2017年4月15日土曜日

チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin)

自然史博物館(Natural History Museum)内の中央大階段の途中に設置されている
チャールズ・ダーウィン像

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)の冒頭、1878年にジョン・H・ワトスンはロンドン大学(University of London → 2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospital → 2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。

自然史博物館の建物を下から見上げたところ

自然史博物館内にある
チャールズ・ダーウィン像(その2)

英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Bar → 2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。

バーリントンハウス(Burlington House)内に入居している
リンネ式動植物分類学協会(Linnean Society)内に掛けられている
チャールズ・ダーウィンの肖像画

こうして、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。彼らが共同生活を始めて間もなく、ホームズの元にスコットランドヤードのグレッグスン警部(Inspector Gregson)から事件発生を告げる手紙が届く。ホームズに誘われたワトスンは、ホームズと一緒に、ブリクストンロード(Brixton Road)近くの現場ローリストンガーデンズ3番地(3 Lauriston Gardens → 2017年3月4日付ブログで紹介済)へと向かった。ホームズ達が到着した現場には、グレッグスン警部とレストレイド警部(Inspector Lestrade)が二人を待っていた。現場で死亡していたのは、イーノック・J・ドレッバー(Enoch J. Drebber)の名刺を持つ、立派な服装をした中年の男性だった。

リンネ式動植物分類学協会の入口

バーリントンハウス内の中庭 -
反対側に見える建物には、
王立芸術院(Royal Academy of Arts)が入居している

イーノック・J・ドレッバーの死体を発見したのは、ジョン・ランス巡査(Constable John Rance)であるという話をレストレイド警部から聞くと、ホームズとワトスンの二人は、早速、彼が住むケニントンパークゲート(Kennington Park Gate)のオードリーコート46番地(46 Audley Court → 2017年3月25日付ブログで紹介済)へと向かう。そこで、ジョン・ランス巡査から死体発見の経緯を聞いたホームズは、ワトスンに対して、「彼は犯人を捕まえられる絶好のチャンスをみすみすとふいにしたのさ。」と嘆くのであった。現場からベイカーストリート221B へと戻ったホームズは、ヘトヘトになったワトスンを部屋に残したまま、午後、ノーマン・ネルダ(Norman Neruda → 2017年4月1日付ブログで紹介済)のコンサートへ出かけてしまった。

ユニヴァーシティー・カレッジ・オブ・ロンドンの
生物科学部門(Biological Sciences)が入っている建物

上記の右側に飾られている
チャールズ・ダーウィンの胸像

地球上における生物進化の歴史

彼(ホームズ)の帰りが非常に遅かったので、コンサート以外にも、彼には用事があったことが、私には判った。彼が戻って来た時には、夕食が既にテーブルの上に準備されていた。
「コンサートは素晴らしかったよ。」と、彼は食事の席につきながら言った。「君は、ダーウィンが音楽について話したことを覚えているかい?音楽を作曲したり、鑑賞したりする能力は、会話をする能力よりもずっと前に、人間に備わっていたと、彼は論じているんだ。多分、それが原因で、人間は音楽によって鋭敏に影響を受けるのさ。世界がまだ産声をあげたばかりの混沌とした時代の記憶が、僕達の中にぼんやりと残っているのさ。」
「随分と壮大な考えだな。」と、私は返事をした。
「自然を理解しようとするならば、人間の考えも自ずと自然と同様に壮大になるのさ。」と、彼は答えた。「どうかしたのかい?いつもの君らしくないな。ブリクストンロードの事件で動揺しているのかい?」

ユニヴァーシティー・カレッジ・オブ・ロンドンのキャンパス内

He was very late in returning - so late, that I knew that the concert could not have detained him all the time. Dinner was on the table before he appeared.
'It was magnificent,' he said, as he took his seat. 'Do you remember what Darwin says about music? He claims that the power of producing and appreciating it existed among the human race long before the power of speech was arrived at. Perhaps that is why we are so subtly influenced by it. There are vague memories in our souls of those misty centuries when the world was in its childhood.'
'That's rather a broad idea,' I remarked.
'One's ideas must be as broad as Nature if they are to interpret Nature,' he answered. 'What's the matter? You're not looking quite yourself. This Brixton Road affair has upset you.'

ユニヴァーシティー・カレッジ・オブ・ロンドンの生物科学部門が入っている建物外壁には、
チャールズ・ダーウィンがここに住んでいたことを示すブループラークが掛けられている。

ホームズがワトスンとの会話の中で言及したチャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin:1809年ー1882年)は、英国の自然学者/生物学者である。

彼は、「自然選択」と呼ぶプロセスを通して、「全ての生物種は、共通の祖先から長い間をかけて分岐し、常に環境に適応するように変化して、多様な種が生じる。」と主張し、1859年11月に進化論についての著作「種の起源(On the Origin of Species)」を出版した。彼の著作は、専門家ではない人々を対象に分かりやすく執筆されていたため、一般大衆から幅広い関心を集める一方、当時の生物学の根幹となっていた宗教的信念を真っ向から否定したことにより、科学的な論争に加えて、宗教的/哲学的な論争も世間に引き起こしたのである。ただ、これらの論争を引き金にして、ダーウィンが唱えた進化論は、更に急速な発展を遂げていったのである。

2017年4月9日日曜日

イーストサセックス州(East Sussex) セブンシスターズ(Seven Sisters)

海外線からセブンシスターズを望む

アガサ・クリスティー作「象は忘れない(Elephants can remember)」は1972年に発表された作品であるが、1975年に刊行されたエルキュール・ポワロ最後の事件となる「カーテン(Curtain)」が第二次世界大戦(1939年ー1945年)中の1943年に予め執筆されていることを考えると、執筆順では、本作品が最後のポワロ譚と言える。

推理作家のアリアドニ・オリヴァー(Ariadne Oliver)は、文学者昼食会において、バートン=コックス夫人(Mrs Burton-Cox)と名乗る婦人から奇妙なことを尋ねられる。それは、オリヴァー夫人が名付け親となったシーリア・レイヴンズクロフト(Celia Ravenscroft)という娘の両親が十数年前に起こした心中事件のことだった。バートン=コックス夫人がオリヴァー夫人に発した問いは、「あの娘の母親が父親を殺したんでしょうか?それとも、父親が母親を殺したんでしょうか?」だった。自分の名付け子すら満足に思い出せないオリヴァー夫人にとって、謎めいた心中事件のことなど、何も覚えていなかったのである。

バートン=コックス夫人から尋ねられたことが非常に気になったオリヴァー夫人は、名付け子であるシーリアに連絡をとり、ひさしぶりに再会する。シーリアによると、彼女はバートン=コックス夫人の息子デズモンド(Desmond)と婚約中で、バートン=コックス夫人としては、シーリアの両親のどちらが相手を殺したのかが、シーリアとデズモンドが結婚した場合、遺伝的に好ましいのかどうかという問題に関わってくるらしい。

セブンシスターズの上は、緩やかな丘陵地となっている

シーリアの説明によると、亡くなる数年前にインドで退役したアリステア・レイヴンズクロフト将軍(General Alistair Ravenscroft)は、妻のマーガレット(Margaret Ravenscroft)と一緒に、英国南西部のコンウォール州(Cornwall)にある海辺の家へと移って、静かな生活を送っていた。ある日、いつも通り、レイヴンズクロフト夫妻は飼い犬を連れて散歩に出かけたが、その後、レイヴンズクロフト将軍が保有する銃で二人とも撃たれて死亡しているのが発見された。
警察はレイヴンズクロフト夫妻の死を心中と見做したが、心中に至る動機は遂に見つからなかった。夫妻が経済的に困っていた様子はない上に、夫婦仲もよく、彼らを殺害しようと考える敵等は居なかったからである。
当時、シーリアは12歳で、スイスの学校へ行っていて、コンウォール州にある海辺の家には住んでいなかった。その頃、海辺の家に居たのは、家政婦、シーリアの元家庭教師、それにシーリアの伯母だけであった。彼らにも、夫妻を殺すような動機は見当たらなかったである。

オリヴァー夫人から相談を受けたポワロは、レイヴンズクロフト夫妻と関わりがあった人達を訪ねて、心中事件の前後のことを象のように詳細に記憶している人を捜すよう、彼女にアドバイスを送る。一方で、ポワロは独自に真相の究明に乗り出し、旧友のスペンス元警視(ex Superintendent Spence)に依頼して、当時の事件担当者だったギャロウェイ元警視(ex Superintendent Garroway)を紹介してもらい、事件の調査内容を尋ねるのであった。

セブンシスターズカントリーパークで購入した地図

英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「象は忘れない」(2013年)の回では、物語の冒頭、13年前の1925年、レイヴンズクロフト夫妻による謎の心中事件の背景に、また、物語の最後、事件が無事解決し、寄り添うシーリア・レイヴンズクロフトとデズモンド・バートン=コックス、彼らの家庭教師だったゼリー・ルーゼル(Zelie Rouxelleーアガサ・クリスティーの原作では、ゼリー・モーウラ(Zelie Meauhourat)とマディー・ルーセル(Maddy Rouselle)という二人の家庭教師が居たが、TV版では、過去の事件だけでなく、現代(=13年後の1938年)に発生する事件も追加した関係上、登場人物を整理するため、一人になったと思われる)の三人を微笑ましく見つめるポワロとオリヴァー夫人が立つオーバークリフ荘(Overcliffー「崖の上の家」の意)のバルコニーの背景に、巨大な白い崖が海岸線に沿って聳えているのが見える。アガサ・クリスティーの原作では、物語の舞台は英国の南西部にあるコンウォール州に設定されているが、TV版では、英国南部のイーストサセックス州(East Sussex)にあるセブンシスターズ(Seven Sisters)が撮影に使われている。

駐車場/道路からセブンシスターズへのアクセスは徒歩のみ―
セブンシスターズは画面右下から右の方へと続く

セブンシスターズは白亜系チョークから成る海食崖で、英国南岸の都市であるシーフォード(Seafordー西側)とイーストボーン(Eastbourneー東側)の間に位置していて、イギリス海峡(English Channel→英仏海峡のこと)に面している。
緩やかな起伏の丘が打ち寄せる波によって削り取られてできた7つの白い崖が海岸線に連なる様子から「セブンシスターズ(7人の姉妹)」と呼ばれるようになった。筆者の場合、「セブンシスターズ」と呼ばれるようになったのは、プレイアデス星団の7つ星の元となったギリシア神話に登場するプレイアデス(Pleiades)7人姉妹がベースにあるものと思っていたが、そうではないようである。

セブンシスターズの東側で、イーストボーンの手前には、ビーチー岬(Beachy Head→近日中に紹介予定)があり、セブンシスターズやビーチー岬を含めた一帯は、セブンシスターズカントリーパーク(Seven Sisters Country Park)に属していて、景勝地/観光名所として非常に人気がある。

2017年4月8日土曜日

フレデリック・フランソワ・ショパン(Frederic Francois Chopin)

フレデリック・ショパンが、1848年のロンドンでの演奏旅行時に滞在したのが、
セントジジェイムズプレイス4番地で、
建物外壁には、そのことを示すブループラークが掛けられている。

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)の冒頭、1878年にジョン・H・ワトスンはロンドン大学(University of London → 2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospital → 2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。


英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Bar → 2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。

セントジェイムズプレイス4番地の前から東側を見たところ―
画面奥を横切るのは、セントジェイムズストリート
(St. James's Street)

こうして、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。彼らが共同生活を始めて間もなく、ホームズの元にスコットランドヤードのグレッグスン警部(Inspector Gregson)から事件発生を告げる手紙が届く。ホームズに誘われたワトスンは、ホームズと一緒に、ブリクストンロード(Brixton Road)近くの現場ローリストンガーデンズ3番地(3 Lauriston Gardens → 2017年3月4日付ブログで紹介済)へと向かった。ホームズ達が到着した現場には、グレッグスン警部とレストレイド警部(Inspector Lestrade)が二人を待っていた。現場で死亡していたのは、イーノック・J・ドレッバー(Enoch J. Drebber)の名刺を持つ、立派な服装をした中年の男性だった。

セントジェイムズプレイス4番地の建物全景

イーノック・J・ドレッバーの死体を発見したのは、ジョン・ランス巡査(Constable John Rance)であるという話をレストレイド警部から聞くと、ホームズとワトスンの二人は、早速、彼が住むケニントンパークゲート(Kennington Park Gate)のオードリーコート46番地(46 Audley Court → 2017年3月25日付ブログで紹介済)へと向かう。そこで、ジョン・ランス巡査から死体発見の経緯を聞いたホームズは、ワトスンに対して、「彼は犯人を捕まえられる絶好のチャンスをみすみすとふいにしたのさ。」と嘆くのであった。そして、ホームズとワトスンは、ベイカーストリート221B へと一旦戻る辻馬車の中で、話を続けた。


「指輪だよ、犯人はあの指輪を取り返すために現場に戻って来たのさ。もし犯人を捕まえる方法が他になくても、いつでもあの指輪を餌にして犯人を誘き寄せることができる。ワトスン、僕が犯人を絶対に捕まえてみせる。ー僕が犯人を捕まえる方に、2対1で賭けてもいい。君には礼を言わなければならない。君が居なければ、僕がこれまでに出会った中でも最も素晴らしい事件を逃していたかもしれない。『緋色の習作』と言うのは、どうだろう?芸術家が使う用語を使ってはいけないことはないだろう。『人生』という名の無色の糸かせの中を『殺人』という名の緋色の糸が通っているんだ。僕達がすべきことは、その絡まった糸を解し(ほづし)、糸かせから解いて(ほどいて)、全てを明らかにすることだ。そろそろ、昼食の時間だ。それから、ノーマン・ネルダだ。彼女のヴァイオリンの最初の音と弓使いは、実に素晴らしいんだ。彼女が本当に素晴らしく奏でるあのショパンの曲は、何だったかな?トゥラ~ラ~ラ~リラ~リラ~レイ。」
辻馬車の座席に凭れると、このアマチュア探偵は雲雀のように楽しげに歌ったのである。その一方で、人間の心の多面性について、私は思いを巡らせていた。


'The ring, man, the ring: that was what he came back for. If we have no other way of catching him, we can always bait our line with the ring. I shall have him, Doctor - I'll lay you two to one that I have him. I must thank you for it all. I might not have gone but for you, and so have missed the finest study I ever came across: a study in scarlet, eh? Why shouldn't we use a little art jargon. There's the scarlet thread of murder running through the colourless skein of life, and our duty is to unravel it, and isolate it, and expose every inch of it. And now for lunch, and then for Norman Neruda. Her attack and her bowing are splendid. What's that little thing of Chopin's she plays so magnificently: Tra-la-la-lira-lira-lay.' 
Leaning back in the cab, this amateur bloodhound carolled away like a lark while I meditated upon the many-sidedness of the human mind.

セントジェイムズプレイス4番地の前から西側を見たところ

モラヴィア(チェコスロヴァキアの中部地方ー元オーストリア(ハプスブルグ帝国)領)のヴァイオリン演奏家であるノーマン・ネルダ(Norman Neruda:1838年ー1911年→2017年4月1日付ブログで紹介済)がコンサートで演奏する曲を作曲したフレデリック・フランソワ・ショパン(Frederic Francois Chopin:1810年ー1849年)は、ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家である。彼は、ピアニストとしても有名であった。

彼は、慢性的な肺の疾患(肺結核)から体調がずーっと優れない上に、1847年、フランスの女流作家であるジョルジュ・サンド(George Sand:1804年ー1876年)との10年間に及ぶ関係に終止符を打ったことに伴い、ひどい鬱状態に陥っていた。
そんな最中の1848年、フレデリック・ショパンは、フランスと英国へ演奏旅行に出かけている。ロンドンでは、ヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)の御前演奏等を行い、成功を納めたものの、日程の厳しさは、彼の体調を更に悪化させる羽目となり、1849年10月17日、姉のルドヴィカ等に看取られながら、パリのヴァンドーム広場(Place Vendome)にあるアパートで息を引き取った。そして、彼の葬儀は、約2週間後の同年10月30日、パリのマドレーヌ寺院(Eglise de la Madeleine)で行われ、世界中から多くの人が参列したと言う。


ロンドンでの演奏旅行時に、フレデリック・ショパンが滞在したのは、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James's)内にあるセントジェイムズプレイス4番地(4 St. James's Place)で、そのことを示すブループラークが建物の外壁に掛けられている。

2017年4月2日日曜日

ロンドン リンカーンズ・イン・フィールズ29番地(29 Lincoln's Inn Fields)

リンカーンズ・イン・フィールズ29番地の建物の正面全景

アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の秘密(The Mystery of the Spanish Crest)」は、短編集「クリスマスプディングの冒険(The Adventure of the Christmas Pudding)」(1960年)に収録されている一遍である。


裕福な独り者であるチャールズ・リッチ少佐(Major Charles Rich)が、クレイトン夫妻(Mr and Mrs Clayton)、スペンス夫妻(Mr and Mrs Spence)とマクラーレン中佐(Commander McLaren)という長年来の友人5人を、自宅のフラットへ食事に招く。ところが、直前になって、招待客の一人であるクレイトン氏に、急な商用でスコットランドへ出かける必要が生じて、食事会に参加できなくなった。マクラーレン中佐と一緒にクラブで一杯飲んだ後、クレイトン氏は、駅へ向かう途中、事情を説明するために、リッチ少佐のフラットに立ち寄ったが、生憎と、リッチ少佐は外出していた。そこで、クレイトン氏は、リッチ少佐への伝言を残すべく、リッチ少佐の執事バージェス(Burgess)に居間へ案内してもらう。バージェスは、キッチンでの準備のため、クレイトン氏を居間に残したまま、その場を後にするが、リッチ少佐への伝言をしたためた後、クレイトン氏が立ち去るところを見かけていなかった。10分程して、リッチ少佐が帰宅し、バージェスを使い走りに外出させた。

リンカーンズ・イン・フィールズ29番地の建物を
リンカーンズ・イン・フィールズの西側から見たところ

その後、クレイトン氏を除いた残り5人で、食事会は滞りなく終わったのであるが、翌朝、居間の掃除をしていたバージェスは、部屋の角に置いてあるスペイン櫃の蓋を開けると、櫃の内には首を刺し貫かれたクレイトン氏の死体が入っていたのである。スコットランドに居る筈のクレイトン氏が、スペイン櫃の内に居たのか?そして、彼は櫃の内で何をしていたのか?

リンカーンズ・イン・フィールズ29番地の入口

リッチ少佐は、クレイトン氏殺害の容疑で、警察に逮捕される。リッチ少佐はクレイトン夫人に魅かれており、リッチ少佐にとって、クレイトン氏は邪魔な存在だったと、警察は推測する。そして、食事会の直前、帰宅したリッチ少佐は、居間で彼への伝言をしたためているクレイトン氏に出会い、口論の末、クレイトン氏を刺し殺して、スペイン櫃内に押し込んだ単純明快な事件だと、警察は考えたのである。

リンカーンズ・イン・フィールズの北東角から
リンカーンズ・イン・フィールズ29番地の建物を見上げたところ

クレイトン夫人と共通の友人経由、クレイトン夫人から依頼を受けたエルキュール・ポワロは首をひねった。刺し殺されたクレイトン氏の死体をスペイン櫃内に押し込んだまま、リッチ少佐は、その櫃がある居間で残りの招待客4人と一緒に食事会を行い、翌朝、執事のバージェスがクレイトン氏の死体を発見するまで、そのまま死体を放置していたことになる。リッチ少佐は、それ程までに愚かなのだろうか?ポワロの灰色の脳細胞が動き出す

リンカーンズ・イン・フィールズの北東角から
リンカーンズ・イン・フィールズ29番地の入口を見たところ

英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「スペイン櫃の秘密」(1991年)の回では、食事会が行われた翌朝、クレイトン氏の刺殺体が居間にあるスペイン櫃から発見されたリッチ少佐のフラットとして、リンカーンズ・イン・フィールズ29番地(29 Lincoln's Inn Fields)の建物が撮影に使用されている。

リンカーンズ・イン・フィールズ内の風景

リンカーンズ・イン・フィールズの北東角に設置されている
北ウェールズ出身の彫刻家バリー・フラナガン
(Barry Flanagan:1941年ー2009年)作「Camdonian」

リンカーンズ・イン・フィールズ29番地の建物は、ロンドンの中心部ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のホルボーン地区(Holborn)内にあり、リンカーンズ・イン・フィールズの北側に建っている。


リンカーンズ・イン・フィールズの北東角から北へ延びる
ニューマンズロウ(Newmans Row)側にある
リンカーンズ・イン・フィールズ29番地の建物外壁に、
設計者(左側)と建設業者(右側)が刻まれている

リンカーンズ・イン・フィールズ29番地の建物は、建築家F・H・グリーナウェイ(F. H, Greenaway)とJ・E・ニューベリー(J. E. Newberry)によって設計され、1924年に竣工した。TV版のポワロシリーズは、基本的に、その時代設定を第一次世界大戦(1914年ー1918年)と第二次世界大戦(1939年ー1945年)の間に置いているので、この建物がリッチ少佐のフラットとして撮影に使用されたのは、建物が竣工した年がTV版のポワロシリーズの時代設定に合致していたことが、その理由の一つとして挙げられると思う。

ニューマンズロウの北側から
リンカーンズ・イン・フィールズを眺めたところ

ニューマンズロウに面した
リンカーンズ・イン・フィールズ29番地の建物外壁

急な商用のため、クレイトン氏がスコットランドへ出かける前に、カーチス大佐(Colonel Curtissーアガサ・クリスティーの原作では、マクラーレン中佐)と一杯飲んだ軍人クラブの外観として撮影されたイングランド王立外科医師会(Royal College of Surgeons of England)が入居する建物は、リンカーンズ イン フィールズを間に挟んだ反対側に建っている。なお、リンカーンズ イン フィールズ29番地の建物はロンドン・カムデン区に属しているが、リンカーンズ イン フィールズの南側にあるイングランド王立外科医師会が入居する建物はシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)区に属している。

2017年4月1日土曜日

ノーマン・ネルダ(Norman Neruda)

コナン・ドイル作シャーロック・ホームズシリーズのブックベンチ

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)の冒頭、1878年にジョン・H・ワトスンはロンドン大学(University of London → 2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospital → 2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。

ハイドパーク(Hyde Park)の南側に建つ
ロイヤルアルバートホール(Royal Albert Hall)

英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Bar → 2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。

ロイヤルアルバートホール(その2)

こうして、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。彼らが共同生活を始めて間もなく、ホームズの元にスコットランドヤードのグレッグスン警部(Inspector Gregson)から事件発生を告げる手紙が届く。ホームズに誘われたワトスンは、ホームズと一緒に、ブリクストンロード(Brixton Road)近くの現場ローリストンガーデンズ3番地(3 Lauriston Gardens → 2017年3月4日付ブログで紹介済)へと向かった。ホームズ達が到着した現場には、グレッグスン警部とレストレイド警部(Inspector Lestrade)が二人を待っていた。現場で死亡していたのは、イーノック・J・ドレッバー(Enoch J. Drebber)の名刺を持つ、立派な服装をした中年の男性だった。

ロイヤルアルバートホール(その3)

イーノック・J・ドレッバーの死体を発見したのは、ジョン・ランス巡査(Constable John Rance)であるという話をレストレイド警部から聞くと、ホームズとワトスンの二人は、早速、彼が住むケニントンパークゲート(Kennington Park Gate)のオードリーコート46番地(46 Audley Court → 2017年3月25日付ブログで紹介済)へと向かうのであった。
ジョン・ランス巡査が住むオードリーコート46番地へと向かう辻馬車の中で、ホームズはワトスンに対して、今回の事件の話をする。

コヴェントガーデン(Covent Garden)にある
ロイヤルオペラハウス(Royal Opera House)

「僕が今分っていることは、全部説明したが、残りは単なる推量や憶測に過ぎない。しかし、捜査の出だしとしては、かなり良い情報が集まったと言える。急ぐ必要があるな。というのも、今日の午後、ノーマン・ネルダ(のヴァイオリン演奏)を聞きに、ハレのコンサートへ行きたいんだ。」

ロイヤルオペラ団(Royal Opera)と
ロイヤルバレエ団(Royal Ballet)が
ロイヤルオペラハウスを本拠地としている

'I've told you all I know myself now, for the rest is mere surmise and conjecture. We have a good working basis, however, on which to start. We must hurry up, for I want to go to Halle's concert to hear Norman Neruda this afternoon.'

ロイヤルオペラハウスの内部(天井+観客席)

ホームズが今日の午後行きたいと話したコンサートで、ヴァイオリン演奏をするノーマン・ネルダ(Norman Neruda)とは、ウィルマ・ノーマンーネルダ(Wilma Norman-Neruda:1838年ー1911年)という女性ヴァイオリニストのことである。

彼女は、1838年3月、現在のチェコスロヴァキアの中部地方であるモラヴィア(Moravia)のブルノ(Brno)に、ウィルへルミネ・マリア・フランツィスカ・ネルダ(Wilhelmine Maria Franziska Neruda)として出生した。当時、モラヴィア一帯は、オーストリア帝国(1804年ー1867年)の支配下にあった。その頃、ヴァイオリンは女性が嗜む楽器ではなかったため、彼女の父親は彼女にピアノを習わせたが、彼女の兄弟が習っていたヴァイオリンに興味を示し、最後は父親の許しを得て、ヴァイオリンの練習に取り組むことになった。
その後、彼女の一家はウィーンへ移住するが、彼女は師事してヴァイオリンの練習を続け、7歳の時、ヨハン・セバスチャン・バッハ(Johann Sebastian Bach:1685年ー1750年)のヴァイオリンソナタでヴァイオリニストとしてのデビューを果たす。

トラファルガースクエア(Trafalgar Square)近くにある
コリシーアム劇場(Coliseum)

彼女は、1864年、スウェーデン人の音楽家であるルードヴィック・ノーマン(Ludvig Norman:1831年ー1885年)と結婚し、一男を設ける。息子のルードヴィック・ノーマン・ネルダ(Ludwig Norman-Neruda)は、後に登山家となる。1868年、彼女は息子と一緒にロンドンへ住まいを移す。「緋色の研究」事件は1881年に発生したと思われるので、彼女がロンドンへ住まいを移した後である。

英国国立オペラ団(English National Opera)と
英国国立バレエ団(English National Ballet)が
コリシーアム劇場を本拠地としている

夫の死後の1888年、彼女はドイツ系英国人の音楽家であるチャールズ・ハレ(Charles Halle)と再婚する。同年、再婚した夫がナイトの称号を得たことに伴い、彼女はレディー・ハレ(Lady Halle)と呼ばれるようになった。
チャールズ・ハレの死後、夫から相続した邸宅に住むため、彼女は息子と共にイタリアへ引っ越すが、1898年に息子が登山中の事故で死亡した後、ベルリンへと住まいを移すのであった。

コリシーアム劇場は、
セントマーティンズレーン(St. Martin's Lane)に面している

その後も、彼女は一年のうちの何ヶ月かはロンドンに戻り、ヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間 1837年ー1901年)の後を継いだエドワード6世(Edward VI:1841年ー1910年 在位期間 1901年ー1910年)に嫁いだアレキサンドラ妃(Alexandra of Denmark:1844年ー1925年)から1901年に「Violinist to the Queen」に任命されるも、1911年にベルリンで73歳の波乱に満ちた生涯を閉じるのであった。

彼女が生まれたモラヴィアは、オーストリア帝国から改組されたオーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)の支配下にまだあり、帝国が解体されるのは、第一次世界大戦(1914年ー1918年)後の1918年である。