現在、テイト・ブリテン美術館(Tate Britain)の建物裏手に設置されている ジョン・エヴァレット・ミレーのブロンズ像(その1) |
英国の思想家 / 芸術評論家であるジョン・ラスキン(John Ruskin:1819年ー1910年)の妻だったユーフィミア(Euphemia / 通称 エフィー・グレイ(Effie Gray):1829年ー1897年)と1855年に結婚した後も、ジョン・ラスキンの擁護を受けていた初代准男爵サー・ジョン・エヴァレット・ミレー(Sir John Everett Millais, 1st Baronet:1829年ー1896年)であったが、結婚後、妻ユーフィミアと8人の子供を養わなければならなくなり、1848年に結成された「ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)」が唱える厳格な理想から次第に遠のいていき、ジョン・ラスキンからも「単に失敗ではなく、破局(catastrophe)である。」と手厳しく非難されるようになった。
現在、テイト・ブリテン美術館(Tate Britain)の建物裏手に設置されている ジョン・エヴァレット・ミレーのブロンズ像(その2) |
ジョン・エヴァレット・ミレーは、1860年に「黒い制服を着たドイツのブラウンシュヴァイク騎兵(The Black Brunswicker)」を出品して、そのロマンチックな主題と衣装の襞の美しさ等で好評を博し、一時期失いかけていた名声を再び取り戻したのである。以後、彼は一貫して世間の好みに合致するような作品を描き続けた。
一方で、ジョン・エヴァレット・ミレーは、肖像画家としても成功し、保守党党首として2期にわたって英国首相を務めた初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield:1804年ー1881年)や「クリスマスキャロル」や「二都物語」等の作品で知られる小説家のチャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens:1812年ー1870年)等、当時の著名人の多くが、彼に肖像画を依頼したのであった。
ジョン・エヴァレット・ミレーの遺体が埋葬されたセントポール大聖堂(その1) |
1855年にジョン・エヴァレット・ミレーがユーフィミアと結婚した当時、妻(ユーフィミア)が夫(ジョン・ラスキン)を捨てるようなことは非常に異例だったため、ミレーを寵愛していたハノーヴァー朝第6代のヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年-1901年→2017年12月10日 / 12月17日付ブログで紹介済)は、この結婚を良しとせず、ユーフィミアとの謁見を拒否して、以後、ジョン・エヴァレット・ミレーに自分の肖像画を描かせることはなかった。
しかしながら、ジョン・エヴァレット・ミレーのこれまでの功績を称えて、1885年7月、ヴィクトリア女王は彼の為に初代準男爵(1st Baronet)の称号を創設したのである。英国王室が芸術家に世襲の称号を与えた最初のケースとなった。
ジョン・エヴァレット・ミレーの遺体が埋葬されたセントポール大聖堂(その2) |
ジョン・エヴァレット・ミレーは、1853年にロイヤルアカデミー(Royal Academy)の準会員(associate member)になり、直ぐに正会員(full member)に選出された。そして、英国の画家 / 彫刻家だった初代レイトン男爵フレデリック・レイトン(Frederic Leighton, 1st Baron Leighton)の死去に伴い、ミレーは1896年にロイヤルアカデミーの会長(president)に選出されるが、同年8月13日、喉頭癌のため、他界した。なお、彼の遺体は、セントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral)に埋葬された。
死の数日前、ミレーはヴィクトリア女王から「何かできることはないか?」という伝言を受け取り、妻ユーフィミアの謁見許可を申し出ると、ヴィクトリア女王はこれを聞き入れて、謁見が許可されたのである。ミレーの妻ユーフィミアは、夫の後を追うように、翌年の1897年12月に他界した。
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