2018年3月31日土曜日

ロンドン ウェストミンスター船着き場(Westminster Stairs)-その1

国会議事堂(House of Parliament)の通称「ビッグベン(Big Ben)」

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)では、若い女性メアリー・モースタン(Mary Morstan)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れて、風変わりな事件の調査依頼をする。

以降、国会議事堂の近くにある船着き場ではなく、
ウォータールー橋(Waterloo Bridge)の近くにある船着き場

元英国陸軍インド派遣軍の大尉だった彼女の父親アーサー・モースタン(Captain Arthur Morstan)は、インドから英国に戻った10年前に、謎の失踪を遂げていた。彼はロンドンのランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)に滞在していたが、娘のモースタン嬢が彼を訪ねると、身の回り品や荷物等を残したまま、姿を消しており、その後の消息が判らなかった。そして、6年前から年に1回、「未知の友」を名乗る正体不明の人物から彼女宛に大粒の真珠が送られてくるようになり、今回、その人物から面会を求める手紙が届いたのである。
彼女の依頼に応じて、ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は彼女に同行して、待ち合わせ場所のライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)へ向かった。そして、ホームズ達一行は、そこで正体不明の人物によって手配された馬車に乗り込むのであった。

ウォータールー橋の近くにある船着き場のアップ写真

ホームズ、ワトスンとモースタン嬢の三人は、ロンドン郊外のある邸宅へと連れて行かれ、そこでサディアス・ショルト(Thaddeus Sholto)という小男に出迎えられる。彼が手紙の差出人で、ホームズ達一行は、彼からモースタン嬢の父親であるアーサー・モースタン大尉と彼の父親であるジョン・ショルト少佐(Major John Sholto)との間に起きたインド駐留時代の因縁話を聞かされるのであった。
サディアス・ショルトによると、父親のジョン・ショルト少佐が亡くなる際、上記の事情を聞いて責任を感じた兄のバーソロミュー・ショルト(Bartholomew Sholto)と彼が、モースタン嬢宛に毎年真珠を送っていたのである。アッパーノーウッド(Upper Norwood)にある屋敷の屋根裏部屋にジョン・ショルト少佐が隠していた財宝を発見した彼ら兄弟は、モースタン嬢に財宝を分配しようと決めた。


しかし、ホームズ一行がサディアス・ショルトに連れられて、バーソロミュー・ショルトの屋敷を訪れると、バーソロミュー・ショルトはインド洋のアンダマン諸島の土着民が使う毒矢によって殺されているのを発見した。そして、問題の財宝は何者かによって奪い去られていたのである。
ホームズの依頼に応じて、ワトスンは、ランベス地区(Lambeth)の水辺近くにあるピンチンレーン3番地(No. 3 Pinchin Lane→2017年10月28日付ブログで紹介済)に住む鳥の剥製屋シャーマン(Sherman)から、犬のトビー(Toby)を借り出す。そして、ホームズとワトスンの二人は、バーソロミュー・ショルトの殺害現場に残っていたクレオソートの臭いを手掛かりにして、トビーと一緒に、現場からロンドン市内を通り、犯人の逃走経路を追跡して行く。


ホームズとワトスンの二人が、犬のトビーと一緒に、ストリーサム地区(Streatham→2017年12月2日付ブログで紹介済)、ブリクストン地区(Brixton→2017年12月3日付ブログで紹介済)、キャンバーウェル地区(Camberwell→2017年12月9日付ブログで紹介済)、オヴァールクリケット場(Oval)を抜けて、ケニントンレーン(Kennington Lane→2017年12月16日付ブログで紹介済)へと達した。そして、彼らは更にボンドストリート(Bond Street→2017年12月23日付ブログで紹介済)、マイルズストリート(Miles Street→2017年12月23日付ブログで紹介済)やナイツプレイス(Knight’s Place→2017年12月23日付ブログで紹介済)を通って、ナインエルムズ地区(Nine Elms→2017年12月30日付ブログと2018年1月6日付ブログで紹介済)までやって来たが、ブロデリック&ネルソンの材木置き場という間違った場所に辿り着いてしまった。どうやら、犬のトビーは、どこかの地点から違うクレオソートの臭いを辿ってしまったようだ。

船着き場の近くには、英国の小説家 / 歴史家であるサー・ウォルター・ベサント
(Sir WalterBesant:1836年ー1901年)の記念レリーフが架けられている

二人はトビーをクレオソートの臭いの跡が二つの方向に分かれていたナイツプレイスへと戻し、犯人達の跡を再度辿らせた。そして、彼らはベルモントプレイス(Belmon Place→2018年1月13日付ブログで紹介済)とプリンスズストリート(Prince’s Street→2018年1月13日付ブログで紹介済)を抜けて、ブロードストリート(Broad Street→2018年1月13日付ブログで紹介済)の終点で、テムズ河岸に出るが、そこは船着き場で、どうやら犯人達はここで船に乗って、警察の追跡をまこうとしたようだ。


ホームズは、ウィギンズ(Wiggins)を初めとするベーカーストリート不正規隊(Baker Street Irregulars)を使って、バーソロミュー・ショルトを殺害した犯人達が乗った船の隠れ場所を捜索させたものの、うまくいかなかった。独自の捜査により、犯人達の居場所を見つけ出したホームズは、ベーカーストリート221Bへスコットランドヤードのアセルニー・ジョーンズ警部(Inspector Athelney Jones)を呼び出すのであった。


「よし、それじゃ、まず最初に、巡視艇を一隻、(午後)7時にウェストミンスター船着き場まで手配してほしい。蒸気船が必要だ。」
「それなら、お安い御用ですよ。あの辺りには、いつも一隻ある筈ですが、この通り(ベーカーストリート)の向こうへ行って、電話で手配しておきますよ。」
「それから、犯人達に抵抗された場合に備えて、屈強な男が二人必要だ。」
「巡視艇に、二、三人乗せておくようにしますよ。他には?」
「犯人達を逮捕した際、財宝も一緒の筈だ。財宝が入った箱を、その財宝の半分を手にする権利がある若い女性のところへ持って行ければ、ここに居る友人がとても喜ぶと思う。彼女に最初にその箱の蓋を開けさせるのさ。ワトスン、どうだい?」
「それは。この上もなく喜ばしい話だ。」
「かなり変則的な手続になりますね。」と、アセルニー・ジョーンズ警部は、首を振りながら、言った。「しかしながら、全てが変則的ですから、この際、それには目を瞑りましょう。彼女に財宝を見せた後、公式な捜査が終わるまで、こちらの手に引き渡してもらいますよ。」
「勿論だ。それは大丈夫だ。」


‘Well, then, in the first place I shall want a fast police boat - a steam launch - to be at the Westminster Stairs at seven o’clock.’
‘That us easily managed. There is always one about there; but I can step across the road and telephone to make sure.’
‘Then I shall want two staunch men, in case of resistance.’
‘There will be two or three in the boat. What else?’
‘When we secure the men we shall get the treasure. I think that it would be a pleasure to my friend here to take the box round to the young lady to whom half of it rightfully belongs. Let her be the first to open it. Eh, Watson?’
‘It would be a great pleasure to me.’
‘Rather an irregular proceeding.’ said Jones, shaking his head. ‘However, the whole thing is irregular, and I suppose we must wink at it. The treasure must afterwards be handed over to the authorities until after the official investigation.’
‘Certainly. That is easily managed …’


ホームズがスコットランドヤードのアセルニー・ジョーンズ警部に巡視艇の手配を頼んだ先は、英語で「Westminster Stairs」、あるいは、原作の後の方で「Westminster Wharf」と表記されているが、これは、現在の住所表記上、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のウェストミンスター地区(Westminster)内に所在し、テムズ河(River Thames)の北岸にあった船着き場のことを指していると考えられる。

2018年3月25日日曜日

ジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)−その1

中央に見えるガウアーストリート7番地(7 Gower Street)の建物が、
1848年9月、ジョン・エヴァレット・ミレーが、
ウィリアム・ホルマン・ハントやダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ達と一緒に、
「ラファエル前派」と呼ばれる芸術グループを結成した場所である。

初代准男爵サー・ジョン・エヴァレット・ミレー(Sir John Everett Millais, 1st Baronet:1829年ー1896年)は、19世紀中頃、「ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)」(正確には、「ラファエロ以前兄弟団」)を結成した画家の一人である。


ジョン・エヴァレット・ミレーは、1829年6月8日、英国南部の都市サザンプトン(Southampton)に、馬具製造販売業である父親ジョン・ウィリアム・ミレー(John William Millais)と母親エミリー・メアリー・ミレー(Emily Mary Millais)の息子として出生。
彼は幼少期の初期を英仏海峡に浮かぶチャネル諸島(Channel Islands)の一つであるジャージー島(Jersey)で過ごす。その後、彼の家族は対岸にあるフランスのブルターニュ地方(Brittany)へと移り住んでいる。
ジョン・エヴァレット・ミレーは、幼少期より優れた画才を示し、彼の才能に認めた両親(特に、母親は美術や音楽に造詣が深く、自分の息子に絵を描くよう、積極的に薦めた)は、息子に十分な教育を与えるため、1839年にロンドンへと転居したのである。

ガウアーストリート(Gower Street)の南側から
7番地の建物を見上げたところ

ガウアーストリートの北側から
7番地の建物を見たところ

両親と一緒にロンドンへと転居したジョン・エヴァレット・ミレーは、翌年の1840年(11歳)に、史上最年少でロイヤルアカデミー(Royal Academy)付属の美術学校(Antique School)への入学を許可され、1846年(16歳)には、ロイヤルアカデミーの年次展への入賞を果たす。
彼は、ロイヤルアカデミー付属美術学校で、後に「ラファエル前派」を一緒に結成することになるウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt:1827年ー1910年)やダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti:1828年ー1882年 → 2018年3月4日 / 3月11日付ブログで紹介済)達と出会っている。

ガウアーストリート7番地の入口

ガウアーストリート7番地の入口と建物外壁

ロイヤルアカデミー付属美術学校の在学中から、当時の画壇への不満を募らせていたジョン・エヴァレット・ミレーは、同校を卒業した後の1848年9月、ウィリアム・ホルマン・ハントやダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ達と一緒に、「ラファエル前派」と呼ばれる芸術グループを結成した。


ガウアーストリート7番地の建物外壁には、
「1848年に、ここでラファエル前派が結成された」ことを示す
プループラーク(English Heritage が管理)が架けられている。

「ラファエル前派」が結成されたのは、ジョン・エヴァレット・ミレーが彼の家族と一緒に住んでいた家で、ロンドンの中心部ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内にあり、大英博物館(British Museum→2014年5月26日付ブログで紹介済)のすぐ近くに建っている。正確な住所は、「7 Gower Street, Bloomsbury, London WC1E 6HA」で、北側のユーストンロード(Euston Road)から南側のトッテナムコートロード(Tottenham Court Road)方面へと下る幹線道路に面しており、一歩通行の道路ではあるが、車の往来は激しい。

テイト・ブリテン美術館に所蔵展示されている
ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」

現在、テイト・ブリテン美術館(Tate Britain → 2018年2月18日付ブログで紹介済)に所蔵展示されており、数ある絵画の中でも、一二を争う人気作品となっている「オフィーリア(Ophelia)」を、ジョン・エヴァレット・ミレーは、1851年から1852年にかけて、ガウアーストリート7番地の家で完成させている。

2018年3月24日土曜日

ロンドン リッチモンド(Richmond)-その2


ロンドン特別区の一つで、ロンドン南西部郊外のロンドン・リッチモンド・アポン・テムズ区(London Borough of Richmond upon Thames)内にあるリッチモンド(Richmond)の名は、薔薇戦争による混乱を解決して王位に就いたテューダー朝の初代イングランド王であるヘンリー7世(Henry VII:1457年ー1509年 在位期間:1485年ー1509年)が、16世紀(1501年頃)にこの地にリッチモンド宮殿(Richmond Palace)を建設したことに由来する。ヘンリー7世は、王位に就く前、リッチモンド伯爵(Earl of Richmond)という爵位で、宮殿の名前は、ヘンリー7世が王位に就く前の爵位に因んでいる。


1588年にスペイン無敵艦隊を打ち破って、黄金時代の統治者として後に称えられているテューダー朝の第5代にして最後の君主で、イングランドとアイルランドの女王であるエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年ー1603年)は、1603年3月24日、リッチモンド宮殿で死去、69歳の生涯を終えている。


18世紀に入り、テムズ河(River Thames)にリッチモンド橋(Richmond Bridge)が架けられ、リッチモンドグリーン(Richmond Green)と呼ばれる緑地帯やリッチモンドヒル(Richmond Hill)と呼ばれる高台に、ジョージア朝式のテラスハウスが多数建設される。
1846年にリッチモンド駅(Richmond Station)がオープンすると、ロンドンしないからリッチモンドへと流入する人口が増加する。
現在、リッチモンドは、ロンドン郊外にある高級住宅地の一つであり、町の南東には、広大な公園で、鹿も生息するリッチモンド公園(Richmond Park)が広がり、テムズ河沿いには、レストランや伝統的なパブ等が多数存在している。


リッチモンドは、以前、サリー州(Surrey)のキングストン・アポン・テムズ地区(Kingston upon Thames)にぞくしていたが、1890年に独立した区となった。1965年にはサリー州からロンドンの一部となり、現在は、ロンドン・リッチモンド・アポン・テムズ区に編入されている。

2018年3月18日日曜日

ロンドン チェイニーウォーク16番地(16 Cheyne Walk)

妻エリザベスの死後、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティが移り住んだ
チェイニーウォーク16番地の建物

19世紀中頃に結成された「ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)」(正確には、「ラファエロ以前兄弟団」)を代表する英国の画家 / 詩人であるダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti:1828年ー1882年)と1860年に結婚した美術モデルのエリザベス・シダル(Elizabeth Siddal:1829年ー1862年)は、ロセッティの弟子に該るウィリアム・モリス(Willaim Morris:1834年ー1896年)と結婚した絵画モデルのジェーン・バーデン(Jane Burden:1834年ー1896年)とロセッティが惹かれあっていることに心を痛め、冷え切った夫婦関係と女児の死産のため、鎮痛剤に次第に溺れるようになり、結婚2年目に該る1862年、大量の阿片チンキを服用して、自殺同然の死を遂げる。

チェイニーウォーク16番地の建物の外壁右側に、
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティがここに住んでいたことを示す
ブループラークが架けられている

妻エリザベスの死後、ロセッティが移り住んだ家がチェイニーウォーク16番地(16 Cheyne Walk)で、現在のケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のチェルシー区(Chelsea)内に所在している。テムズ河(River Thames)沿いに東西に延びるチェルシーエンバンクメント通り(Chelsea Embankment)を一歩北へ入ったところにあるチェイニーウォーク(Cheyne Walk)沿いに、16番地の建物はあり、建物からテムズ河を望むことができる。
なお、チェイニーウォークは、オークリーストリート(Oakley Street)を間に挟んで、二つに別れているが、16番地の建物があるチェイニーウォークは、オークリーストリートの東側にあり、オークリーストリート(西側)とフラッドストリート(Flood Streetー東側)に挟まれている。

チェイニーウォークを二つに分けるオークリーストリートは、
アルバート橋に繋がり、テムズ河を渡る

ロセッティは、チェイニーウォーク16番地の建物内で、豪華な装飾、また、珍しい鳥や動物(彼はウォンバット(Wombat)が大変お気に入りだったらしい)に囲まれて、10年近く暮らしていたが、弟子のウィリアム・モリスの妻となったジェーンへの思慕と亡き妻エリザベスへの罪悪感に次第に苛まれるようになり、心身を病み、1872年に自殺を図っている。
晩年には、酒と薬に溺れる生活を続け、1882年のイースター休暇をケント州(Kent)のバーチントン・オン・シー(Birchington-on-Sea)にある友人宅で過ごしていた際、肝臓病が原因で、失意のうちに54歳の生涯を終えたのである。

2018年3月17日土曜日

ロンドン リッチモンド(Richmond)-その1


サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)では、若い女性メアリー・モースタン(Mary Morstan)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れて、風変わりな事件の調査依頼をする。


元英国陸軍インド派遣軍の大尉だった彼女の父親アーサー・モースタン(Captain Arthur Morstan)は、インドから英国に戻った10年前に、謎の失踪を遂げていた。彼はロンドンのランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)に滞在していたが、娘のモースタン嬢が彼を訪ねると、身の回り品や荷物等を残したまま、姿を消しており、その後の消息が判らなかった。そして、6年前から年に1回、「未知の友」を名乗る正体不明の人物から彼女宛に大粒の真珠が送られてくるようになり、今回、その人物から面会を求める手紙が届いたのである。
彼女の依頼に応じて、ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は彼女に同行して、待ち合わせ場所のライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)へ向かった。そして、ホームズ達一行は、そこで正体不明の人物によって手配された馬車に乗り込むのであった。


ホームズ、ワトスンとモースタン嬢の三人は、ロンドン郊外のある邸宅へと連れて行かれ、そこでサディアス・ショルト(Thaddeus Sholto)という小男に出迎えられる。彼が手紙の差出人で、ホームズ達一行は、彼からモースタン嬢の父親であるアーサー・モースタン大尉と彼の父親であるジョン・ショルト少佐(Major John Sholto)との間に起きたインド駐留時代の因縁話を聞かされるのであった。
サディアス・ショルトによると、父親のジョン・ショルト少佐が亡くなる際、上記の事情を聞いて責任を感じた兄のバーソロミュー・ショルト(Bartholomew Sholto)と彼が、モースタン嬢宛に毎年真珠を送っていたのである。アッパーノーウッド(Upper Norwood)にある屋敷の屋根裏部屋にジョン・ショルト少佐が隠していた財宝を発見した彼ら兄弟は、モースタン嬢に財宝を分配しようと決めた。


しかし、ホームズ一行がサディアス・ショルトに連れられて、バーソロミュー・ショルトの屋敷を訪れると、バーソロミュー・ショルトはインド洋のアンダマン諸島の土着民が使う毒矢によって殺されているのを発見した。そして、問題の財宝は何者かによって奪い去られていたのである。
ホームズの依頼に応じて、ワトスンは、ランベス地区(Lambeth)の水辺近くにあるピンチンレーン3番地(No. 3 Pinchin Lane→2017年10月28日付ブログで紹介済)に住む鳥の剥製屋シャーマン(Sherman)から、犬のトビー(Toby)を借り出す。そして、ホームズとワトスンの二人は、バーソロミュー・ショルトの殺害現場に残っていたクレオソートの臭いを手掛かりにして、トビーと一緒に、現場からロンドン市内を通り、犯人の逃走経路を追跡して行く。


ホームズとワトスンの二人が、犬のトビーと一緒に、ストリーサム地区(Streatham→2017年12月2日付ブログで紹介済)、ブリクストン地区(Brixton→2017年12月3日付ブログで紹介済)、キャンバーウェル地区(Camberwell→2017年12月9日付ブログで紹介済)、オヴァールクリケット場(Oval)を抜けて、ケニントンレーン(Kennington Lane→2017年12月16日付ブログで紹介済)へと達した。そして、彼らは更にボンドストリート(Bond Street→2017年12月23日付ブログで紹介済)、マイルズストリート(Miles Street→2017年12月23日付ブログで紹介済)やナイツプレイス(Knight’s Place→2017年12月23日付ブログで紹介済)を通って、ナインエルムズ地区(Nine Elms→2017年12月30日付ブログと2018年1月6日付ブログで紹介済)までやって来たが、ブロデリック&ネルソンの材木置き場という間違った場所に辿り着いてしまった。どうやら、犬のトビーは、どこかの地点から違うクレオソートの臭いを辿ってしまったようだ。


二人はトビーをクレオソートの臭いの跡が二つの方向に分かれていたナイツプレイスへと戻し、犯人達の跡を再度辿らせた。そして、彼らはベルモントプレイス(Belmon Place→2018年1月13日付ブログで紹介済)とプリンスズストリート(Prince’s Street→2018年1月13日付ブログで紹介済)を抜けて、ブロードストリート(Broad Street→2018年1月13日付ブログで紹介済)の終点で、テムズ河岸に出るが、そこは船着き場で、どうやら犯人達はここで船に乗って、警察の追跡をまこうとしたようだ。


バーソロミュー・ショルトを殺害した犯人達が乗った船の隠れ場所については、ウィギンズ(Wiggins)を初めとするベーカーストリート不正規隊(Baker Street Irregulars)に捜索を指示した後、ホームズは、ワトスンと一緒に、ベーカーストリート221Bへと戻り、その結果を待つことにした。


朝食の際、彼(ホームズ)は、髭が伸びたままで、やつれたように見えた。彼の頬には、熱っぽい色の斑点が浮き出ていた。
「かなり疲れているみたいだな。」と、私は言った。「夜中に歩き回っている音が聞こえたよ。」
「とても寝ていられないさ。」と、彼は答えた。「このいまいましい事件には、疲れ果てたよ。全てのことがうまく進んでいるのに、こんな小さな障害に邪魔されるのは、うんざりさ。僕には、犯人達も、彼らが乗った船も、何もかも判っている。それにも関わらず、その船の隠れ場所についての連絡が全く来ない。僕は別の部隊も出動させて、打つべき手は全て打ってあるんだ。テムズ河の両岸とも、隅から隅まで捜索中にもかかわらず、何も連絡がない上に、スミス夫人も夫から連絡を受けていない。遅かれ早かれ、犯人達は船を処分したという結論に達せざるを得ない。しかし、その結論に至るには、問題があるんだ。」
「あるいは、スミス夫人が嘘の手掛かりで私達を騙したということはないかい?」
「いや、その可能性はないと思う。僕が調査したところでは、彼女が僕達に話した通りの船は存在しているんだ。」
「それじゃ、問題の船はテムズ河の上流の方へ向かったということは考えられないかい?」
「僕もその可能性を考えたさ。捜索隊はリッチモンドの辺りまでテムズ河を遡って、船を捜す予定だ。もし今日何の連絡もなければ、明日僕自ら、船ではなく、犯人達を捜すつもりだ。しかし、きっと必ず、何か連絡がある筈だ。」


At breakfast-time he looked worn and haggard, with a little fleck of feverish colour upon either cheek.
‘You are knocking yourself up, old man,’ I remarked. ‘I heard you marching about in the night.’
‘No, I could not sleep,’ he answered. ‘This infernal problem is consuming me. It is too much to be baulked by so petty an obstacle, when all else had been overcome. I know the men, the launch, everything; and yet I can get no news. I have set other agencies at work, and used every means at my disposal. The whole river has been searched on either side, but there is no news, nor has Mrs Smith heard of her husband. I shall come to the conclusion soon that they have scuttled the craft. But there are objections to that.’
‘Or that Mrs Smith has put us on a wrong scent.’
‘No, I think that may be dismissed. I had enquiries made and there is a launch of that description.’
‘Could it have gone up the river?’
‘I have considered that possibility too, and there is a  search-party who will work up as far as Richmond. If no news comes today, I shall start off myself tomorrow, and go for the men rather than the boat. But surely, surely, we shall hear something.’


テムズ河(River Thames)の下流域に加えて、ホームズがベーカーストリート不正規隊に捜索させようとしているテムズ河の上流にあるリッチモンド(Richmond)は、ロンドン特別区の一つで、ロンドン南西部郊外のロンドン・リッチモンド・アポン・テムズ区(London Borough of Richmond upon Thames)内にあり、テムズ河の中流域に位置して、テムズ河の東岸に広がる町である。

2018年3月11日日曜日

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)-その2

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティが亡き妻エリザベスの死を悼んで描いた
「ベアタ・ベアトリクス」(1863年)

1848年にロイヤルアカデミー(Royal Academy)付属の美術学校(Antique School)を出ると、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti:1828年ー1882年)は、同校の学生だったウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt:1827年ー1910年)とジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais:1829年ー1896年)の二人と一緒に、「ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)」(正確には、「ラファエロ以前兄弟団」)を結成した。
「ラファエル」とは、ルネサンス最盛期(High Renaissance:1450年ー1527年)を代表するイタリアの画家 / 建築家であるラファエロ・サンティ(Raffaello Santi:1483年ー1520年)のことである。「ラファエル前派」とは、19世紀のアカデミーにおける古典偏重の美術教育に異を唱えるもので、ラファエロ以前の美術、つまり、中世や初期ルネサンスの美術を範とし、聖書、伝説や文学等に題材を求めた作品が多く描かれた。
ラファエル前派の他の画家達が徹底した細密描写をする一方、ロセッティの場合、全体として装飾的で耽美的な画面構成の作品が多いのが特徴である。

1848年にジョン・エヴァレット・ミレー達と一緒にラファエル前派を立ち上げたロセッティの前に、運命の女性が二人登場する。
一人は、エリザベス・シダル(Elizabeth Siddal:1829年ー1862年)で、1850年に美術モデルをしていた彼女とロセッティは知り合う。そして、彼らは婚約するものの、長い婚約期間が続く。その間、エリザベス・シダルは、ジョン・エヴァレット・ミレーの代表作となる「オフィーリア(Ophelia)」(1852年)のモデル等を務めている。
もう一人は、同じく、絵画モデルをしていたジェーン・バーデン(Jane Burden:1834年ー1896年)で、1857年にロセッティが弟子のウィリアム・モリス(William Morris:1834年ー1896年)と一緒に観劇に訪れた際に、同じく観劇に来ていた彼女と知り合いになる。その当時、ロセッティはエリザベス・シダルと既に婚約していたが、ロセッティとジェーン・バーデンはお互いに惹かれあったようで、ロセッティの先品にジェーン・バーデンがモデルとして登場するようになった。
ただし、最終的には、1859年にジェーン・バーデンはウィリアム・モリスと結婚し、1860年にロセッティはエリザベス・シダルと結婚した。にもかかわらず、ロセッティのジェーンに対する気持ちは強かったと言われており、二組の結婚生活は幸福ではなかったようである。冷え切った夫婦関係や女児の死産に心痛を強くしたエリザベスは、鎮痛剤に次第に溺れるようになり、結婚2年目に該る1862年、大量の阿片チンキの服用が原因で、自殺同然の死を遂げるのであった。

ウィリアム・モリスと結婚したジェーンへの思慕が募る
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティが描いた「プロセルピナ」(1873年ー1877年)

エリザベスの死を悼んだロセッティが亡き妻をモデルにして描いたのが、「ベアタ・ベアトリクス(Beata Beatrix)」(1863年)で、イタリアの詩人、哲学者で、政治家でもあったダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri:1265年ー1321年)作の叙事詩「神曲(La Divina Commedia)」に登場するベアトリーチェ(Beatrice)がテーマとなっている。ベアタ・ベアトリクス」は、現在、テイト・ブリテン美術館(Tate Britain)内に展示されている。
ロセッティは亡き妻への罪悪感に次第に苛まれるようになり、心身を病んで、1872年には自殺を図っている。
その後、ジェーンへの思慕が募るロセッティは、彼女をモデルにして、冥府を司る神プルートー(Pluto)に誘拐され、無理矢理に結婚させられた女性をテーマにした「プロセルピナ(Proserpina)」(1873年ー1877年)を描いており、これも、現在、テイト・ブリテン美術館内に展示されている。

ロセッティは、晩年、酒と薬に溺れる生活を続け、1882年のイースター休暇をケント州(Kent)のバーチントン・オン・シー(Birchington-on-Sea)にある友人宅で過ごしていた際、肝臓病が原因で、失意のうちに54歳の生涯を終えたのである。彼の遺体は、同地に埋葬されている。

2018年3月10日土曜日

ロンドン グレートピーターストリート(Great Peter Street)-その2


グレートピーターストリート(Great Peter Street)の東側は、国会議事堂(House of Parliament)の南側にあるヴィクトリアタワーガーデンズ(Victoria Tower Gardens)の西側を南北に延びるミルバンク通り(Millbank)から始まり、その西側は、グレイコート病院(The Grey Court Hospital)の手前にある環状道路 / ロータリー(round about)で終わっており、東西に一直線に延びる通りである。


ちなみに、グレイコート病院の前の通り(グレイコートプレイスーGrey Court Place)を更に西へ進んで行くと、ロチェスターロウ(Rochester Rowー2017年8月6日付ブログで紹介済)へと至る。シャーロック・ホームズ、ジョン・H・ワトスンとメアリー・モースタン(Mary Morstan)の三人が、ライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)の前で馬車に乗せられて、テムズ河(River Thames)の南岸にあるサディアス・ショルト(Thaddeus Sholto)の屋敷へ連れて行かれる途中、ホームズ達に行き先が判らないようにするため、馬車がロンドン市内の迷路を抜けているが、その際に馬車が通って、コナン・ドイルの原作上、ホームズが言及した最初の通りである。

グレートピーターストリートの一本北にある
グレートカレッジストリート(Great College Street)から見た国会議事堂(その1)
グレートピーターストリートの一本北にある
グレートカレッジストリート(Great College Street)から見た国会議事堂(その2)

グレートピーターストリート自体は大通りではなく、大通りであるミルバンク通りと交差しているものの、ウェストミンスター区(Westminster)の奥まった方へと延びている。
ミルバンク刑務所(Millbank Penitentiaryー2018年2月11日 / 17日付ブログで紹介済)の近辺で馬車に乗ったホームズとワトスンの二人が、ベーカーストリート221Bへと戻る途中に、グレートピーターストリートにある郵便局に寄ったことになっているが、通常であれば、ミルバンク通りを北上して、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)経由、ベーカーストリートへ戻るか、あるいは、ヴォクスホールブリッジロード(Vauxhall Bridge Roadー2017年9月9日付ブログで紹介済)の方へと回って、ヴィクトリア駅(Victoria Stationー2015年6月13日付ブログで紹介済)経由、ベーカーストリートへ戻るのが、ルート的に判りやすく、一般的である。

グレートピーターストリートから見た
グレートカレッジストリート(その1)
グレートピーターストリートから見た
グレートカレッジストリート(その2)

奥まったところにあるグレートピーターストリートをわざわざルートとして選択するのは、正直やや変である。それとも、馬車の御者が知る限り、ミルバンク刑務所近辺で郵便局があったのは、グレートピーターストリートだけだったということは考えられるが...