2017年5月21日日曜日

ロンドン ボンドストリート(Bond Street)

ニューボンドストリート沿いに建つ老舗デパート「フェンウィック」―
画面中央から右へ延びる通りがニューボンドストリートで、
画面中央から左へ延びる通りがブルックストリート(Brook Street―2015年4月4日付ブログで紹介済)

アガサ・クリスティー作「象は忘れない(Elephants can remember)」は1972年に発表された作品であるが、1975年に刊行されたエルキュール・ポワロ最後の事件となる「カーテン(Curtain)」が第二次世界大戦(1939年ー1945年)中の1943年に予め執筆されていることを考えると、執筆順では、本作品が最後のポワロ譚と言える。

オックスフォードストリート(Oxford Street―
2016年5月28日付ブログで紹介済)側から見た
ニューボンドストリート(その1)

オックスフォードストリート側から見た
ニューボンドストリート(その2)―
画面左奥では、ロンドン東部とロンドン西部を
ロンドン市内の地下トンネルで結ぶための
クロスレール工事(Crossrail Project)が進められている

推理作家のアリアドニ・オリヴァー(Ariadne Oliver)は、文学者昼食会において、バートン=コックス夫人(Mrs Burton-Cox)と名乗る婦人から奇妙なことを尋ねられる。それは、オリヴァー夫人が名付け親となったシーリア・レイヴンズクロフト(Celia Ravenscroft)という娘の両親が十数年前に起こした心中事件のことだった。バートン=コックス夫人がオリヴァー夫人に発した問いは、「あの娘の母親が父親を殺したんでしょうか?それとも、父親が母親を殺したんでしょうか?」だった。自分の名付け子すら満足に思い出せないオリヴァー夫人にとって、謎めいた心中事件のことなど、何も覚えていなかったのである。


ニューボンドストリート側から見た
オックスフォードストリート(その1)

ニューボンドストリート側から見た
オックスフォードストリート(その2)

バートン=コックス夫人から尋ねられたことが非常に気になったオリヴァー夫人は、名付け子であるシーリアに連絡をとり、ひさしぶりに再会する。シーリアによると、彼女はバートン=コックス夫人の息子デズモンド(Desmond)と婚約中で、バートン=コックス夫人としては、シーリアの両親のどちらが相手を殺したのかが、シーリアとデズモンドが結婚した場合、遺伝的に好ましいのかどうかという問題に関わってくるらしい。

ニューボンドストリート沿いには、
高級リテールショップが軒を連ねている

シーリアの説明によると、亡くなる数年前にインドで退役したアリステア・レイヴンズクロフト将軍(General Alistair Ravenscroft)は、妻のマーガレット(Margaret Ravenscroft)と一緒に、英国南西部のコンウォール州(Cornwall)にある海辺の家へと移って、静かな生活を送っていた。ある日、いつも通り、レイヴンズクロフト夫妻は飼い犬を連れて散歩に出かけたが、その後、レイヴンズクロフト将軍が保有する銃で二人とも撃たれて死亡しているのが発見された。
警察はレイヴンズクロフト夫妻の死を心中と見做したが、心中に至る動機は遂に見つからなかった。夫妻が経済的に困っていた様子はない上に、夫婦仲もよく、彼らを殺害しようと考える敵等は居なかったからである。
当時、シーリアは12歳で、スイスの学校へ行っていて、コンウォール州にある海辺の家には住んでいなかった。その頃、海辺の家に居たのは、家政婦、シーリアの元家庭教師、それにシーリアの伯母だけであった。彼らにも、夫妻を殺すような動機は見当たらなかったである。

ニューボンドストリートとブルックストリートが交差する南東の角に
老舗デパート「フェンウィック」が建っている

老舗デパート「フェンウィック」が建つ角から
ニューボンドストリートの南方面に望む

オリヴァー夫人から相談を受けたポワロは、レイヴンズクロフト夫妻と関わりがあった人達を訪ねて、心中事件の前後のことを象のように詳細に記憶している人を捜すよう、彼女にアドバイスを送る。
一方で、ポワロは独自に真相の究明に乗り出し、旧友のスペンス元警視(ex Superintendent Spence)に依頼して、当時の事件担当者だったギャロウェイ元警視(ex Superintendent Garroway)を紹介してもらい、事件の調査内容を尋ねるのであった。

デパート「フェンウィック」―
ニューボンドストリートとブルックストリートが交差する角の入口ディスプレイ

デパート「フェンウィック」―
ブルックストリート側に面したウィンドウ/外壁ディスプレイ 

英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「象は忘れない」(2013年)の回では、英国の南岸にある断崖絶壁の上で心中死体となって発見されたレイヴンズクロフト夫妻のうち、妻のマーガレット・レイヴンズクロフトが亡くなる前にカツラを4つ所有していたという話をオリヴァー夫人は聞きつける。替えのカツラを含めても、通常2つあれば充分と考えたオリヴァー夫人は、友人のマーガレットにカツラを誂えたユージーヌ&ローズンテル美容室(Eugene and Rosentelle Ladies Hairdresser)を訪れる。同美容室は、以前ボンドストリート(Bond Street)沿いで営業していたが、既にテムズ河(River Thames)南岸にあるトゥーティング・ベック(Tooting Bec)へ移転していた。厳しい言い方をすると、ロンドンの流行の最先端から、今は取り残されているのと同様だった。マーガレットのカツラのことを根掘り葉掘り尋ねるオリヴァー夫人に対して、愛想のない対応をするローズンテル夫人(Mrs Rosentelle)であったが、オリヴァー夫人が流行の最先端であるメイフェア地区(Mayfair)に住んでいることが判ると、途端に協力的になった。

画面を左右に横切るのが、ニューボンドストリート―
画面奥へ延びるのは、コンデュイットストリート
(Conduit Street―2015年7月18日付ブログで紹介済)

TV画面には映らないが、トゥーティング・ベックへ移転する前に、ユージーヌ&ローズンテル美容室が営業していたボンドストリートは、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級地区メイフェア内に所在している。
ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)から、地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station)の前を通って、地下鉄ハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Station)へと西に延びるピカデリー通り(Piccadilly)と地下鉄オックスフォードサーカス駅(Oxford Circus Tube Station)から、地下鉄ボンドストリート駅(Bond Street Tube Station)の前を通って、地下鉄マーブルアーチ駅(Marble Arch Tube Station)へと西に延びるオックスフォードストリート(Oxford Street)に、ボンドストリートは南北に結んでいる。
現在、南側のセクションを「オールドボンドストリート(Old Bond Street)」、そして、北側のセクションを「ニューボンドストリート(New Bond Street)」と呼び、区分けしている。

ニューボンドストリートとオールドボンドストリート(Old Bond Street)を繫ぐ歩道には、
第二次世界大戦時に両国を指揮した英首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)と
米大統領フランクリン・ルーズヴェルト(Franklin Roosevelt)のブロンズ像が設置されている

現在のボンドストリートがある一帯には、第2代アルベマール公爵クリストファー・マンク(Christopher Monck, 2nd Duke of Albemarle:1653年ー1688年)が所有するクラレンドンハウス(Clarendon House)と呼ばれる邸宅があった。この邸宅を初代准男爵トマス・ボンド(Thomas Bond, 1st Baronet:1620年ー1685年)が第2代アルベマール公爵クリストファー・マンクから邸宅を購入して、これを取り壊し、一帯を開発した。初代准男爵トマス・ボンドは、英国王チャー1世(Charles I:1600年ー1649年 在位期間:1625年ー1649年)の妃であるヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス(Henrietta Maria of France:1609年ー1669年)の財務関係の監査役(Comptrollerー現在の 'Controller')でもあった。
初代准男爵トマス・ボンドの死後、1686年に、この通りは彼に因んで、「ボンドストリート」と呼ばれるようになった。

オールドボンドストリート沿いに建つ
ロイヤルアーケード(Royal Arcade―2016年1月16日付ブログで紹介済)

ロイヤルアーケードの反対側は、
アルベマールストリート(Albemarle Street)に通じている

1720年代にボンドストリート沿いに大部分の建物が建設され、18世紀末までに当ストリート沿いは上流階級の社交場となった。また、当ストリート沿いの店舗は、上階の部屋を上流階級用の住居として貸し出すようになった。



19世紀に入ると、ボンドストリートは上流階級の社交場としての役割を失ったものの、現在、ティファニー(Tiffany's)を初めとする高級リテールショップが通り沿いに軒を連ねており、欧州でも有数のショッピング街としての評判を得ている。その他に、通り沿いには、老舗デパート「フェンウィック(Fenwick)」やオークション会社の「サザビーズ(Sotheby's)」等も並んでいる。

2017年5月20日土曜日

ロンドン ブリクストンロード(Brixton Road)

ブリクストンロード(画面を左右に横切る通り)とバサルロードが交差した地点―
ジョン・ランス巡査は、ハリー・マーチャー巡査と立ち話をした後、
バサルロードから出て来て、ブリクストンロードの巡回を続けて、事件に遭遇する

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)の冒頭、1878年にジョン・H・ワトスンはロンドン大学(University of London → 2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospital → 2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。


英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Bar → 2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。

ブリクストンロードとバサルロードが交差した地点の北側(その1)

こうして、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。彼らが共同生活を始めて間もなく、ホームズの元にスコットランドヤードのグレッグスン警部(Inspector Gregson)から事件発生を告げる手紙が届く。ホームズに誘われたワトスンは、ホームズと一緒に、ブリクストンロード(Brixton Road)近くの現場ローリストンガーデンズ3番地(3 Lauriston Gardens → 2017年3月4日付ブログで紹介済)へと向かった。ホームズ達が到着した現場には、グレッグスン警部とレストレイド警部(Inspector Lestrade)が二人を待っていた。現場で死亡していたのは、イーノック・J・ドレッバー(Enoch J. Drebber)の名刺を持つ、立派な服装をした中年の男性だった。

ブリクストンロードとバサルロードが交差した地点の北側(その2)

イーノック・J・ドレッバーの死体を発見したのは、ジョン・ランス巡査(Constable John Rance)であるという話をレストレイド警部から聞くと、ホームズとワトスンの二人は、早速、彼が住むケニントンパークゲート(Kennington Park Gate)のオードリーコート46番地(46 Audley Court → 2017年3月25日付ブログで紹介済)へと向かうのであった。

ブリクストンロードとバサルロードが交差した
北東の角に建つセミデタッチの住宅

ランス巡査は馬の毛でできたソファーに腰を下ろすと、何一つ話に漏れがないように決心したように眉を顰めた。
「最初からお話します。」と、彼は言った。「私の巡回時間は夜10時から朝6時までです。夜11時にパブ『ホワイトハート』で喧嘩騒ぎがありましたが、それを除けば、非常に静かな夜でした。午前1時に雨が降り始めた時、私はホーランドグローヴ通りを担当するハリー・マーチャーと出会ったので、ヘンリエッタストリートの角に一緒に立って、ちょっと話をしました。多分、2分かそこらだったと思います。その後、私はブリクストンロードを巡回して、異常がないかどうか確認しようと思いました。ブリクストンロードは非常に汚く、淋しい所でした。私が通りを歩いていても、辻馬車が一、二台私の横を通り過ぎただけで、人っ子一人居ませんでした。ここだけの話ですが、ホットジンが飲めればどれだけよいかと思いながら、私はゆっくりと巡回しました。すると、突然、あの家の窓からキラキラした光が、私の目にとまりました。ローリストンガーデンズ内の二軒の家が空き家であることを、私は知っていました。二軒のうち、一軒に居た最後の住人が腸チフスで死んだにもかかわらず、家主が下水道を整備しようとしないからです。それで、窓に明かりが見えた時、私はびっくりして、何か良からぬことが起きているのではないかと考えました。そして、私が扉の前へ行った時...」
「君は立ち止まって、庭の入口まで引き返した。」と、ホームズがランス巡査の話を遮った。「君はどうしてそうしたんだ?」
ランス巡査はびっくりして跳び上がると、非常に驚いた顔でホームズをじっと見つめるのであった。

ブリクストンロードとバサルロードが交差した地点の南側(その1)

Rance sat down on the horsehair sofa, and knitted his brows as though determined not to omit anything in his narrative.
"I'll tell it ye from the beginning." he said. "My time is from ten at night to six in the morning. At eleven there was fight at the 'White Hart'; but bar that all was quiet enough on the beat. At one o'clock it began to rain, and I met Harry Murcher - him who has the Holland Grove beat - and we stood together at the corner of Henrietta Street a-talkin'. Presently - maybe about two or a little after - I thought I would take a look round and see that all was right down the Brixton Road. It was precious dirty and lonely. Not a soul did I meet all the way down, though a cab or two went past me. I was a strolling' down, thinking' between ourselves how uncommon handy a four of gin hot would be, when suddenly the glint of a light caught my eyes in the window of that same house. Now, I knew that them two houses in Lauriston Gardens was empty on account of him that owns them who won't have the drains seen to, though the very last tenant what lived in one of them died o' typhoid fever. I was knocked all in a heap therefore at seeing a light in the window, and I suspected as something was wrong. When I got to the door -"
"You stopped, and then walked back to the garden gate," my companion interrupted. "What did you do that for?"
Rance gave a violent jump, and stared at Sherlock Holmes with the utmost amazement upon his features.

ブリクストンロードとバサルロードが交差した地点の南側(その2)

ジョン・ランス巡査が、ホーランドグローヴ通り(Holland Grove → 2017年5月6日付ブログで紹介済)を担当するハリー・マーチャー巡査と出会って、ヘンリエッタストリート(Henrietta Streetー架空の通りで、現在の住所表記上、バサルロード(Vassall Road → 2017年5月14日付ブログで紹介済)がこれに該当すると思われる)の角で立ち話をした後、巡回を続けたブリクストンロード(Brixton Road)は、テムズ河(River Thames)南岸のロンドン・ランベス区(London Borough of Lambeth)内のキャンバーウェル地区(Camberwell)やブリクストン地区(Brixton)を通過している。
ブリクストンロードの始まりは、ローマ時代まで遡り、ロンドン市内から英国南岸の保養地であるブライトン(Brighton)に至る道の一部を成している。

ブリクストンロードとバサルロードが交差した地点の南側(その3)

ケニントンパーク(Kennington Park)から地下鉄ブリクストン駅(Brixton Tube Station)へ向かって南下するブリクストンロードの左手に、この道に垂直に交わるバサルロードがある。これを左折して、しばらく直進した左手に、ホーランドグローヴ通りが南北に延びている。
ハリー・マーチャー巡査が巡回を担当していたのが、ホーランドグローヴ通りなので、ジョン・ランス巡査が彼と出会って立ち話をしたのは、ホーランドグローヴ通りとバサルロードが交差した角であると推測される。つまり、ハリー・マーチャー巡査はホーランドグローヴ通りを南下し、そして、ジョン・ランス巡査はバサルロードを東方面からやって来て、その角で二人は出会ったのではないだろうか?立ち話後、ジョン・ランス巡査はバサルロードを更に西へ進むと、ブリクストンロードへと出るので、彼がホームズとワトスンの二人に話した内容と一致する。

ブリクストンロードは一直線に延びる長い大通りで、ケニントンパークからバサルロードと交差する地点までの距離と比べると、バサルロードと交差する地点から地下鉄ブリクストン駅までの距離の方が圧倒的に長い。おそらく、バサルロードから出て来たジョン・ランス巡査は、地下鉄ブリクストン駅方面へと向かって、つまり、左へと曲がって、ブリクストンロードを南下し、事件に遭遇したものと思われる。

2017年5月14日日曜日

ロンドン バサルロード(Vassall Road)―ヘンリエッタストリート(Henrietta Street)の候補地

コナン・ドイルの原作「緋色の研究」において、
巡回中、ジョン・ランス巡査がハリー・マーチャー巡査と出会って立ち話をしたのは、
ヘンリエッタストリート(架空の通り)になっているが、現在の住所表記上、
ホーランドグローヴ通り(画面手前の通り)とバサルロード(画面奥の通り)が交差する角が
それに該るものと思われる

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)の冒頭、1878年にジョン・H・ワトスンはロンドン大学(University of London → 2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospital → 2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。


英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Bar → 2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。

バサルロード沿いに建つ教会
St. John the Divine, Kennington の尖塔

こうして、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。彼らが共同生活を始めて間もなく、ホームズの元にスコットランドヤードのグレッグスン警部(Inspector Gregson)から事件発生を告げる手紙が届く。ホームズに誘われたワトスンは、ホームズと一緒に、ブリクストンロード(Brixton Road)近くの現場ローリストンガーデンズ3番地(3 Lauriston Gardens → 2017年3月4日付ブログで紹介済)へと向かった。ホームズ達が到着した現場には、グレッグスン警部とレストレイド警部(Inspector Lestrade)が二人を待っていた。現場で死亡していたのは、イーノック・J・ドレッバー(Enoch J. Drebber)の名刺を持つ、立派な服装をした中年の男性だった。

ジョン・ランス巡査は、バサルロードを
画面左奥からやって来たものと思われる

イーノック・J・ドレッバーの死体を発見したのは、ジョン・ランス巡査(Constable John Rance)であるという話をレストレイド警部から聞くと、ホームズとワトスンの二人は、早速、彼が住むケニントンパークゲート(Kennington Park Gate)のオードリーコート46番地(46 Audley Court → 2017年3月25日付ブログで紹介済)へと向かうのであった。

ハリー・マーチャー巡査との立ち話の後、
ジョン・ランス巡査は、巡回を続けるため、
バサルロードを画面右手奥へ向かったものと考えられる

ランス巡査は馬の毛でできたソファーに腰を下ろすと、何一つ話に漏れがないように決心したように眉を顰めた。
「最初からお話します。」と、彼は言った。「私の巡回時間は夜10時から朝6時までです。夜11時にパブ『ホワイトハート』で喧嘩騒ぎがありましたが、それを除けば、非常に静かな夜でした。午前1時に雨が降り始めた時、私はホーランドグローヴ通りを担当するハリー・マーチャーと出会ったので、ヘンリエッタストリートの角に一緒に立って、ちょっと話をしました。多分、2分かそこらだったと思います。その後、私はブリクストンロードを巡回して、異常がないかどうか確認しようと思いました。ブリクストンロードは非常に汚く、淋しい所でした。私が通りを歩いていても、辻馬車が一、二台私の横を通り過ぎただけで、人っ子一人居ませんでした。ここだけの話ですが、ホットジンが飲めればどれだけよいかと思いながら、私はゆっくりと巡回しました。すると、突然、あの家の窓からキラキラした光が、私の目にとまりました。ローリストンガーデンズ内の二軒の家が空き家であることを、私は知っていました。二軒のうち、一軒に居た最後の住人が腸チフスで死んだにもかかわらず、家主が下水道を整備しようとしないからです。それで、窓に明かりが見えた時、私はびっくりして、何か良からぬことが起きているのではないかと考えました。そして、私が扉の前へ行った時...」
「君は立ち止まって、庭の入口まで引き返した。」と、ホームズがランス巡査の話を遮った。「君はどうしてそうしたんだ?」
ランス巡査はびっくりして跳び上がると、非常に驚いた顔でホームズをじっと見つめるのであった。

バサルロードをブリクストンロードへ向かう途中(その1)―
ホーランドグローヴ通りとバサルロードが交差する角は
画面奥にある

Rance sat down on the horsehair sofa, and knitted his brows as though determined not to omit anything in his narrative.
"I'll tell it ye from the beginning." he said. "My time is from ten at night to six in the morning. At eleven there was fight at the 'White Hart'; but bar that all was quiet enough on the beat. At one o'clock it began to rain, and I met Harry Murcher - him who has the Holland Grove beat - and we stood together at the corner of Henrietta Street a-talkin'. Presently - maybe about two or a little after - I thought I would take a look round and see that all was right down the Brixton Road. It was precious dirty and lonely. Not a soul did I meet all the way down, though a cab or two went past me. I was a strolling' down, thinking' between ourselves how uncommon handy a four of gin hot would be, when suddenly the glint of a light caught my eyes in the window of that same house. Now, I knew that them two houses in Lauriston Gardens was empty on account of him that owns them who won't have the drains seen to, though the very last tenant what lived in one of them died o' typhoid fever. I was knocked all in a heap therefore at seeing a light in the window, and I suspected as something was wrong. When I got to the door -"
"You stopped, and then walked back to the garden gate," my companion interrupted. "What did you do that for?"
Rance gave a violent jump, and stared at Sherlock Holmes with the utmost amazement upon his features.

バサルロードをブリクストンロードへ向かう途中(その2)―
ブリクストンロードは画面手前にある

ジョン・ランス巡査の同僚であるハリー・マーチャー巡査が巡回を担当していたホーランドグローヴ通り(Holland Grove → 2017年5月6日付ブログで紹介済)は、テムズ河(River Thames)南岸のロンドン・ランベス区(London Borough of Lambeth)のキャンバーウェル地区(Camberwell)内にある。
巡回中、ジョン・ランス巡査がハリー・マーチャー巡査と出会って立ち話をしたヘンリエッタストリート(Henrietta Street)は、ホーランドグローヴ通り近辺にはなく、残念ながら、架空の通りである。立ち話をした後、ハリー・マーチャー巡査と別れたジョン・ランス巡査がブリクストンロード(Brixton Road)の巡回を続けたことを考えると、コナン・ドイルの原作に出てくる「ヘンリエッタストリート」は、現在の住所表記上、「バサルロード(Vassall Road)」が、それに該るものと思われる。

バサルロードとブリクストンロードが交差する南東の角

ケニントンパーク(Kennington Park)から地下鉄ブリクストン駅(Brixton Tube Station)へ向かって南下するブリクストンロードの左手に、この道に垂直に交わるバサルロード(Vassall Road)がある。これを左折して、しばらく直進した左手に、ホーランドグローヴ通りが南北に延びている。
ハリー・マーチャー巡査が巡回を担当していたのが、ホーランドグローヴ通りなので、ジョン・ランス巡査が彼と出会って立ち話をしたのは、ホーランドグローヴ通りとバサルロードが交差した角であると推測される。つまり、ハリー・マーチャー巡査はホーランドグローヴ通りを南下し、そして、ジョン・ランス巡査はバサルロードを東方面からやって来て、その角で二人は出会ったのではないだろうか?立ち話後、ジョン・ランス巡査はバサルロードを更に西へ進むと、ブリクストンロードへと出るので、彼がホームズとワトスンの二人に話した内容と一致する。

画面を左右に横切るのがブリクストンロードで、
ジョン・ランス巡査はブリクストンロードの巡回を続けて、
事件に遭遇する

ちなみに、ヘンリエッタストリートは、テムズ河南岸にはないが、テムズ河北岸には実在している。

2017年5月13日土曜日

ユークリッド(Eculid)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)の冒頭、1878年にジョン・H・ワトスンはロンドン大学(University of Londonー2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospitalー2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。

英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Barー2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospitalー2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。

こうして、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。

3月4日のことだ。これには、記憶にとどめておく訳がある。私はいつもより少しばかり早く起床したので、シャーロック・ホームズは朝食をまだ食べ終えていなかった。私は朝が遅いことを、家主のハドスン夫人はよく判っていたので、私の席は準備されていなかったし、コーヒーもまだだった。私は無性に苛立って、ベルを鳴らし、自分が席についたことをぶっきらぼうに知らせた。それから、私はテーブルから雑誌を取り上げ、同居人のホームズが静かにトーストを食べている間、雑誌を読んで時間をつぶそうとした。記事のうち、ある表題に鉛筆で印が付けてあったので、私は自然とその記事に目を走らせたのである。
そのやや大げさな表題は「生命の書」だった。この記事は観察力のある人間が、正確で、かつ、体系的な考察によって、時分の身の周りで起きていることを、どの程度認識できるかを示そうとしていた。これは、私には、合理性と不合理性を驚く程に混ぜ合わせているように思えた。確かに、その理論は綿密で、かつ、強烈だったが、私には、その推論がこじつけで、大げさに感じられた。筆者は、一瞬の表情、筋肉の収縮や僅かな目の動きで、人の心の一番奥底を洞察できると主張していた。筆者によれば、訓練された観察者と分析者を欺くことはできなかった。彼の結論は、ユークリッドによる数ある定理と同様に、絶対的に正しく、誤りのないものだった。彼の結論は、素人に撮って非常に驚くべきものなので、どのようにしてその結論に達したのかという手順をしらされるまでは、筆者を占い師だと思ってしまうのは、当然のことだった。

It was upon the 4th of March, as I have good reason to remember, that I rose somewhat earlier than usual, and found that Sherlock Holmes had not yet finished his breakfast. The landlady had become accustomed 
to my late habits that my place had not been laid nor my coffee prepared. With the unreasonable petulance of mankind I rang the bell and gave a curt intimation that I was ready. Then I picked up a magazine from the table and attempted to while away the time with it, while my companion munched silently at his toast. One of the articles had a pencil mark at the heading, and I naturally began to run my eye through it.
Its somewhat ambitious title was "The Book of Life," and it attempted to show how much an observant man might learn by an accurate and systematic examination of all that came in his way. It struck me as being a remarkable mixture of shrewdness and of absurdity. The reasoning was close and intense, but the deductions appeared to me to be far-fetched and exaggerated. The writer claimed by a momentary expression, a twitch of a muscle or a glance of an eye, to fathom a man's inmost thoughts. Deceit, according to him, was an impossibility in the case of one trained to observation and analysis. His conclusions were as infallible as so many propositions of Euclid. So startling would his results appear to the uninitiated that until they learned the processes by which he had arrived at them they might well consider him as a necromancer.

ユークリッド(Euclid)とは、「アレクサンドリアのエウクレイデス」のことで、紀元前4世紀~紀元前3世紀頃、古代ギリシアに居た数学者/天文学者である。エウクレイデスという名前は、古代ギリシア語で「良き栄光」を意味している。
エウクレイデスは、数学史上最も重要な著作の一つである「原論」の著者であり、「幾何学の父」と呼ばれているものの、残念ながら、彼の生涯については、ほとんど判っていない。

2017年5月7日日曜日

ロンドン ジェイムズストリート(James Street)

ウィグモアストリートからジェイムズストリート(画面奥)を見たところ

アガサ・クリスティー作「象は忘れない(Elephants can remember)」は1972年に発表された作品であるが、1975年に刊行されたエルキュール・ポワロ最後の事件となる「カーテン(Curtain)」が第二次世界大戦(1939年ー1945年)中の1943年に予め執筆されていることを考えると、執筆順では、本作品が最後のポワロ譚と言える。


推理作家のアリアドニ・オリヴァー(Ariadne Oliver)は、文学者昼食会において、バートン=コックス夫人(Mrs Burton-Cox)と名乗る婦人から奇妙なことを尋ねられる。それは、オリヴァー夫人が名付け親となったシーリア・レイヴンズクロフト(Celia Ravenscroft)という娘の両親が十数年前に起こした心中事件のことだった。バートン=コックス夫人がオリヴァー夫人に発した問いは、「あの娘の母親が父親を殺したんでしょうか?それとも、父親が母親を殺したんでしょうか?」だった。自分の名付け子すら満足に思い出せないオリヴァー夫人にとって、謎めいた心中事件のことなど、何も覚えていなかったのである。

ジェイムズストリートの奥には、
オックスフォードストリートがある

バートン=コックス夫人から尋ねられたことが非常に気になったオリヴァー夫人は、名付け子であるシーリアに連絡をとり、ひさしぶりに再会する。シーリアによると、彼女はバートン=コックス夫人の息子デズモンド(Desmond)と婚約中で、バートン=コックス夫人としては、シーリアの両親のどちらが相手を殺したのかが、シーリアとデズモンドが結婚した場合、遺伝的に好ましいのかどうかという問題に関わってくるらしい。

ウィグモアストリートと交差する角から
ジェイムズストリートの南方面を望む

シーリアの説明によると、亡くなる数年前にインドで退役したアリステア・レイヴンズクロフト将軍(General Alistair Ravenscroft)は、妻のマーガレット(Margaret Ravenscroft)と一緒に、英国南西部のコンウォール州(Cornwall)にある海辺の家へと移って、静かな生活を送っていた。ある日、いつも通り、レイヴンズクロフト夫妻は飼い犬を連れて散歩に出かけたが、その後、レイヴンズクロフト将軍が保有する銃で二人とも撃たれて死亡しているのが発見された。
警察はレイヴンズクロフト夫妻の死を心中と見做したが、心中に至る動機は遂に見つからなかった。夫妻が経済的に困っていた様子はない上に、夫婦仲もよく、彼らを殺害しようと考える敵等は居なかったからである。
当時、シーリアは12歳で、スイスの学校へ行っていて、コンウォール州にある海辺の家には住んでいなかった。その頃、海辺の家に居たのは、家政婦、シーリアの元家庭教師、それにシーリアの伯母だけであった。彼らにも、夫妻を殺すような動機は見当たらなかったである。

ジェイムズストリートとウィグモアストリートが交差する南東の角に建つ建物の外壁

オリヴァー夫人から相談を受けたポワロは、レイヴンズクロフト夫妻と関わりがあった人達を訪ねて、心中事件の前後のことを象のように詳細に記憶している人を捜すよう、彼女にアドバイスを送る。
一方で、ポワロは独自に真相の究明に乗り出し、旧友のスペンス元警視(ex Superintendent Spence)に依頼して、当時の事件担当者だったギャロウェイ元警視(ex Superintendent Garroway)を紹介してもらい、事件の調査内容を尋ねるのであった。

ジェイムズストリートの東側には、
イタリアンレストランが数多く軒を連ねている

英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「象は忘れない」(2013年)の回では、物語の冒頭、自分が名付け親となっているシーリア・レイヴンズクロフトの両親が十数年前に起こした心中事件について相談に訪れたオリヴァー夫人の話を聞いていたポワロであったが、知り合いの精神科医デイヴィッド・ウィラビー(Dr. David Willoughby)からかかってきた緊急の電話を受けて、オリヴァー夫人との話を中座し、ウィラビー研究所(Willoughby Institute)へとタクシーで駆け付ける。そこには、デイヴィッド・ウィラビー博士の他に、スコットランドヤードのビール警部(Inspector Beale)がポワロを待っていて、研究所の地下にある元治療室へ案内されると、そこにある水を張ったバスタブの中にデイヴィッド・ウィラビー博士と同じ精神科医である彼の父親が縛られた上で溺死させられていたのである。
ビール警部の問いに対して、デイヴィッド・ウィラビー博士は、「自分は上の階にあるフラットで寝ていたので、父親が殺されたこと自体、全く知らなかった。」と答える。そして、研究所に出勤してきた彼のアシスタントで、ボストン出身のアイルランド系米国人のマリー・マクダーモット(Marie McDermottーTV版用に新設されたキャラクターで、アガサ・クリスティーの原作には登場ししていない)は、「ジェイムズストリート(James Street)に住んでいて、昨日、研究所を出た後、どこにも寄らず、まっすぐに帰り、サーディンが載ったトーストを食べ、直ぐに就寝したので、詳しい話は判らない。」と答えた。

夜間に撮ったジェイムズストリート(その1)

デイヴィッド・ウィラビー博士のアシスタントであるマリー・マクダーモットが住んでいるジェイムズストリートについては、彼女の口からその名前が発せられるだけで、その通りが画面上に映ることはないが、ロンドンには、ジェイムズストリートは二つある。
一つは、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)内にあり、地下鉄コヴェントガーデン駅(Covent Garden Tube Station)の東側から始まって、南側のコヴェントガーデン ザ・マーケット(Covent Garden The Marketー2016年1月9日付ブログで紹介済)に至る通りである。
もう一つは、シティー・オブ・ウェストミンスター区のマリルボーン地区(Marylebone)内にあり、オックスフォードストリート(Oxford Streetー2016年5月28日付ブログで紹介済)から北上して、ウィグモアストリート(Wigmore Street)に至る通りである。ジェイムズストリートの東側には、現在、イタリアンレストランが10軒近く軒を連ねており、観光客等でいつも賑わっている。

夜間に撮ったジェイムズストリート(その2)

ポワロがオリヴァー夫人との話を中座して駆け付けたウィラビー研究所は、TV版では明確に言及されていないものの、医療関係者が多く開業するハーリーストリート(Harley Streetー2015年4月11日付ブログで紹介済)沿いにある設定と推測される。ただし、実際には、ウィラビー研究所の建物外観は、ハーリーストリートではなく、ラットランドプレイス(Rutland Placeー2017年4月16日付ブログで紹介済)沿いに建つ建物を使用して撮影されている。

マリー・マクダーモットがウィラビー研究所に勤めていたことを考えると、地理的には、彼女が住んでいたジェイムズストリートは、ハーリーストリートに近く、通勤に便利なマリルボーン地区内にある方ではないかと思われる。

2017年5月6日土曜日

ロンドン ホーランドグローヴ通り(Holland Grove)

ホーランドグローヴ通りの北側から南方面(バサルロードの方)を見たところ

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)の冒頭、1878年にジョン・H・ワトスンはロンドン大学(University of London → 2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospital → 2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。


英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Bar → 2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。

ホーランドグローヴ通りがバサルロードと交差した地点―
手前がホーランドグローヴ通りで、
奥で左右に延びているのがバサルロード

こうして、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。彼らが共同生活を始めて間もなく、ホームズの元にスコットランドヤードのグレッグスン警部(Inspector Gregson)から事件発生を告げる手紙が届く。ホームズに誘われたワトスンは、ホームズと一緒に、ブリクストンロード(Brixton Road)近くの現場ローリストンガーデンズ3番地(3 Lauriston Gardens → 2017年3月4日付ブログで紹介済)へと向かった。ホームズ達が到着した現場には、グレッグスン警部とレストレイド警部(Inspector Lestrade)が二人を待っていた。現場で死亡していたのは、イーノック・J・ドレッバー(Enoch J. Drebber)の名刺を持つ、立派な服装をした中年の男性だった。

バサルロードと交差した地点から
ホーランドグローヴ通りを北上する

イーノック・J・ドレッバーの死体を発見したのは、ジョン・ランス巡査(Constable John Rance)であるという話をレストレイド警部から聞くと、ホームズとワトスンの二人は、早速、彼が住むケニントンパークゲート(Kennington Park Gate)のオードリーコート46番地(46 Audley Court → 2017年3月25日付ブログで紹介済)へと向かうのであった。

ホーランドグローヴ通りの西側に建つフラット

ランス巡査は馬の毛でできたソファーに腰を下ろすと、何一つ話に漏れがないように決心したように眉を顰めた。
「最初からお話します。」と、彼は言った。「私の巡回時間は夜10時から朝6時までです。夜11時にパブ『ホワイトハート』で喧嘩騒ぎがありましたが、それを除けば、非常に静かな夜でした。午前1時に雨が降り始めた時、私はホーランドグローヴ通りを担当するハリー・マーチャーと出会ったので、ヘンリエッタストリートの角に一緒に立って、ちょっと話をしました。多分、2分かそこらだったと思います。その後、私はブリクストンロードを巡回して、異常がないかどうか確認しようと思いました。ブリクストンロードは非常に汚く、淋しい所でした。私が通りを歩いていても、辻馬車が一、二台私の横を通り過ぎただけで、人っ子一人居ませんでした。ここだけの話ですが、ホットジンが飲めればどれだけよいかと思いながら、私はゆっくりと巡回しました。すると、突然、あの家の窓からキラキラした光が、私の目にとまりました。ローリストンガーデンズ内の二軒の家が空き家であることを、私は知っていました。二軒のうち、一軒に居た最後の住人が腸チフスで死んだにもかかわらず、家主が下水道を整備しようとしないからです。それで、窓に明かりが見えた時、私はびっくりして、何か良からぬことが起きているのではないかと考えました。そして、私が扉の前へ行った時...」
「君は立ち止まって、庭の入口まで引き返した。」と、ホームズがランス巡査の話を遮った。「君はどうしてそうしたんだ?」
ランス巡査はびっくりして跳び上がると、非常に驚いた顔でホームズをじっと見つめるのであった。

ホーランドグローヴ通りの奥は行き止まりになっている

Rance sat down on the horsehair sofa, and knitted his brows as though determined not to omit anything in his narrative.
"I'll tell it ye from the beginning." he said. "My time is from ten at night to six in the morning. At eleven there was fight at the 'White Hart'; but bar that all was quiet enough on the beat. At one o'clock it began to rain, and I met Harry Murcher - him who has the Holland Grove beat - and we stood together at the corner of Henrietta Street a-talkin'. Presently - maybe about two or a little after - I thought I would take a look round and see that all was right down the Brixton Road. It was precious dirty and lonely. Not a soul did I meet all the way down, though a cab or two went past me. I was a strolling' down, thinking' between ourselves how uncommon handy a four of gin hot would be, when suddenly the glint of a light caught my eyes in the window of that same house. Now, I knew that them two houses in Lauriston Gardens was empty on account of him that owns them who won't have the drains seen to, though the very last tenant what lived in one of them died o' typhoid fever. I was knocked all in a heap therefore at seeing a light in the window, and I suspected as something was wrong. When I got to the door -"
"You stopped, and then walked back to the garden gate," my companion interrupted. "What did you do that for?"
Rance gave a violent jump, and stared at Sherlock Holmes with the utmost amazement upon his features.

ホーランドグローヴ通りの東側には、
セミデタッチハウスが建ち並んでいる

ジョン・ランス巡査の同僚であるハリー・マーチャー巡査が巡回を担当していたホーランドグローヴ通り(Holland Grove)は、テムズ河(River Thames)南岸のロンドン・ランベス区(London Borough of Lambeth)のキャンバーウェル地区(Camberwell)内にある。

ホーランドグローヴ通りから
バサルロード沿いに建つ教会
St. John the Divine, Kennington の尖塔が見える

ケニントンパーク(Kennington Park)から地下鉄ブリクストン駅(Brixton Tube Station)へ向かって南下するブリクストンロード(Brixton Road)の左手に、この道に垂直に交わるバサルロード(Vassall Road)がある。これを左折して、しばらく直進した左手に、ホーランドグローヴ通りが南北に延びている。ホーランドグローヴ通りの両側は、住宅街になっており、特に東側には、セミデタッチの家が数多く建ち並んでいる。