2025年8月21日木曜日

ソフィー・ハナ作「キングフィッシャーヒルの殺人」(The Killings at Kingfisher Hill by Sophie Hannah) - その1

英国の HarperCollins Publishers 社から2021年に出版された
ソフィー・ハナ作「キングフィッシャーヒルの殺人」の表紙(ペーパーバック版)
Cover Design : Holly Macdonald / 
HarperCollinsPublishers
Cover illustrations : Shutterstock.com


本作品「キングフィッシャーヒルの殺人(The Killings at Kingfisher Hill)」は、英国の詩人で、小説家でもあるソフィー・ハナ(Sophie Hannah:1971年ー)が、アガサ・クリスティー財団(Agatha Christie Limited)による公認(公式認定)の下、エルキュール・ポワロ(Herucule Poirot)の正統な続編として執筆の上、2020年に発表された。


本作品は、ソフィー・ハナによるポワロシリーズの正統な続編の


*第1作目:「モノグラム殺人事件(The Monogram Murders → 2021年12月11日 / 12月18日 / 12月26日付ブログで紹介済)」(2014年)


英国の HarperCollins Publishers 社から2014年に出版された
ソフィー・ハナ作「モノグラム殺人事件」の表紙(ハードカバー版)
Jacket Design : 
HarperCollinsPublishers


*第2作目:「閉じられた棺(ひつぎ)(Closed Casket → 2022年1月1日 / 1月8日 / 1月15日付ブログで紹介済)」(2016年)


英国の HarperCollins Publishers 社から2016年に出版された
ソフィー・ハナ作「閉じられた棺」の表紙(ハードカバー版)
                    Jacket Design : Heike Schussler / 
HarperCollinsPublishers 
   Other Jacket Images : Shutterstock.com (interior elements)
                         Lonely Planet / Getty (angel)


*第3作目:「3 / 4 の謎(The Mystery of Three Quarters → 2022年5月2日 / 5月7日 / 5月19日付ブログで紹介済)


英国の HarperCollins Publishers 社から2018年に出版された
ソフィー・ハナ作「3 / 4 の謎」の表紙(ハードカバー版)
      Jacket Design : Holly Macdonald / HarperCollinsPublisher Lt
Jacket Illustration : Shutterstock.com


に続く第4作目に該る。


今までの3作と同様に、ポワロの友人であるスコットランドヤードのエドワード・キャッチプール警部(Inspector Edward Catchpool)が、物語の語り手を務めている。


1931年2月22日の午後1時50分、ポワロとキャッチプール警部の2人は、ロンドンのヴィクトリア駅(Victoria Station → 2015年6月13日付ブログで紹介済)沿いのバッキンガムパレスロード(Buckingham Palace Road)において、30人の乗客達と一緒に、長距離バスを待っていた。

2月の寒空の中、長距離バスを待つ2人は、サリー州(Surrey)ヘイズルメア(Haslemere)近くの風光明媚なキングフィッシャーヒル(Kingfisher Hill)へ赴く予定だった。


キャッチプール警部は、何故、ポワロがキングフィッシャーヒルへ出かけようとしているのか、興味津々だったが、まだ目的を知らされていなかった。

実は、前年の1930年12月6日、キングフィッシャーヒルの屋敷において、一族の問題児だったフランク・デヴォンポート(Frank Devonport)がバルコニーから転落死する事件が発生しており、彼の殺害を自白した人物の弁護をポワロはデヴォンポート家から正式に依頼され、現地へ招待されていたのである。


キングフィッシャー長距離バス会社(Kingfisher Coach Company)が運用するサリー州行きの長距離バスは、午後2時丁度に現地へ向けて出発。

ポワロとキャッチプール警部の2人は、ある女性と長距離バスに乗り合わせた。バス乗車前から、その女性の言動はややおかしかったが、バスが動き出すと、「バスを停めて。この席には座っていられない。他の席に代わってもらえなければ、バスから降ろして下さい。」と声を上げた。


‘Stop, please!’ She called out to Alfred Bixby(キングフィッシャー長距離バス会社のオーナー). Then she turned and addressed the driver. ‘Stop this coach. I must … Please, open the doors, I cannot stay here, sitting there.’ She pointed at her seat. ‘I … unless someone will take my seat in exchange for theirs, you must let me get out.’


彼女の言動を不審に感じたポワロが尋ねると、その女性は、「この席に座っていると、私は死んでしまう。殺されてしまうの!」と叫び出す。


‘What is wrong with your seat?’ Poirot asked. ‘Why do you wish to move?’

She shook her head wildly. Then she cried out, ‘You won’t believe me, but … I will die if I sit there. Someone will kill me!’


その女性が座っているのは、7列目の右側で、通路側の席の一つ隣りの席だった。


‘But I know that it’s this seat. Next to the aisle, seven rows back, on the right. Only this seat, and none of the others. That’s what he said. Nothing will happen to me if I sit anywhere else. Please, sir, let me take your place and you take mine?'


更に、ポワロは彼女に対して、「誰がそんなことを言ったのか?」と尋ねるが、彼女の答えは、要領を全く得なかった。彼女は、「ある男性だ!」と答えるものの、「その人が誰なのかは判らない。」と繰り返すだけだった。


‘Who said this to you?’

‘The man! A man. I … I don’t know who he was.’


ポワロが、「その席に座っていると、何が起きると、その男はいったのですか?」と、再度同じ質問を繰り返すと、彼女は、「私は殺されると、あの人は言ったんです! 言う通りにしないと、私は生きたままでバスを降りることができないと言ったんですよ!」と答えると、感情を抑え切れず、泣き叫ぶのであった。


‘And if you sit in this particular seat, what did the man say would happen?’ asked Poirot.

‘Haven’t I just told you?’ the woman walked. ‘He said I’d be murdered! “Mark my words,”’ he said. ‘“Yo heed this warning, or you won’t get off that coach alive.”’


2025年8月20日水曜日

奈良(Nara) 正倉院(Shoso-in)- その2

大英博物館(British Museum → 2014年5月26日付ブログで紹介済)の
Room 92 - 94 (The Mitsubishi Corporation Japanese Galleries) に展示されている
東大寺大仏殿の本尊である盧舎那仏像の写真と説明
<筆者撮影>

サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)が、シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、50番目に発表した作品「高名な依頼人(The Illustrious Client → 2025年6月18日 / 6月23日 / 6月27日 / 7月5日 / 7月7日付ブログで紹介済)」の後半、二人組の暴漢によって大怪我を負わせられたシャーロック・ホームズの依頼に応じて、ジョン・H・ワトスンは、セントジェイムズスクエア(St. James’s Square → 2014年12月7日付ブログで紹介済)のロンドン図書館(London Library  → 2014年12月7日付ブログで紹介済)まで赴き、友人で副司書(sub-librarian)であるローマックス(Lomax)から分厚い本を借り出して、中国磁器に関する猛勉強をする。そして、ワトスンは、ホームズから渡された明朝の本物の薄手磁器(サー・ジェイムズ・デマリー大佐が匿名の依頼人から借り受けたもの)を携え、「ヒル・バートン博士(Dr. Hill Barton)」の名刺をポケットに入れると、ベイカーストリート221B (221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)から馬車でキングストン(Kingston)近くのヴァーノンロッジ(Vernon Lodge)へと向かった。

そこで、オーストリアの貴族であるアデルバート・グルーナー男爵(Baron Adelbert Gruner)と面会したワトスンであったが、ワトスンの知識を試そうとするグルーナー男爵から、「聖武天皇と奈良の正倉院の関係」について説明するよう、求められる。


「あなたのことを確かめるために、少し質問しても宜しいですか?博士、もしあなたが本当に博士ならですが、私としては、この件はますます怪しくなってきたと申し上げざるを得ません。聖武天皇について御存知のこと、そして、聖武天皇が奈良の正倉院とどう言った関係にあるのかを、あなたにお伺いできますか?おやおや、随分とお困りのようですね?北魏王朝について、少しお話し願えますか?それと、陶磁器の歴史における北魏王朝の位置付けに関しても、どうですか?」


‘Might I ask you a few questions to test you? I am obliged to tell you, doctor - if you are indeed a doctor - that the incident becomes more and more suspicious. I would ask you what do you know of the Emperor Shomu and how do you associate him with the Shoso-in near Nara? Dear me, does that puzzle you? Tell me a little about the Northern Wei dynasty and its place in the history of ceramics?’ 


ワトスンに対するアデルバート・グルーナー男爵の質問の中に出てきた「正倉院(Shoso-in)」は、奈良県(Nara Prefecture)奈良市(Nara City)の東大寺(Todai-ji Temple)大仏殿の北西に位置する校倉造の高床式倉庫である。

正倉院は、第45代天皇である聖武天皇(Emperor Shomu:701年ー756年 在位期間:724年ー749年)/ 光明皇后(Empress Komyo:701年ー760年)所縁の品を含む天平文化を中心とした美術工芸品を数多く所蔵していた建物で、1997年に国宝に指定された後、翌年の1998年には、「古都奈良の文化財」の一部として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。


コナン・ドイル作「高名な依頼人」が掲載されたのは、英国の「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1925年2月号と同年3月号、また、米国の「コリアーズ ウィークリー(Collier’s Weekly)」の1924年11月8日号で、1927年に発行されたホームズシリーズの第5短編集「シャーロック・ホームズの事件簿(The Case-Book of Sherlock Holmes)」に収録されている。


当時の英国において、日本のことはあまり知られていなかったことに加え、正倉院に関しては、第二次世界大戦(1939年ー1945年)後の1946年に一般公開されるまで、日本でも知られている訳ではなかった。

それでは、コナン・ドイルが、日本に関する詳細な知識を誰から得ていたのかと言うと、スコットランド(Scotland)のエディンバラ(Edinburgh)生まれの技術者 / 写真家で、彼の幼少時からの友人であるウィリアム・キニンモンド・バートン(William Kinninmond Burton:1856年ー1899年)からではないかと考えられている。


ウィリアム・キニンモンド・バートンは、法律家 / 文筆家である父ジョン・ヒル・バートン(John Hill Burton:1809年ー1881年)と母カサリーン・イネス(Katherine Innes)の下、1809年8月22日、エディンバラに出生。

高校(Edinburgh Collegiate School)卒業後、彼は、大学へは進学せず、1873年に同地のブラウンブラザーズ社(Brown Brothers & Co., Ltd.)で水道技術工見習いとなる。

5年間の勤務を経て、ウィリアム・キニンモンド・バートンは、1879年に叔父であるコスモ・イネス(Cosmo Innes)を頼り、ロンドンへと向かった。当時、叔父のコスモ・イネスは、技術事務所を営む傍ら、衛星保護協会(Sanitary Protection Association)の事務局長を務めていたこともあって、ウィリアム・キニンモンド・バートンは、1881年に同協会の主任技師(Resident Engineer)へと昇進。


明治政府の官僚で、小説家の永井 荷風(ながい かふう:1879年ー1959年)の父である永井 久一郎(ながい きゅういちろう:1852年ー1913年)の渡欧中に知り合ったことを受けて、ウィリアム・キニンモンド・バートンは、1887年、当時コレラ(cholera)等の流行病の対処に苦慮していた明治政府の内務省衛生局のお雇い外国人技師として来日。彼は、内務省衛生局の唯一の顧問技師として、東京市の上下水道取調主任に着任した他、帝国大学工科大学(後の東京大学工学部)において、衛生工学の講座を担当し、日本人の上下水道技師を育てる。


ウィリアム・キニンモンド・バートンは、1896年、日清戦争(1894年ー1895年)の勝利により日本領土となった台湾において、公衆衛生向上のための調査に赴いたが、炎暑の中、風土病に罹患して、1899年8月5日、東京で没した。享年43歳で、1894年に結婚した日本人妻と、別の女性との間に生まれた娘を伴って、英国への帰国を準備していたところだった。英国への帰国を果たせなったウィリアム・キニンモンド・バートンは、東京の青山霊園に葬られている。


コナン・ドイルは、幼少時、バートン家に預けられていたことがあり、彼とウィリアム・キニンモンド・バートンは、幼少時から親交があった。ウィリアム・キニンモンド・バートンが1887年に来日した後も、2人の交流は続いていた。

従って、コナン・ドイルは、ウィリアム・キニンモンド・バートンから、日本に関する知識を得ており、「高名な依頼人」を執筆した際、「聖武天皇」や「奈良の正倉院」について言及したものと思われる。

「高名な依頼人」において、ワトスンがアデルバート・グルーナー男爵と面会する際、「ヒル・バートン博士(Dr. Hill Barton)」と言う偽名を使用しているが、ウィリアム(・キニンモンド・バートン)の愛称が「ビル(Bill)」であることを考慮すると、ワトスンが使用してした「ヒル・バートン(Hill Barton)」と言う偽名は、「ウィリアム・バートン(William Burton」に因んでいるのではないだろうか?


シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、9番目に発表した作品で、、英国の「ストランドマガジン」の1892年3月号に掲載された「技師の親指(The Eingeer's Thumb)」の場合、事件の依頼人として、水力工学技師のヴィクター・ハザリー(Victor Hatherley)が登場するが、これも、作者のコナン・ドイルは、衛生工学や上下水道等をよく知るウィリアム・キニンモンド・バートンをモデルにしているものと推測される。


2025年8月19日火曜日

奈良(Nara) 正倉院(Shoso-in)- その1

大英博物館(British Museum → 2014年5月26日付ブログで紹介済)の
Room 92 - 94 (The Mitsubishi Corporation Japanese Galleries) に展示されている
東大寺大仏殿の写真と説明
<筆者撮影>


サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)が、シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、50番目に発表した作品「高名な依頼人(The Illustrious Client → 2025年6月18日 / 6月23日 / 6月27日 / 7月5日 / 7月7日付ブログで紹介済)」の場合、1902年9月3日の午後4時半に、サー・ジェイムズ・デマリー大佐(Colonel Sir James Damery)が、非常に繊細かつ重要な相談事のため、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)を訪れるところから、物語が始まる。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号 / 3月号に掲載された挿絵(その2)-
1902年9月3日の午後4時半に、ベイカーストリート221Bを訪れた
サー・ジェイムズ・デマリー大佐は、
待っていたシャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンに対して、
「ド・メルヴィル将軍の娘であるヴァイオレット・ド・メルヴィルが、
悪名高いオーストリア貴族のグルーナー男爵に騙されて、婚約してしまった。
これは、ある非常に高名な方からの依頼で、この婚約を破棄させてほしい。」と説明した。
画面左側から、シャーロック・ホームズ、ジョン・H・ワトスン、
そして、サー・ジェイムズ・デマリー大佐。
挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(Howard Keppie Elcock:1886年ー1952年)


サー・ジェイムズ・デマリー大佐経由、匿名の人物からの依頼を受けたホームズは、同年9月4日の午後5時半に、ロンドンの裏社会に通じた情報屋で、ホームズの協力者であるシンウェル・ジョンスン(Shinwell Johnson)から紹介されたキティー・ウィンター(Kitty Winter - オーストリアの貴族であるアデルバート・グルーナー男爵(Baron Adelbert Gruner)の元愛人で、被害者)を連れて、ド・メルヴィル将軍(General de Merville)とヴァイオレット・ド・メルヴィル(Violet de Merville)嬢が住むバークリースクエア104番地(104 Berkeley Square → 2014年11月29日付ブログで紹介済)を訪問した。


バークリースクエアガーデンズ(Berkeley Square Gardens)の内部 -
なお、シャーロック・ホームズとキティー・ウィンターが訪ねた
ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢の住まいであるバークリースクエア104番地は架空の住所であり、
同スクエアには3桁の番地は存在していない。
<筆者撮影>


しかしながら、ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢は、ホームズによる説得、そして、キティー・ウィンターによる暴露にも、全く聞く耳を持たず、アデルバート・グルーナー男爵に対する妻殺害疑惑を濡れ衣だと思い込んでいる彼女の態度は非常に頑なで、残念ながら、アデルバート・グルーナー男爵との結婚を思いとどませることは、不調に終わってしまう。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号 / 3月号に掲載された挿絵(その4)-
シャーロック・ホームズは、
彼の協力者である情報屋のシンウェル・ジョンスンから紹介されたキティー・ウィンターを伴って、
1902年9月4日の午後5時半に、
バークリースクエア104番地に住む
ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢の元を訪れた。
生憎と、
ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢の態度は頑なで、
ホームズ達の説得には、全く耳を傾けず、
ホームズの計画は不調に終わってしまった。
画面左側から、シャーロック・ホームズ、キティー・ウィンター、
そして、
ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢。
挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(1886年ー1952年)


その日の夜、ストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)のレストラン(シンプソンズ(Simpson’s → 2014年11月23日付ブログで紹介済)だと思われる)において、本業の医師の仕事を終えたジョン・H・ワトスンと一緒に食事をしたホームズは、ワトスンに対して、「こちらが次の一手を指す前に、向こうが次の一手を打ってくる可能性がありうる。(it is possible that the next move may lie with them rather than with us.)」と告げる。


ローストビーフが有名なシンプソンズは、
ストランド通り沿いに立っている。
<筆者撮影>


2日後の夕方、ホームズの読みは、悪い方に的中した。

ワトスンが、グランドホテル(Grand Hotel)とチャリングクロス駅(Charing Cross Station → 2014年9月20日付ブログで紹介済)の間で、夕刊紙の売り子が持つ新聞見出しを見て、暫し呆然と立ち尽くす。そこには、黄色の地に黒色の文字で、次のように書かれていた。


ストランド通りに面しているチャリングクロス駅の正面
<筆者撮影>


「シャーロック・ホームズ氏が暴漢の襲撃に遭う!(Murderous Attack upon Sherlock Holmes)」と...


英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号 / 3月号に掲載された挿絵(その5)-
本業の医師の仕事で外出していたジョン・H・ワトスンは、
チャリングクロス駅の近くで、

夕刊紙の売り子が持つ新聞の見出し

「シャーロック・ホームズ氏が暴漢の襲撃に遭う!を見て、

暫し呆然と立ち尽くすのであった。

挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(1886年ー1952年)


新聞によると、今日の昼の12時頃、カフェロイヤル(Cafe Royal → 2014年11月30日付ブログで紹介済)の外のリージェントストリート(Regent Street)の路上において、ホームズは、ステッキを持った二人組の暴漢に襲われたのだった。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号 / 3月号に掲載された挿絵(その6)-
1902年9月6日の昼の12時頃、
カフェロイヤル前のリージェントストリートの路上において、
アデルバート・グルーナー男爵が放った二人組の暴漢に襲撃される。
ホームズは、ステッキで応戦するものの、
頭部と身体に大怪我を負ってしまう。

挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(1886年ー1952年)


リージェントストリート沿いのカフェロイヤルの入口 -
大改装のため、カフェ・ロイヤルは2008年12月に一旦閉鎖され、
約4年間の改装工事を経て、
2012年12月に5つ星ホテルとして新しく生まれ変わり、現在に至っている。
<筆者撮影>


ホームズを襲撃した二人組の暴漢は、カフェロイヤルの中を通り、裏のグラスハウスストリート(Glasshouse Street → 2025年7月10日付ブログで紹介済)へ抜け出ると、周囲の人達の目をかわして逃走した模様。


現在、カフェロイヤルの裏口は、バーの入り口になっており、
ホームズを襲撃した二人組の暴漢は、ここからグラスハウスストリートへと抜け出て、
何処かへ逃走したのである。-
左奥へと延びる通りがグラスハウスストリートで、
右斜め奥へと延びる通りがエアーストリート(Air Street)。
<筆者撮影>


二人組の暴漢にステッキで打たれて、頭部と身体に大怪我を負ったホームズは、チャリングクロス病院(Charing Cross Hospital → 2014年12月6日付ブログで紹介済)へ搬送されたものの、自宅であるベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)へ運ぶよう、主張した、とのこと。


チャリングクロス病院の建物は、現在、
チャリングクロス警察署(Charing Cross Police Station)として使用されている。
<筆者撮影>


新聞記事に目を通すや否や、ワトスンは、馬車に飛び乗って、ベイカーストリート221B へと急行する。

その後、ホームズは、怪我から順調に回復していくが、二人組の暴漢を放ったと思われるアデルバート・グルーナー男爵を油断させるため、怪我は重症で瀕死の状態にあるように見せかけた。


画面中央に見える建物が、セントジェイムズスクエア14番地に該るロンドン図書館である。
<筆者撮影>


3日後の金曜日に、アデルバート・グルーナー男爵が渡米することを知ったホームズの依頼に応じて、セントジェイムズスクエア(St. James’s Square → 2014年12月7日付ブログで紹介済)のロンドン図書館(London Library  → 2014年12月7日付ブログで紹介済)まで赴き、友人で副司書(sub-librarian)であるローマックス(Lomax)から分厚い本を借り出して、中国磁器に関する猛勉強をしたワトスンは、ホームズから渡された明朝の本物の薄手磁器(サー・ジェイムズ・デマリー大佐が匿名の依頼人から借り受けたもの)を携え、「ヒル・バートン博士(Dr. Hill Barton)」の名刺をポケットに入れると、ベイカーストリート221B から馬車でキングストン(Kingston)近くのヴァーノンロッジ(Vernon Lodge)へと向かった。

そして、午後8時半に、アデルバート・グルーナー男爵を訪ねたワトスンは、明朝の薄手磁器を見せると、グルーナー男爵は、感に耐えない様子を見せた。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号 / 3月号に掲載された挿絵(その7)-
シャーロック・ホームズの依頼に応じて、
中国磁器に関する猛勉強をしたジョン・H・ワトスンは、
ホームズから渡された明朝の本物の薄手磁器
サー・ジェイムズ・デマリー大佐が匿名の依頼人から借り受けたもの)を手にして、
「ヒル・バートン博士」の名刺をポケットに入れると、
ベイカーストリート221B から
馬車でキングストン(Kingston)近くのヴァーノンロッジへと向かった。
そして、午後8時半に、アデルバート・グルーナー男爵を訪ねたワトスンは、
明朝の薄手磁器を見せると、グルーナー男爵は、感に耐えない様子を見せた。
挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(1886年ー1952年)


「あなたのことを確かめるために、少し質問しても宜しいですか?博士、もしあなたが本当に博士ならですが、私としては、この件はますます怪しくなってきたと申し上げざるを得ません。聖武天皇について御存知のこと、そして、聖武天皇が奈良の正倉院とどう言った関係にあるのかを、あなたにお伺いできますか?おやおや、随分とお困りのようですね?北魏王朝について、少しお話し願えますか?それと、陶磁器の歴史における北魏王朝の位置付けに関しても、どうですか?」


‘Might I ask you a few questions to test you? I am obliged to tell you, doctor - if you are indeed a doctor - that the incident becomes more and more suspicious. I would ask you what do you know of the Emperor Shomu and how do you associate him with the Shoso-in near Nara? Dear me, does that puzzle you? Tell me a little about the Northern Wei dynasty and its place in the history of ceramics?’ 


ワトスンに対するアデルバート・グルーナー男爵の質問の中に出てきた「正倉院(Shoso-in)」は、奈良県(Nara Prefecture)奈良市(Nara City)の東大寺(Todai-ji Temple)大仏殿の北西に位置する校倉造の高床式倉庫である。

正倉院は、第45代天皇である聖武天皇(Emperor Shomu:701年ー756年 在位期間:724年ー749年)/ 光明皇后(Empress Komyo:701年ー760年)所縁の品を含む天平文化を中心とした美術工芸品を数多く所蔵していた建物で、1997年に国宝に指定された後、翌年の1998年には、「古都奈良の文化財」の一部として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。


                                                

2025年8月18日月曜日

ロンドン バークリーホテル(Berkeley Hotel)- その2

バークリーホテルの建物正面(その1)-
バークリーホテルは、現在、以前のメイフェア地区から
ナイツブリッジ地区(Knightsbridge)へ移転済で、
ナイツブリッジ通り(Knightsbridge)から南へ下ったウィルトンプレイス(Wilton Place)で営業中。
ホテル正面玄関には、バークリーホテルであることを示す表示は全くない。
<筆者撮影>

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1946年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第16作目に該る「囁く影(He Who Whispers → 2025年8月2日 / 8月7日 / 8月8日 / 8月12日付ブログで紹介済)」において、歴史学者であるマイルズ・ハモンド(Miles Hammond - 35歳)の宿泊先のであるバークリーホテル(Berkeley Hotel)は、ロンドンの中心部にあるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)メイフェア地区(Mayfair)内に実在したホテルである。



その前身は、ピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)とバークリーストリート(Berkeley Street)の角に建っていた「グロースターコーヒーハウス(Gloucester coffee house)」と呼ばれた場所で、ロンドンから英国西部へ郵便物を運ぶ馬車の御者達の拠点となっていた。


バークリーホテルの建物正面(その2)
<筆者撮影>


その後、「グロースターコーヒーハウス」は、ロンドンから英国西部へ郵便物を運ぶ馬車の御者達、また、英国西部からロンドンへ郵便物を運ぶ馬車の御者達のホテルとして発展して行く。


ナイツブリッジ通りから
バークリーホテルの正面玄関を見たところ。
<筆者撮影>


鉄道の敷設に伴い、1897年、「グロースターコーヒーハウス」は、近くに所在するバークリースクエア(Berkeley Square → 2024年8月3日付ブログで紹介済) / バークリーストリートに因んで、その名前を「バークリーホテル(The Berkeley Hotel)」へ正式に変更。


ストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)の反対側から見た
サヴォイホテル
<筆者撮影>


ストランド通りに面したサヴォイホテルの玄関上部
<筆者撮影>


1889年にサヴォイホテル(Savoy Hotel → 2016年6月12日付ブログで紹介済)を創業して、1894年にはクラリッジズホテル(Claridge’s Hotel → 2014年12月31日付ブログで紹介済)を買い取った興行主/プロデューサーであるリチャード・ドイリー・カート(Richard D'Oyly Carte:1844年ー1901年)が、1900年にバークリーホテルを買収。


クラリッジズホテルの建物正面の外壁
<筆者撮影>


ブルックストリート(Brook Street → 2015年4月4日付ブログで紹介済)沿いに建つ
クラリッジズホテル
<筆者撮影>


その後、バークリーホテルは、1世紀以上に渡り、サヴォイグループ(The Savoy Group)の一員として営業を続けた。

1920年代に、バークリーホテルは、ロンドンで最初に空調設備を導入し、また、1930年代には、二重窓(double glazing)を装備。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ナイツブリッジ地区の地図を抜粋。

長年にわたって、ピカデリー通りとバークリーストリートの角で営業してきたバークリーホテルは、1972年、シティー・オブ・ウェストミンスター区ナイツブリッジ地区(Knightsbridge)内にあるウィルトンプレイス(Wilton Place)へ移転。


バークリーホテルの建物正面(その3)-
駐車スペースには、フェラーリ(Ferrari)やブガッティ(Bugatti)等の車が並んでいる。
<筆者撮影>


ニュージーランド出身の英国人であるエドワード・ブライアン・オルーク(Edward Brian O’Rorke:1901年ー1974年)は、建築家として、オリジナルの建物外観維持に努めた。その際、屋上にスイミングプールを備え、それは、ロンドン内のホテルの中で、バークリーホテルだけだった。


ウィルトンプレイスの南側から北方面を見たところ -
画面奥で左右に延びる通りは、ナイツブリッジ通り。
<筆者撮影>


2005年に、サヴォイホテル、クラリッジズホテルやバークリーホテル等を含むサヴォイグループは、アイルランドの投資家によって買収され、現在は、メイボーンホテルグループ(Maybourne Hotel Group)に編入されている。


          

2025年8月17日日曜日

ロンドン バークリーホテル(Berkeley Hotel)- その1

バークリーホテルの建物正面 -
バークリーホテルは、現在、以前のメイフェア地区から
ナイツブリッジ地区(Knightsbridge)へ移転済で、
ナイツブリッジ通り(Knightsbridge)から南へ下ったウィルトンプレイス(Wilton Place)で営業中。
ホテル正面玄関には、バークリーホテルであることを示す表示は全くない。
<筆者撮影>


米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1946年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第16作目に該る「囁く影(He Who Whispers → 2025年8月2日 / 8月7日 / 8月8日 / 8月12日付ブログで紹介済)」では、1945年6月1日(金)の夜、ソーホー地区(Soho)内のベルトリングレストラン(Beltring’s Restaurant)において開催される予定だった「殺人クラブ(Murder Club)」の晩餐会に講演者として呼ばれてたジョルジュ・アントワーヌ・リゴー教授(Professor Georges Antoine Rigaud - エディンバラ大学(Edinburgh University)のフランス文学(French Literature)の教授)から、歴史学者であるマイルズ・ハモンド(Miles Hammond - 35歳)とフリートストリート(Fleet Street → 2014年9月21日付ブログで紹介済)にある新聞社の記者であるバーバラ・モレル(Barbara Morell - 26歳):フリートストリート(Fleet Street → 2014年9月21日付ブログで紹介済)の2人は、約6年前の1939年8月12日に、フランスのシャルトル(Chartres - パリから60㎞ 程南方に位置)郊外で実際に起きた「塔の上の殺人事件」と言う不可思議な話を聞かされる。


大英図書館(British Library → 2014年5月31日付ブログで紹介済)から
2023年に出版された
ジョン・ディクスン・カー作「囁く影」の表紙
(Front cover : Mary Evans Picture Library)


ウール川(River Eure)を間に挟んで、ボールガー荘(Beauregard)の向こう側に残る古城の廃墟の一部である「ヘンリー4世の塔(la Tour d’Henri Quarte / the tower of Henry the Fourth)」と呼ばれる古い塔の上で、仕込み杖の剣で刺されて殺されたハワード・ブルック(Howard Brooke - 皮革製造業(leather manufacture)のペルティエ社(Pelletier et Cie.)を営む英国人の大富豪 / 50歳)の息子であるハリー・ブルック(Harry Brooke - 20台半ば)は、第二次世界大戦(1939年ー1945年)に出兵して、戦死した模様とのことだった。


ナイツブリッジ通りに面した建物入口側のホテル名表示
<筆者撮影>


マイルズ・ハモンドとバーバラ・モレルの2人は、ベルトリングレストランを一緒に出ると、タクシーに相乗りする。

セントジョンズウッド地区(St. John’s Wood → 2014年8月7日付ブログで紹介済)へ帰宅するバーバラ・モレルを地下鉄ピカデリーサーカス駅(Piccadilly Circus Tube Station)で降ろすと、マイルズ・ハモンドは、宿泊先のバークリーホテル(Berkeley Hotel)に戻る。


ナイツブリッジ通り沿いの街灯に掛けられた垂れ幕
<筆者撮影>

With a grind of gears into neutral, with the hush of tyres erratically of Piccadilly Circus from the mouth of Shaftesbury Avenue, murmurous and shuffling with a late crowd. Instantly Barbara was across the cab and outside on the pavement.

“Don’t get out!’ she insisted, backing away. ‘I can go straight home in the Underground from here. And the taxi’s going your way in any case - Berkeley Hotel!’ she called to the driver.

The door slammed just before eight American G.I.’s, in three different parties, bore down simultaneously on the cab. Against the gleam of a lighted window Miles caught a glimpse of Barbara’ face, smiling brightly and tensely and unconvincingly in the crowd as the taxi moved away.

(中略)

His taxi dropped him at the Piccadilly entrance to the Berkeley: he paid the driver in an expansive mood. Seeing that the lounge inside was still pretty well filled at its little round tables, Miles, with his passionate hatred of crowds, deliberately walked round to the Berkeley Street entrance so that he might breathe solitude a little longer. The rain was clearing away. A freshness tinged the air. Miles pushed through the revolving doors into the little foyer, with the reception desk on his right.


ナイツブリッジ通りに面した
バークリーホテルの建物外壁(北側)
<筆者撮影>


歴史学者のマイルズ・ハモンドが宿泊しているバークリーホテル(Berkeley Hotel)は、ロンドンの中心部にあるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)メイフェア地区(Mayfair)内に実在したホテルである。


ウィルトンプレイスに面した
バークリーホテルの建物外壁(南側)
<筆者撮影>

バークリーホテルの前身は、「グロースターコーヒーハウス(Gloucester coffee house)」と呼ばれた場所で、ピカデリーライン(Piccadilly Line)とベイカールーライン(Bakerloo Line)の2線が乗り入れる地下鉄ピカデリーサーカス駅(Piccadilly Circus Tube Station)とピカデリーラインが停まる地下鉄ハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Station → 2015年6月14日付ブログで紹介済)を東西に結ぶ約1マイルの幹線道路であるピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)と同通りとバークリースクエア(Berkeley Square → 2024年8月3日付ブログで紹介済)を南北に結ぶバークリーストリート(Berkeley Street)の角に建っていた。

「グロースターコーヒーハウス」は、ロンドンから英国西部へ郵便物を運ぶ馬車の御者達の拠点となっていた。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
メイフェア地区の地図を抜粋。


画面手前を左右に延びる通りがピカデリー通りで、
画面右手に建つビルとの間に延びる通りがバークリーストリート。
従って、画面中央に建つビルの場所に、
移転前のバークリーホテルがあったものと思われる。
<筆者撮影>


その後、「グロースターコーヒーハウス」は、ロンドンから英国西部へ郵便物を運ぶ馬車の御者達、また、英国西部からロンドンへ郵便物を運ぶ馬車の御者達のホテルとして発展して行く。

鉄道の敷設に伴い、1897年、「グロースターコーヒーハウス」は、近いに所在するバークリースクエア / バークリーストリートに因んで、その名前を「バークリーホテル(The Berkeley Hotel)」へ正式に変更。