2024年7月5日金曜日

ヘンリー7世(Henry VII)

ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
ヘンリー7世の肖像画の葉書
(Unknown Netherlandish artist / 1505年 / Oil on panel
425 mm x 305 mm) 


1485年8月22日に、ボズワースの戦い(Battle of Bosworth)において、ヨーク朝(House of York)の第3代イングランド王であるリチャード3世(Richard III:1452年-1485年 在位期間 1483年ー1485年 → 2023年10月9日 / 2024年6月14日付ブログで紹介済)を破り、テューダー朝(House of Tudor)の初代イングランド王として即位したのが、ヘンリー7世(Henry VII:1457年ー1509年 在位期間:1485年ー1509年)である。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
リチャード3世の肖像画の葉書
(Unknown artist / Late 16th century / Oil on panel
638 mm x 470 mm) 


「薔薇戦争(Wars of the Roses)」の第二次内乱(1469年ー1471年 → 2024年xx日付ブログで紹介済)の際、1471年5月4日:テュークスベリーの戦いにおいて、ランカスター朝(House of Lancaster)の第3代イングランド王であるヘンリー6世(Henry VI:1421年ー1471年 在位期間:1422年ー1461年)の王太子(Prince of Wales)であるエドワード・オブ・ウェストミンスター(Edward of Westminster:1453年ー1471年)が捕らえられ、処刑された。また、同年5月14日、既に捕らえていたヘンリー6世も殺害され、ランカスター家の王位継承権者は、ほぼ根絶やしとなった。

その結果、ランカスター家の血を引く最後の男子として、分家筋に該るリッチモンド伯爵ヘンリー・テューダー(Henry Tudor, Earl of Richmond)の存在が浮上してきたため、以降、ヨーク派から命を狙われるようになる。


リッチモンド伯爵ヘンリー・テューダーの父である初代リッチモンド伯爵エドマンド・テューダー(Edmund Tudor, 1st Earl of Richmond:1430年頃ー1456年)は、ヘンリー6世の異父弟であるが、王位継承権は、母のマーガレット・ボーフォート(Margaret Beaufort:1443年ー1509年)から来ている。


ランカスター家の分家筋として、


(1)プランタジネット朝(House of Plantagenet)の第7代イングランド王であるエドワード3世(Edward III:1312年ー1377年 在位期間:1327年ー1377年)

(2)エドワード3世の四男であるランカスター公爵ジョン・オブ・ゴーント(John of Gaunt, Duke of Lancaster:1340年ー1399年)

(3)初代サマセット伯爵ジョン・ボーフォート(John Beaufort, 1st Earl of Somerset:1371年頃ー1410年)

(4)初代サマセット公爵ジョン・ボーフォート(John Beaufort, 1st Duke of Somerset:1404年頃ー1444年)

(5)マーガレット・ボーフォート


そして、(6)リッチモンド伯爵ヘンリー・テューダーへと繋がっている。

詳しくは、別添の英国王室系図を御参照下さい。


プランタジネット朝の第7代イングランド王であるエドワード3世の血を引く家柄である
ヨーク家の系図 -
英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2023年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

ジョセフィン・テイ作「時の娘(The Daughter of Time)」から抜粋。


ただし、初代サマセット伯爵ジョン・ボーフォートは、出生の時点において、私生児であり、後に両親が結婚した後、プランタジネット朝最後のイングランド王であるリチャード2世(Richard II:1367年ー1400年 在位期間:1377年ー1399年)により、嫡出子として認められた際、王位継承権を放棄させられていた。従って、初代サマセット伯爵ジョン・ボーフォートの子孫であるリッチモンド伯爵ヘンリー・テューダーの王位継承権については、疑義があったことになる。

更に、リッチモンド伯爵ヘンリー・テューダーは、女系の血筋であることもあって、疑問符が付されていたのである。


リッチモンド伯爵ヘンリー・テューダーは、少年時代の大部分を、ウェールズ(Wales)のハーレフ城(Harlech Castle)と亡命先のフランス北西部にあるブルターニュ(Bretagne)で過ごしている。

なお、ハーレフ城は、「薔薇戦争(Wars of the Roses → 2024年6月18日 / xx日 / xx日 / xx日付ブログで紹介済)」の第一次内乱(1459年ー1468年 → 2024年xx日付ブログで紹介済)時に、ランカスター派の拠点として、唯一残っていた拠点で、7年間にわたる包囲戦の末、1468年に降伏した結果、これを以って、薔薇戦争の第一次内乱は終結している。


ランカスター派の拠点として、唯一残っていた
ウェールズのハーレフ城 -
英国の Seven Dials, Cassel & Co が2000年に出版した
ポール・ジョンスン(Paul Johnson)著
「Castles of England, Scotland & Wales」(筆者所有)から抜粋。


リチャード2世によって、初代サマセット伯爵ジョン・ボーフォートの子孫の王位継承権は放棄させられていた関係上、薔薇戦争の第二次内乱(1469年ー1471年)を平定したヨーク朝の初代イングランド王であるエドワード4世(Edward VI:1442年ー1483年 在位期間:1461年-1483年 / ただし、1470年から1471年にかけて、数ヶ月間の中断あり)も、リッチモンド伯爵ヘンリー・テューダーの王位継承権を軽視しており、数回、彼の身柄の確保を試みる程度で済ましていた。


リッチモンド伯爵ヘンリー・テューダーの母であるマーガレット・ボーフォートは、初代リッチモンド伯爵エドマンド・テューダーが亡くなった後、ヨーク派で、エドワード4世次世時の要人の一人である初代ダービー伯爵トマス・スタンリー(Thomas Stanley, 1st Earl of Derby:1435年ー1504年)と再婚しており、息子に対する支持を固めていた。

また、1483年、マーガレット・ボーフォートは、息子とエリザベス・オブ・ヨーク(Elizabeth of York:1466年ー1503年)との婚約を成立させた。

なお、エリザベス・オブ・ヨークは、エドワード4世の長女、ヨーク朝の第2代イングランド王であるエドワード5世(Edward V:1470年ー1483年 在位期間:1483年4月10日ー同年6月25日 → 2023年10月4日付ブログで紹介済)の姉で、リチャード3世の姪である。

詳しくは、別添の英国王室系図を御参照下さい。


プランタジネット朝の第7代イングランド王であるエドワード3世の血を引く家柄である
ランカスター家とヨーク家の系図 -
英国のプーシキン出版から
2023年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

ジョセフィン・テイ作「時の娘」から抜粋。


エリザベス・オブ・ヨークと婚約したリッチモンド伯爵ヘンリー・テューダーは、同年、イングランドに上陸しようとしたが、嵐のため、計画は失敗。

リッチモンド伯爵ヘンリー・テューダーは、再度、1485年8月、王位請求者として、フランスからランカスター派の拠点であるウェールズに上陸。

ヨーク派の国王リチャード3世軍とランカスター派のリッチモンド伯爵ヘンリー・テューダー軍は、同年8月22日、ボズワースの戦い(Battle of Bosworth)において、相まみえた。リチャード3世は、味方の裏切りもあって、孤軍奮戦するが、戦死した。


英国のロイヤルメールから2021年に発行された「薔薇戦争」の記念切手の1枚で、
同戦争の終結となる「ボズワースの戦い」
(1485年8月22日)が
描かれている


その結果、1485年8月22日、リッチモンド伯爵ヘンリー・テューダーは、テューダー朝(House of Tudor)の初代イングランド王ヘンリー7世として即位。続いて、同年10月30日に、戴冠式を挙行。

同年11月に開催された議会は、疑義が呈されていたヘンリー7世の王位継承権については、さほど詮索を行わず、ボズワースの戦いにおける勝利を「神の御意志」として見做し、即位の正当性を承認している。


英国のプーシキン出版から
2023年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

ジョセフィン・テイ作「時の娘」の表紙
(Cover design by Jo Walker)-
表紙左上の王冠は、1485年8月22日、
ボズワースの戦いにおいて、
孤軍奮闘するも、味方の裏切りもあって、戦死した
ヨーク朝(House of York)の第3代かつ最後のイングランド王である
リチャード3世を指している。
ボズワースの戦いでリチャード3世に勝利した
ランカスター派のリッチモンド伯爵ヘンリー・テューダーは、
テューダー朝の初代イングランド王ヘンリー7世として即位し、
ヨーク家からエリザベス・オブ・ヨークを王妃として迎える。
表紙左右の花は、テューダー家の徽章で、
ランカスター家の赤薔薇(外側)と
ヨーク家の白薔薇(内側)を合わせた形になっている。


翌年の1486年1月18日、ヘンリー7世は、ヨーク家系の王位継承権を有していたエリザベス・オブ・ヨークを王妃として迎える。

この結婚を以って、ヘンリー7世は、30年間にわたって内乱を繰り広げていたランカスター家とヨーク家の2つの王家を統合するとともに、ランカスター家の徽章である「赤薔薇」とヨーク家の徽章である「白薔薇」を組み合わせた「テューダーローズ(Tudor Rose - 「赤薔薇」が外側で、「白薔薇」が内側)」を用いるようになった。


フランスの画家であるポール・ドラローシュ(Paul Delaroche -
本名:イッポリト・ド・ラ・ローシュ(Hippolyte De La Roche)/ 1797年ー1856年)作
「ロンドン塔のエドワード5世とヨーク公
(Edward V and the Duke of York in the Tower)」(1831年)-
ロンドンのウォレスコレクション(Wallace Collection → 2014年6月15日付ブログで紹介済)で
筆者が購入した絵葉書から抜粋。


なお、ロンドン塔(Tower of London → 2018年4月8日 / 4月15日 / 4月22日付ブログで紹介済)に幽閉され、「塔の王子達(Princes in the Tower)」と呼ばれるエドワード5世と彼の弟である初代ヨーク公兼初代ノーフォーク公リチャード・オブ・シュルーズベリー(Richard of Shrewsbury, 1st Duke of York and 1st Duke of Norfolk:1473年ー1483年 → 2023年10月4日付ブログで紹介済)については、リチャード3世により殺害されたと一般には考えられているが、現在、王位継承権に疑義が呈されていたヘンリー7世によって殺害されたと言う説も有力である。


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