2025年8月19日火曜日

奈良(Nara) 正倉院(Shoso-in)- その1

大英博物館(British Museum → 2014年5月26日付ブログで紹介済)の
Room 92 - 94 (The Mitsubishi Corporation Japanese Galleries) に展示されている
東大寺大仏殿の写真と説明
<筆者撮影>


サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)が、シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、50番目に発表した作品「高名な依頼人(The Illustrious Client → 2025年6月18日 / 6月23日 / 6月27日 / 7月5日 / 7月7日付ブログで紹介済)」の場合、1902年9月3日の午後4時半に、サー・ジェイムズ・デマリー大佐(Colonel Sir James Damery)が、非常に繊細かつ重要な相談事のため、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)を訪れるところから、物語が始まる。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号 / 3月号に掲載された挿絵(その2)-
1902年9月3日の午後4時半に、ベイカーストリート221Bを訪れた
サー・ジェイムズ・デマリー大佐は、
待っていたシャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンに対して、
「ド・メルヴィル将軍の娘であるヴァイオレット・ド・メルヴィルが、
悪名高いオーストリア貴族のグルーナー男爵に騙されて、婚約してしまった。
これは、ある非常に高名な方からの依頼で、この婚約を破棄させてほしい。」と説明した。
画面左側から、シャーロック・ホームズ、ジョン・H・ワトスン、
そして、サー・ジェイムズ・デマリー大佐。
挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(Howard Keppie Elcock:1886年ー1952年)


サー・ジェイムズ・デマリー大佐経由、匿名の人物からの依頼を受けたホームズは、同年9月4日の午後5時半に、ロンドンの裏社会に通じた情報屋で、ホームズの協力者であるシンウェル・ジョンスン(Shinwell Johnson)から紹介されたキティー・ウィンター(Kitty Winter - オーストリアの貴族であるアデルバート・グルーナー男爵(Baron Adelbert Gruner)の元愛人で、被害者)を連れて、ド・メルヴィル将軍(General de Merville)とヴァイオレット・ド・メルヴィル(Violet de Merville)嬢が住むバークリースクエア104番地(104 Berkeley Square → 2014年11月29日付ブログで紹介済)を訪問した。


バークリースクエアガーデンズ(Berkeley Square Gardens)の内部 -
なお、シャーロック・ホームズとキティー・ウィンターが訪ねた
ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢の住まいであるバークリースクエア104番地は架空の住所であり、
同スクエアには3桁の番地は存在していない。
<筆者撮影>


しかしながら、ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢は、ホームズによる説得、そして、キティー・ウィンターによる暴露にも、全く聞く耳を持たず、アデルバート・グルーナー男爵に対する妻殺害疑惑を濡れ衣だと思い込んでいる彼女の態度は非常に頑なで、残念ながら、アデルバート・グルーナー男爵との結婚を思いとどませることは、不調に終わってしまう。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号 / 3月号に掲載された挿絵(その4)-
シャーロック・ホームズは、
彼の協力者である情報屋のシンウェル・ジョンスンから紹介されたキティー・ウィンターを伴って、
1902年9月4日の午後5時半に、
バークリースクエア104番地に住む
ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢の元を訪れた。
生憎と、
ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢の態度は頑なで、
ホームズ達の説得には、全く耳を傾けず、
ホームズの計画は不調に終わってしまった。
画面左側から、シャーロック・ホームズ、キティー・ウィンター、
そして、
ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢。
挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(1886年ー1952年)


その日の夜、ストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)のレストラン(シンプソンズ(Simpson’s → 2014年11月23日付ブログで紹介済)だと思われる)において、本業の医師の仕事を終えたジョン・H・ワトスンと一緒に食事をしたホームズは、ワトスンに対して、「こちらが次の一手を指す前に、向こうが次の一手を打ってくる可能性がありうる。(it is possible that the next move may lie with them rather than with us.)」と告げる。


ローストビーフが有名なシンプソンズは、
ストランド通り沿いに立っている。
<筆者撮影>


2日後の夕方、ホームズの読みは、悪い方に的中した。

ワトスンが、グランドホテル(Grand Hotel)とチャリングクロス駅(Charing Cross Station → 2014年9月20日付ブログで紹介済)の間で、夕刊紙の売り子が持つ新聞見出しを見て、暫し呆然と立ち尽くす。そこには、黄色の地に黒色の文字で、次のように書かれていた。


ストランド通りに面しているチャリングクロス駅の正面
<筆者撮影>


「シャーロック・ホームズ氏が暴漢の襲撃に遭う!(Murderous Attack upon Sherlock Holmes)」と...


英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号 / 3月号に掲載された挿絵(その5)-
本業の医師の仕事で外出していたジョン・H・ワトスンは、
チャリングクロス駅の近くで、

夕刊紙の売り子が持つ新聞の見出し

「シャーロック・ホームズ氏が暴漢の襲撃に遭う!を見て、

暫し呆然と立ち尽くすのであった。

挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(1886年ー1952年)


新聞によると、今日の昼の12時頃、カフェロイヤル(Cafe Royal → 2014年11月30日付ブログで紹介済)の外のリージェントストリート(Regent Street)の路上において、ホームズは、ステッキを持った二人組の暴漢に襲われたのだった。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号 / 3月号に掲載された挿絵(その6)-
1902年9月6日の昼の12時頃、
カフェロイヤル前のリージェントストリートの路上において、
アデルバート・グルーナー男爵が放った二人組の暴漢に襲撃される。
ホームズは、ステッキで応戦するものの、
頭部と身体に大怪我を負ってしまう。

挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(1886年ー1952年)


リージェントストリート沿いのカフェロイヤルの入口 -
大改装のため、カフェ・ロイヤルは2008年12月に一旦閉鎖され、
約4年間の改装工事を経て、
2012年12月に5つ星ホテルとして新しく生まれ変わり、現在に至っている。
<筆者撮影>


ホームズを襲撃した二人組の暴漢は、カフェロイヤルの中を通り、裏のグラスハウスストリート(Glasshouse Street → 2025年7月10日付ブログで紹介済)へ抜け出ると、周囲の人達の目をかわして逃走した模様。


現在、カフェロイヤルの裏口は、バーの入り口になっており、
ホームズを襲撃した二人組の暴漢は、ここからグラスハウスストリートへと抜け出て、
何処かへ逃走したのである。-
左奥へと延びる通りがグラスハウスストリートで、
右斜め奥へと延びる通りがエアーストリート(Air Street)。
<筆者撮影>


二人組の暴漢にステッキで打たれて、頭部と身体に大怪我を負ったホームズは、チャリングクロス病院(Charing Cross Hospital → 2014年12月6日付ブログで紹介済)へ搬送されたものの、自宅であるベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)へ運ぶよう、主張した、とのこと。


チャリングクロス病院の建物は、現在、
チャリングクロス警察署(Charing Cross Police Station)として使用されている。
<筆者撮影>


新聞記事に目を通すや否や、ワトスンは、馬車に飛び乗って、ベイカーストリート221B へと急行する。

その後、ホームズは、怪我から順調に回復していくが、二人組の暴漢を放ったと思われるアデルバート・グルーナー男爵を油断させるため、怪我は重症で瀕死の状態にあるように見せかけた。


画面中央に見える建物が、セントジェイムズスクエア14番地に該るロンドン図書館である。
<筆者撮影>


3日後の金曜日に、アデルバート・グルーナー男爵が渡米することを知ったホームズの依頼に応じて、セントジェイムズスクエア(St. James’s Square → 2014年12月7日付ブログで紹介済)のロンドン図書館(London Library  → 2014年12月7日付ブログで紹介済)まで赴き、友人で副司書(sub-librarian)であるローマックス(Lomax)から分厚い本を借り出して、中国磁器に関する猛勉強をしたワトスンは、ホームズから渡された明朝の本物の薄手磁器(サー・ジェイムズ・デマリー大佐が匿名の依頼人から借り受けたもの)を携え、「ヒル・バートン博士(Dr. Hill Barton)」の名刺をポケットに入れると、ベイカーストリート221B から馬車でキングストン(Kingston)近くのヴァーノンロッジ(Vernon Lodge)へと向かった。

そして、午後8時半に、アデルバート・グルーナー男爵を訪ねたワトスンは、明朝の薄手磁器を見せると、グルーナー男爵は、感に耐えない様子を見せた。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号 / 3月号に掲載された挿絵(その7)-
シャーロック・ホームズの依頼に応じて、
中国磁器に関する猛勉強をしたジョン・H・ワトスンは、
ホームズから渡された明朝の本物の薄手磁器
サー・ジェイムズ・デマリー大佐が匿名の依頼人から借り受けたもの)を手にして、
「ヒル・バートン博士」の名刺をポケットに入れると、
ベイカーストリート221B から
馬車でキングストン(Kingston)近くのヴァーノンロッジへと向かった。
そして、午後8時半に、アデルバート・グルーナー男爵を訪ねたワトスンは、
明朝の薄手磁器を見せると、グルーナー男爵は、感に耐えない様子を見せた。
挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(1886年ー1952年)


「あなたのことを確かめるために、少し質問しても宜しいですか?博士、もしあなたが本当に博士ならですが、私としては、この件はますます怪しくなってきたと申し上げざるを得ません。聖武天皇について御存知のこと、そして、聖武天皇が奈良の正倉院とどう言った関係にあるのかを、あなたにお伺いできますか?おやおや、随分とお困りのようですね?北魏王朝について、少しお話し願えますか?それと、陶磁器の歴史における北魏王朝の位置付けに関しても、どうですか?」


‘Might I ask you a few questions to test you? I am obliged to tell you, doctor - if you are indeed a doctor - that the incident becomes more and more suspicious. I would ask you what do you know of the Emperor Shomu and how do you associate him with the Shoso-in near Nara? Dear me, does that puzzle you? Tell me a little about the Northern Wei dynasty and its place in the history of ceramics?’ 


ワトスンに対するアデルバート・グルーナー男爵の質問の中に出てきた「正倉院(Shoso-in)」は、奈良県(Nara Prefecture)奈良市(Nara City)の東大寺(Todai-ji Temple)大仏殿の北西に位置する校倉造の高床式倉庫である。

正倉院は、第45代天皇である聖武天皇(Emperor Shomu:701年ー756年 在位期間:724年ー749年)/ 光明皇后(Empress Komyo:701年ー760年)所縁の品を含む天平文化を中心とした美術工芸品を数多く所蔵していた建物で、1997年に国宝に指定された後、翌年の1998年には、「古都奈良の文化財」の一部として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。


                                                

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