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ツタンカーメン王墓発見100周年記念切手(その9)- Objects in the antechamber |
今回は、古代エジプト第18王朝末期の最後の直系王族であるファラオであるツタンカーメン(Tutankhamun:紀元前1341年頃ー紀元前1323年頃 在位期間:紀元前1332年頃ー紀元前1323年頃)の王墓を発見した英国のエジプト考古学者であるハワード・カーター(Howard Carter:1874年ー1939年)について、引き続き、紹介したい。
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ツタンカーメン王墓発見100周年記念切手(その10)- Head of the outermost coffin |
1905年に英国のエジプト考古局(Egyptian Antiquities Service)を辞めたハワード・カーターは、それから3年近くの間、職に就くことができず、絵を描いたり、また、水彩画を旅行者達に売ったりして、生計を立てた。
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ツタンカーメン王墓発見100周年記念切手(その11)- Examining the innermost coffin 画面左側の人物が、ハワード・カーター。 |
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1907年になると、ハワード・カーターは、英国の貴族、政治家で、考古学者でもある第5代カーナーヴォン伯爵ジョージ・エドワード・スタンホープ・モリニュー・ハーバート(George Edward Stanhope Molyneux Herbert, 5th Earl of Carnarvon:1866年ー1923年)からの資金援助を受けて、遺跡の発掘を進めるようになる。1914年にカーナーヴォン伯爵は「王家の谷(Valley of the Kings)」発掘の許可を取得したことに伴い、ハワード・カーターは、発掘調査を主導して、特にツタンカーメンの王墓発見を目指した。ところが、第一次世界大戦(World War I:1914年-1918年)の勃発により、「王家の谷」の発掘調査は、一旦、ストップすることになった。そのため、ハワード・カーターは、第一次世界大戦が終結するまでの間、英国政府の通訳等をして、働かざるを得なかった。
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ツタンカーメン王墓発見100周年記念切手(その12)- Moving small shrine to laboratory 画面左側の人物が、ハワード・カーター。 |
第一次世界大戦後、「王家の谷」の発掘調査は再開されたものの、収穫がないことに対して、カーナーヴォン伯爵は次第に苛立ちを示すようになった。資金援助の打ち切りをちらつかせるカーナーヴォン伯爵と交渉した結果、1922年、ハワード・カーターは、最後の発掘調査に着手する。
そして、同年11月、48歳の彼は、遂に「世紀の大発見」と称されるツタンカーメンの王墓を発見したのである。
ただし、ハワード・カーターは、高等教育を受けていなかったこともあり、当時の考古学会は、彼や彼の成果を高く評価することはなく、ツタンカーメン王墓の発見後も、彼の生活自体が、大きく変わることはなかった。
なお、1926年に、彼は、エジプトのフアード1世(Fuad I)からナイル勲章の第三等(Order of the Nile - Third Class)を受勲した。
ツタンカーメン王墓の発掘が終わった1932年に、ハワード・カーターは、発掘調査から引退し、夏は英国(ロンドン)で、冬はエジプトで過ごすようになった。その後、彼は、数少ない親友達と親交するだけの静かな生活を続けた。
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ロイヤルアルバートホール全景 |
そして、1939年3月2日、ハワード・カーターは、ロイヤルアルバートホール(Royal Albert Hall → 2016年2月20日付ブログで紹介済)近くに建つアルバートコート49番地(49 Albert Court)のフラットにおいて、息を引き取った。64歳で、生涯独身であった。
その後、彼の遺体は、パットニーヴェール墓地(Putney Vale Cemetery)に埋葬された。
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