2017年10月22日日曜日

ウィンザー ウィンザー城(Windsor Castle)−その2

2017年2月15日にロイヤルメール(Royal Mail)が発行したウィンザー城記念切手−
セントジョージ礼拝堂(その1)

ウィンザー城は、イングランドを征服して、ノルマン朝を開き、現在の英国王室の開祖となったウィリアム1世(William I:1027年ー1087年 在位期間:1066年ー1087年)により、ロンドンを囲む砦の一つとして建てられたのが、その始まりである。当時は木造の城で、ロンドン防衛という軍事的な役割を担っていた。


2017年2月15日にロイヤルメール(Royal Mail)が発行したウィンザー城記念切手−
セントジョージ礼拝堂(その2)

ノルマン朝第3代のヘンリー1世(Henry I:1068年ー1135年 在位期間:1100年ー1135年)の時代に、ウィンザー城は王室の居城となった。(1)ウィンザー城はロンドンの西側に位置していて、物流に重要なテムズ河(River Thames)の近くに建っていたこと、(2)同城が王室が所有する狩猟の森(現在のウィンザーグレートパーク(Windsor Great Park))に隣接していたこと、また、(3)同城は敵を見渡すことができる高台に建っていたこと等、王室の居城として最適の立地条件を備えていたことが考慮されたものと思われる。


2017年2月15日にロイヤルメール(Royal Mail)が発行したウィンザー城記念切手−
セントジョージ礼拝堂(その3)

ノルマン朝からプランダジネット朝に変わると、その初代のヘンリー2世(Henry II:1133年ー1189年 在位期間:1154年ー1189年)は、1165年から1179年にかけて、木製の防壁を石造りにし、石造りのキープ(keep:城の心臓部となる中央の塔)も建設した。同じく、プランタジネット朝第4代のヘンリー3世(Henry III:1207年ー1272年 在位期間:1216年ー1272年)が1224年から1230年にかけて建設した防壁の一部が現在も残っており、ウィンザー城内に現存する最古の部分である。


2017年2月15日にロイヤルメール(Royal Mail)が発行したウィンザー城記念切手−
セントジョージ礼拝堂(その4)

ウィンザー城で出生して、プランダジネット朝第7代のイングランド王とひて即位したエドワード3世(Edward III:1312年ー1377年 在位期間:1327年ー1377年)は、1350年から1377年にかけて、元々あった城の一部を残して取り壊し、新しい城を再建した。エドワード3世による再建後、城内に建物が追加 / 改修され、ウィンザー城は次第に要塞から城へとその性格を変えていったのである。


バンケティングハウス入口上部の外壁に掲げられている
チャールズ1世のレリーフ

清教徒革命(Puritan Revolution:1642年ー1649年)時、議会派軍がウィンザー城を占拠し、再び要塞として機能することになった。王党派軍はウィンザーの街に攻め込み、街の支配を奪還したものの、ウィンザー城自体を攻め落とすことはできなかった。最終的に、議会派軍に敗北したステュアート朝第2代のチャールズ1世(Charles I :1600年ー1649年 在位期間:1625年ー1649年)は議会派軍に降伏して、一時期ウィンザー城内に囚われの身となっていた。また、1649年1月30日にホワイトホール宮殿(Whitehall Palace)のバンケティングハウス(Banqueting House)前で公開処刑(斬首)されたチャールズ1世の遺体は、その日の夜、吹雪の中、ウィンザー城へと運ばれ、場内にあるセントジョージ礼拝堂(St. George’s Chapel)に埋葬された。


晩餐会や舞踏会等が開催される
バンケティングハウス上階の大広間
バンケティングハウス上階にある大広間の天井から吊り下げられている
大シャンデリア
フランドルの画家で、外交官でもあった
ピーテル・パウス・ルーベンス(Peter Paul Rubens:1577年ー1640年)が
バンケティングハウスの天井画を描いた

その後、ウィンザー城は完全な王城となり、時の国王 / 女王による増改築 / 改修により、次第に拡大と変貌を遂げていく。
王政復古(Restoration:1660年)を機に、ステュアート朝第3代の王に即位したチャールズ2世(Charles II:1630年ー1685年 在位期間:1660年ー1685年)は、フランスの太陽王こと、ルイ14世の影響を受けて、ウィンザー城を「イングランドのヴェルサイユ宮殿」にしようと、1670年代にバロック様式の内装工事を実施した。
ハノーヴァー朝第4代のジョージ4世(George IV:1762年ー1830年 在位期間:1820年ー1830年)は、ウィンザー城内の入り組んだ様式をゴシック様式に統一するべく、大改修工事を開始したが、彼が死去する1830年までには完成せず、彼の死後の1840年になって、やっと竣工を迎えたのである。


2017年2月15日にロイヤルメール(Royal Mail)が発行したウィンザー城記念切手−
セントジョージ礼拝堂(その5)

そして、シャーロック・ホームズにエメラルドのタイピンをプレゼントしたハノーヴァー朝第6代のヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)の時代になる。ヴィクトリア女王自身は、ウィンザー城での生活を「単調で、退屈で、囚人のようだ。」と不満をもらし、ワイト島(Isle of Wight)にあるオズボーンハウス(Osborne House)やスコットランドのアバディーンシャー州にあるバルモラル城(Balmoral Castle)での生活を好んでいたが、大英帝国の発展、ヴィクトリア女王と欧州大陸の王室の姻戚関係強化、更に、陸路 / 水路によるウィンザーへのアクセスの利便性等から、ウィンザー城の役割が強くなり、ヴィクトリア女王と夫のアルバート公(Albert Prince Consort:1819年ー1861年)は、ウィンザー城を王室の主な居城として使用することになった。


アルバート公記念碑(Albert Memorial−
2016年3月13日付ブログで紹介済)を
下から見上げたところ
アルバート公記念碑の上部で
金色に輝いているアルバート公像

実際、アルバート公は、腸チフスが原因で、1861年にウィンザー城において死去している。アルバート公の死後、ヴィクトリア女王はアルバート公の部屋を生前のままに維持し、何年もの間喪に服した。その結果、以降、ヴィクトリア女王は、ロンドン市内にあるバッキング宮殿(Buckingham Palace)を使用せず、ウィンザー城を居城として留まり、公務を行なったのである。よって、1895年11月当時、「ブルース・パーティントン型設計図(The Bruce-Partington Plans)」事件を見事に解決したホームズが、ヴィクトリア女王から、バッキンガム宮殿ではなく、ウィンザー城へ招待されたのは、そういった訳があったのである。


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