2018年4月29日日曜日

ジョン・ディクスン・カー作「帽子収集狂事件」(The Mad Hatter Mystery by John Dickson Carr)−その1

東京創元社が発行する創元推理文庫「帽子収集狂事件」の表紙−
カバーデザイン:本山 木犀氏
カバーイラスト: 榊原 一樹氏

ロンドン塔(Tower of London→2018年4月8日 / 4月15日 / 4月22日付ブログで紹介済)は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)によって、殺人事件が発生する舞台として使用されている。それが、1933年に英国のヘイミッシュ・ハミルトン社(Hamish Hamilton)から、また、米国のハーパー&ブラザーズ社(Harper & Brothers)から刊行された「帽子収集狂事件(The Mad Hatter Mystery)」である。
なお、「帽子収集狂事件」は、ジョン・ディクスン・カー名義の長編第7作目で、探偵役のギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)が登場する作品としては、第2作目に該る。

ジョン・ディクスン・カー名義の長編第1作目から第5作目までは、パリの予審判事のアンリ・バンコラン(Henri Bencolin)が探偵役を務め、第6作目の「魔女の隠れ家(Hag’s Nook)」で、ギディオン・フェル博士が初登場する。
なお、ジョン・ディクスン・カーは、カーター・ディクスン(Carter Dickson)というペンネームでも推理小説を執筆しており、カーター・ディクスン名義の作品では、ヘンリー・メルヴェール卿(Sir Henry Merrivale)が探偵役として活躍している。
ちなみに、ギディオン・フェル博士は、ブラウン神父(Father Brown)シリーズで有名な英国の作家 / 批評家 / 詩人 / 随筆家(推理作家としても有名)であるギルバート・キース・チェスタートン(Gilbert Keith Chesterton:1874年ー1936年)が、また、ヘンリー・メルヴェール卿は、英国の政治家 / 軍人 / 作家であるサー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill:1894年ー1965年→2017年8月6日付ブログで紹介済)がモデルと言われている。

創元推理文庫「帽子収集狂事件」の旧訳版の表紙–
殺人事件の舞台となるロンドン塔の地図(赤色の部分)、
ロンドン塔内で飼育されているワタリガラス(Raven)、そして、
「いかれ帽子屋」によって盗まれた帽子が
うまい具合にアレンジされている

「帽子収集狂事件」の冒頭、1932年3月、霧深いロンドンにおいて、」「いかれ帽子屋(The Mad Hatter)」による謎の連続帽子盗難事件が世間の話題を呼んでいるところから始まる。巡査の頭からヘルメットが盗まれて、ニュースコットランドヤード(New Scotland Yard)前の街灯に載せられ、また、証券取引所のメンバーの頭からシルクハットがひったくられ、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)中心に据えられたネルソン記念柱(Nelson’s Column)を囲むライオン像の頭上にかぶせられた。そして、法廷弁護士が法廷でかぶるカツラがレスタースクエア(Leicester Square)の馬車待合所に寄せられた馬車の馬に載っていたりと、「いかれ帽子屋」による被害は、全部で7件にものぼっていた。「いかれ帽子屋」による連続帽子盗難事件を新聞記事として報道するフリーランスの記者であるフィリップ・ドリスコル(Philip Driscoll)も、「いかれ帽子屋」と同様に、世間の注目を集めていた。

その最中、フィリップ・ドリスコルの伯父に該る引退した政治家で、古書収集家でもあるウィリアム・ビットン卿(Sir William Bitton)から、スコットランドヤード犯罪捜査部のデイヴィッド・F・ハドリー主任警部を介して、ギディオン・フェル博士(と米国人の青年タッド・ランポール)は、ある相談を受ける。
米国の小説家 / 詩人 / 評論家であるエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe:1809年ー1849年 → 2017年1月28日付ブログで紹介済)が生前住んでいたフィラデルフィア(Philadelphia)の住居において、ウィリアム・ビットン卿が発見したポーの未発表原稿が、何者かによって彼の自宅から盗まれたと言うのだ。また、ウィリアム・ビットン卿は、この3日間の間に、二度も「いかれ帽子屋」によって帽子をひったくられるという被害を蒙っていたのである。

ウィリアム・ビットン卿からの依頼を受けて、ギディオン・フェル博士が盗まれたポーの未発表原稿の捜査に取り掛かろうとしていた矢先に、ロンドン塔(Tower of London→2018年4月8日、4月15日および4月22日付ブログで紹介済)の逆賊門において他殺死体が発見されたという連絡が入る。驚くことに、その他殺死体はフィリップ・ドリスコルで、彼の頭には、先日「いかれ帽子屋」にひったくられたウィリアム・ビットン卿の帽子がかぶせられているという非常に奇妙な状況であった。

2018年4月28日土曜日

ジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)ーその5

テイト美術館の北西の角に建つ
ジョン・エヴァレット・ミレーのブロンズ像

初代准男爵サー・ジョン・エヴァレット・ミレー(Sir John Everett Millais, 1st Baronet:1829年ー1896年)が1896年に他界すると、ミレーを寵愛していたハノーヴァー朝第6代のヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年-1901年→2017年12月10日 / 12月17日付ブログで紹介済)の王太子(Prince of Wales)で、後にサクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝の初代国王となるエドワード7世(Edward VII:1841年ー1910年 在位期間:1901年ー1910年)の仲介により、ミレーのブロンズ像制作が、英国の彫刻家であるトマス・ブロック(Thomas Brock:1847年ー1922年)に発注された。

ジョン・エヴァレット・ミレーのブロンズ像制作を仲介した
サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝の初代国王となるエドワード7世の王太子時を
店名にしたパブ「プリンス・エドワード(The Pribce Edward)」

トマス・ブロックが制作したミレーのブロンズ像は、1905年にナショナル・オブ・ブリティッシュ・アート(British Gallery of British Artー現在のテイト美術館(Tate Britain)→2018年2月18日 付ブログで紹介済)の東庭に設置された。

エドワード7世の王太子時を店名にしたパブ「プリンス・エドワード」は、
シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のベイズウォーター地区(Bayswater)内の
プリンシズスクエア(Prince's Square)に面して建っている

1964年から1979年にかけてテイト美術館の館長を務めたサー・ノーマン・リード(Sir Norman Reid:1915年ー2007年)が、何故か、このミレー像を快く思わず、フランスの彫刻家であるフランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン(Francois-Auguste-Rene Rodin:1840年ー1917年)制作の「洗礼者ヨハネ(John the Baptist)」像に入れ替えようとしたり、それが認められないと、ミレー像自体を撤去しようとしたりした。ミレー像を管理する英国政府機関である The Ministry of Works は、ノーマン・リード館長の試みを一切認めなかった。

テイト美術館の東庭から建物を見上げたところ

その後、ミレー像の管理は、The Ministry of Works からイングリッシュ・ヘリテージ(English Heritage)へ、そして、テイト美術館へと引き継がれた。

ミレー像は、2000年にテイト美術館の東庭から建物の北西の角、マントンロード(Manton Road)に面した入口近くに移設され、美術館を訪れる人達をで迎えている。

2018年4月22日日曜日

<第400回> ロンドン ロンドン塔(Tower of London)-その3

2012年ロンドンオリンピック / パラリンピックのマスコットとして、
ロンドン塔近くに設置されたウェンロック(Wenlock)–
ロンドン塔内で飼育されているワタリガラス(Raven)をテーマにしており、
「レイヴンズ・ウェンロック(Ravens Wenlock)」と命名されている。

ロンドン塔に幽閉されたものの、無事生き残った例としては、テューダー朝第5代にして最後の君主であるエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年ー1603年)が有名である。
彼女の異母姉に該り、カトリック教徒であるテューダー朝第4代のイングランド王メアリー1世(Mary I:1516年ー1558年 在位期間:1553年ー1558年)が同じカトリック教徒であるスペイン王子と結婚することに対する宗教的反発として、1554年にトマス・ワイアット(Sir Thomas wyatt:1521年ー1554年)によるワイアットの乱が勃発したが、後のエリザベス1世はこの反乱に加担したと疑われ、1554年3月18日にロンドン塔に収監された。1558年にメアリー1世が死去したことに伴い、彼女はイングランド女王として即位する。1588年に、エリザベス1世は、アルマダの海戦(Battle of Armada)において、英国侵攻をしてきたスペイン無敵艦隊(Spanish Armada)を撃退し、イングランド繁栄の基礎を築くのである。なお、エリザベス1世は、テューダー朝第2代のイングランド王であるヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年)と彼の2番目の王妃で、ロンドン塔で処刑されたアン・ブーリン(Anne Boleyn:1507年ー1536年)の娘である。

右側の人物が、
異母姉であるメアリー1世によってロンドン塔に収監された後、
イングランド王として即位し、
1588年にスペイン無敵艦隊を撃退して、
イングランド繁栄の基礎を築いたエリザベス1世

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
エリザベス1世の肖像画の葉書
(Unknown English artist / 1600年頃 / Oil on panel
1273 mm x 997 mm) 

その後、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中も、1941年から1944年にかけて、対英和平交渉を結ぶべく、ドイツから単独で飛来して、英国の捕虜となったドイツの政治家 / 国家社会主義ドイツ労働党副総裁であるルドルス・ヴァルター・リヒャルト・ヘス(Rudolf Walter Richard Hess:1894年ー1987年)が収監されている。

ロンドン塔は、現在も、英国王室が使用する宮殿で、正式には、「女王陛下の宮殿にして要塞(Her Majesty’s Royal Palace and Fortress)」と呼ばれている。また、儀礼的な武器等の保管庫や礼拝所等としても使用されている。
1988年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録され、ロンドン観光の目玉の一つとして、いつも多くの観光客で賑わっている。

ソーホースクエア(Soho Square)内に設置されている
チャールズ2世像

ロンドン塔には、現在、ワタリガラス(Ravenー大型で雑食の鳥)が一定数飼育されている。
王政復古期ステュアート朝のイングランド、スコットランドおよびアイルランドの王であるチャールズ2世(Charles II:1630年ー1685年 在位期間:1660年ー1685年)が、ロンドン塔に多数住み着いていたワタリガラスの駆除を考えていたところ、占い師から「ロンドン塔からワタリガラスがいなくなると、ロンドン塔が崩壊して、ロンドン塔を失った英国が滅びる。」という予言を告げられたため、それ以来、ロンドン塔では、一定数のワタリガラスを飼育する風習が始まったと言われている。

一方で、英国人に非常に人気があるアーサー王(King Arthur)伝説において、アーサー王が魔法によりワタリガラスに姿を変えられたという言い伝えもあり、ワタリガラスを殺すことは、アーサー王への反逆行為に該り、不吉なことが起こると、古くから言われている。

ロンドン塔を背景にした「レイヴンズ・ウェンロック」

現在、ロンドン塔のワタリガラスは、「レイヴンマスター(Ravenmaster)」と呼ばれる役職の英国王室衛士によって飼育されている。当初は、風切り羽を切られて逃げないようにされたワタリガラスが、半ば放し飼いで飼育されていたが、近年、鳥インフルエンザ罹患の恐れから、飼育舎内での飼育へと切り替えられている。

2018年4月21日土曜日

ジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)-その4

現在、テイト・ブリテン美術館(Tate Britain)の建物裏手に設置されている
ジョン・エヴァレット・ミレーのブロンズ像(その1)

英国の思想家 / 芸術評論家であるジョン・ラスキン(John Ruskin:1819年ー1910年)の妻だったユーフィミア(Euphemia / 通称 エフィー・グレイ(Effie Gray):1829年ー1897年)と1855年に結婚した後も、ジョン・ラスキンの擁護を受けていた初代准男爵サー・ジョン・エヴァレット・ミレー(Sir John Everett Millais, 1st Baronet:1829年ー1896年)であったが、結婚後、妻ユーフィミアと8人の子供を養わなければならなくなり、1848年に結成された「ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)」が唱える厳格な理想から次第に遠のいていき、ジョン・ラスキンからも「単に失敗ではなく、破局(catastrophe)である。」と手厳しく非難されるようになった。

現在、テイト・ブリテン美術館(Tate Britain)の建物裏手に設置されている
ジョン・エヴァレット・ミレーのブロンズ像(その2)

ジョン・エヴァレット・ミレーは、1860年に「黒い制服を着たドイツのブラウンシュヴァイク騎兵(The Black Brunswicker)」を出品して、そのロマンチックな主題と衣装の襞の美しさ等で好評を博し、一時期失いかけていた名声を再び取り戻したのである。以後、彼は一貫して世間の好みに合致するような作品を描き続けた。
一方で、ジョン・エヴァレット・ミレーは、肖像画家としても成功し、保守党党首として2期にわたって英国首相を務めた初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield:1804年ー1881年)や「クリスマスキャロル」や「二都物語」等の作品で知られる小説家のチャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens:1812年ー1870年)等、当時の著名人の多くが、彼に肖像画を依頼したのであった。

ジョン・エヴァレット・ミレーの遺体が埋葬されたセントポール大聖堂(その1)

1855年にジョン・エヴァレット・ミレーがユーフィミアと結婚した当時、妻(ユーフィミア)が夫(ジョン・ラスキン)を捨てるようなことは非常に異例だったため、ミレーを寵愛していたハノーヴァー朝第6代のヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年-1901年→2017年12月10日 / 12月17日付ブログで紹介済)は、この結婚を良しとせず、ユーフィミアとの謁見を拒否して、以後、ジョン・エヴァレット・ミレーに自分の肖像画を描かせることはなかった。
しかしながら、ジョン・エヴァレット・ミレーのこれまでの功績を称えて、1885年7月、ヴィクトリア女王は彼の為に初代準男爵(1st Baronet)の称号を創設したのである。英国王室が芸術家に世襲の称号を与えた最初のケースとなった。

ジョン・エヴァレット・ミレーの遺体が埋葬されたセントポール大聖堂(その2)

ジョン・エヴァレット・ミレーは、1853年にロイヤルアカデミー(Royal Academy)の準会員(associate member)になり、直ぐに正会員(full member)に選出された。そして、英国の画家 / 彫刻家だった初代レイトン男爵フレデリック・レイトン(Frederic Leighton, 1st Baron Leighton)の死去に伴い、ミレーは1896年にロイヤルアカデミーの会長(president)に選出されるが、同年8月13日、喉頭癌のため、他界した。なお、彼の遺体は、セントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral)に埋葬された。

死の数日前、ミレーはヴィクトリア女王から「何かできることはないか?」という伝言を受け取り、妻ユーフィミアの謁見許可を申し出ると、ヴィクトリア女王はこれを聞き入れて、謁見が許可されたのである。ミレーの妻ユーフィミアは、夫の後を追うように、翌年の1897年12月に他界した。

2018年4月15日日曜日

ロンドン ロンドン塔(Tower of London)-その2

雨上がりの夕闇の中に照らされるロンドン塔

1066年にヘースティングズの戦い(Battle of Hastings)を経て、イングランドを征服して、ノルマン朝を開き、現在の英国王室の開祖となったウィリアム1世(William I:1027年ー1087年 在位期間:1066年ー1087年)が、ロンドンを外敵から防衛するため、1078年に堅固な要塞の建設を命じたのが、ロンドン塔の始まりである。要塞の本体は約20年で完成した。なお、その本体は、日本の城の「天守閣」に該り、英国の城では「キープ(keep)」と呼ばれる部分で、ロンドン塔の場合は、中央の「ホワイトタワー(White Tower)」がこれに該る。そのため、ロンドン塔は、「Tower of London」、一般に「Tower」と呼ばれている。

ロンドン塔の右手奥に聳え建つのは、
シャード(Shard)ビル

その後、プランタジネット朝第2代のイングランド王であるリチャード1世(Richard I:1157年ー1199年 在位期間:1189年ー1199年)が、本体を囲む城壁の周囲に濠の建設を命じ、プランタジネット朝第4代のイングランド王であるヘンリー3世(Henry III:1207年ー1272年 在位期間:1216年ー1272年)の治世に完成を迎えた。

夜闇に浮かび上がるロンドン塔(その1)

当初の建設時より、ロンドン塔は英国王が居住する宮殿として使用され、ステュアート朝初代のイングランド王であるジェイムズ1世(James I:1566年ー1625年 在位期間:1603年ー1625年)がロンドン塔に居住した最後の英国王とされている。
ロンドン塔は、英国王が居住する宮殿の他に、兵器庫、宝物庫、王立動物園や造幣所等としても使用された。

夜闇に浮かび上がるロンドン塔(その2)

また、1282年から、ロンドン塔は、身分の高い政治犯を幽閉したり、処刑したりする監獄としても使用され始めた。特に14世紀以降は、英国王室の政敵や反逆者等を処刑する場となったのである。
ロンドン塔で処刑された人々の中には、

(1)ヘンリー6世(Henry VI:1421年ー1471年 在位期間:1422年ー1461年+1470年ー1471年)
ランカスター朝最後のイングランド王で、薔薇戦争(Wars of the Roses:1455年ー1485年+1487年)において、ヨーク朝のエドワード4世(Edward IV:1442年ー1483年 在位期間:1461年ー1483年)により捕えられ、暗殺される。

(2)エドワード5世(Edward V:1470年ー1483年 在位期間:1483年) / 初代ヨーク公兼初代ノーフォーク公リチャード・オブ・シュルーズベリー(Richard of Shrewsbury, 1st Duke of York and 1st Duke of Norfolk)
エドワード4世の王子達であるが、父の死後、ロンドン塔に幽閉されたまま、行方不明となる。イングランド王位を奪ったリチャード3世(Richard III:1452年ー1485年 在位期間:1483年ー1485年)によって殺害されたと言われている。

一番右手の人物が、
エドワード5世達を殺害して、イングランド王位を簒奪したとされる
リチャード3世

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
リチャード3世の肖像画の葉書
(Unknown artist / Late 16th century / Oil on panel
638 mm x 470 mm) 

(3)アン・ブーリン(Anne Boleyn:1507年ー1536年)
テューダー朝第2代のイングランド王であるヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年)の2番目の王妃(1533年に結婚→1536年に離婚)で、姦通罪等により処刑された。彼女に着せられた罪は濡れ衣とされており、ロンドン塔には、今でも、自分の首を探す彼女の亡霊が出ると噂されている。

一番左手の人物が、今でもロンドン塔内に
首のない亡霊として現れると噂されているアン・ブーリン

一番右手の人物が、姦通罪等を理由にして、
ロンドン塔内でアン・ブーリンを斬首刑に処したヘンリー8世

ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
アン・ブーリンの肖像画の葉書
(Unknown artist / 1535 - 1536年頃 / Oil on panel
543 mm x 416 mm) 


(4)ジェーン・グレイ(Jane Grey:1537年ー1554年 在位期間:1553年7月10日ー同年7月19日)
テューダー朝初代のイングランド王であるヘンリー7世(Henry VII:1457年ー1509年 在位期間:1485年ー1509年)の曾孫で、エドワード6世(Edward VI:1537年ー1553年 在位期間:1547年ー1553年)の死後、有力貴族の思惑によって、イングランド女王に擁立されたが、メアリー1世(Mary I:1516年ー1585年 在位期間:1553年ー1558年)に敗れて、9日間で廃位となり、処刑された。

等が、非常に有名である。

2018年4月14日土曜日

ジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)ーその3

画面中央にある建物が、
家族が増えたミレー夫妻が1862年に引っ越したクロムウェルプレイス7番地の家

ロンドンのロイヤルアカデミー(Royal Academy)付属の美術学校(Antique Schol)において共に学んだウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt:1827年ー1910年)やダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti:1828年ー1882年→2018年3月4日 / 3月11日付ブログで紹介済)達と一緒に、初代
准男爵サー・ジョン・エヴァレット・ミレー(Sir John Everett Millais, 1st Baronet:1829年ー1896年)が結成した「ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)」(正確には、「ラファエロ以前兄弟団」)と呼ばれる芸術グループにとって、思想的な面で大きな影響を与えたのは、同時代の思想家 / 芸術評論家であるジョン・ラスキン(John Ruskin:1819年ー1910年)の「芸術は自然に忠実でなければならない。」という提言であった。


ジョン・ラスキンのお気に入りで、金銭的にも彼の援助を受けていたジョン・エヴァレット・ミレーは、1852年にジョン・ラスキンの新妻ユーフィミア(Euphemia / 通称 エフィー・グレイ(Effie Gray):1829年ー1897年)をモデルとした絵画を製作して、ラスキン夫妻との親交を深めていった。

クロムウェルプレイス7番地の入り口
残念ながら、建物は、現在、改装工事中

ユーフィミアは、1848年、19歳でジョン・ラスキンと結婚したが、彼は自らが理想とする貞淑で従順な妻を求める口うるさい夫だったため、まだ幼く社交好きだった彼女は、夫としばしば衝突した。また、取材旅行中、ジョン・ラスキンが調査に没頭して、ユーフィミアは寂しい思いをさせられた。更に、ジョン・ラスキンが、ユーフィミアだけではなく、自分の両親も取材旅行によく同行させたこともあって、彼女は、義父母の過干渉や夫のマザコンぶりにも、次第に不満を募らせていったのである。
1853年、ジョン・ラスキンが、ユーフィミアとジョン・エヴァレット・ミレーを伴って、スコットランド旅行に出かけた際、ジョン・ラスキンとの不幸な結婚生活に不満を抱いていたユーフィミアは、ジョン・エヴァレット・ミレーに惹かれていった。そして、1854年4月、ユーフィミアは、ジョン・ラスキンとの結婚生活が実態のないものであったとする結婚無効の訴訟を起こしたのである。

クロムウェルプレイス7番地の建物は、
「ミレーハウス(Millais House)」と呼ばれている

しかし、当時、妻が夫を捨てるようなことは非常に異例だったため、ユーフィミアの行動は恥ずべき行為であると、世間から大きく非難された。1854年7月、ジョン・ラスキンの性的不能を理由にして、離婚が認められると、翌年の1855年に、ジョン・エヴァレット・ミレーとユーフィミアは結婚する。しかし、ジョン・エヴァレット・ミレーを寵愛していたハノーヴァー朝第6代のヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年-1901年→2017年12月10日 / 12月17日付ブログで紹介済)は、この結婚を良しとせず、ユーフィミアとの謁見を拒否して、以後、ジョン・エヴァレット・ミレーに自分の肖像画を描かせることはなかった。

クロムウェルプレイス7番地の反対側から北方面を見たところ
画面中央奥に見える建物は、自然史博物館(Natural History Museum)

1855年の結婚後、ジョン・エヴァレット・ミレーとユーフィミアは、8人の子宝に恵まれた。

(1)1856年ーエヴァレット(Everett)
(2)1857年ージョージ(George)
(3)1858年ーエフィー(Effie)
(4)1860年ーメアリー(Mary)
(5)1862年ーアリス(Alice)
(6)1863年ージェフリー(Geoffroy)
(7)1865年ージョン(John)
(8)1868年ーソフィー(Sophie)

家族が増えたミレー夫妻は、1862年に現在のケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のサウスケンジントン地区(South Kensington)内にあるクロムウェルプレイス7番地(7 Cromwell Place)へと引っ越している。

クロムウェルプレイス7番地の反対側から南方面を見たところ

妻ユーフィミアと8人の子供を養うことになったジョン・エヴァレット・ミレーは、「5シリング硬貨よりも小さな部分を描くのに、丸一日を費やす訳にはいかない。」と考え、そのために、彼の絵画はラファエル前派が唱える厳格な理想から徐々に遠のいていくことになる。
ユーフィミアと離婚した後も、ジョン・エヴァレット・ミレーを擁護し続けてきたジョン・ラスキンまでが、それまでとはうって変わったように掌を返して、「単に失敗ではなく、破局(catastrophe)である。」と、ジョン・エヴァレット・ミレーを厳しく非難し始めたのであった。

2018年4月8日日曜日

ロンドン ロンドン塔(Tower of London)-その1

ロンドン橋(London Bridge)付近からロンドン塔を望む

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)では、若い女性メアリー・モースタン(Mary Morstan)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れて、風変わりな事件の調査依頼をする。

元英国陸軍インド派遣軍の大尉だった彼女の父親アーサー・モースタン(Captain Arthur Morstan)は、インドから英国に戻った10年前に、謎の失踪を遂げていた。彼はロンドンのランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)に滞在していたが、娘のモースタン嬢が彼を訪ねると、身の回り品や荷物等を残したまま、姿を消しており、その後の消息が判らなかった。そして、6年前から年に1回、「未知の友」を名乗る正体不明の人物から彼女宛に大粒の真珠が送られてくるようになり、今回、その人物から面会を求める手紙が届いたのである。
彼女の依頼に応じて、ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は彼女に同行して、待ち合わせ場所のライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)へ向かった。そして、ホームズ達一行は、そこで正体不明の人物によって手配された馬車に乗り込むのであった。

ホームズ、ワトスンとモースタン嬢の三人は、ロンドン郊外のある邸宅へと連れて行かれ、そこでサディアス・ショルト(Thaddeus Sholto)という小男に出迎えられる。彼が手紙の差出人で、ホームズ達一行は、彼からモースタン嬢の父親であるアーサー・モースタン大尉と彼の父親であるジョン・ショルト少佐(Major John Sholto)との間に起きたインド駐留時代の因縁話を聞かされるのであった。
サディアス・ショルトによると、父親のジョン・ショルト少佐が亡くなる際、上記の事情を聞いて責任を感じた兄のバーソロミュー・ショルト(Bartholomew Sholto)と彼が、モースタン嬢宛に毎年真珠を送っていたのである。アッパーノーウッド(Upper Norwood)にある屋敷の屋根裏部屋にジョン・ショルト少佐が隠していた財宝を発見した彼ら兄弟は、モースタン嬢に財宝を分配しようと決めた。

2012年のロンドン・オリンピック / パラリンピック開催時、
ロンドン塔とテムズ河の間にある広場に設置された
マスコットキャラの一つ「ビーフイーター・マンデヴィル(Beefeater Mandeville)」

しかし、ホームズ一行がサディアス・ショルトに連れられて、バーソロミュー・ショルトの屋敷を訪れると、バーソロミュー・ショルトはインド洋のアンダマン諸島の土着民が使う毒矢によって殺されているのを発見した。そして、問題の財宝は何者かによって奪い去られていたのである。
ホームズの依頼に応じて、ワトスンは、ランベス地区(Lambeth)の水辺近くにあるピンチンレーン3番地(No. 3 Pinchin Lane→2017年10月28日付ブログで紹介済)に住む鳥の剥製屋シャーマン(Sherman)から、犬のトビー(Toby)を借り出す。そして、ホームズとワトスンの二人は、バーソロミュー・ショルトの殺害現場に残っていたクレオソートの臭いを手掛かりにして、トビーと一緒に、現場からロンドン市内を通り、犯人の逃走経路を追跡して行く。

ホームズとワトスンの二人が、犬のトビーと一緒に、ストリーサム地区(Streatham→2017年12月2日付ブログで紹介済)、ブリクストン地区(Brixton→2017年12月3日付ブログで紹介済)、キャンバーウェル地区(Camberwell→2017年12月9日付ブログで紹介済)、オヴァールクリケット場(Oval)を抜けて、ケニントンレーン(Kennington Lane→2017年12月16日付ブログで紹介済)へと達した。そして、彼らは更にボンドストリート(Bond Street→2017年12月23日付ブログで紹介済)、マイルズストリート(Miles Street→2017年12月23日付ブログで紹介済)やナイツプレイス(Knight’s Place→2017年12月23日付ブログで紹介済)を通って、ナインエルムズ地区(Nine Elms→2017年12月30日付ブログと2018年1月6日付ブログで紹介済)までやって来たが、ブロデリック&ネルソンの材木置き場という間違った場所に辿り着いてしまった。どうやら、犬のトビーは、どこかの地点から違うクレオソートの臭いを辿ってしまったようだ。

二人はトビーをクレオソートの臭いの跡が二つの方向に分かれていたナイツプレイスへと戻し、犯人達の跡を再度辿らせた。そして、彼らはベルモントプレイス(Belmon Place→2018年1月13日付ブログで紹介済)とプリンスズストリート(Prince’s Street→2018年1月13日付ブログで紹介済)を抜けて、ブロードストリート(Broad Street→2018年1月13日付ブログで紹介済)の終点で、テムズ河岸に出るが、そこは船着き場で、どうやら犯人達はここで船に乗って、警察の追跡をまこうとしたようだ。

ホームズは、ウィギンズ(Wiggins)を初めとするベーカーストリート不正規隊(Baker Street Irregulars)を使って、バーソロミュー・ショルトを殺害した犯人達が乗った船の隠れ場所を捜索させたものの、うまくいかなかった。独自の捜査により、犯人達の居場所を見つけ出したホームズは、ベーカーストリート221Bへスコットランドヤードのアセルニー・ジョーンズ警部(Inspector Athelney Jones)を呼び出す。ホームズは、呼び出したアセルニー・ジョーンズ警部に対して、バーソロミュー・ショルトの殺害犯人達を捕えるべく、午後7時にウェストミンスター船着き場(Westminster Stairs / Wharf→2018年3月31日 / 4月7日付ブログで紹介済)に巡視艇を手配するよう、依頼するのであった。

「ビーフイーター(Beefeater)」とは、ロンドン塔の衛兵隊、
もしくは、そこに属する衛兵のことを指す通称である

午後7時を少し過ぎた頃に、私達はウェストミンスター船着き場に着いた。そして、巡視艇の蒸気船は、私達の到着を待っていた。ホームズは船を注意深く見つめた。
「どこかに巡視艇であることを示すものはあるかい?」
「ええ、船の横に緑のランプが付いています。」
「それじゃ、それを外してくれ。」
船の横に付いている緑のランプを外すと、私達は乗船し、ロープが外された。ジョーンズ警部、ホームズと私の三人は船尾に座った。一人の男が舵を握り、一人がエンジンを担当して、二人の屈強な警察官が前に乗った。
「どこへ向かいますか?」と、ジョーンズ警部が尋ねた。
「ロンドン塔へ向かってくれ。ジェイコブソン修理ドックの反対側に、船を停泊するように指示してくれ。」
私達が乗った船は、明らかに速かった。私達の船は、荷物を載せた艀(はしけ)の長い列を、あたかもそれが静止しているかのように、一瞬で抜き去ったのである。私達の船がテムズ河を運行する蒸気船に追い付き、それを後方に置き去りにした時、ホームズは満足そうに微笑んだ。

「ビーフイーター」の正式名は、
「ヨーマン・ウォーダーズ(The Yeomen Warders)」である

It was a little past seven before we reached the Westminster Wharf, and found our launch awaiting us. Holmes eyed it critically.
‘Is there anything to mark it as a police-boat?’
‘Yes; that green lamp at the side.’
‘Then take it off.’
The small change was made, we stepped on board, and the ropes were cast off. Jones, Holmes and I sat in the stern. There was one man at the rudder, one to tend the engines, and two burly police inspectors forward.
‘Where to?’ Asked Jones.
‘To the Tower. Tell them to stop opposite to Jacobson’s Yard.’
Our craft was evidently a very fast one. We shot past the long lines of loaded barges as though they were stationary. Holmes smiled with satisfaction as we overhauled a river streamer and left her behind us.

スコットランドヤードのジョーンズ警部に依頼して、ウェストミンスター船着き場に手配してもらった巡視艇を、ワトスンとジョーンズ警部と一緒に乗船したホームズが向かわせた先のロンドン塔(Tower of London)は、ロンドンの経済活動の中心地であるシティー・オブ・ロンドン(City of London)と隣り合うロンドンの特別区の一つ、ロンドン・タワーハムレッツ区(London Borough of Tower Hamlets)内にあり、テムズ河(River Thames)の北岸に建つ中世の城塞である。


2018年4月7日土曜日

ロンドン ウェストミンスター船着き場(Westminster Stairs)-その2

ロンドン塔(Tower of London)の近くにある
テムズ河の船着き場

一般に、英語で「stairs」や「wharf」と言う場合、荷物の積み降ろしのために、船が横付けできるような石や木でできた構造物のことを意味して、日本語では、「岸壁」、「埠頭」や「波止場」等と訳されている。ただ、日本語で言うところの「埠頭」や「波止場」だと、正確には合致せず、個人的には、「岸壁」が英語の意味に一番近いのではないかと思う。

ヴィクトリアエンバンクメント通り(Victoria Embankment)から
テムズ河越しに、ロンドンアイ(London Eye)を望む

テムズ河(River Thames)の氾濫による洪水の被害から、ロンドン市内を守るため、近年にかけて、テムズ河沿いの堤防が整備されてきた関係上、ウェストミンスター船着き場(Westminster Stairs)のようなものは、ウェストミンスター地区(Westminster)内に限らず、ほとんど存在しないようになってしまった。

シャーロック・ホームズやジョン・H・ワトスン達を乗せた
スコットランドヤードの巡視艇は、
ウェストミンスター船着き場から出ると、
ロンドン塔方面(写真で言うと、左方向)へと向かって、テムズ河を下る

国会議事堂(House of Parliament)として現在使用されているウェストミンスター宮殿(Westminster Palace)の北側には、ウェストミンスター橋(Westminster Bridge)がテムズ河に架かっているが、その直ぐ下流のところに、「Westminster Pier」と呼ばれる桟橋があり、船の乗り降りや遊歩道として使用されているが、これは近年の構造物であって、コナン・ドイルの原作に出てきたような「船着き場」を意味する「stairs」や「wharf」とは異なるものである。

2018年4月1日日曜日

ジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)ーその2

テイト・ブリテン美術館に所蔵展示されている
ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」

1848年9月、ロンドンのロイヤルアカデミー(Royal Academy)付属の美術学校(Antique Schol)で学友だったウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt:1827年ー1910年)やダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti:1828年ー1882年→2018年3月4日 / 3月11日付ブログで紹介済)達と一緒に、「ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)」(正確には、「ラファエロ以前兄弟団」)を結成した初代准男爵サー・ジョン・エヴァレット・ミレー(Sir John Everett Millais, 1st Baronet:1829年ー1896年)は、「ラファエル前派」としての最初の作品「ロレンツォとイザベラ」を描く。また、彼が1849年から1850年にかけて制作した「両親の家のキリスト(Christ in the House of His Parents)」は、キリストを含む聖なる家族を現実的に、かつ、忠実に描き過ぎていたため、当時の画壇から痛烈な避難が浴びせかけられた。

その後、ジョン・エヴァレット・ミレーが1851年から1852年にかけて制作して、1852年のロイヤルアカデミー展に出品した作品「オフィーリア(Ophelia)」は、彼のそれまでの作品とはうって変わって、画壇から非常に高い評価を獲得した。
同作品は、現在、テイト・ブリテン美術館(Tate Britain→2018年2月18日付ブログで紹介済)に所蔵展示されており、数ある絵画の中でも、一二を争う人気作品となっている。

ギルドホール アートギャラリー(Guildhall Art Gallery)の外壁内に設置されている
ウィリアム・シェイクスピアの胸像

ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」は、英国の劇作家 / 詩人であるウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare:1564年ー1616年)作「ハムレット(Hamlet)」の一場面を主題にした作品である。
なお、「ハムレット」の正式題名は、「デンマークの王子ハムレットの悲劇(The Tragedy of Hamlet, Prince of Denmark)」で、ウィリアム・シェイクスピアの四大悲劇の一つである。同作品は、1600年ー1601年頃に執筆されたと言われており、1609年に初演されている。
ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」に話を戻すと、デンマーク王国の王子で、恋人のハムレット(Hamlet)に、デンマーク王国の侍従長で、父親のポローニアス(Polonius)を誤って殺されたショックで発狂した末に川で溺死したオフィーリア(Ophelia)の姿を描いている。オフィーリアの身体の水上に浮かんだ部分と水面下の部分との対比(コントラスト)、また、画面前景の水草や川岸に生える群葉等の綿密な描写等に驚きを禁じ得ず、詳細を描き込み、豊かな色彩を用いる「ラファエル前派」が作品を創造する上での理想概念通りの作品となっている。

後(=1860年)にダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの妻となるエリザベス・シダル(Elizabeth Siddal:1829年ー1862年)が、ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」のモデルを務めている。
ロンドン郊外の南西部にあるオールドモルデン(Old Morden)には、テムズ河(River Thames)の支流に該るホグスミル川が流れており、ジョン・エヴァレット・ミレーは、このホグスミル川の川岸に画架を置き、一日11時間、週6日にわたって絵を描く生活を、5ヶ月間続け、「オフィーリア」の背景となる水草や群葉等を描き込むための準備を行った。

ただ、「オフィーリア」のモデルとなるエリザベス・シダルの身体をホグスミル河に浮かべることは無理だったため、ジョン・エヴァレット・ミレーは、ロンドン市内にある自分のアトリエ内に備え付けられた浴槽に水を張り、そこに浸かるエリザベス・シダルを描いた上で、背景と重ね合わせる手法を採った。彼は、浴槽の下に石油ランプを置いて、水温を一定に保つことにしたものの、絵画の制作に没頭してしまい、石油ランプの灯が消えたことに気付かず、冷たい水の中で我慢を強いられたエリザベス・シダルは肺炎になってしまった。そのため、ジョン・エヴァレット・ミレーは、彼女の父親から慰謝料を請求されるという事態まで発展したのである。