2017年10月29日日曜日

シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手1-「ライゲートの大地主(The Reigate Squires)」

シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手「ライゲートの大地主」が添付された絵葉書

今週から5回にわたって、英国のロイヤルメール(Royal Mail)が発行したシャーロック・ホームズ生還100周年記念切手について、紹介していきたい。

サー・アーサー・コナン・ドイル作「最後の事件(The Final Problem)」(「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1893年12月号に発表)において、1891年(5月4日)に、犯罪界のナポレオンこと、ジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)と一緒に、スイスのマイリンゲン(Meiringen)にあるライヘンバッハの滝壺(Reichenbach Falls)に姿を消したと思われていたホームズが、「空き家の冒険(The Emputy House)」(「ストランドマガジン(Strand Magazine)」の1903年10月号に発表)において、1894年(4月5日)にジョン・H・ワトスンの前に再び姿を現す。
「ストランドマガジン」への発表年月ではなく、物語の事件発生年月で言うと、ホームズがロンドンへの生還を果たしたとされる年である1894年からの100周年を記念して、1993年10月12日に、ロイヤルメールから5種類の記念切手が発行された。「ライゲートの大地主(The Reigate Squires)」はそのうちの一つで、コナン・ドイルによる発表順では、一番古い作品となる。

「ライゲートの大地主」は、56あるホームズシリーズの短編のうち、コナン・ドイルが19番目に発表した作品で、英国では「ストランドマガジン」の1893年6月号に、また、米国では「ハーパーズ ウィークリー(Harper's Weekly)」の1893年6月17日号に掲載された。その後、同作品は、同年に出版された第2短編集となる「シャーロック・ホームズの回想(The Memoirs of Sherlock Holmes)」に収録されている。

「ストランドマガジン」に発表された際、「ライゲートの大地主(The Reigate Squire)」という題名であったが、「シャーロック・ホームズの回想」に収録された時には、「ライゲートの大地主達(The Reigate Squires)」という複数形の題名に改題された。また、「ハーパーズウィークリー」に発表された際には、「ライゲートの謎(The Reigate Puzzle)」という題名が使用されている。

シャーロック・ホームズ生還100周年記念切手
「ライゲートの大地主」のアップ写真

1887年4月、ワトスンは、フランスのリヨン(Lyon)において極度の過労で倒れたホームズを連れて、サリー州(Surrey)のライゲート(Reigate)へ療養に出かける。
ライゲートでの療養中、療養先のへイター大佐(Colonel Hayter→ワトスンの旧友で、退役軍人)の家で、ホームズとワトスンの二人は、地元の有力者であるアクトン老人(Mr Acton)の家に強盗が押し入ったという話を聞く。その強盗はアクトン老人の書斎から本一冊、燭台二つ、文鎮一つ、晴雨計一つ、そして、麻糸の玉を一つしか盗んで行かなかったらしい。それ程には価値がないものばかりを盗んだ強盗の話を聞いたホームズはこの事件に興味を示すが、ワトスンに「ここには療養に来ているのだから。」とたしなめられてしまう。
翌朝の朝食の席で、ホームズとワトスンは、「今度は、強盗が大地主のカニンガム老人(Mr Cunningham)の家に押し入り、御者のウィリアム・カーワン(William Kirwan)が心臓を撃ち抜かれて殺された。」と聞かされる。カニンガム老人と息子のアレック・カニンガム(Alec Cunningham)の親子は、御者のウィリアムを殺して逃げ去る犯人を見たと証言していた。当時、強盗が押し入ったアクトン家とカニンガム家は、土地の所有権をめぐって係争中であり、その奇妙な符号に、ホームズは再度興味を掻き立てるのであった。
地元警察のフォレスター警部(Inspector Forrester)は、ロンドンからライゲートへ療養に来ている名探偵に敬意を表して、殺されたウィリアムが強く握りしめていた手紙の切れ端と思われる紙片をホームズに見せてくれた。フォレスター警部から渡された紙の筆跡を調べたホームズは、「これは、僕が思ったよりも、遥かに底が深い事件ですね。」と告げるが、彼の目には輝きが戻っていた。

記念切手には、ワトスンの目の前で、ホームズがフォレスター警部から渡された紙の切れ端を調べるシーンが描かれている。

2017年10月28日土曜日

ロンドン ピンチンレーン3番地(No. 3 Pinchin Lane)

2012年ロンドンオリンピック / パラリンピックの際、
ランベス宮殿(Lambeth Palace)前に設置されたマスコット
「ランベス宮殿マンデヴィル(Lambeth Place Mandeville)」

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)では、若い女性メアリー・モースタン(Mary Morstan)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れて、風変わりな事件の調査依頼をする。

元英国陸軍インド派遣軍の大尉だった彼女の父親アーサー・モースタン(Captain Arthur Morstan)は、インドから英国に戻った10年前に、謎の失踪を遂げていた。彼はロンドンのランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)に滞在していたが、娘のモースタン嬢が彼を訪ねると、身の回り品や荷物等を残したまま、姿を消しており、その後の消息が判らなかった。そして、6年前から年に1回、「未知の友」を名乗る正体不明の人物から彼女宛に大粒の真珠が送られてくるようになり、今回、その人物から面会を求める手紙が届いたのである。
彼女の依頼に応じて、ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は彼女に同行して、待ち合わせ場所のライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)へ向かった。そして、ホームズ達一行は、そこで正体不明の人物によって手配された馬車に乗り込むのであった。


ホームズ、ワトスンとモースタン嬢の三人は、ロンドン郊外のある邸宅へと連れて行かれ、そこでサディアス・ショルト(Thaddeus Sholto)という小男に出迎えられる。彼が手紙の差出人で、ホームズ達一行は、彼からモースタン嬢の父親であるアーサー・モースタン大尉と彼の父親であるジョン・ショルト少佐(Major John Sholto)との間に起きたインド駐留時代の因縁話を聞かされるのであった。
サディアス・ショルトによると、父親のジョン・ショルト少佐が亡くなる際、上記の事情を聞いて責任を感じた兄のバーソロミュー・ショルト(Bartholomew Sholto)と彼が、モースタン嬢宛に毎年真珠を送っていたのである。アッパーノーウッド(Upper Norwood)にある屋敷の屋根裏部屋にジョン・ショルト少佐が隠していた財宝を発見した彼ら兄弟は、モースタン嬢に財宝を分配しようと決めた。

しかし、ホームズ一行がサディアス・ショルトに連れられて、バーソロミュー・ショルトの屋敷を訪れると、バーソロミュー・ショルトはインド洋のアンダマン諸島の土着民が使う毒矢によって殺されているのを発見した。そして、問題の財宝は何者かによって奪い去られていたのである。


「君が居てくれると、僕は非常に助かる。」と、彼(ホームズ)は答えた。「僕達は、スコットランドヤードとは別個に、この事件を調べたい。ジョーンズ警部には、彼がでっち上げるであろう見込みのない内容に大喜びさせておけば良い。ワトスン、君はモースタン嬢を(ローワーキャンバーウェルのセシル・フォレスター夫人の家に)送り届けた後、ランベスの水辺近くにあるピンチンレーン3番地へ向かってほしい。右手の3番目の家が、鳥の剥製屋で、そこにはシャーマンという老人が住んでいる。店の窓際には、子ウサギを咥えたイタチの剥製が見える筈だ。ノックして、そのシャーマン老人を起こして、僕が宜しくと言っていたと彼に告げた後、僕がトビーを早急に必要としていると伝えてくれ。そして、トビーを馬車に乗せて、ここに連れて来てほしいんだ。」
「君が言うトビーとは、犬のことかい?」
「そうだ。トビーは、変わった雑種犬で、臭いを嗅ぎ分ける能力が凄いんだ。僕なら、ロンドン中の警察官よりも、トビーに手助けしてもらう方を選ぶね。」
「判った。それじゃ、その犬を連れて帰って来るよ。」と、私は言った。「今、午前1時だから、新しい馬車を捕まえられれば、午前3時までにここに戻って来られると思う。」

ランベス地区側から見たテムズ河と国会議事堂(その1)

‘Your presence will be of great service to me,’ he answered. ‘We shall work the case out independently, and leave this fellow Jones to exult over any mare’s-nest which he may choose to construct. When you have dropped Miss Morstan, I wish you to go to No. 3, Pinchin Lane, down near the water’s edge at Lambeth. The third house on the right-hand side is a bird-stuffer’s; Sherman is the name. You will see a weasel holding a young rabbit in the window. Knock old Sherman up, and tell him, with my compliments, that I want Toby at once. You will bring Toby back in the cab with you,’
‘A dog, I suppose?’
‘Yes, a queer mongrel, with a most amazing power of scent. I would rather have Toby’s help than that of the whole detective force of London.’
‘I shall bring him then,’ said I. ‘It is one now. I ought to be back before three, if I can get a fresh horse.’

2012年ロンドンオリンピック / パラリンピックの際、
テムズ河沿い設置されたマスコット「ガーデンウェンロック(Garden Wenlock)」−
近くにある「庭園歴史博物館(Museum of Garden History)」をテーマにしている

ピンチンレーンはランベスの下級地区内にあり、むさ苦しい二階建ての煉瓦造りの家が建ち並んでいた。私は3番地の扉を何回かノックしたが、何の反応もなかった。しかし、遂に鎧戸の向こうにロウソクの灯りが見えると、上階の窓から顔が覗いた。
「とっとと帰れ、この酔っ払いの浮浪者め。」と、その男が言った。「これ以上騒ぎ続けたら、犬小屋を開けて、43匹の犬をお前にお見舞いするぞ。」
「1匹だけ貸してくれれば充分だ。そのためにここに来たんだ。」と、私は言った。
「帰れ!」と、その男は大声をあげた。「言っとくが、この袋の中に毒蛇が入っている。さっさと立ち去らないと、お前の頭の上に毒蛇を落とすぞ!」
「しかし、私は犬が一匹必要なんだ。」と、私は叫んだ。
「お前の話を聞く耳を持たんわ!」と、シャーマン老人も叫んだ。「そこから離れておくんだな。儂が3つ数えたら、毒蛇を落とすぞ。」
「シャーロック・ホームズが…」と、私は言いかけた。しかし、その言葉は魔法の呪文のような効果があった。と
いうのも、窓が直ぐに閉まると、一分も経たないうちに、扉の閂が外されて、扉が開いたのである。シャーマンは手足がひょろ長い痩せた老人で、背中が曲がり、首は筋張っていて、そして、青い色の眼鏡をかけていた。
「シャーロック・ホームズさんの御友人であれば、何時でも大歓迎ですよ。」と、彼は言った。

ランベス地区側から見たテムズ河と国会議事堂(その2)

Pinchin Lane was a row of shabby, two-storeyed brick houses in the lower quarter of Lambeth. I had to knock for some time at No. 3 before I could make any impression. At Last, however, there was the glint of a candle behind the blind, and a face looked out at the upper window.
‘Go on, you dranken vagabond,’ said the face. ‘If you kick up any morrow, I’ll open the kennels and let out forty-three dogs upon you.’
‘If you’ll let one out, it’s just what I have come for,’ said I.
‘Go on!’ Yelled the voice. ‘So help me gracious, I have a wiper in this bag, an’ I’ll drop it on your’ed if you don’t hook it!’
‘But I want a dog,’ I cried.
‘I won’t be argued with!’ shouted Mr Sherman. ‘Now, stand clear; for when I say ‘’three’’, down goes the wiper.’
‘Mr Sherlock Holmes -‘ I began; but the words had a most magical effect, for the window instantly slammed down, and within a minute the door was unbarred and open. Mr Sherman was a lanky, lean old man, with stooping shoulders, a stringy neck and blue-tinted glasses.
‘A friend of Mr Sherlock Holmes is always welcome,’ said he. …

2012年ロンドンオリンピック / パラリンピックの際、
テムズ河沿い設置されたマスコット「ドクターウェンロック(Dpctor Wenlock)」−
近くにある「St. Thomas' Medical School」をテーマにしている

ホームズに頼まれて、犬のトビーを借りるために、ワトスンが向かったピンチンレーン(Pinchin Lane)は、コナン・ドイルの原作によると、ランベス地区(Lambeth)のテムズ河(River Thames)沿い近辺にあるようだが、現在の住所表記上、ランベス地区内を含めて、ピンチンレーンに該当する通りはなく、残念ながら、架空の住所である。

2017年10月22日日曜日

ウィンザー ウィンザー城(Windsor Castle)−その2

2017年2月15日にロイヤルメール(Royal Mail)が発行したウィンザー城記念切手−
セントジョージ礼拝堂(その1)

ウィンザー城は、イングランドを征服して、ノルマン朝を開き、現在の英国王室の開祖となったウィリアム1世(William I:1027年ー1087年 在位期間:1066年ー1087年)により、ロンドンを囲む砦の一つとして建てられたのが、その始まりである。当時は木造の城で、ロンドン防衛という軍事的な役割を担っていた。


2017年2月15日にロイヤルメール(Royal Mail)が発行したウィンザー城記念切手−
セントジョージ礼拝堂(その2)

ノルマン朝第3代のヘンリー1世(Henry I:1068年ー1135年 在位期間:1100年ー1135年)の時代に、ウィンザー城は王室の居城となった。(1)ウィンザー城はロンドンの西側に位置していて、物流に重要なテムズ河(River Thames)の近くに建っていたこと、(2)同城が王室が所有する狩猟の森(現在のウィンザーグレートパーク(Windsor Great Park))に隣接していたこと、また、(3)同城は敵を見渡すことができる高台に建っていたこと等、王室の居城として最適の立地条件を備えていたことが考慮されたものと思われる。


2017年2月15日にロイヤルメール(Royal Mail)が発行したウィンザー城記念切手−
セントジョージ礼拝堂(その3)

ノルマン朝からプランダジネット朝に変わると、その初代のヘンリー2世(Henry II:1133年ー1189年 在位期間:1154年ー1189年)は、1165年から1179年にかけて、木製の防壁を石造りにし、石造りのキープ(keep:城の心臓部となる中央の塔)も建設した。同じく、プランタジネット朝第4代のヘンリー3世(Henry III:1207年ー1272年 在位期間:1216年ー1272年)が1224年から1230年にかけて建設した防壁の一部が現在も残っており、ウィンザー城内に現存する最古の部分である。


2017年2月15日にロイヤルメール(Royal Mail)が発行したウィンザー城記念切手−
セントジョージ礼拝堂(その4)

ウィンザー城で出生して、プランダジネット朝第7代のイングランド王とひて即位したエドワード3世(Edward III:1312年ー1377年 在位期間:1327年ー1377年)は、1350年から1377年にかけて、元々あった城の一部を残して取り壊し、新しい城を再建した。エドワード3世による再建後、城内に建物が追加 / 改修され、ウィンザー城は次第に要塞から城へとその性格を変えていったのである。


バンケティングハウス入口上部の外壁に掲げられている
チャールズ1世のレリーフ

清教徒革命(Puritan Revolution:1642年ー1649年)時、議会派軍がウィンザー城を占拠し、再び要塞として機能することになった。王党派軍はウィンザーの街に攻め込み、街の支配を奪還したものの、ウィンザー城自体を攻め落とすことはできなかった。最終的に、議会派軍に敗北したステュアート朝第2代のチャールズ1世(Charles I :1600年ー1649年 在位期間:1625年ー1649年)は議会派軍に降伏して、一時期ウィンザー城内に囚われの身となっていた。また、1649年1月30日にホワイトホール宮殿(Whitehall Palace)のバンケティングハウス(Banqueting House)前で公開処刑(斬首)されたチャールズ1世の遺体は、その日の夜、吹雪の中、ウィンザー城へと運ばれ、場内にあるセントジョージ礼拝堂(St. George’s Chapel)に埋葬された。


晩餐会や舞踏会等が開催される
バンケティングハウス上階の大広間
バンケティングハウス上階にある大広間の天井から吊り下げられている
大シャンデリア
フランドルの画家で、外交官でもあった
ピーテル・パウス・ルーベンス(Peter Paul Rubens:1577年ー1640年)が
バンケティングハウスの天井画を描いた

その後、ウィンザー城は完全な王城となり、時の国王 / 女王による増改築 / 改修により、次第に拡大と変貌を遂げていく。
王政復古(Restoration:1660年)を機に、ステュアート朝第3代の王に即位したチャールズ2世(Charles II:1630年ー1685年 在位期間:1660年ー1685年)は、フランスの太陽王こと、ルイ14世の影響を受けて、ウィンザー城を「イングランドのヴェルサイユ宮殿」にしようと、1670年代にバロック様式の内装工事を実施した。
ハノーヴァー朝第4代のジョージ4世(George IV:1762年ー1830年 在位期間:1820年ー1830年)は、ウィンザー城内の入り組んだ様式をゴシック様式に統一するべく、大改修工事を開始したが、彼が死去する1830年までには完成せず、彼の死後の1840年になって、やっと竣工を迎えたのである。


2017年2月15日にロイヤルメール(Royal Mail)が発行したウィンザー城記念切手−
セントジョージ礼拝堂(その5)

そして、シャーロック・ホームズにエメラルドのタイピンをプレゼントしたハノーヴァー朝第6代のヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)の時代になる。ヴィクトリア女王自身は、ウィンザー城での生活を「単調で、退屈で、囚人のようだ。」と不満をもらし、ワイト島(Isle of Wight)にあるオズボーンハウス(Osborne House)やスコットランドのアバディーンシャー州にあるバルモラル城(Balmoral Castle)での生活を好んでいたが、大英帝国の発展、ヴィクトリア女王と欧州大陸の王室の姻戚関係強化、更に、陸路 / 水路によるウィンザーへのアクセスの利便性等から、ウィンザー城の役割が強くなり、ヴィクトリア女王と夫のアルバート公(Albert Prince Consort:1819年ー1861年)は、ウィンザー城を王室の主な居城として使用することになった。


アルバート公記念碑(Albert Memorial−
2016年3月13日付ブログで紹介済)を
下から見上げたところ
アルバート公記念碑の上部で
金色に輝いているアルバート公像

実際、アルバート公は、腸チフスが原因で、1861年にウィンザー城において死去している。アルバート公の死後、ヴィクトリア女王はアルバート公の部屋を生前のままに維持し、何年もの間喪に服した。その結果、以降、ヴィクトリア女王は、ロンドン市内にあるバッキング宮殿(Buckingham Palace)を使用せず、ウィンザー城を居城として留まり、公務を行なったのである。よって、1895年11月当時、「ブルース・パーティントン型設計図(The Bruce-Partington Plans)」事件を見事に解決したホームズが、ヴィクトリア女王から、バッキンガム宮殿ではなく、ウィンザー城へ招待されたのは、そういった訳があったのである。


2017年10月21日土曜日

ロンドン ローワーキャンバーウェル(Lower Camberwell)

キャンバーウェルニューロード(Camberwell New Road)沿いの住宅街(その1)

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)では、若い女性メアリー・モースタン(Mary Morstan)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れて、風変わりな事件の調査依頼をする。

キャンバーウェルニューロード(Camberwell New Road)沿いの住宅街(その2)

元英国陸軍インド派遣軍の大尉だった彼女の父親アーサー・モースタン(Captain Arthur Morstan)は、インドから英国に戻った10年前に、謎の失踪を遂げていた。彼はロンドンのランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)に滞在していたが、娘のモースタン嬢が彼を訪ねると、身の回り品や荷物等を残したまま、姿を消しており、その後の消息が判らなかった。そして、6年前から年に1回、「未知の友」を名乗る正体不明の人物から彼女宛に大粒の真珠が送られてくるようになり、今回、その人物から面会を求める手紙が届いたのである。
彼女の依頼に応じて、ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は彼女に同行して、待ち合わせ場所のライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)へ向かった。そして、ホームズ達一行は、そこで正体不明の人物によって手配された馬車に乗り込むのであった。

キャンバーウェルニューロード(Camberwell New Road)沿いの住宅街(その3)

ホームズ、ワトスンとモースタン嬢の三人は、ロンドン郊外のある邸宅へと連れて行かれ、そこでサディアス・ショルト(Thaddeus Sholto)という小男に出迎えられる。彼が手紙の差出人で、ホームズ達一行は、彼からモースタン嬢の父親であるアーサー・モースタン大尉と彼の父親であるジョン・ショルト少佐(Major John Sholto)との間に起きたインド駐留時代の因縁話を聞かされるのであった。
サディアス・ショルトによると、父親のジョン・ショルト少佐が亡くなる際、上記の事情を聞いて責任を感じた兄のバーソロミュー・ショルト(Bartholomew Sholto)と彼が、モースタン嬢宛に毎年真珠を送っていたのである。アッパーノーウッド(Upper Norwood)にある屋敷の屋根裏部屋にジョン・ショルト少佐が隠していた財宝を発見した彼ら兄弟は、モースタン嬢に財宝を分配しようと決めた。

キャンバーウェルニューロード(Camberwell New Road)沿いの住宅街(その4)

しかし、ホームズ一行がサディアス・ショルトに連れられて、バーソロミュー・ショルトの屋敷を訪れると、バーソロミュー・ショルトはインド洋のアンダマン諸島の土着民が使う毒矢によって殺されているのを発見した。そして、問題の財宝は何者かによって奪い去られていたのである。

バサルロード(Vassall Road)沿いに建つ教会
Saint John the Divine

彼(ホームズ)は、二人で話をするするために、私を階段の上まで連れて行った。
「思いがけない事件のせいで」と、彼は言った。「ここまでやって来た本来の目的を、僕達は見失っていた。」
「私も君と同じようにそう思っていたところだ。」と、私は答えた。「モースタン嬢を事件が起きたこの家にこのまま居させるのは、好ましくない。」
「その通りだ。君には、彼女を家まで送って行ってほしい。彼女はローワーキャンバーウェルのセシル・フォレスター夫人宅に住んでいるから、ここからそれ程遠くはない。もし君がもう一度馬車で出かけてくれるのであれば、僕はここで君を待っているよ。それとも、君はもう疲れ果ててしまったかい?」
「とんでもない。この異様な事件の内容がもっとハッキリするまでは、私の気も休まりそうもないよ。私は今までに人生の表も裏も見てきたが、今夜奇妙な出来事が次々と起きて、正直なところ、神経がかなり疲弊している。けれど、既にかなり深入りしているから、この事件がどうなるのか、君と一緒に、最後まで見届けたい。」

「緋色の研究(A Study in Scarlet)」でも紹介したバサルロード(その1)

He led me out to the head of the stair.
‘This unexpected occurrence,’ he said, ‘has caused us rather to lose sight of the original purpose of our journey.’
‘I have just been thinking so,’ I answered; ‘it is not right that Miss Morstan should remain in this stricken house.’
‘No. You must escort her home. She lives with Mrs Cecil Forrester, in Lower Camberwell, so it is not very far. I will wait for you here if you will drive out again. Or perhaps you are too tired?’
‘By no means. I don’t think I could rest until I know more of this fantastic business. I have seen something of the rough side of life, but I give you my word that this quick succession of strange surprises tonight has shaken my nerve completely. I should like, however, to see the matter through with you, now that I have got so far.’

「緋色の研究(A Study in Scarlet)」でも紹介したバサルロード(その2)

モースタン嬢が住んでいるセシル・フォレスター夫人の家があるローワーキャンバーウェル(Lower Camberwell)は、テムズ河(River Thames)の南岸にあるロンドン・サザーク区(London Borough of Southwark)のキャンバーウェル地区(Camberwell)にあると思われる。「ローワー」の意味からすると、テムズ河に近いキャンバーウェル地区の北方面ではないかと推察される。

「緋色の研究(A Study in Scarlet)」でも紹介したバサルロード(その3)

キャンバーウェル地区は、1889年まではサリー州(Surrey)の一部であり、ということは、「四つの署名」事件が発生した時点(1888年)では、ローワーキャンバーウェルもサリー州に属していたことになる。
そして、1900年にはロンドン・キャンバーウェル区(Metropolitan Borough of Camberwell)となり、1965年に大部分がロンドン・サザーク区に吸収された。ただし、ロンドン・キャンバーウェル区の一部はロンドン・ランベス区(London Borough of Lambeth)に編入されている。

2017年10月15日日曜日

ウィンザー ウィンザー城(Windsor Castle)−その1

2017年2月15日にロイヤルメール(Royal Mail)から発行されたウィンザー城の記念切手−
ロングウォーク(Long Walk)は、ウィンザー城のジョージ4世門から
ホームパーク(Home Park)とウィンザーグレートパーク(Windsor Great Park)の二つの広大な公園を
突っ切るように、南へ真っ直ぐ延びる並木道で、全長は約5キロ

サー・アーサー・コナン・ドイル作「ブルース・パーティントン型設計図(The Bruce-Partington Plans)」では、1895年11月の第3週の木曜日、ベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を、彼の兄であるマイクロフト・ホームズ(Mycroft Holmes)がスコットランドヤードのレストレード警部(Inspector Lestrade)を伴って緊急の要件で訪れるところから、物語が始まる。

ラウンドタワー(Round Tower)に王室旗が掲げられている場合は、
国王 / 女王がウィンザー城に滞城していることを、
また、ラウンドタワー(Round Tower)に英国旗が掲げられている場合は、
国王 / 女王がウィンザー城を不在にしていることを示す

マイクロフトによると、同じ週の火曜日の朝、ウールウィッチ兵器工場(Woolwich Arsenal)に勤めるアーサー・カドガン・ウェスト(Arthur Cadogan West)が地下鉄オルドゲート駅(Aldgate Tube Stationー2016年3月5付ブログで紹介済)の線路脇で死体となって発見された、とのことだった。前日の月曜日の夜、彼は婚約者のヴァイオレット・ウェストベリー(Violet Westbury)をその場に残したまま、突然霧の中を立ち去ってしまったと言う。そして、翌朝、死体となった彼のポケットから、英国政府の最高機密で、ウールウィッチ兵器工場の金庫室内に厳重に保管されていたはずの「ブルース・パーティントン型潜水艦」の設計図10枚のうちの7枚が出てきた。ところが、一番重要な残り3枚はどこにもなかったのである。

マイクロフトは、シャーロックに対して、(1)新型潜水艦の設計図が何故持ち出されたのか、(2)アーサー・カドガン・ウェストは本件にどのように関与しているのか、(3)彼はどのようにして殺されて、現場まで運ばれたのか、そして、(4)残りの3枚の設計図は一体どこへ消えたのかを早急に調べるよう、強く要請した。そこで、シャーロックは、ワトスンを連れて、地下鉄オルドゲート駅へと向かった。

ラウンドタワーへと至るノルマン門(Norman Gate)

マイクロフトの求めに応じて、事件の捜査を始めたシャーロックは、マイクロフトから提供された主な外国のスパイ情報を手掛かりに、ケンジントン(Kensington)のコールフィールドガーデンズ13番地(13 Caulfield Gardensー2016年4月16日付ブログで紹介済)に住むヒューゴ・オーバーシュタイン(Hugo Oberstein)が今回の事件の黒幕であることを突き止める。ディリー・テレグラフ新聞の私事広告欄に奇妙な広告を見つけたシャーロックは、偽の広告を利用して、設計図を盗み出した実行犯を誘き寄せた。なんと、実行犯は、設計図盗難事件後に急死した潜水艦局長サー・ジェイムズ・ウォルター(Sir James Walter, the head of the Submarine Department)の弟ヴァレンタイン・ウォルター大佐(Colonel Valentine Walter)であった。彼は株取引の失敗により多額の借金を負い、破産の危機に追い込まれていたのである。

ホームズが仕掛けた囮にヒューゴ・オーバーシュタインは喰いつき、英国の刑務所に15年間収監されることになった。また、彼の靴の中から残りの3枚の設計図が無事見つかった。ヒューゴ・オーバーシュタインは、欧州海軍首脳全員に対して、これらの設計図を競売にかけていたのである。

セントジョージホール(St. George's Hall)

ウォルター大佐は、懲役2年目の終わり近くに、刑務所で死んだ。(中略)数週間後、ホームズが非常に見事なエメラルドのタイピンを付けて帰って来たことから、私は彼がウィンザーで一日を過ごしたことを偶然に知った。私が彼にそのタイピンを買ったのかと尋ねたところ、幸運にも、ある慈悲深い女性のために一度小さな使命を果たすことができたので、その女性からのプレゼントだと、彼は答えた。彼はそれ以上何も言わなかったが、私はその女性の尊い名前を言い当てることができると思う。そのエメラルドのタイピンを見ると、ブルース・パーティントン型潜水艦の設計図に関する冒険のことをホームズの記憶にいつも蘇らせるのは、まず間違いない。

王妃の舞踏室(Queen's Ballroom)

Colonel Walter died in prison towards the end of the second year of his sentence. … Some weeks afterwards I learned incidentally that my friend spent a day at Windsor, whence he returned with a remarkably fine emerald tiepin. When I asked him if he had bought it, he answered that it was a present from a certain gracious lady in whose interests he had once been fortunate enough to carry out a small commission. He said no more; but I fancy that I could guess at that lady’s august name, and I have little doubt that the emerald pin will forever recall to my friend’s memory the adventure of the Bruce-Partington plans.

ウォータールーの間(Waterloo Chamber)−
毎年6月にガーター勲章士を招いて、ここで午餐会が催される

ワトスンが言う「ある慈悲深い女性」とは、ヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)のことで、「ウィンザー」とは、英国王室が所有するウィンザー城(Windsor Castle)のことである。ウィンザー城は、ロンドンの西側にあるバークシャー州(Berkshire)の都市ウィンザー(Windsor)内に所在する城である。
なお、ウィンザーという都市名は、「winch by riverside(川岸にある陸揚げ用の巻き上げ機)」を意味する古英語に因んでいる、とのこと。

2017年10月14日土曜日

ロンドン ビショップスゲート地区(Bishopsgate)−その2

2012年のロンドンオリンピック / パラリンピックの際、
ロンドンの観光名所約60箇所に、
その場所をテーマにしたマスコットのウェンロック(Wenlock) /
マンデヴィル(Mandeville)が設置された。
写真は、ビショップスゲート通り沿いに設置された
ビショップスゲートウェンロック(Bishopsgate Wenlock)

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)において、バーソロミュー・ショルトの殺害現場で、スコットランドヤードのアセルニー・ジョーンズ警部(Inspector Athelney Jones)がシャーロック・ホームズに出会った際に、話題にした宝石盗難事件があったビショップゲート(Bishopgate)と言うのは、正確には、ビショップスゲート(Bishopsgate)で、ロンドンの経済活動の中心地であるシティー・オブ・ロンドン(City of London)内の北東にある地区のことだと思われる。

リヴァプールストリート駅の東側入り口

ビショップスゲートとは、元々、ローマ時代にシティー・オブ・ロンドンを防衛するために築かれたロンドンウォール(London Wall)の門で、15世紀後半に再建された「司教の門(Bishop’s Gate)」に因んで、その門があった地区が「ビショップスゲート」と呼ばれるようになった。

リヴァプールストリート駅の構内

ビショップスゲート地区とは別に、その地区内にはビショップスゲート通り(Bishopsgate)がある。
地下鉄モニュメント駅(Monument Tube Station)から北上するグレースチャーチストリート(Gracechurch Street)がコーンヒル通り(Cornhill) / レデンホールストリート(Leadenhall Streetー2014年10月5日付ブログで紹介済)と交差したところで、ビショップスゲート通りと名前を変えて、リヴァプールストリート駅(Liverpool Street Stationー2016年2月27日付ブログで紹介済)を左手に見て、そして、以前存在したスピタルフィールズマーケット(Spitalfields Market)を右手に見て、北側はプリムローズストリート(Primrose Street) / スピタルスクエア(Spital Square)まで延びている。

以前はスピタルフィールズマーケットだったが、
ショッピングモールに再開発された

特に、ビショップスゲート通りの東側は、切り裂きジャック(Jack the Ripper)事件が発生したホワイトチャペル(Whitechapel)に近いシティー・オブ・ロンドンとの端ということもあって、再開発が遅れていたが、シティー・オブ・ロンドン内に流入する企業が非常に多いため、シティー・オブ・ロンドンの中心部だけでは需要に供給が追い付かず、近年、ビショップスゲート通り沿いを含むビショップスゲート地区におけるビルの再開発が顕著である。ビショップスゲート通り沿いには、「ヘロンタワー(Heron Towerー110 Bishopsgate)」等の高層ビルや欧州復興開発銀行(Euroepan Bank for Reconstruction and Development)が入居するビル等が建ち並んでいる。また、スピタルフィールズマーケットも再開発され、跡地にはショッピングモールが入ったビルが建設されている。

再開発されたショッピングモール前に置かれているオブジェ

1993年4月24日の夜間、当時、香港上海銀行が入居していたビショップスゲート99番地のオフィスビルの前で、IRA がトラックに仕掛けた爆弾が爆発して、オフィスビルの前面は甚大な被害を被った。その際、ジャーナリストが1名死亡し、40名以上が負傷している。当時、同ビルには、都市銀行の一つである東海銀行ロンドン支店も入居しており、同行も被害を被り、オフィス移転を余儀なくされ、前述の欧州復興開発銀行が入居するビルへと移転している。