2024年6月27日木曜日

ロジャー・スカーレット作「猫の足」(Cat’s Paw by Roger Scarlett)- その2

米国の Penzler Publishers 社から
American Mystery Classics シリーズの1冊として
2022年に出版された
ロジャー・スカーレット作「猫の足」の裏表紙
< Cover Image : Andy Ross
           Cover Design : Mauricio Diaz >


イヴリン・ペイジ(Evelyn Page:1902年ー1977年)とドロシー・ブレア(Dorothy Blair:1903年ー1976年)と言う女性2人のペンネームである米国の推理作家であるロジャー・スカーレット(Roger Scarlett)の第3作目である「猫の足(Cat’s Paw)」(1931年)は、以下の4つのパートに分かれている。


(1)「Prologue : The Question」

(2)「Part I : The Evidence」

(3)「Part II : The Case」

(4)「Part III : The Solution」


これは、ロジャー・スカーレットによる他の4作である


*「ビーコン街の殺人(The Beacon Hill Murders)」(1930年)

*「白魔(Back-Bay Murder Mystery)」(1930年)

*「エンジェル家の殺人(Murder Among the Angells → 2024年4月2日 / 4月5日 / 4月8日付ブログで紹介済)」(1932年)

*「ローリング邸の殺人(In the First Degree)」(1933年)


とは、異なる構成を採っている。


(1)「Prologue : The Question」- 現在、休暇中であるボストン(Boston)警察の犯罪捜査部(Bureau of Criminal Investigation)のノートン・ケイン警部(Inspector Norton Kane)からの依頼を受けて、弁護士で、事件の記録者であるアンダーウッド(Mr. Underwood)が、グリーンノー家(Greenough family)で発生した事件の記録を取りまとめると言う物語の導入部が描かれる。


(2)「Part I : The Evidence」- グリーンノー家において、事件が発生するまでの経緯が描かれる。


(3)「Part II : The Case」- 事件発生後、モラン巡査部長(Sergeant Moran)が現場に到着して、休暇中のノートン・ケイン警部に代わって、捜査を進める過程が描かれる。


(4)「Part III : The Solution」- 休暇から戻ったノートン・ケイン警部が、アンダーウッドが取りまとめた事件記録やモラン巡査部長による捜査記録等に基づいて、事件を解決する過程が描かれる。


(1)「Prologue : The Question」


弁護士で、事件の記録者であるアンダーウッドは、36時間前に、ボストン警察の犯罪捜査部のノートン・ケイン警部から、電報を受け取る。ノートン・ケイン警部は、現在、休暇中で、ボストンへと戻る船上に居た。

ノートン・ケイン警部は、アンダーウッドに対して、「ボストン警察に連絡をとって、グリーンノー家で発生した事件の記録を全て取りまとめてほしい。」と依頼してきたのである。

ノートン・ケイン警部からの電報を受け取ったアンダーウッドは、早速、作業に取り掛かる。そして、6月19日の夜、ボストンへと戻って来たノートン・ケイン警部に、アンダーウッドは、グリーンノー家で発生した事件の詳細について、語り始めるのであった。


(2)「Part I : The Evidence」


物語は、1931年6月13日、大富豪のマーティン・グリーンノー(Martin Greenough)が住むボストンのフェンウェイ屋敷(Fenway estate)と呼ばれるゴシック建築の広大な邸宅から始まる。

マーティン・グリーンノーは、75歳の誕生日を迎えようとしていた。


2024年6月26日水曜日

ロンドン ベッドフォードスクエア(Bedford Square)- その2

ベッドフォードスクエアの南東の角から
ゴウアーストリート沿いのスクエアの東側を見たところ

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)作「白昼の悪魔(Evil Under the Sun → 2024年6月8日 / 6月12日付ブログで紹介済)」(1941年)では、デヴォン州(Devon)の密輸業者島(Smugglers’ Island)の Pixy Cove において殺害された元女優のアリーナ・マーシャル(Arlena Marshall)の弁護士事務所 Barkett, Markett & Applegood が、ロンドンの中心部であるロンドン・カムデン特別区(London Borugh of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内にあるベッドフォードスクエア(Bedford Square)に所在すると記載されている。当然のことながら、Barkett, Markett & Applegood は、架空の弁護士事務所であるが、ベッドフォードスクエアは、実在の場所である。


ベッドフォードスクエアは、1775年から1783年にかけて開発された。

英国の建築家であるトーマス・エヴァートン(Thomas Leverton:1743年頃ー1824年)が、ベッドフォードスクエアに面する建物の多くを設計している。

ベッドフォードスクエアの名前は、同スクエアを含むブルームズベリー地区の土地を所有していたラッセル家(Russell family)のタイトルであるベッドフォード公爵(Duke of Bedford)に因んで、名付けられた。


ベッドフォードスクエアの南西の角から
スクエア中央の庭園を見たところ

ベッドフォードスクエア内には、上流階級や中流階級が住み、同スクエアに住んでいた著名人として、英国の法廷弁護士 / 政治家である初代エルドン伯爵ジョン・スコット(John Scott, 1st Earl of Eldon:1751年ー1838年)が挙げられる。


ベッドフォードスクエア6番地の建物(その1)

ベッドフォードスクエア6番地の建物(その2)

ベッドフォードスクエア6番地の建物(その3)

初代エルドン伯爵ジョン・スコットは、1801年から1806年まで、そして、1807年から1827年までの間、大法官(Lord Chancellor)を務めている。また、彼は、ベッドフォードスクエア6番地(6 Beford Square)に住んでいたので、同番地の建物の外壁に、「初代エルドン伯爵ジョン・スコットが、ここに住んでいた」ことを示すプラークが架けられている。


ベッドフォードスクエア13番地

ベッドフォードスクエア35番地

ベッドフォードスクエア40番地

ベッドフォードスクエア41番地

ベッドフォードスクエア48番地

ベッドフォードスクエア49番地


初代エルドン伯爵ジョン・スコット以外にも、多くの著名人がベッドフォードスクエアに住んでいたため、現在、建物の外壁に、多くのプラークが架けられている。


ベッドフォードスクエア中央の庭園
(通常は、一般には解放されていない)

ベッドフォードスクエアに面して建つ住居の多くは、現在、オフィスへ改装されているが、ジョージ朝建築様式(Georgian architecture)による当時の建物の大部分が今も残っており、1番地ー10番地、11番地、12番地ー27番地、28番地ー38番地、そして、40番地ー54番地が「grade I listed buildings」に指定されている。




ベッドフォードスクエアの中央にある庭園については、通常、一般には解放されていないが、Open Garden Squares Weekend の場合のみ、一般に解放されている。


ベッドフォードスクエアは、
多くの観光客で賑わう大英博物館の近くであるものの、
週末でも、閑静な場所である。


ベッドフォードスクエアは、その東側を南北に延びるガウアーストリート(Gower Street)を間に挟んで、多くの観光客が訪れる大英博物館(British Museum → 2014年5月26日付ブログで紹介済)と隣り合っているものの、週末においても、中央の庭園を含む同スクエア内は、閑静な場所となっている。


2024年6月25日火曜日

デイヴィッド・ステュアート・デイヴィーズ作「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 殺しの操り人形」(The further adventures of Sherlock Holmes / The Instrument of Death by David Stuart Davies) - その2

英国の Titan Publishing Group Ltd. の Titan Books 部門から
2019年に出版された
デイヴィッド・ステュアート・デイヴィーズ作
「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 殺しの操り人形」の裏表紙


生まれてまもなく、母親を腸チフスで亡くしたグスタフ・カリガリ(Gustav Caligari)は、大学で外科手術を教えている父親のエメリック・カリガリ(Emeric Caligari)と2人で暮らしていた。

グスタフ・カリガリは、幼少期より身体が非常に大きい上に、陰気でサディスティックな性格で、同世代の子供達を虐めたり、小動物(猫等)や虫(蜘蛛等)を殺したりして、楽しんでいた。

その後、学校へ通い始めると、ひ弱で頭が良くない同級生達を陰で密かに虐め始めたが、陰湿な虐めが学校にばれて、グスタフ・カリガリは、放校される。父親のエメリック・カリガリは、息子のグスタフが人間の皮を被った「怪物」であることが判った。


放校後、グスタフ・カリガリの家庭教師として、数名が雇われたが、皆2ー3ヶ月で辞めてしまった。その中で、唯一残った家庭教師が、ハンス・ブルーナー(Hans Bruner)だった。

ハンス・ブルーナーが部屋に入って来た途端、グスタフ・カリガリは、「彼となら、うまくやっていける。」と感じた。ハンス・ブルーナーは、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe:1749年ー1832年)による詩「魔法使いの弟子(The Sorcerer’s Apprentice / ドイツ語:Der Zauberlehrling)」(1797年)に出てくる年老いた魔術師のようだった。


フランクフルトのゲーテハウス / ゲーテ博物館(Goethe Haus / Goethe Musem
→ 2017年11月18日 / 11月25日付ブログで紹介済)で購入した
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの絵葉書
「Goethe in Der Campagna」(1848) by Karl Bennert (1815 - 1885)


グスタフ・カリガリと家庭教師のハンス・ブルーナーは、勉学の方向性として、「魔術の歴史」に定めた。

ハンス・ブルーナーの教えを受ける中、グスタフ・カリガリは、他人を操り人形のようにコントロールする考えに、次第に取り憑かれていく。


グスタフ・カリガリがプラハ医学学校(Prague Medical School)の入学試験を受ける数ヶ月前に、家庭教師のハンス・ブルーナーに病が襲いかかった。医師によると、不治の病とのことだった。


ある年の秋の夕方、グスタフ・カリガリは、病んで床に就くハンス・ブルーナーの元を訪れた。

「旅立つ私、お別れをしに来たのかい?」と尋ねるハンス・ブルーナーに近寄ったグスタフ・カリガリは、ハンスの口を手で押さえると、老人の抵抗がなくなるまで抑え続けた。

これが、グスタフ・カリガリが犯した最初の殺人だった。


同じ年、グスタフ・カリガリは、プラハ医学学校を卒業するが、父親のエメリックが亡くなり、まとまった遺産を相続した。プラハに自分の診療所を開くのに、充分な資産だった。これで、彼は、医者になるとともに、殺人を続けることができるのである。


ところが、グスタフ・カリガリは、第2の殺人(老女)に失敗してしまう。

彼が今すべきことは、2つだった。

一つ目は、逮捕を免れるために、24時間以内にプラハを去ること。幸いなことに、「もしも」のために、以前から、彼は準備を進めていた。

二つ目は、次のステージへと進むこと。即ち、今後は、殺人を行う上で、自分と被害者の間に、別の人間を介在させること。つまり、家庭教師のハンス・ブルーナーから教えを受けた魔術の通り、他人を意のままに操って、殺人を犯させるのが、安全かつ確実な方法だと、グスタフ・カリガリは、理解したのである。


そして、グスタフ・カリガリは、プラハからロンドンへと向かった。 


2024年6月24日月曜日

薔薇戦争(Wars of the Roses)- その2

英国のロイヤルメール(Royal Mail)から2021年に発行された「薔薇戦争」の記念切手の1枚で、
「ノーサンプトンの戦い」(1460年7月10日)が描かれている。


1455年5月22日、ロンドン北方のセントオールバンズ(St. Albans)において、「薔薇戦争(Wars of the Roses)」の火蓋が切って落とされた。

薔薇戦争は、プランタジネット朝(House of Plantagenet)の第7代イングランド王であるエドワード3世(Edward III:1312年ー1377年 在位期間:1327年ー1377年)の血を引く家柄であるランカスター家(House of Lancaster)とヨーク家(House of York)の間の権力闘争である。ランカスター家が「赤薔薇」を、そして、ヨーク家が「白薔薇」を徽章としていたため、現在、「薔薇戦争」と呼ばれているが、この命名は、後世のことである。


プランタジネット朝の第7代イングランド王であるエドワード3世の血を引く家柄である
ランカスター家とヨーク家の系図 -
英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2023年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

ジョセフィン・テイ作「時の娘」から抜粋。


「第1次セントオールバンズの戦い(First Battle of St. Albans → 2024年6月18日付ブログで紹介済)」が契機となり、以後30年間にわたって、ランカスター家とヨーク家の間の内戦が、イングランド各地で繰り広げられrるが、「薔薇戦争」は、以下の3つの期に分けられる。


*第一次内乱(1459年ー1468年)

*第二次内乱(1469年ー1471年)

*第三次内乱(1485年)


今回は、「第一次内乱」について、述べる


「第1次セントオールバンズの戦い」に勝利した第3代ヨーク公リチャード・プランタジネット(Richard Plantagenet, 3rd Duke of York:1411年ー1460年)は、一旦、権力を掌握するものの、ランカスター朝の第3代イングランド王であるヘンリー6世(Henry VI:1421年ー1471年 在位期間:1422年ー1461年)の王妃マーガレット・オブ・アンジュー(Margaret of Anjou:1429年ー1482年)が率いるランカスター派が巻き返しを図り、ヨーク派は窮地に陥ったため、1459年に両派の戦いが再開。


第一次内乱時には、以下の会戦が行われている。


(1)1459年9月23日:ブロアヒースの戦い(Battle of Blore Heath)→ ヨーク派軍が勝利


(2)1459年10月12日:ラドフォードの戦い(Battle of Ludford)→ ランカスター派軍が勝利


(3)1460年7月10日:ノーサンプトンの戦い(Battle of Northampton)→ ヨーク派軍が勝利


「ノーサンプトンの戦い」に勝利した第3代ヨーク公リチャード・プランタジネットは、ヘンリー6世を捕らえて、イングランド王位を目前にする。


(4)1460年12月16日:ワークソップの戦い(Battle of Worksop)→ ランカスター派軍が勝利


(5)1460年12月30日:ウェイクフィールドの戦い(Battle of Wakefield)→ ランカスター派軍が勝利


英国のロイヤルメールから2021年に発行された「薔薇戦争」の記念切手の1枚で、
「ウェイクフィールドの戦い」(1460年12月30日)が描かれている。

スコットランドの援助を受けたマーガレット王妃の反撃により、「ウェイクフィールドの戦い」において、第3代ヨーク公リチャード・プランタジネットと次男のラトランド伯爵エドムンド・プランタジネット(Edmund Plantagenet, Earl of Rutland:1443年ー1460年)が戦死。


(6)1461年2月2日:モーティマーズクロスの戦い(Battle of Mortimer’s Cross)→ ヨーク派軍が勝利


(7)1461年2月17日:第二次セントオールバンズの戦い(Second Battle of St. Albans)→ ランカスター派軍が勝利


「第二次セントオールバンズの戦い」に圧勝したマーガレット王妃は、夫であるヘンリー6世の奪回に成功するが、ロンドンの占領には失敗。

その間に、第3代ヨーク公リチャード・プランタジネットの長男が、母方の従兄に該る実力者であるウォーリック伯爵リチャード・ネヴィル(Richard Neville, Earl of Warwick:1428年-1471年)と合流の上、ロンドンへと入城して、ヨーク朝の初代イングランド王であるエドワード4世(Edward VI:1442年ー1483年 在位期間:1461年-1483年 / ただし、1470年から1471年にかけて、数ヶ月間の中断あり)として即位。


(8)1461年3月28日:フェリーブリッジの戦い(Battle of Ferrybridge)→ ヨーク派軍が勝利


(9)1461年3月29日:タウトンの戦い(Battle of Towton)→ ヨーク派軍が勝利


英国のロイヤルメールから2021年に発行された「薔薇戦争」の記念切手の1枚で、
「タウトンの戦い」(1461年3月29日)が描かれている。

「タウトンの戦い」において、ヨーク派が大勝して、第一次内乱の勝敗は、この時点で決した。


(10)1464年4月25日:ヘッジリームーアの戦い(Battle of Hedgeley Moor)→ ヨーク派軍が勝利


(11)1464年5月15日:ヘクサムの戦い(Battle of Hexham)→ ヨーク派軍が勝利


1465年に、ヨーク派は、再度、ヘンリー6世を捕らえて、ロンドン塔(Tower of London → 2018年4月8日 / 4月15日 / 4月22日付ブログで紹介済)に幽閉。

また、イングランドとスコットランドの間の妥協が成立したため、マーガレット王妃と王太子(Prince of Wales)のエドワード・オブ・ウェストミンスター(Edward of Westminster:1453年ー1471年)は、フランスへと亡命。


ランカスター派の拠点として、唯一残っていた
ウェールズのハーレフ城 -
英国の Seven Dials, Cassel & Co が2000年に出版した
ポール・ジョンスン(Paul Johnson)著
「Castles of England, Scotland & Wales」(筆者所有)から抜粋。


ランカスター派の拠点として、唯一残っていたウェールズ(Wales)のハーレフ城(Harlech Castle)も、7年間にわたる包囲戦の末、1468年に降伏したため、「薔薇戦争」の第一次内乱は、ここに終結。 


2024年6月23日日曜日

ロジャー・スカーレット作「猫の足」(Cat’s Paw by Roger Scarlett)- その1

米国の Penzler Publishers 社から
American Mystery Classics シリーズの1冊として
2022年に出版された
ロジャー・スカーレット作「猫の足」の表紙
< Cover Image : Andy Ross
           Cover Design : Mauricio Diaz >


日本の推理作家である横溝正史(Seishi Yokomizo:1902年ー1981年)が、金田一耕助(Kosuke Kindaichi)シリーズの第1作目に該り、降り積もった雪で囲まれた日本家屋での密室殺人事件を取り扱っている長編推理小説「本陣殺人事件(The Honjin Murders → 2024年3月16日 / 3月21日 / 3月26日 / 3月30日付ブログで紹介済)」(1946年)を執筆する際に着想を得た米国の推理作家であるロジャー・スカーレット(Roger Scarlett)作「エンジェル家の殺人(Murder Among the Angells)」(1932年)については、2024年4月2日 / 4月5日 / 4月8日付ブログで紹介済である。


ロジャー・スカーレットは、実は、イヴリン・ペイジ(Evelyn Page:1902年ー1977年)とドロシー・ブレア(Dorothy Blair:1903年ー1976年)と言う女性2人のペンネームである。


イヴリン・ペイジの経歴は、以下の通り。

1902年(11月9日):ウィリアム・ハンセルとサラ・ペイジ夫妻の子として、ペンシルヴァニア州(Commonwealth of Pennsylvania)フィラデルフィア(Philadelphia)に出生。

1923年:ブリン・モー・カレッジ(Bryn Mawr College)文学部を卒業。

1926年:ブリン・モー・カレッジ大学院修士課程を終了。

その後、出版社に勤務して、フリーランスのライターとしても活躍。

1942年ー1945年:海軍飛行研究所と空軍の飛行検査官(aircarft inspector)

1945年ー1949年:陸軍婦人部隊(Women’s Army Corps)の医療部隊に配属され、後に軍曹(sergeant)に昇進。

1949年ー1956年:マサチューセッツ州(Commonwealth of Massachusetts)ノーサンプトン(Northampton)のスミスカレッジ(Smith College)の専任講師となり、後に助教授(assistant professor)に昇格。

1956年ー1964年:コネティカット州(Commonwealth of Connecticut)ニューロンドン(New London)のコネティカットカレッジ(Connecticut College)へと移り、英語学の助教授(1956年ー1962年)、そして、歴史学の助教授(1962年ー1964年)を務める。

彼女は、単独の著作として、長編小説「The Chestnut Tree」(1964年)と学術書「American Genesis : Pre-Colonial writing in the North」(1973年)を発表している。


一方のドロシー・ブレアの経歴は、以下の通り。

1903年:地元の医師の子として、モンタナ州(Commonwealth of Monata)ボーズマン(Bozeman)に出生。

1924年:ヴァサーカレッジ(Vassar College)を卒業。


イヴリン・ペイジとドロシー・ブレアの2人は、大学卒業後、マサチューセッツ州ボストン(Boston)にあるホートンミフリンハーコート(Houghton Mifflin Harcourt)と言う出版社で、編集者として働いている時に出会い、共同生活を始める。

そして、彼女達は、ロジャー・スカーレットと言うペンネームを使い、僅か4年の間に、長編推理小説を5作発表した。なお、ロジャー・スカーレットと言う筆名は、彼女達がペットのブルドッグの名前をつけるために、ボストンの電話帳からランダムに選ばれたものを、そのままペンネームとして使用した、とのこと。


(1)「ビーコン街の殺人(The Beacon Hill Murders)」(1930年)

(2)「白魔(Back-Bay Murder Mystery)」(1930年)

(3)「猫の足(Cat’s Paw)」(1931年)

(4)「エンジェル家の殺人」(1932年)

(5)「ローリング邸の殺人(In the First Degree)」(1933年)


上記の5作は、いずれも、米国のダブルデー社(Doubleday, Doran & Co.)から出版されている。

残念ながら、その後、彼女達は、推理小説の筆を断ってしまった。これは、イヴリン・ペイジの母親が1932年に、また、ドロシー・ブレアの父親が1933年に亡くなっており、彼女達として、双方の両親を財政的に援助するために、作家業を続けていく必要性がなくなったからではないかと言う説がある。


イヴリン・ペイジとドロシー・ブレアの2人がロジャー・スカーレットとして活動した期間は、非常に短期間だったこともあり、米国では、すっかりと忘れ去られた作家である。

一方、日本では、明智小五郎シリーズ等で有名な日本の推理作家である江戸川乱歩(Rampo Edogawa:1894年ー1965年)が「エンジェル家の殺人」を「三角館の恐怖(→ 2024年4月13日 / 4月16日 / 4月19日付ブログで紹介済)」(1951年)として翻案していることもあって、米国とは異なり、未だに知名度が高い作家である。


ニューヨーク(New York)にある Henzler Publishers 社から、American Mystery Classics シリーズの1冊として、ロジャー・スカーレットの第3作目である「猫の足」が2022年に刊行されているので、今回、本作品に関して、紹介したい。


2024年6月22日土曜日

ハートフォードシャー州(Hertfordshire) セントオールバンズ(St. Albans)

セントオールバンズ大聖堂の外観(その1)
<筆者が撮影>


百年戦争(Hundred Years’ War:1337年ー1453年)の敗戦責任の押し付け合いから発展した権力闘争の結果、1455年5月22日、ロンドン北方のセントオールバンズ(St. Albans)において、ランカスター朝の第3代イングランド王であるヘンリー6世(Henry VI:1421年ー1471年 在位期間:1422年ー1461年)が率いる軍勢と第3代ヨーク公リチャード・プランタジネット(Richard Plantagenet, 3rd Duke of York:1411年ー1460年)が率いる軍勢が衝突し、戦いの火蓋が切って、落とされた。これが、「第1次セントオールバンズの戦い(First Battle of St. Albans → 2024年6月18日付ブログで紹介済)」である。


「第1次セントオールバンズの戦い」が契機となり、以後30年間にわたって、プランタジネット朝(House of Plantagenet)の第7代イングランド王であるエドワード3世(Edward III:1312年ー1377年 在位期間:1327年ー1377年)の血を引く家柄であるランカスター家(House of Lancaster)とヨーク家(House of York)の間の内戦が、イングランド各地で繰り広げられる。


ランカスター家が「赤薔薇」を、そして、ヨーク家が「白薔薇」を徽章としていたため、以後30年間にわたる内戦は、現在、「薔薇戦争(Wars of the Roses)」と呼ばれているが、この命名は、後世のことである。


セントオールバンズ大聖堂の外観(その2)
<筆者が撮影>

セントオールバンズは、ロンドン北方のハートフォードシャー州(Hertfordshire)内にある都市である。


セントオールバンズ大聖堂の外観(その3)
<筆者が撮影>

セントオールバンズの場合、ケルト系の民族の集落、そして、ローマ人が建設したヴェルラミオン(Verlamion)から、その歴史が始まる。

なお、ヴェルラミオンは、北へ向かう旅行者のための古代ローマ道沿いに所在する最初の主要な町で、ローマ支配時代のブリテン島において、ロンディニウム(現在のロンドン)に次ぐ大きな町だった。


セントオールバンズ大聖堂の内部(その1)
<筆者が撮影>


中世時代、セントオールバンズは、ベネディクト会派のセントオールバンズ修道院周囲の東側へと発展していった。

同修道院付教会であるセントオールバンズ大聖堂(Cathedral & Abbey Church of St. Albans)については、11世紀後半にその建築が始まり、13世紀前半に完成した。


セントオールバンズ大聖堂の内部(その2)
<筆者が撮影>

同修道院の西側に建つセントオールバンズ校(St. Albans School)は、10世紀中頃に創立されたパブリックスクールで、唯一のイングランド出身者で、ローマ教皇となったハドリアヌス4世(Hadrianus IV:1100年頃ー1159年 在位期間:1154年ー1159年)が学んだ学校である。

英国の理論物理学者であるスティーヴン・ウィリアム・ホーキング(Stephen William Hawking:1942年ー2018年)も、セントオールバンズ校の出身である。


セントオールバンズ博物館 / ギャラリー
(St. Albans Museum + Gallery)の外観
<筆者が撮影>


セントオールバンズは、田舎の市場町 / 巡礼地として発展し、両大戦の間、電機産業の中心地となった。

直線距離でロンドンから約20㎞と言う近さのため、戦後、セントオールバンズには、ニュータウンの建設が行われ、現在、住民の約2割が、ロンドンまで通勤している、とのこと。

セントオールバンズには、各時代の建物や遺跡が保存されており、観光地と言う側面も有している。


2024年6月21日金曜日

ロンドン ベッドフォードスクエア(Bedford Square)- その1

ベッドフォードスクエアの南東の角から
ゴウアーストリート沿いのスクエアの東側を見たところ


デヴォン州(Devon)の密輸業者島(Smugglers’ Island)にあるジョリーロジャーホテル(Jolly Roger Hotel)に滞在して、静かな休暇を楽しんでいた名探偵エルキュール・ポワロであったが、同ホテルには、美貌の元女優で、実業家ケネス・マーシャル(Captain Kenneth Marshall)の後妻となったアリーナ・ステュアート・マーシャル(Arlena Stuart Marshall)も宿泊しており、周囲の異性に対して、魅力を振り撒きながら、避暑地を満喫しており、ホテルの宿泊客の数名が、アリーナ・マーシャルの存在を疎ましく感じていた。ホテル内に、不穏な空気が次第に立ち込める中、ポワロは、「白昼にも、悪魔は居る。(There is evil everywhere under the sun.)」と呟かざるを得なかった。



8月25日の昼前、エミリー・ブルースター(Emily Brewster)を伴い、アリーナ・マーシャルを探しに、手漕ぎボートで出かけたパトリック・レッドファン(Patrick Redfern - クリスティーン・レッドファン(Christine Redfern)の夫で、アリーナ・マーシャルの不倫相手)は、Pixy Cove の浜辺に、水着の女性が倒れているのを発見する。パトリック・レッドファンを現場に残して、エミリー・ブルースターは、ボートを漕いで、ホテルへ助けを求めに戻った。

ホテルからの連絡を受けて、Pixy Cove へと駆け付けた地元警察によると、Pixy Cove の浜辺に倒れていた女性は、アリーナ・マーシャルで、男の手で絞殺されていたとの検死結果だった。


ベッドフォードスクエアの南側から
ゴウアーストリート沿いのスクエアの東側を見たところ

州警察のウェストン警視正(Chief Constable Weston)とコルゲート警部(Inspector Colgate)は、ポワロに対して、アリーナ・マーシャルを殺害した犯人を見つけ出すために、協力を求める。

アリーナ・マーシャルの夫と面談したポワロ達に対して、ケネス・マーシャルは、「妻の弁護士事務所は、ベッドフォード(Bedford Square)の Barkett, Markett & Applegood です。」と答えた。


ベッドフォードスクエアの南西の角から
スクエア中央の庭園を見たところ

デヴォン州の密輸業者島の Pixy Cove において殺害された元女優のアリーナ・マーシャルの弁護士事務所である Barkett, Markett & Applegood が所在するベッドフォードスクエアは、ロンドンの中心部であるロンドン・カムデン特別区(London Borugh of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内に所在する広場である。


ベッドフォードスクエアの南東の角から
スクエアの東側と南側を見たところ

ベッドフォードスクエアは、その東側を南北に延びるガウアーストリート(Gower Street)と、その西側を南北に延びるトッテナムコートロード(Tottenham Court Road → 2015年8月15日付ブログで紹介済)に挟まれている。 


2024年6月20日木曜日

ミック・マニング / ブリタ・グランストローム作「ダーウィンが観たもの」<グラフィックノベル版>(What Mr. Darwin Saw by Mick Manning & Brita Granstrom

英国の出版社である Frances Lincolin Limited から
2009年に出版されたグラフィックノベル版「What Mr Darwin Saw」の表紙 -
英国の測量艦ビーグル号による航海中の一コマ
(Galapagos Islands Iguanas - September 1835)


1809年2月12日、イングランド西部シュロップシャー州(Shropshire)シュルーズベリー(Shrewsbury)に、6人兄弟の5番目の子供(次男)として生まれたチャールズ・ロバート・ダーウィン(以下、チャールズ・ダーウィン / Charles Robert Darwin:1809年ー1882年)は、医学エリートの家系に生まれたにもかかわらず、優等生タイプではなかったが、後に、彼の人生を劇的に変える英国海軍の測量艦ビーグル号(HMS Beagle → 2022年1月16日付ブログで紹介済)による約5年に及ぶ航海(1831年12月27日ー1836年10月2日)を経て、英国の自然科学者、地質学者、そして、生物学者として有名となる。


英国の出版社である Frances Lincolin Limited から
2009年に出版されたグラフィックノベル版「What Mr Darwin Saw」の裏表紙
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英国の
測量艦ビーグル号による航海中の一コマ
(Galapagos Islands Iguanas / Soldier Ants / Home to England)


子供向けではあるものの、チャールズ・ダーウィンの生涯を描いたグラフィックノベル版について、紹介したい。


本グラフィックノベル版は、ロンドンの自然史博物館(National History Museum)の協力の下、英国のフランセス・リンカーン社(Frances Lincoln Limited)から2009年に出版されている。

英国のイラストレーターであるミック・マニング(Mick Manning:1959年ー)とスウェーデンのイラストレーターであるブリタ・グランストローム(Brita Granstrom:1969年ー)によって構成されている。また、彼らは夫婦で、彼らの4人の子供達(Max / Bjorn / Frej / Charlie)に献辞されてた。


英国の出版社である Frances Lincolin Limited から
2009年に出版されたグラフィックノベル版「What Mr Darwin Saw」の内扉(その1)
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英国の測量艦ビーグル号による航海中の一コマ
(Andes - August 1834)

本グラフィックノベル版は、1809年2月12日に生まれたチャールズ・ダーウィンが、


*幼少期 / 少年期(1809年ー1825年)

*エディンバラ大学(University of Edinburgh)時代(1825年ー1827年)

*ケンブリッジ大学(University of Cambridge)時代(1828年-1831年)


を経て、英国海軍軍人であるロバート・フィッツロイ(Robert FitzRoy:1805年ー1865年)が艦長(captain)を務める英国海軍の測量艦ビーグル号に乗船し、約5年に及ぶ航海の後、「種の起源(On the Origin of Species)」(1859年)を出版するまでが、描かれている。


英国の出版社である Frances Lincolin Limited から
2009年に出版されたグラフィックノベル版「What Mr Darwin Saw」の内扉(その2)
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英国の測量艦ビーグル号による航海中の一コマ
(Cocos Islands Coral Lagoon - March 1836)

本グラフィックノベル版の場合、全体で45ページあるうち、30ページ分がビーグル号による航海中におけるチャールズ・ダーウィンの観察記録に費やされている。

個人的には、大人が読んでも、非常にうまくまとめられていると思う。