2016年12月31日土曜日

ロンドン インペリアルカレッジ・ロンドン(Imperial College London)

TV  版のポワロシリーズにおいて、レディー・アストウェルの話相手リリー・マーグレイヴが、
サー・ルーベン・アストウェルの書斎金庫内から持ち出した
兄ハンフリー・ネイラーの実験データを持参した先の場所として撮影に使用されたのが、
インペリアルカレッジ・ロンドンの建物である。

殺害されたサー・ルーベン・アストウェルが書斎の金庫内に保管していたハンフリー・ネイラーの実験データを持ち出したリリー・マーグレイヴは、兄
アガサ・クリスティー作「負け犬(The Under Dog)」は、短編集「負け犬他(The Under Dog and Other Stories)」(1950年)に収録されている短編の一つである。


エルキュール・ポワロの元を、レディー・アストウェル(Lady Astwell)の話相手(コンパニオン)であるリリー・マーグレイヴ(Lily Margrave)が事件の依頼に訪れる。彼女はレディー・アストウェルの指示でここに来たのだと言う。


実は、10日前に、サー・ルーベン・アストウェル(Sir Ruben Astwell)が、モン・ルポ荘(Mon Repos)内の「塔の部屋(Tower Room)」と呼ばれる特別な書斎において、何者かに後頭部を鈍器のようなもので撲られ、殺害されるという事件が発生していた。サー・ルーベン・アストウェルを殺害した犯人として、彼の甥であるチャールズ・レヴァーソン(Charles Leverson)が逮捕されるが、レディー・アストウェルは、「証拠は全くないが、直感によると、犯人は甥ではなく、サー・ルーベン・アストウェルの温厚な秘書オーウェン・トレフューシス(Owen Trefusis)だ。」と考えているのだそうだ。そこで、レディー・アストウェルは、話相手のリリー・マーグレイヴをポワロの元へ使わせて、事件の調査を頼もうとしていた。事件発生当時、モン・ルポ荘には、西アフリカから戻って来たばかりで、サー・ルーベン・アストウェルと同じ位の癇癪持ちの弟ヴィクター・アストウェル(Victor Astwell)が滞在しており、サー・ルーベン・アストウェルとの間で一悶着あったようである。

当建物の前身は、王立地質学学校の建物である

一方、話相手のリリー・マーグレイヴはレディー・アストウェルの考えには同調しておらず、その上、彼女としては、できればポワロにこの事件の調査には関わってほしくないと思っているように、ポワロには感じられた。リリー・マーグレイヴは事件に関連する何か重要なことを隠しているようだ。リリー・マーグレイヴの不自然な態度に興味を抱いたポワロは、レディー・アストウェルの依頼を受け、モン・ルポ荘を訪れて、サー・ルーベン・アストウェルを撲殺した犯人を見つけ出すべく、捜査に乗り出すのであった。

建物入口右側の外壁彫刻

英国の TV 会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「負け犬」(1993年)の回では、物語の後半、殺害されたサー・ルーベン・アストウェルが書斎の金庫内に保管していたハンフリー・ネイラーの実験データを持ち出したリリー・マーグレイヴは、兄へ届けるべく、バス、列車、そして、タクシーを乗り継いで、ロンドン市内の兄の元へと向かう。彼女が到着した先として撮影に使用されたのが、インペリアルカレッジ・ロンドン(Imperial College London)の建物であった。

建物入口左側の外壁彫刻

インペリアルカレッジ・ロンドンは、ロンドンに本部を置く理系公立大学で、工学部(Faculty of Engineering)、理学部(Faculty of Natural Sciences)と医学部(Faculty of Medicine)の3学部から成り立っている。なお、大学の正式名称は「Imperial College of Science, Technology and Medicine」である。
インペリアルカレッジ・ロンドンは、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のブロンプトン地区(Brompton)内に所在しており、地下鉄ナイツブリッジ駅(Knightsbridge Tube Station)から地下鉄グロスターロード駅(Gloucester Road Tube Station)経由、地下鉄ハマースミス駅(Hammersmith Tube Station)へと向かうクロムウェルロード(Cromwell Road)と地下鉄ナイツブリッジ駅からハイドパーク(Hyde Park)の南側を通り、地下鉄ハイストリートケンジントン駅(High Street Kensington Tube Station)経由、地下鉄ハマースミス駅へと向かうケンジントンロード(Kensington Road)に南北を挟まれた地域内に位置している。

建物外壁の街灯と装飾

インペリアルカレッジ・ロンドンは、元々、前身である以下の3つのカレッジが1907年に合併し、同年7月8日に英国王エドワード7世(Edward VII :1841年ー1910年 在位期間:1901年ー1910年)から大学の創立について許可を受けた後、ロンドン大学(University of Londonー2016年8月6日付ブログで紹介済)に統合された。

(1)シティー&ギルドカレッジ(City and Guilds College)ー1876年に創立
(2)王立地質学学校(Royal School of Mines)ー1851年に創立
(3)王立科学カレッジ(Royal College of Science)ー1881年に創立

この時点での大学の名称は「Imperial College of Science and Technology」であった。

エキシビションロード沿いに建つ
インペリアルカレッジ・ロンドンの正門建物(その1)

その後、1988年にセントメアリー行院医学学校(St. Mary's Hospital Medical School)が合併して、大学の名称が現在の「Imperial College of Science, Technology and Medicine」へ変更された。更に、1995年に国立心肺機構(National Heart and Lung Institute)が、1997年にチャリングクロス&ウェストミンスター医学学校(Charing Cross and Westminster Medical School)等が合併し、ほぼ現在の形となった。
また、エキシビションロード(Exhibition Roadー2016年12月25日付ブログで紹介済)に面した正門建物が近代的なビルに建て替えられ、2004年にエリザベス2世女王によって正式にオープンされた。

エキシビションロード沿いに建つ
インペリアルカレッジ・ロンドンの正門建物(その2)

1907年の大学創立以降、インペリアルカレッジ・ロンドンはロンドン大学のカレッジの一つであったが、2005年12月に正式な交渉を開始して、創立100周年に該る2007年7月にロンドン大学からの独立を果たした。

インペリアルカレッジ・ロンドンの構内

インペリアルカレッジ・ロンドンの他に、周辺には王立芸術大学(Royal College of Art)や王立音楽大学(Royal College of Music)等の教育機関に加えて、ヴィクトリア&アルバート美術館(Victoria and Albert Museum)、自然史博物館(Natural History Museum)や科学博物館(Science Museum)等の博物館が所在しているが、これらの基礎が1851年にロンドンで開催された万国博覧会(Great Exhibition)を企画したアルバート公(Albert, Prince Consort:1819年ー1861年)と彼の妻であるヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)によって築かれたため、アルバート公の名を冠して、これらの建物群は「アルバートポリス(Albertpolis)」と呼ばれている。

当建物は「アストンウェッブビル」と呼ばれ、「王立地質学学校」だったことを示すように、
外壁上部に「Royal School of Mines」と刻まれている

なお、TV 版のポワロシリーズにおいて、リリー・マーグレイヴが入って行ったインペリアルカレッジ・ロンドンの建物は「アストンウェッブビル(Aston Webb Building)」と呼ばれており、以前は王立地質学学校だったものである。そのことを示すように、建物正面入口上の外壁に、当時の大学名「Imperial College of Science and Technology」に加えて、「Royal School of Mines」の文字が刻まれている。


2016年12月25日日曜日

ロンドン エキシビションロード(Exhibition Road)

エキシビションロードの中間辺りから北側(ケンジントンロード方面)を望む

アガサ・クリスティー作「負け犬(The Under Dog)」は、短編集「負け犬他(The Under Dog and Other Stories)」(1950年)に収録されている短編の一つである。


エルキュール・ポワロの元を、レディー・アストウェル(Lady Astwell)の話相手(コンパニオン)であるリリー・マーグレイヴ(Lily Margrave)が事件の依頼に訪れる。彼女はレディー・アストウェルの指示でここに来たのだと言う。

エキシビションロードの中間辺りから
南側(クロムウェルロード方面)を望む

実は、10日前に、サー・ルーベン・アストウェル(Sir Ruben Astwell)が、モン・ルポ荘(Mon Repos)内の「塔の部屋(Tower Room)」と呼ばれる特別な書斎において、何者かに後頭部を鈍器のようなもので撲られ、殺害されるという事件が発生していた。サー・ルーベン・アストウェルを殺害した犯人として、彼の甥であるチャールズ・レヴァーソン(Charles Leverson)が逮捕されるが、レディー・アストウェルは、「証拠は全くないが、直感によると、犯人は甥ではなく、サー・ルーベン・アストウェルの温厚な秘書オーウェン・トレフューシス(Owen Trefusis)だ。」と考えているのだそうだ。そこで、レディー・アストウェルは、話相手のリリー・マーグレイヴをポワロの元へ使わせて、事件の調査を頼もうとしていた。事件発生当時、モン・ルポ荘には、西アフリカから戻って来たばかりで、サー・ルーベン・アストウェルと同じ位の癇癪持ちの弟ヴィクター・アストウェル(Victor Astwell)が滞在しており、サー・ルーベン・アストウェルとの間で一悶着あったようである。

改装工事の結果、エキシビションロード上、
歩道と車道の段差はなくなった

一方、話相手のリリー・マーグレイヴはレディー・アストウェルの考えには同調しておらず、その上、彼女としては、できればポワロにこの事件の調査には関わってほしくないと思っているように、ポワロには感じられた。リリー・マーグレイヴは事件に関連する何か重要なことを隠しているようだ。リリー・マーグレイヴの不自然な態度に興味を抱いたポワロは、レディー・アストウェルの依頼を受け、モン・ルポ荘を訪れて、サー・ルーベン・アストウェルを撲殺した犯人を見つけ出すべく、捜査に乗り出すのであった。

ヴィクトリア&アルバート博物館(その1)
ヴィクトリア&アルバート博物館(その2)

英国の TV 会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「負け犬」(1993年)の回では、物語の後半、殺害されたサー・ルーベン・アストウェルが書斎の金庫内に保管していたハンフリー・ネイラーの実験データを持ち出したリリー・マーグレイヴは、兄へ届けるべく、バス、列車、そして、タクシーを乗り継いで、ロンドン市内の兄の元へと向かう。彼女が向かった先は、エキシビションロード(Exhibition Road)であった。

自然史博物館(その1)
自然史博物館(その2)

エキシビションロードは、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のブロンプトン地区(Brompton)内にある。エキシビションロードは、北側のケンジントンロード(Kensington Roadー地下鉄ナイツブリッジ駅(Knightsbridge Tube Station)から地下鉄ハイストリートケンジントン駅(High Street Kensington Tube Station)経由、ロンドン西部の地下鉄ハマースミス駅(Hammersmith Tube Station)へと至る通り)と南側のクロムウェルロード(Cromwell Roadー同じく、地下鉄ナイツブリッジ駅から地下鉄グロスターロード駅(Gloucester Road Tube Stationー2016年4月9日付ブログで紹介済)経由、ロンドン西部の地下鉄ハマースミスへと至る通り)を南北に繫いでいる。

科学博物館(その1)
科学博物館(その2)

エキシビションロードという名前は、当通りの北側にあるハイドパーク(Hyde Parkー2015年3月4日付ブログで紹介済)内で1851年に開催された万国博覧会(Great Exhibition)に因んで名付けられた、とのこと。

インペリアルカレッジ・ロンドン(その1)
インペリアルカレッジ・ロンドン(その2)

エキシビションロードの両側には、ヴィクトリア&アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)、自然史博物館(Natural History Museum)、科学博物館(Science Museum)、インペリアルカレッジ・ロンドン(Imperial College London)やロンドンゲーテ協会(London Goethe Institute)等が建ち並んでおり、特に週末のクロムウェルロードに近いエキシビションロードは観光客や学生等で賑わっている。

ロンドンゲーテ協会が入居している建物

2012年のロンドンオリンピックに間に合わせるように、エキシビションロードを博物館通りに相応しい景観に変えるべく、工事が実施された。その結果、博物館通りに合った芸術っぽい通りとなったが、歩道と車道の段差がなくなった上に、歩道と車道のデザインが一体となったものに変更された関係上、歩く上ではやや判りづらい通りになったように、個人的には感じられる。

2016年12月24日土曜日

ロンドン ケンジントンゴア通り(Kensington Gore)

ケンジントンゴア通りから見たロイヤルアルバートホール

アガサ・クリスティー作「負け犬(The Under Dog)」は、短編集「負け犬他(The Under Dog and Other Stories)」(1950年)に収録されている短編の一つである。


エルキュール・ポワロの元を、レディー・アストウェル(Lady Astwell)の話相手(コンパニオン)であるリリー・マーグレイヴ(Lily Margrave)が事件の依頼に訪れる。彼女はレディー・アストウェルの指示でここに来たのだと言う。

ケンジントンゴア通りの東側に建つフラット

実は、10日前に、サー・ルーベン・アストウェル(Sir Ruben Astwell)が、モン・ルポ荘(Mon Repos)内の「塔の部屋(Tower Room)」と呼ばれる特別な書斎において、何者かに後頭部を鈍器のようなもので撲られ、殺害されるという事件が発生していた。サー・ルーベン・アストウェルを殺害した犯人として、彼の甥であるチャールズ・レヴァーソン(Charles Leverson)が逮捕されるが、レディー・アストウェルは、「証拠は全くないが、直感によると、犯人は甥ではなく、サー・ルーベン・アストウェルの温厚な秘書オーウェン・トレフューシス(Owen Trefusis)だ。」と考えているのだそうだ。そこで、レディー・アストウェルは、話相手のリリー・マーグレイヴをポワロの元へ使わせて、事件の調査を頼もうとしていた。事件発生当時、モン・ルポ荘には、西アフリカから戻って来たばかりで、サー・ルーベン・アストウェルと同じ位の癇癪持ちの弟ヴィクター・アストウェル(Victor Astwell)が滞在しており、サー・ルーベン・アストウェルとの間で一悶着あったようである。

ケンジントンゴア通りの中間辺りから
ロイヤルアルバートホールを望む

一方、話相手のリリー・マーグレイヴはレディー・アストウェルの考えには同調しておらず、その上、彼女としては、できればポワロにこの事件の調査には関わってほしくないと思っているように、ポワロには感じられた。リリー・マーグレイヴは事件に関連する何か重要なことを隠しているようだ。リリー・マーグレイヴの不自然な態度に興味を抱いたポワロは、レディー・アストウェルの依頼を受け、モン・ルポ荘を訪れて、サー・ルーベン・アストウェルを撲殺した犯人を見つけ出すべく、捜査に乗り出すのであった。

ケンジントンゴア通りの中間辺りから南側を望む

英国の TV 会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「負け犬」(1993年)の回では、何者かに撲殺されたサー・ルーベン・アストウェルは、アストウェル化学の社長という設定になっている。また、彼の弟であるヴィクター・アストウェルについては、アガサ・クリスティーの原作では、兄と同じ癇癪持ちであるが、TV 版では、兄とは対照的で冷静な副社長という役割に変わっている。更に、サー・ルーベン・アストウェルの秘書であるオーウェン・トレフューシスは、TV 版では、アストウェル化学の主席研究員(Chief Chemist)という役割に変更されている。それに加えて、アガサ・クリスティーの原作では、リリー・マーグレイヴの兄で、容疑者の一人となるハンフリー・ネイラー大尉(Captain Humphrey Naylor)がサー・ルーベン・アストウェルを恨む理由として、アフリカの金鉱が関係していたが、TV 版では、アストウェル化学に自分の実験データを無断で使用されたことが関連している。

奥に見える建物は、インペリアルカレッジ・ロンドン

物語の後半、殺害されたサー・ルーベン・アストウェルが書斎の金庫内に保管していたハンフリー・ネイラーの実験データを持ち出したリリー・マーグレイヴは、兄へ届けるべく、バス、列車、そして、タクシーを乗り継いで、ロンドン市内の兄の元へと向かう。彼女の跡をポワロとアーサー・ヘイスティングス大尉が車で追う場面のうち、ロンドン市内でのシーンの一つが、ケンジントンゴア通り(Kensington Gore)で撮影されている。ポワロとアーサー・ヘイスティングス大尉が乗った車はケンジントンゴア通りを北側から南側へと走り抜けて、インペリアルカレッジ・ロンドン(Imperial College London)の建物へと向かっている。

ケンジントンゴア通りが
プリンスコンソートロードに突き当たった地点

ケンジントンゴア通りは、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のブロンプトン地区(Brompton)内にあり、ロイヤルアルバートホール(Royal Albert Hallー2016年2月20日付ブログで紹介済)のすぐ横を通って、ハイドパーク(Hyde Parkー2015年3月4日付ブログで紹介済)の南側にあるケンジントンロード(Kensington Road)とインペリアルカレッジ・ロンドンの北側にあるプリンスコンソートロード(Prince Consort Road)を南北に結んでいる。

「ゴア(Gore)」とは、狭い三角形の土地のことを意味している。英語の辞書によると、「槍形の地所」のことを指す。

2016年12月4日日曜日

フェリックス・メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn)

フェリックス・メンデルスゾーンがロンドンでの滞在時に宿泊していたホウバートプレイス4番地の建物

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)は、元軍医局のジョン・H・ワトスン医学博士の回想録で、物語の幕を開ける。


1878年に、ワトスンはロンドン大学(University of Londonー2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospitalー2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。
英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Barー2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospitalー2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。
こうして、ベーカーストリート221B(221B Baker Streetー2014年6月22日/29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。

ホウバートプレイス沿いに建つ St. Peter's 教会(その1)

ホームズとの共同生活を始めた後、非常に片寄った知識や才能を見せるホームズを見て、ワトスンは、ホームズが一体何をして生活の糧を得ているのか、不思議に思う。


ホウバートプレイス沿いに建つ St. Peter's 教会(その2)

私は、彼(ホームズ)のヴァイオリンの腕前について、上のリストで簡単に述べたかと思う。彼のヴァイオリンの腕前は非常に素晴らしかったが、彼の他の才能と同様に、一風変わっていた。彼は様々な楽曲を、特に難曲を非常に巧みに弾くことができた。何故ならば、私のリクエストを受けて、メンデルスゾーンのリートやその他にも私の好きな曲を彼は弾いてくれたので、私にはそれがよく判ったのである。しかしながら、私がリクエストしないで、彼の気ままに任せておくと、曲を奏でたり、聞き覚えがある旋律を弾いたりすることはめったになかった。夕方、彼は肘掛け椅子に凭れて目を閉じると、膝の上に置いたヴァイオリンをぞんざいに弾いた。その和音は、時に朗々と、時に陰鬱に鳴り響いた。非現実的で、快活になることも、時偶あった。明らかに、彼が奏でる和音は、彼の思考内容を反映していたが、音楽が彼の思考を助けているのか、それとも、演奏は彼のちょっとした気まぐれや思いつきの結果なのか、私には判断の仕様がなかった。私の忍耐に対するささやかな埋め合わせに、彼がいつも私の好きな楽曲を全部順番に奏でて独演会を締めくくってくれなければ、私はこの腹立たしい独演会に文句を言っていたのかもしれない。

ホウバートプレイスを南側から北へ向かって見たところ―
フェリックス・メンデルスゾーンが英国の滞在時に宿泊した
ホウバートプレイス4番地は右手にある

I see that I have alluded above to his powers upon the violin. These were very remarkable, but as eccentric as all his other accomplishments. That he could pay pieces, and difficult pieces. I knew well, because at my request he has played me some of Mendelssohn's Lieder, and other favorites. When left to himself, however, he would seldom produce any music or attempt any recognized air. Leaning back in his armchair of an evening, he would close his eyes and scrape carelessly at the fiddle which was thrown across his knee. Sometimes the chords were sonorous and melancholy. Occasionally they were fantastic and cheerful. Clearly they reflected the thoughts which possessed him, but whether the music aided those thoughts, or whether the playing was simply the result of a whim or fancy was more than I could determine. I might have rebelled against these exasperating solos had it not been that he usually terminated them by playing in quick succession a whole series of my favourite airs as a slight compensation for the trial upon my patience.

ホウバートプレイス4番地の入口

ワトスンがホームズによくリクエストした楽曲を作曲したヤーコプ・ルートヴィヒ・フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ(Jacob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy:1809年ー1847年)、通称フェリックス・メンデルスゾーンは、ドイツ・ロマン派の作曲家/指揮者であり、幼少期から神童として優れた音楽の才能を発揮して、終生、ドイツ音楽界の重鎮として君臨し続けた。

ホウバートプレイス4番地にフェリックス・メンデルスゾーンが滞在していたことを示す
ブループラーク(English Heritage が管理)が建物外壁に掲げられている

フェリックス・メンデルスゾーンは、1829年に英国を初訪問している。彼は生涯で英国を10回訪問しており、彼の英国滞在期間は約20ヶ月にものぼり、ドイツだけではなく、英国でも熱烈な支持者を獲得している。
彼の滞在先の一つに、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のベルグラヴィア地区(Belgravia)内にあるホウバートプレイス4番地(4 Hobart Place, Belgravia, London SW1W 0HU)があり、彼がここに滞在したことを示すブループラークが建物の外壁に掲げられている。

ホウバートプレイス近くにある
イートンスクエアガーデンズ(Eaton Square Gardens)(その1)

フェリックス・メンデルスゾーンは、ヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)に謁見する機会を得て、ドイツ音楽にも造詣が深い夫君であるアルバート公(Albert Prince Consort:1819年ー1861年)からの称賛を受けている。1847年には、ヴィクトリア女王とアルバートこうの御前で、自作の「スコットランド交響曲」を指揮している。

ホウバートプレイス近くにある
イートンスクエアガーデンズ(その2)

そういった訳で、ワトスンがフェリックス・メンデルスゾーンの楽曲を好んでいたとしても、不思議ではない。

2016年12月3日土曜日

ニコラウス・コペルニクス(Nicolaus Copernicus)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)は、元軍医局のジョン・H・ワトスン医学博士の回想録で、物語の幕を開ける。

1878年に、ワトスンはロンドン大学(University of Londonー2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospitalー2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。
英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Barー2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospitalー2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。
こうして、ベーカーストリート221B(221B Baker Streetー2014年6月22日/29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。

自然史博物館(Natural History Museum)内にある
地球儀のオブジェ

ホームズとの共同生活が始まった後、ワトスンが非常に驚いたのは、現代文学、哲学や政治に関して、ホームズがほとんど何も知らないことであった。英国の歴史家/評論家であるトマス・カーライル(Thomas Carlyle:1795年ー1881年→2016年10月15日付ブログで紹介済)をホームズは知らなかったし、更に、コペルニクスの地動説や太陽系の構成についても、全く知らなかったのである。

自然史博物館の建物外観

「しかし、太陽系を知らないなんて!」と、私は抗議した。
「太陽系の構成を知っていることが、僕にとって何か価値があるのかい?」と、彼(ホームズ)は苛立って私の話を遮った。「僕達が居る地球が太陽の周りを回ると君は言ったが、仮に地球が月の周りを回ったとしても、僕にとって、そして、僕の仕事にも、何の違いもないのさ。」

夜空に浮かぶ月(その1)

'But the Solar System!' I protested.
'What the deuce is it to me?' he interrupted impatiently ; 'you say that we go round the sun. If we went round the moon it would not make a penny worth of difference to me or to my work.'

夜空に浮かぶ月(その2)

ホームズが全く知らなかったため、ワトスンが非常に驚いた「地動説」を唱えたニコラウス・コペルニクス(Nicolaus Copernicus:1473年ー1543年)は、ポーランド出身の天文学者である。当時主流だった「天動説(地球中心説)」を覆す「地動説(太陽中心説)」を彼は唱え、これが天文学史上最も重要な発見と見做されている。意外なことに、彼は「天動説」を支持していたカトリック系教会の司祭でもあり、知事、長官、法学者や医者の他、占星術師という顔も有していたのである。