年ー1827年)がこの建物で生涯を過ごしたが、それ以前から誰も居ない屋根裏部屋で変な物音がしたりしていたとのこと。その後、幽霊を確かめに屋根裏部屋で一夜を過ごした人々が何らかの恐怖で死亡したり、精神に異常をきたしたりする事件が発生しているが、現在の会社が1930年代に入居した以降は、今のところ、そういった怪奇現象は起きていないそうである。

バークリースクエア50番地の外壁には、
ジョージ・カニングがここに住んでいたことを記す
ブループラークが表示されている。

なお、ホームズとキティー・ウィンターが訪ねたド・メルヴィル嬢の住まいであるバークリースクエア104番地は架空の住所であり、同スクエアには3桁の番地は存在していない。

2014年11月23日日曜日

ロンドン シンプソンズ(Simpson's)

現在の「シンプソンズ」入口

サー・アーサー・コナン・ドイル作「高名な依頼人(The Illustrious Client)」において、匿名の依頼人の指示を受けて、サー・ジェイムズ・デマリー大佐(Colonel Sir James Demery)がベーカーストリート221Bに住むシャーロック・ホームズを訪問する。それは、1902年9月3日の午後4時半のことであった。
デマリー大佐の話によると、ド・メルヴィル将軍(General de Merville)の令嬢ヴァイオレット・ド・メルヴィル(Violet de Merville)がオーストリアのアデルバート・グルーナー男爵(Baron Adelbert Grunner:現在、英国のキングストン(Kingston)近くのヴァーノンロッジ(Vernon Lodge)に居住)と親密になり、彼と婚約するに至っていた。グルーナー男爵はハンサムであるが、実際には、非常に残虐な男である。本人曰く、彼が当時結婚していた妻は事故で死亡したと弁明して、プラハでの裁判では罪を免れたが、本当は彼が自分の妻を自ら殺害したものと一般には考えられていたのである。
ド・メルヴィル将軍をはじめ、ド・メルヴィル嬢の周りの者は彼女にグルーナー男爵との結婚を思いとどまるよう言い含めるものの、残念ながら、彼女の態度は非常に頑なで、どんな説得にも耳を貸そうとはしなかった。「ド・メルヴィル嬢とグルーナー男爵の結婚をなんとか阻止してほしい。」というデマリー大佐の依頼を受けたホームズは、早速行動を開始すると約束する。昔は危険極まりない悪党として鳴らしていたが、今は前非を悔い改めてホームズに協力的な情報屋シンウエル・ジョンソン(Shinwell Johnson)に、ホームズはまず手助けを求めたのである。

「シンプソンズ」前のストランド通りを行き交う人々の流れ

私の友人(=ホームズ)が即座にどういった行動に出たのかについて、私(=ジョン・ワトスン)には判らなかった。というのも、私は本業の医師として急ぎの仕事があったからであるが、その晩、シンプソンズでホームズと会う約束になっていた。正面窓のところに置かれた小さなテーブルに座り、ストランド通りを行き交う慌ただしい雑踏の流れを見下ろしながら、ホームズは私にデマリー大佐との会見以降の経過を話してくれた。
(It was not possible for me to follow the immediate steps taken by my friend, for I had some pressing professional business of my own, but I met him by appointment that evening at Simpson's, where, sitting at a small table in the front window, and looking down at the rushing stream of life in the Strand, he told me something  of what had passed.)

夕闇が迫るサヴォイホテルの入口

「シンプソンズ・イン・ザ・ストランド(Simpson's in the Strand)」は、ローストビーフとヨークシャープディングが非常に美味しいので有名なレストランで、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)からシティー・オブ・ロンドン(City of London)方面に延びるストランド通り(Strand)沿いにある。住所は、「100 Strand, London WC2R 0EW」。1828年創業で、現在はサヴォイホテルグループのレストランになっている。ここのメインダイニングルームは昔女人禁制という格式の店であったが、現在は女性の入店も可能である。
ちなみに、ホームズはワトスンと連れ立って、シンプソンズには数回訪れている。「高名な依頼人」事件以外で、具体的にシンプソンズが出てくるのは、「瀕死の探偵(The Dying Detective)」事件である。

現在、「シンプソンズ」にはストランド通りに面した窓はなく、
両側は別のテナントが入居している

なお、ドイルの原作では、ホームズとワトスンはシンプソンズの正面窓近くにあるテーブルからストランド通りを行き交う人々を眺めているが、現時点ではこの記述は当てはまらない。何故ならば、現在、シンプソンズにはストランド通りに面した窓は存在していないからである。実際、シンプソンズ内の客から外がよく見える反面、外からも中に居る客が丸見えだったため、1904年に改装されたとのこと。ドイルの原作によると、「高名な依頼人」事件の発生年月は1902年9月となっており、シンプソンズの改装前なので、ホームズとワトスンが同レストランの正面窓に近いテーブルに座っていたとしてもおかしくない訳である。

2014年11月22日土曜日

ロンドン ノースウィックテラス5番地(5 Northwick Terrace)

一番左の建物部分が、アガサ・クリスティーが住んでいた「ノースウィックテラス5番地」

1914年に第一次世界大戦が勃発したことに伴い、アガサ・メアリー・クラリッサ・ミラー(Agatha Mary Clarissa Miller:1890年ー1976年)の婚約者アーチボルド・クリスティー大尉(Archibald Christie(通称 アーチー(Archie):1889年ー1962年)は、ドイツ軍との戦いのため、前線(フランス)に赴く。1914年末、正確に言うと、クリスマスイブの午後、アガサは、英国に一時帰国していたアーチーと結婚式を挙げ、クリスティー夫人となった。その後、再度出兵した夫と離れると、彼女は、生まれ故郷であるデヴォン州(Devon)のトーキー(Torquay)で母親と暮らしながら、薬剤師の助手(Apothecaries' Assistant)として勤務し、そこで(将来、エルキュール・ポワロやミス・ジェイン・マープル等が活躍する小説で数多く使用される)毒薬の知識を得たのである。


4年後の1918年、第一次世界大戦が終結し、同年9月にアーチーが空軍省(Air Ministry)に大佐(Colonel)として転属になったため、アガサ・クリスティーは生まれ故郷のトーキーを離れて、アーチーと一緒にロンドンに移り住むことになった。彼らがロンドンで最初に新居を構えたのは、ロンドン北西部のセントジョンズウッド地区(St. John's Wood)にあるノースウィックテラス5番地(5 Northwick Terrace)のフラットであった。

道路を挟んで、「ノースウィックテラス5番地」の反対側のフラット群
「ノースウィックテラス5番地」と同じ側に並ぶフラット群

ノースウィックテラスは、ローズ・クリケット場(Lord's Cricket Ground)から延びるセントジョンズウッドロード(St. John's Wood Road)とロンドン市内のマーブルアーチ(Marble Arch)から延びるエッジウェアロード(Edgware Road)が交差する角の近くにある通りである。ノースウィックテラスから北東へ少し行くと、緑豊かなリージェンツパーク(Regents Park)がある一方、逆に南へ少し下ると、彼女の生まれ故郷であるトーキーに帰る際の始発駅となるパディントン駅(Paddington Station)が位置しており、住環境としては非常に便利かつ良い場所である。また、ノースウィックテラス自体も非常に閑静な住宅街で、群衆を嫌い、静かな生活を好んだアガサ・クリスティーにとって、ロンドンで初めての暮らしを始めるにはうってつけのところだったと言える。

「ノースウィックテラス5番地」の前でも、秋の紅葉が進んでいる

彼女が新婚時代を過ごしたノースウィックテラス5番地は、3階建ての建物群の一番左端に該る。「小さな浴室と台所がついており、外には庭があった。」という彼女の自伝の記述通り、現在の建物は当時の様子をある程度今に伝えている。レンガ造りのアパート外観は庶民的な感じを残しているが、外から推測する限り、内装は相当綺麗になっているものと思われる。
1919年に一人娘のロザリンド(Rosalind)が生まれるまで、彼女はこのノースウィックテラス5番地で暮らしていたとのこと。

2014年11月16日日曜日

ロンドン カールトンクラブ(Carlton Club)

セントジェイムズ通り沿いに建つカールトンクラブ(黄土色の建物)

サー・アーサー・コナン・ドイル作「高名な依頼人(The Illustrious Client)」において、匿名の依頼人のために、サー・ジェイムズ・デマリー大佐(Colonel Sir James Demery)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪ねて来る。1902年9月3日の午後4時半のことである。
デマリー大佐の話によると、ド・メルヴィル将軍(General de Merville)の令嬢ヴァイオレット・ド・メルヴィル(Violet de Merville)がオーストリアのアデルバート・グルーナー男爵(Baron Adelbert Grunner:現在、英国のキングストン(Kingston)近くのヴァーノンロッジ(Vernon Lodge)に居住)に夢中になり、彼と結婚しようとしていた。実際、グルーナー男爵はハンサムであるが、非常に残虐な男である。本人曰く、彼が当時結婚していた妻は事故で死亡したと言って、プラハでの裁判では罪を免れたが、本当は彼が自分の妻を自ら殺害したものと一般には考えられていた。
ド・メルヴィル将軍をはじめ、ド・メルヴィル嬢の周りの者は彼女にグルーナー男爵との結婚を思いとどまるよう言い含めるものの、彼女の態度は非常に頑なで、どんな説得にも耳を貸そうとはしなかったのである。
「ド・メルヴィル嬢とグルーナー男爵の結婚をなんとか阻止してほしい。」というデマリー大佐の依頼を受けたホームズは、早速行動を開始すると約束する。

「あなたに御依頼いただいた件ですが、僕の興味を掻き立てますので、少し調べてみましょう。調査の進展について、あなたにどのようにしてお知らせすれば宜しいですか?」
「カールトンクラブに御連絡いただければ、私に通じますよ。でも、緊急の御用件であれば、XXの31番が私の個人用電話番号ですので、こちらに御連絡願います。」
ホームズはデマリー大佐の個人用電話番号を書き留めると、膝の上にメモ帳を開いたままにして、微笑みを絶やさないまま座っていた。
('I may add that your problem interests me, and that I shall be prepared to look into it. How shall I keep in touch with you ?'
'The Carlton Club will find me. But, in case of emergency, there is a private telephone call, "XX 31".'
Holmes noted it down and sat, still smiling with the open memorandum - book upon his knee.)

カールトンクラブの名前の由来となったカールトンハウステラスに建つ建物

カールトンクラブ(Carlton Club)は、ロンドン中心部のウェストミンスター区(City of Westminster)にある実在の場所で、住所は「69 St. James's Street, London SW1A 1RT」である。トラファルガースクエア(Trafalgar Square)から西に延びるパル・マル通り(Pall Mall)とピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)から同じく西に延びるピカデリー通り(Piccadilly)を南北に結ぶセントジェイムズ通り(St. James's Street)沿いに、カールトンクラブは建っている。

1835年にカールトンクラブが移ったパル・マル通り沿いに建つ建物

元々、カールトンクラブは1832年に英国の二大政党の一つである保守党のメンバー達によって創設された。当クラブの名前は、クラブが当初入居していた建物があったカールトンハウステラス(Carlton House Terrace)の名に由来している。最初の建物はすぐに手狭になったため、1835年にクラブはパル・マル通り沿いに建てられた2番目の建物に移った。
第二次世界大戦(1939年ー1945年)の最中、1940年10月14日にドイツ軍の爆撃による直撃を受け、幸いにして、死傷者は出なかったものの、建物全体が破壊されたことに伴い、クラブは現在の建物に移ったのである。
つまり、デマリー大佐がホームズの元を訪ねた1902年9月3日の時点では、カールトンクラブはパル・マル通り沿いの建物にあったことになる。

3代目となるカールトンクラブの玄関口近影

カールトンクラブでは、多くの保守党メンバーが会員となっている。クラブの会員になるには、現会員による推薦と承認が必要である。ただし、保守党の党首(Leader of the Conservative Party)の場合、名誉会員(Honorary Member)になることが可能で、保守党の現党首であるデイヴィッド・キャメロン(David Cameron)は2008年5月22日に名誉会員に選任されている。
また、伝統的に、男性のみがクラブの正式会員(Full Member)になることができ、女性の場合、準会員(Associate Member)になることはできるものの、クラブ内の投票権を有していなかった。ただし、レディー・マーガレット・サッチャー(Lady Margaret Thatcher:1925年ー2013年)が1975年に保守党の党首になった際、当クラブの名誉会員になり、また、2008年まで女性としては唯一正式会員としてあり続けたそうである。

2014年11月15日土曜日

ロンドン クイーン アン ストリート(Queen Anne Street)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「高名な依頼人(The Illustrious Client)」の序盤で、ジョン・ワトスンは次のように述べている。
「私(ワトスン)は、当時(=1902年9月)、クイーン アン ストリートに部屋を借りて暮らしていた。(I was living in my own rooms in Queen Anne Street at the time …)」

ウェルベックストリートからクイーン アン ストリートを望む

クイーン アン ストリート(Queen Anne Street)は、西側はウェルベックストリート(Welbeck Street:「最後の事件(The Final Problem)」において、シャーロック・ホームズがジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)配下の者が乗った二頭立ての馬車に襲撃された通り)から始まり、東側はチャンドスストリート(Chandos Street)に接して終わっている。
クイーン アン ストリートは、英国のステュアート朝(House of Stuart)最後の君主であるアン女王(Queen Anne:1665年ー1714年)に因んで名付けられている。アン女王は、1702年3月に(最後の)イングランド王国・スコットランド王国君主およびアイルランド女王(Queen of England, Scotland and Ireland)として即位し、1707年5月にスコットランドがイングランドに併合されたことに伴い、(最初の)グレートブリテン王国君主およびアイルランド女王(Queen of Great Britain and Ireland)として1714年8月まで君臨した。

現在、クイーン アン ストリートの両側は高級住宅街となっている。

クイーン アン ストリートは、開業医や歯科医が多いハーリーストリート(Harley Street)の近くにあり、ロンドンで医者が医院を持つ場合の最高地の一つである。ただし、現在は、どちらかと言うと、高級住宅街となっている。
「高名な依頼人」事件において、ワトスンは自分が住んでいたクイーン アン ストリートの具体的な番地名を開示していないため、建物を特定することをできないのが残念である。

英国を代表する画家ターナーが住んでいたクイーン アン ストリート23番地

クイーン アン ストリート23番地の外壁には、
画家ターナーがここに住んでいたことを記すプレートが掲げられている。

ロンドンの劇場街コヴェントガーデン(Covent Garden)に生まれ、若くして成功と名声を手を入れた画家ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner:1775年ー1851年)は、1812年にそれまで住んでいたハーリーストリート64番地からクイーン アン ストリート23番地に引っ越して、亡くなる1851年までその建物を所有したそうである。なお、彼が亡くなったのは、クイーン アン ストリート23番地ではなく、1846年に王立芸術院(Royal Academy of Arts)の副会長を辞した後に居を構えたチェルシー(Chelsea)地区のテムズ河(River Thames)沿いの家であった。

クイーン アン ストリート沿いにある交通標識に描かれている悪戯書き

2014年11月11日火曜日

ロンドン クレーヴンパッセージ(Craven Passage)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「高名な依頼人(The Illustrious Client)」は、シャーロック・ホームズとジョン・ワトスンがトルコ式風呂(Turkish Bath)に居るところから始まる。


「ホームズも私(ワトスン)もトルコ式風呂には目がなかった。乾燥室内に漂う心地良い脱力感の下、一服すると、ホームズの無口さは影を潜め、いつになく人間らしい彼を垣間見ることができた。ノーサンバーランド アヴェニューにある施設の上階には、2つの寝椅子が隣り合って並ぶ隔離した一角がある。1902年9月3日、私達はそれらの寝椅子の上に身を横たえていた。まさにその日、これから述べる物語が始まるのである。(Both Holmes and I had a weakness for the Turkish Bath. It was over a smoke in the pleasant lassitude of the drying-room that I found him less reticent and more human than anywhere else. On the upper floor of the Northumberland Avenue establishment there is an isolated corner where two couches lie side by side, and it was on these that we lay upon September 3, 1902, the day when my narrative begins.)」

クレーヴンストリート側から見たクレーヴン パッセージ
右手に見えるのが、シャーロック・ホームズ パブ

トラファルガースクエア(Trafalgar Square)からテムズ河(River Thames)方面にノーサンバーランド アヴェニュー(Northumberland Avenue)を下ると、途中で左手からのびてくるノーサンバーランド ストリート(Northumberland Street)と合流した角に、シャーロック・ホームズ パブ(Sherlock Holmes Pub)が建っている。このパブは、以前はノーサンバーランド ホテル(Northumberland Hotel)で、「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」において、ウォータールー駅(Waterloo Station)に到着したヘンリー・バスカヴィル卿(Sir Henry Baskervilles)はこのホテルに滞在している。このパブを正面に見た右手に、クレーヴンパッセージ(Craven Passage)と呼ばれる路地がある。

右手奥に見えるのが、「ネヴィルのトルコ式風呂」の女性用入口であった場所

このクレーヴンパッセージを通り抜けると、クレーヴンストリート(Craven Street)に至るが、この路地の右手にあるドアが、「ネヴィルのトルコ式風呂(Neville's Turkish Bath)」の入口であった。おそらく、ホームズとワトスンは、「高名な依頼人」事件が始まる前、ここでゆっくりしていたものと思われる。正確に言うと、このドアは女性用の入口で、ホームズとワトスンが通った男性用の入口は、かなり前に取り壊されてしまったそうである。