2024年6月28日金曜日

薔薇戦争(Wars of the Roses)- その3

英国のロイヤルメールから2021年に発行された「薔薇戦争」の記念切手の1枚で、
「エッジコートムーアの戦い」(1469年7月26日)が描かれている。


1455年5月22日、ロンドン北方のセントオールバンズ(St. Albans)において、「薔薇戦争(Wars of the Roses)」の火蓋が切って落とされた。

薔薇戦争は、プランタジネット朝(House of Plantagenet)の第7代イングランド王であるエドワード3世(Edward III:1312年ー1377年 在位期間:1327年ー1377年)の血を引く家柄であるランカスター家(House of Lancaster)とヨーク家(House of York)の間の権力闘争である。ランカスター家が「赤薔薇」を、そして、ヨーク家が「白薔薇」を徽章としていたため、現在、「薔薇戦争」と呼ばれているが、この命名は、後世のことである。


プランタジネット朝の第7代イングランド王であるエドワード3世の血を引く家柄である
ランカスター家とヨーク家の系図 -
英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2023年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

ジョセフィン・テイ作「時の娘」から抜粋。


「第1次セントオールバンズの戦い(First Battle of St. Albans)」が契機となり、以後30年間にわたって、ランカスター家とヨーク家の間の内戦が、イングランド各地で繰り広げられrるが、「薔薇戦争」は、以下の3つの期に分けられる。


*第一次内乱(1459年ー1468年)

*第二次内乱(1469年ー1471年)

*第三次内乱(1485年)


今回は、「第二次内乱」について、述べる


プランタジネット朝の第7代イングランド王であるエドワード3世の血を引く家柄である
ヨーク家の系図 -
英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2023年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

ジョセフィン・テイ作「時の娘」から抜粋。


第3代ヨーク公リチャード・プランタジネット(Richard Plantagenet, 3rd Duke of York:1411年ー1460年)の長男をヨーク朝の初代イングランド王であるエドワード4世(Edward VI:1442年ー1483年 在位期間:1461年-1483年 / ただし、1470年から1471年にかけて、数ヶ月間の中断あり)として擁立することの立役者となった母方の従兄に該る実力者であるウォーリック伯爵リチャード・ネヴィル(Richard Neville, Earl of Warwick:1428年-1471年)は、父親の領地を相続した上に、没収されたランカスター派貴族の領地も与えられて、イングランド最大の土地所有者になっていた。

また、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルは、五港長官職とカレー(Calais)守備隊司令職も与えられた。

上記のように、大躍進を遂げたウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルは、親仏派の立場を取り、フランス(ヴァロワ朝)の王であるルイ11世(Louis XI:1423年ー1483年 在位期間:1461年ー1483年)との間で、エドワード4世とフランス王族の縁組交渉を進めていた。


ところが、


(1)エドワード4世は、1464年5月1日に、ランカスター派騎士の未亡人であるエリザベス・ウッドヴィル(Elizabeth Woodville:1437年頃ー1492年)と、密かに身分違いの結婚をした。その後、エドワード4世は、この結婚を「覆せない事柄」として公表したため、彼とフランス王族の縁組交渉を進めていたウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルは、破談で面目が丸潰れになった。そのため、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルは、エドワード4世と激しく対立するようになる。


(2)

また、エドワード4世は、独断専行で、妻エリザベス・ウッドヴィルの父と多くの弟妹達に対して、爵位や官職を授与したり、貴族との政略結婚を盛んに行ったりした。このように、エドワード4世がウッドヴィル一族を重用したために、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルを初めとするネヴィル家や他の貴族達の怒りを買ってしまう。


(3)

更に、エドワード4世は、フランス国王との同盟ではなく、ブルゴーニュ公シャルル(Charles de Valois-Bourgogne:1433年ー1477年)に、妹のマーガレット・オブ・ヨーク(Margaret of York:1446年ー1503年)を嫁がせて、同盟を結んだため、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルが進めようとしていた外交政策とは大きく相違することになった。


その結果、1469年4月に、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルは、エドワード4世の弟である初代クラレンス公爵ジョージ・プランタジネット(George Plantagenet, 1st Duke of Clarence;1449年ー1478年)と一緒に、エドワード4世に対する反逆を開始する。

初代クラレンス公爵ジョージ・プランタジネットは、兄であるエドワード4世の意に反して、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルの娘であるイザベル・ネヴィル(Isabel Neville:1451年ー1476年)と結婚していた。


第二次内乱時には、以下の会戦が行われている。


(1)1469年7月26日:エッジコートムーアの戦い(Battle of Edgecote Moor)→ ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィル軍が勝利


ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルは、カレーの軍勢を率いて、ケント州(Kent)に上陸。

ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルが扇動した反乱の鎮圧に、エドワード4世は赴くが、逆に、敗北して、捕らえられ、幽閉の憂き目に遭う。

ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルの権力掌握を支持する貴族は僅かであり、エドワード4世は、幽閉先からロンドンへと戻り、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルとの表面的な和解を行う。


(2)1470年3月12日:ルーズコートフィールドの戦い(Battle of Losecote Field)→ ヨーク派軍が勝利


リンカンシャー州(Lincolnshire)で発生した反乱の鎮圧のため、エドワード4世は、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルとは疎遠な者を選抜して、現地へと赴き、反乱軍を打ち破る。

捕らえられた首謀者は、「反乱は、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルと初代クラレンス公爵ジョージ・プランタジネットの教唆によるものだ。」と証言したため、両名は、反逆者と宣告され、フランスへ逃亡する羽目となった。


「第一次内乱(1459年ー1468年)」中、ランカスター朝の第3代イングランド王であるヘンリー6世(Henry VI:1421年ー1471年 在位期間:1422年ー1461年)の王妃マーガレット・オブ・アンジュー(Margaret of Anjou:1429年ー1482年)と王太子(Prince of Wales)のエドワード・オブ・ウェストミンスター(Edward of Westminster:1453年ー1471年)は、フランスへ既に亡命していた。

エドワード4世と彼の義弟となったブルゴーニュ公シャルルの同盟を警戒したフランス王のシャルル11世は、フランスへと逃亡して来たウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルに対して、マーガレット王妃との同盟を提案。シャルル11世の提案を受けて、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルとマーガレット王妃の間に、同盟が成立し、その証として、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルの娘アン・ネヴィル(Anne Neville:1456年ー1485年)とマーガレット王妃の王子エドワード・オブ・ウェストミンスターが結婚する運びとなった。


ランカスター派へと寝返ったウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルは、初代クラレンス公爵ジョージ・プランタジネットと一緒に、イングランド南西部のダートマス(Dartmouth → 2023年9月6日付ブログで紹介済)に上陸。ヨークシャー州(Yorkshire)での反乱鎮圧に向かったエドワード4世の隙を突き、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルは、1470年10月、ロンドンを奪い返し、幽閉されていたヘンリー6世を復位させた。

その後、ロンドンから北上するウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルに背後を突かれたエドワード4世は、彼の義弟ブルゴーニュ公シャルルの元へ亡命したため、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルは、エドワード4世を国外へと追いやることに成功。


(3)1471年4月14日:バーネットの戦い(Battle of Barnet)→ ヨーク派軍が勝利


英国のロイヤルメールから2021年に発行された「薔薇戦争」の記念切手の1枚で、
「バーネットの戦い」(1471年4月14日)が描かれている。

義弟ブルゴーニュ公シャルルの資金援助を受けたエドワード4世は、1471年3月15日、ヨークシャー州の海岸に上陸し、支持者の軍勢を編成すると、ロンドンへ向けて南下。これに、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルのことを見限った初代クラレンス公爵ジョージ・プランタジネットも合流。

同年4月11日、エドワード4世軍は、ロンドンへと入城して、ヘンリー6世を捕らえる。

同年4月14日、エドワード4世軍とウォーリック伯爵リチャード・ネヴィル軍は、バーネット(Barnet)にて対峙。深い霧のため、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィル軍は、同士討ちを演じて、総崩れとなった。結果として、エドワード4世軍の勝利に終わり、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルは敗死。


(4)1471年5月4日:テュークスベリーの戦い(Battle of Tewkesbury)→ ヨーク派軍が勝利


英国のロイヤルメールから2021年に発行された「薔薇戦争」の記念切手の1枚で、
「テュークスベリーの戦い」(1471年5月4日)が描かれている。

マーガレット王妃とエドワード・オブ・ウェストミンスターが率いる軍は、バーネットの戦いの数日前に、イングランドに上陸したものの、同戦いには間に合わなかった。

1471年5月4日、テュークスベリー(Tewkesbury)において、両軍は会戦し、マーガレット王妃とエドワード・オブ・ウェストミンスターは捕らえられた。同日、エドワード・オブ・ウェストミンスターは、処刑された。

続いて、同年5月14日、既に捕らえていたヘンリー6世も殺害され、ランカスター家の王位継承権者は、ほぼ根絶やしとなった。

マーガレット王妃は、ロンドン塔(Tower of London → 2018年4月8日 / 4月15日 / 4月22日付ブログで紹介済)に幽閉。5年後にフランス王のシャルル11世が身代金を支払ったため、フランスへ帰国するものの、アンジュー家領の相続権を全て剥奪されて、失意と貧窮の中、1482年に亡くなった。


「薔薇戦争」の第二次内乱は、ここに終結。 


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