2025年8月20日水曜日

奈良(Nara) 正倉院(Shoso-in)- その2

大英博物館(British Museum → 2014年5月26日付ブログで紹介済)の
Room 92 - 94 (The Mitsubishi Corporation Japanese Galleries) に展示されている
東大寺大仏殿の本尊である盧舎那仏像の写真と説明
<筆者撮影>

サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)が、シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、50番目に発表した作品「高名な依頼人(The Illustrious Client → 2025年6月18日 / 6月23日 / 6月27日 / 7月5日 / 7月7日付ブログで紹介済)」の後半、二人組の暴漢によって大怪我を負わせられたシャーロック・ホームズの依頼に応じて、ジョン・H・ワトスンは、セントジェイムズスクエア(St. James’s Square → 2014年12月7日付ブログで紹介済)のロンドン図書館(London Library  → 2014年12月7日付ブログで紹介済)まで赴き、友人で副司書(sub-librarian)であるローマックス(Lomax)から分厚い本を借り出して、中国磁器に関する猛勉強をする。そして、ワトスンは、ホームズから渡された明朝の本物の薄手磁器(サー・ジェイムズ・デマリー大佐が匿名の依頼人から借り受けたもの)を携え、「ヒル・バートン博士(Dr. Hill Barton)」の名刺をポケットに入れると、ベイカーストリート221B (221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)から馬車でキングストン(Kingston)近くのヴァーノンロッジ(Vernon Lodge)へと向かった。

そこで、オーストリアの貴族であるアデルバート・グルーナー男爵(Baron Adelbert Gruner)と面会したワトスンであったが、ワトスンの知識を試そうとするグルーナー男爵から、「聖武天皇と奈良の正倉院の関係」について説明するよう、求められる。


「あなたのことを確かめるために、少し質問しても宜しいですか?博士、もしあなたが本当に博士ならですが、私としては、この件はますます怪しくなってきたと申し上げざるを得ません。聖武天皇について御存知のこと、そして、聖武天皇が奈良の正倉院とどう言った関係にあるのかを、あなたにお伺いできますか?おやおや、随分とお困りのようですね?北魏王朝について、少しお話し願えますか?それと、陶磁器の歴史における北魏王朝の位置付けに関しても、どうですか?」


‘Might I ask you a few questions to test you? I am obliged to tell you, doctor - if you are indeed a doctor - that the incident becomes more and more suspicious. I would ask you what do you know of the Emperor Shomu and how do you associate him with the Shoso-in near Nara? Dear me, does that puzzle you? Tell me a little about the Northern Wei dynasty and its place in the history of ceramics?’ 


ワトスンに対するアデルバート・グルーナー男爵の質問の中に出てきた「正倉院(Shoso-in)」は、奈良県(Nara Prefecture)奈良市(Nara City)の東大寺(Todai-ji Temple)大仏殿の北西に位置する校倉造の高床式倉庫である。

正倉院は、第45代天皇である聖武天皇(Emperor Shomu:701年ー756年 在位期間:724年ー749年)/ 光明皇后(Empress Komyo:701年ー760年)所縁の品を含む天平文化を中心とした美術工芸品を数多く所蔵していた建物で、1997年に国宝に指定された後、翌年の1998年には、「古都奈良の文化財」の一部として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。


コナン・ドイル作「高名な依頼人」が掲載されたのは、英国の「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1925年2月号と同年3月号、また、米国の「コリアーズ ウィークリー(Collier’s Weekly)」の1924年11月8日号で、1927年に発行されたホームズシリーズの第5短編集「シャーロック・ホームズの事件簿(The Case-Book of Sherlock Holmes)」に収録されている。


当時の英国において、日本のことはあまり知られていなかったことに加え、正倉院に関しては、第二次世界大戦(1939年ー1945年)後の1946年に一般公開されるまで、日本でも知られている訳ではなかった。

それでは、コナン・ドイルが、日本に関する詳細な知識を誰から得ていたのかと言うと、スコットランド(Scotland)のエディンバラ(Edinburgh)生まれの技術者 / 写真家で、彼の幼少時からの友人であるウィリアム・キニンモンド・バートン(William Kinninmond Burton:1856年ー1899年)からではないかと考えられている。


ウィリアム・キニンモンド・バートンは、法律家 / 文筆家である父ジョン・ヒル・バートン(John Hill Burton:1809年ー1881年)と母カサリーン・イネス(Katherine Innes)の下、1809年8月22日、エディンバラに出生。

高校(Edinburgh Collegiate School)卒業後、彼は、大学へは進学せず、1873年に同地のブラウンブラザーズ社(Brown Brothers & Co., Ltd.)で水道技術工見習いとなる。

5年間の勤務を経て、ウィリアム・キニンモンド・バートンは、1879年に叔父であるコスモ・イネス(Cosmo Innes)を頼り、ロンドンへと向かった。当時、叔父のコスモ・イネスは、技術事務所を営む傍ら、衛星保護協会(Sanitary Protection Association)の事務局長を務めていたこともあって、ウィリアム・キニンモンド・バートンは、1881年に同協会の主任技師(Resident Engineer)へと昇進。


明治政府の官僚で、小説家の永井 荷風(ながい かふう:1879年ー1959年)の父である永井 久一郎(ながい きゅういちろう:1852年ー1913年)の渡欧中に知り合ったことを受けて、ウィリアム・キニンモンド・バートンは、1887年、当時コレラ(cholera)等の流行病の対処に苦慮していた明治政府の内務省衛生局のお雇い外国人技師として来日。彼は、内務省衛生局の唯一の顧問技師として、東京市の上下水道取調主任に着任した他、帝国大学工科大学(後の東京大学工学部)において、衛生工学の講座を担当し、日本人の上下水道技師を育てる。


ウィリアム・キニンモンド・バートンは、1896年、日清戦争(1894年ー1895年)の勝利により日本領土となった台湾において、公衆衛生向上のための調査に赴いたが、炎暑の中、風土病に罹患して、1899年8月5日、東京で没した。享年43歳で、1894年に結婚した日本人妻と、別の女性との間に生まれた娘を伴って、英国への帰国を準備していたところだった。英国への帰国を果たせなったウィリアム・キニンモンド・バートンは、東京の青山霊園に葬られている。


コナン・ドイルは、幼少時、バートン家に預けられていたことがあり、彼とウィリアム・キニンモンド・バートンは、幼少時から親交があった。ウィリアム・キニンモンド・バートンが1887年に来日した後も、2人の交流は続いていた。

従って、コナン・ドイルは、ウィリアム・キニンモンド・バートンから、日本に関する知識を得ており、「高名な依頼人」を執筆した際、「聖武天皇」や「奈良の正倉院」について言及したものと思われる。

「高名な依頼人」において、ワトスンがアデルバート・グルーナー男爵と面会する際、「ヒル・バートン博士(Dr. Hill Barton)」と言う偽名を使用しているが、ウィリアム(・キニンモンド・バートン)の愛称が「ビル(Bill)」であることを考慮すると、ワトスンが使用してした「ヒル・バートン(Hill Barton)」と言う偽名は、「ウィリアム・バートン(William Burton」に因んでいるのではないだろうか?


シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、9番目に発表した作品で、、英国の「ストランドマガジン」の1892年3月号に掲載された「技師の親指(The Eingeer's Thumb)」の場合、事件の依頼人として、水力工学技師のヴィクター・ハザリー(Victor Hatherley)が登場するが、これも、作者のコナン・ドイルは、衛生工学や上下水道等をよく知るウィリアム・キニンモンド・バートンをモデルにしているものと推測される。


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