2016年11月27日日曜日

ロンドン パル・マル通り107番地 アセニアムクラブ(Athenaeum Club / 107 Pall Mall)

「アセニアムクラブ」が入居する建物の正面全景

アガサ・クリスティー作「厩舎街(ミューズ)の殺人(Murder in the Mews)」(1937年)は、ガイ・フォークス ナイト(Guy Fawkes Night)に該る11月5日、打ち上げられる花火がロンドンの夜空を照らす中、物語が始まる。
「厩舎街の殺人」は、1937年に出版された中編集「厩舎街の殺人」(英国版)/「死人の鏡(Dead Man's Mirror)」(米国版)に収められている。


「厩舎街(ミューズ)」とは、厩舎(うまや)から表通りまでの路地のことを指している。ロンドン市内では、厩舎だった建物が後にフラット等の住居に改装され、人が住むようになったが、「ミューズ」という名は市内各所にそのまま残り、以前、厩舎が建ち並ぶ路地であったことを今に伝えている。

カールトンハウステラス(Carlton House Terrace)に近い
ウォーターループレイスから見た「アセニアムクラブ」

夕食を終えて、静かな脇道のバーズリーガーデンミューズ(Bardsley Garden Mews)を歩くスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)は、隣りを歩くエルキュール・ポワロに次のように話しかける。「殺人を行うには、うってつけの晩だ。今夜なら、たとえピストルを撃ったとしても、誰にも聞こえやしない。」と...
全くの偶然ではあるが、彼らが歩いていたバーズリーガーデンミューズにおいて、事件が発生する。若い未亡人であるバーバラ・アレン夫人(Mrs. Barbara Allen)が拳銃自殺をしたのである。しかし、彼女には自殺する理由が見当たらない上に、現場には自殺と断定するには疑わしい点が多かった。何故ならば、ピストルは彼女の右手の中にあったものの、握られていた訳ではなかった。不自然なことに、ピストルの弾丸は、彼女の頭の右側からではなく、左側から入っていたのである。つまり、何者かが彼女を殺害した後で、自殺に見せかけようとしたのだ!これを他殺と考えたジャップ主任警部は、ポワロに事件の捜査協力を依頼する。

建物外壁を改装中の「アセニアムクラブ」

容疑者は以下の3名。
一人目は、アレン夫人の家に同居していたミス・ジェーン・プレンダーリース(Miss Jane Plenderleith)。事件発生当時、彼女は遠く離れた田舎に居たことが判っているが、何故か、アレン夫人の家の階段の下にある戸棚の中を、ポワロやジャップ主任警部に見せたがらない態度をとる。実際、戸棚の中にあったのは、ゴルフクラブ、傘と小型のスーツケースだけだった。
二人目は、アレン夫人と婚約していた今売り出し中の下院議員チャールズ・レイヴァートンーウェスト(Charles Laverton-West)。事件発生当時における彼のアリバイはハッキリしていない。
三人目は、アレン夫人の知人ユースタス少佐(Major Eustace)。事件発生当時、彼はアレン夫人の家から出て来るところを目撃されている上、アレン夫人から多額の現金を強請っていたようである。
果たして、アレン夫人を射殺した真犯人は誰なのか?


英国のTV会社 ITV1 で放映された「Agatha Christie's Poirot」シリーズの「厩舎街の殺人」(1989年)の回では、ポワロとジャップ主任警部の二人が、アレン夫人と婚約していた下院議員のチャールズ・レイヴァートン・ウェストが会員となっているクラブを訪れ、クラブ内のスイミングプール脇で、事件発生時における彼のアリバイを尋ねた後、クラブから出て来るシーンがあるが、このシーンは「アセニアムクラブ(Athenaeum Club)」の建物外観が使用されている。

パル・マル通りから見た「アセニアムクラブ」

「アセニアムクラブ」は、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James's)内にあり、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)からセントジェイムズ宮殿(St. James's Palace)へ向かって西に延びるパル・マル通り(Pall Mall(北側)ー2016年4月30日付ブログで紹介済)とチャリングクロス交差点(Charing Crossー2016年5月25日付ブログで紹介済)からバッキンガム宮殿(Buckingham Palace)へ向かって西に延びるザ・マル通り(The Mall(南側))に挟まれたエリアに位置している。
「アセニアムクラブ」の住所は「パル・マル通り107番地(107 Pall Mall, London SW1Y 5ER)」で、建物はパル・マル通りとウォーターループレイス(Waterloo Place)が交差する南西の角に建っているが、建物の入口はパル・マル通り側ではなく、ウォーターループレイス側に面している。

カールトンハウステラスから見たウォーターループレイス -
「アセニアムクラブ」が入居する建物は左側に建っている

「アセニアムクラブ」は、アイルランド出身の政治家/著述家で、当時英国海軍を統括する Secretary to the Admiralty という重責を担っていたジョン・ウイルソン・クローカー(John Wilson Croker:1780年ー1857年)が、科学、文学や芸術を愛する紳士が集うクラブとして、1824年に創立し、最初の会合が同年2月16日に開催された。

カールトンハウステラスから
ウォータールーガーデンズ(Waterloo Gardens)越しに
「アセニアムクラブ」を望む

当初、「アセニアムクラブ」は、ウォーターループレイス12番地の建物に仮入居し、本格的な入居先を探す努力が続けられたが、クラブの希望に合う建物がなかなか見つからなかった。丁度上手い具合に、英国政府がカールトンハウス(Carlton House)を取り壊し、一帯を再開発することになり、現在の土地が「アセニアムクラブ」に貸し出された。

「アセニアムクラブ」が入居する建物入口上のテラスに立つパラスアテナ像

「アセニアムクラブ」が本格的に入居する建物の設計者として、英国の建築家/都市計画家であるジョン・ナッシュ(John Nash:1732年ー1835年)やジェイムズ・バートン(James Burton:1760年ー1837年)と一緒にリージェンツパーク(Regent's Parkー2016年11月19日付ブログで紹介済)の再開発を行ったデシマス・バートン(Decimus Burton:1800年ー1881年 → ジェイムズ・バートンの息子)が選ばれた。デシマス・バートンは、新古典主義スタイルでクラブが建物を設計し、クラブの入口にはドーリア式の柱を配置した。


クラブが入居する建物の建設は1827年に始まり、1830年初めに竣工し、この建物を使用した最初の会合が1830年5月30日に開催された。
建物入口上のテラスには、トラファルガースクエアにあるネルソン像(Nelson's Column)でも有名な英国の彫刻家であるエドワード・ホッジェス・ベイリー(Edward Hodges Baily:1788年ー1867年)が制作したパラス・アテナ(Pallas Athene)像が同年に設置された。アテナは、知恵、芸術、工芸や戦略を司るギリシア神話の女神(オリュンポス十二神の一人)であり、「アセニアムクラブ」の創設趣旨に合わせたものと思われる。アテナが右手に持つ槍は、後で追加されている。
当初、建物は日本で言うところの2階建てであったが、19世紀末に3階と4階が追加された。


建物の建設に予想外の費用を要したため、必要な資金を捻出すべく、会員数を増やすことを強いられた。また、室内にガス燈を採用した最初の建物の一つだった関係上、空調設備を改善するため、更に会員数をつのり、費用を賄った。この頃に会員となったのが、小説家のチャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens:1812年ー1870年)や自然科学者のチャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin:1809年ー1882年)等である。シャーロック・ホームズシリーズの作者であるサー・アーサー・コナン・ドイルも、「アセニアムクラブ」の会員であった。

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
チャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズの写真の葉書
(George Herbert Watkins / 1858年 / albumen print, arched top
190 mm x 152 mm) 

ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
チャールズ・ダーウィンの肖像画の葉書
(John Collier
 / 1883年 / Oil on canvas
1257 mm x 965 mm)

夕闇に映える「アセニアムクラブ」

その後、1886年にクラブ内に自家発電機による電燈が灯り、1896年には一般電源が供給されるようになった。
2002年にはクラブ規約が改正されて、男性会員に加えて、同条件で女性会員が認められた。

2016年11月26日土曜日

ロンド フィッツモーリスプレイス9番地 ランズダウンクラブ(Lansdowne Club / 9 Fitzmaurice Place)

エルキュール・ポワロとジャップ主任警部の二人が、
アレン夫人と婚約していた下院議員チャールズ・レイヴァートンーウェストに
事件発生時における彼のアリバイを尋ねるシーンの撮影に使用された
「ランズダウンクラブ」内のスイミングプール

アガサ・クリスティー作「厩舎街(ミューズ)の殺人(Murder in the Mews)」(1937年)は、ガイ・フォークス ナイト(Guy Fawkes Night)に該る11月5日、打ち上げられる花火がロンドンの夜空を照らす中、物語が始まる。
「厩舎街の殺人」は、1937年に出版された中編集「厩舎街の殺人」(英国版)/「死人の鏡(Dead Man's Mirror)」(米国版)に収められている。

「厩舎街(ミューズ)」とは、厩舎(うまや)から表通りまでの路地のことを指している。ロンドン市内では、厩舎だった建物が後にフラット等の住居に改装され、人が住むようになったが、「ミューズ」という名は市内各所にそのまま残り、以前、厩舎が建ち並ぶ路地であったことを今に伝えている。


夕食を終えて、静かな脇道のバーズリーガーデンミューズ(Bardsley Garden Mews)を歩くスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)は、隣りを歩くエルキュール・ポワロに次のように話しかける。「殺人を行うには、うってつけの晩だ。今夜なら、たとえピストルを撃ったとしても、誰にも聞こえやしない。」と...
全くの偶然ではあるが、彼らが歩いていたバーズリーガーデンミューズにおいて、事件が発生する。若い未亡人であるバーバラ・アレン夫人(Mrs. Barbara Allen)が拳銃自殺をしたのである。しかし、彼女には自殺する理由が見当たらない上に、現場には自殺と断定するには疑わしい点が多かった。何故ならば、ピストルは彼女の右手の中にあったものの、握られていた訳ではなかった。不自然なことに、ピストルの弾丸は、彼女の頭の右側からではなく、左側から入っていたのである。つまり、何者かが彼女を殺害した後で、自殺に見せかけようとしたのだ!これを他殺と考えたジャップ主任警部は、ポワロに事件の捜査協力を依頼する。

「ランズダウンクラブ」が入っている建物の正面全景

容疑者は以下の3名。
一人目は、アレン夫人の家に同居していたミス・ジェーン・プレンダーリース(Miss Jane Plenderleith)。事件発生当時、彼女は遠く離れた田舎に居たことが判っているが、何故か、アレン夫人の家の階段の下にある戸棚の中を、ポワロやジャップ主任警部に見せたがらない態度をとる。実際、戸棚の中にあったのは、ゴルフクラブ、傘と小型のスーツケースだけだった。
二人目は、アレン夫人と婚約していた今売り出し中の下院議員チャールズ・レイヴァートンーウェスト(Charles Laverton-West)。事件発生当時における彼のアリバイはハッキリしていない。
三人目は、アレン夫人の知人ユースタス少佐(Major Eustace)。事件発生当時、彼はアレン夫人の家から出て来るところを目撃されている上、アレン夫人から多額の現金を強請っていたようである。
果たして、アレン夫人を射殺した真犯人は誰なのか?

「ランズダウンクラブ」の入口(その1)

英国のTV会社 ITV1 で放映された「Agatha Christie's Poirot」シリーズの「厩舎街の殺人」(1989年)の回では、ポワロとジャップ主任警部の二人が、アレン夫人と婚約していた下院議員のチャールズ・レイヴァートンーウェストが会員となっているクラブを訪れ、クラブ内のスイミングプール脇で、事件発生時における彼のアリバイを尋ねるシーンがあるが、このシーンは「ランズダウンクラブ(Lansdowne Club)」内のスイミングプールで撮影されている。

「ランズダウンクラブ」が入っている建物に住んでいた
初代ランズダウン侯爵、第2代シェルバーン伯爵ウィリアム・ペティ
(William Petty, 1st Marquess of Lansdowne and 2nd Earl of Shelburne:
1737年ー1805年)は英国の政治家、貴族かつ軍人で、
1782年から1783年にかけて英国首相を務め、
アメリカ独立を認める仮講話条約締結を余儀なくされた。

「ランズダウンクラブ」は、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のメイフェア地区(Mayfair)内にあり、バークリースクエア(Berkeley Squareー2014年11月29日付ブログで紹介済)の南西側のフィッツモーリスプレイス(Fitzmaurice Place)沿いに建っている。「ランズダウンクラブ」の住所は、「フィッツモーリスプレイス9番地(9 Fitzmaurice Place, London W1J 5JD)」である。フィッツモーリスプレイスはカーゾンストリート(Curzon Streetー2015年9月12日付ブログで紹介済)と名前を変えて、西へ延び、ハイドパーク(Hyde Parkー2015年3月14日付ブログで紹介済)沿いに南北に延びる大通りパークレーン(Park Laneー2015年6月27日付ブログで紹介済)に合流して終わる。

「ランズダウンクラブ」が入っている建物には、
高級百貨店セルフリッジズ(Selfridges)を創業した
ハリー・ゴードン・セルフリッジ(Harry Gordon Selfridge:1858年ー1947年)が
1921年から1929年の間住んでいた。

1930年、ウェストミンスター・シティー・カウンシル(Westminster City Council)は、バークリースクエアへのアクセス状況を改善するため、新たな道路の建設を決定。その関係で、18世紀からバークリースクエアの南西側に建っていた「ランズダウンハウス(Lansdowne House)」の半分が取り壊され、フィッツモーリスプレイスが設けられた。その後、取り壊されなかった「ランズダウンハウス」の半分が改装され、1935年に「ランズダウンクラブ」が創設された。

「ランズダウンクラブ」の入口(その2)

「ランズダウンクラブ」の場合、ロンドン市内に数ある他のクラブと比べると、以下のような違いがある。
(1)他のクラブ対比、創設された年が1935年とかなり遅い。
(2)そのため、他のクラブの内装は、ジョージ王朝、ヴィクトリア王朝やエドワード王朝の様式を採っているが、「ランズダウンクラブ」は創設された1930年代に流行したアールデコ(Art Deco)様式の内装となっている。→アガサ・クリスティーの原作とは異なり、全作品の時代設定を第一次世界大戦(1914年ー1918年)と第二次世界大戦(1939年-1945年)の間にしている ITV1 のポワロシリーズの場合、アールデコ様式の内装なので、撮影場所として時代設定がピッタリと当て嵌まっている。
(3)他のクラブは紳士クラブのため、男性の会員しか認めていないが、「ランズダウンクラブ」は、創設当初から女性の会員を許容している。

「ランズダウンクラブ」が入っている建物の外壁

「ランズダウンクラブ」が入っている建物内には、舞踏室、フェンシング場、スポーツジムやスイミングプール等がある。ITV1 のポワロシリーズの撮影に使用されたスイミングプールも、アールデコ様式である。
建物は1970年にグレードⅡ(Grade II)の指定を受け、2000年に建物内の大規模な改装工事が実施されている。

2016年11月20日日曜日

ロンドン カールトンハウステラス8番地(8 Carlton House Terrace)

カールトンハウステラス8番地の建物全景

アガサ・クリスティー作「厩舎街(ミューズ)の殺人(Murder in the Mews)」(1937年)は、ガイ・フォークス ナイト(Guy Fawkes Night)に該る11月5日、打ち上げられる花火がロンドンの夜空を照らす中、物語が始まる。
「厩舎街の殺人」は、1937年に出版された中編集「厩舎街の殺人」(英国版)/「死人の鏡(Dead Man's Mirror)」(米国版)に収められている。

「厩舎街(ミューズ)」とは、厩舎(うまや)から表通りまでの路地のことを指している。ロンドン市内では、厩舎だった建物が後にフラット等の住居に改装され、人が住むようになったが、「ミューズ」という名は市内各所にそのまま残り、以前、厩舎が建ち並ぶ路地であったことを今に伝えている。


夕食を終えて、静かな脇道のバーズリーガーデンミューズ(Bardsley Garden Mews)を歩くスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)は、隣りを歩くエルキュール・ポワロに次のように話しかける。「殺人を行うには、うってつけの晩だ。今夜なら、たとえピストルを撃ったとしても、誰にも聞こえやしない。」と...
全くの偶然ではあるが、彼らが歩いていたバーズリーガーデンミューズにおいて、事件が発生する。若い未亡人であるバーバラ・アレン夫人(Mrs. Barbara Allen)が拳銃自殺をしたのである。しかし、彼女には自殺する理由が見当たらない上に、現場には自殺と断定するには疑わしい点が多かった。何故ならば、ピストルは彼女の右手の中にあったものの、握られていた訳ではなかった。不自然なことに、ピストルの弾丸は、彼女の頭の右側からではなく、左側から入っていたのである。つまり、何者かが彼女を殺害した後で、自殺に見せかけようとしたのだ!これを他殺と考えたジャップ主任警部は、ポワロに事件の捜査協力を依頼する。


容疑者は以下の3名。
一人目は、アレン夫人の家に同居していたミス・ジェーン・プレンダーリース(Miss Jane Plenderleith)。事件発生当時、彼女は遠く離れた田舎に居たことが判っているが、何故か、アレン夫人の家の階段の下にある戸棚の中を、ポワロやジャップ主任警部に見せたがらない態度をとる。実際、戸棚の中にあったのは、ゴルフクラブ、傘と小型のスーツケースだけだった。
二人目は、アレン夫人と婚約していた今売り出し中の下院議員チャールズ・レイヴァートンーウェスト(Charles Laverton-West)。事件発生当時における彼のアリバイはハッキリしていない。
三人目は、アレン夫人の知人ユースタス少佐(Major Eustace)。事件発生当時、彼はアレン夫人の家から出て来るところを目撃されている上、アレン夫人から多額の現金を強請っていたようである。
果たして、アレン夫人を射殺した真犯人は誰なのか?

カールトンハウステラス8番地の建物入口―
TV版のポワロシリーズでは、ポワロとジャップ主任警部が
ここを事務所とする下院議員チャールズ・レイヴァートンーウェストを訪ねる

英国のTV会社 ITV1 で放映された「Agatha Christie's Poirot」シリーズの「厩舎街の殺人」(1989年)の回では、ポワロとジャップ主任警部が下院議員チャールズ・レイヴァートンーウェストの事務所を訪ねて、彼にアレン夫人が死亡したことを告げるが、その際、カールトンハウス8番地(8 Carlton House Terrace)の建物が撮影に使用されている。


カールトンハウステラス8番地は、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James's)内にあり、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)からセントジェイムズ宮殿(St. James's Palace)へ向かって西に延びるパル・マル通り(Pall Mallー北側)とチャリングクロス交差点(Charing Cross)からバッキンガム宮殿(Buckingham Palace)へ向かって西に延びるザ・マル通り(The Mallー南側)に挟まれたエリアに位置している。
カールトンハウステラス(Carlton House Terrace)自体については、2015年10月24日付ブログで御参照いただきたい。
カールトンハウステラス8番地の建物は、カールトンハウステラスに沿って建つテラス式ハウスのうち、西棟の東から2番目に該り、パル・マル通りからリージェントストリート(Regent Street)が始まって北上するところにあるウォーターループレイス(Waterloo Place)に近い。

カールトンハウステラス8番地から見える景色―
奥に見える建物は「アセニアムクラブ(Athenaeum Club)」で、
シャーロック・ホームズシリーズの作者である
サー・アーサー・コナン・ドイルも会員であった

カールトンハウステラス8番地の建物は、以前、ドイツ大使館が使用していたが、現在、「王立協会(Royal Society)」が入居している。
「王立協会」の正式名は「The President, Council, and Fellows of the Royal Society of London for Improving Natural Knowledge」で、現存する最も古い科学学会で、英国王チャールズ2世(Charles II:1630年ー1685年 在位期間:1660年ー1685年)の勅許を得て、1660年11月に設立されている。


アガサ・クリスティーの原作では、ピストルの弾丸が頭の左側から入っているにもかかわらず、アレン夫人はピストルを右手に握って死亡していたため、自殺ではなく、他殺ではないかと疑われた。一方。TV版のポワロシリーズでは、アレン夫人はピストルを左手に握って死亡しており、ピストルの弾丸が頭の左側から入っているので、死亡状況としては、他殺を疑う要因は一見ない。ストーリー的には、ポワロとジャップ主任警部の二人は、アレン夫人が実際に右利きだったのか、それとも左利きだったのかを調査することで、話が進んでいく。

2016年11月19日土曜日

ロンドン リージェンツパーク(Regent's Park)


アガサ・クリスティー作「厩舎街(ミューズ)の殺人(Murder in the Mews)」(1937年)は、ガイ・フォークス ナイト(Guy Fawkes Night)に該る11月5日、打ち上げられる花火がロンドンの夜空を照らす中、物語が始まる。



「厩舎街の殺人」は、1937年に出版された中編集「厩舎街の殺人」(英国版)/「死人の鏡(Dead Man's Mirror)」(米国版)に収められている。



夕食を終えて、静かな脇道のバーズリーガーデンミューズ(Bardsley Garden Mews)を歩くスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)は、隣りを歩くエルキュール・ポワロに次のように話しかける。「殺人を行うには、うってつけの晩だ。今夜なら、たとえピストルを撃ったとしても、誰にも聞こえやしない。」と...
全くの偶然ではあるが、彼らが歩いていたバーズリーガーデンミューズにおいて、事件が発生する。若い未亡人であるバーバラ・アレン夫人(Mrs. Barbara Allen)が拳銃自殺をしたのである。しかし、彼女には自殺する理由が見当たらない上に、現場には自殺と断定するには疑わしい点が多かった。何故ならば、ピストルは彼女の右手の中にあったものの、握られていた訳ではなかった。不自然なことに、ピストルの弾丸は、彼女の頭の右側からではなく、左側から入っていたのである。つまり、何者かが彼女を殺害した後で、自殺に見せかけようとしたのだ!これを他殺と考えたジャップ主任警部は、ポワロに事件の捜査協力を依頼する。



「厩舎街(ミューズ)」とは、厩舎(うまや)から表通りまでの路地のことを指している。ロンドン市内では、厩舎だった建物が後にフラット等の住居に改装され、人が住むようになったが、「ミューズ」という名は市内各所にそのまま残り、以前、厩舎が建ち並ぶ路地であったことを今に伝えている。



英国のTV会社 ITV1 で放映された「Agatha Christie's Poirot」シリーズの「厩舎街の殺人」(1989年)の回では、物語はロンドンの夜空に打ち上げられるガイ・フォークス ナイトの花火から始まる。このシーンはチェスターゲート通り(Chester Gate)で撮影されており、花火はチェスターゲート通りの西側にあるリージェンツパーク(Regent's Park)から打ち上げられているようである。



リージェンツパークはロンドン市内にある王立公園(Royal Park)の一つで、ロンドンの北西部に位置しており、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)とロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)に跨がっている。


リージェンツパーク内の南の方には、公園の核となるクイーン・メアリーズ・ガーデンズ(Queen Mary's Gardens)と呼ばれる薔薇園が位置しており、この薔薇園の外側を周回する内周道路(Inner Circle)と公園の外側を周回する外周道路(Outer Circle)の二つがあり、内周道路、外周道路とこれらを繫ぐ道路のみ車の通行が可能であるが、それら以外は全て歩行者専用となっている。



リージェンツパーク内には、クイーン・メアリーズ・ガーデンズ以外にも、英国式庭園やイタリア式庭園等の庭園、野外劇場(Open Air Theatre → 夏になると、シェイクスピアの演劇等が上演される)、サギや水鳥の繁殖地となる湖(→夏にはボート遊びが可能)、スポーツ施設(テニスコート等)、リージェンツ運河(Canal Regent'sーカムデンロック(Camden Rock)とリトルヴェニス(Little Venice)を水上バスが繫いでいる)、学校(ロンドン・リージェンツ大学(Regent's University London)等)やロンドン動物園(London Zoo)等があり、ロンドン市民の憩いの場になっている。



現在、リージェンツパークがある土地は、元々、バーキング修道院(Barking Abbey)が所有していた。
テューダー朝第2代イングランド王ヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年)は、男の世継ぎ(嫡子)が生まれていない王妃キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon:1487年ー1536年)との離婚を画策して、ローマのカトリック教会と対立し、1534年に国王至上法(首長令)を発布の上、自らをイングランド国教会(Church of England)の長とするとともに、カトリック教会からイングランド国教会の分離を行った。その際、キャサリン・オブ・アラゴンと離婚したヘンリー8世が再婚した(2番目の)王妃が、後のテューダー朝第5代かつ最後の君主であるエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年ー1603年)を生むアン・ブーリン(Anne Boleyn:1507年ー1536年)である。ヘンリー8世は宗教改革(Reformation)を押し進め、イングランド、ウェールズおよびアイルランド内にありながら、ローマのカトリック教会の支配下にあった修道院について、解散令(Dissolution of the Monasteries)に基づき、1536年(小修道院)と1539年(大修道院)に解体してしまう。これにより、バーキング修道院が所有していたリージェンツパークがある土地は、英国王室の所有に帰属する。
リージェンツパークがある土地は「マリルボーンパーク(Marylebone Park)」と呼ばれ、英国王室によって狩猟場として使用され、女王エリザベス1世や国王ジェイムズ1世(James I:1566年ー1625年 在位期間:1603年ー1625年)が各国の大使達を招いて、狩りを楽しんだと言われている。



その後、清教徒革命(Puritan Revolution:1641年ー1649年)や王政復古(Restoration:1660年)等を経て、所有者や使用者が激しく変遷するが、ポートランド公爵が保持するリース契約が1811年に期限を迎えると、当時摂政(Regent)だった後の国王ジョージ4世(George IV:1762年ー1830年 在位期間:1820年ー1830年)が、英国の建築家でかつ都市計画家でもあったジョン・ナッシュ(John Nash:1752年ー1835年)を彼の顧問に招き入れ、マリルボーンパークを含むロンドン北部の整備計画に取り掛った。
ジョン・ナッシュの他に、ロンドンの文教区ブルームズベリー地区(Bloomsbury)の整備に尽力したジェイムズ・バートン(James Burton:1761年ー1837年)や彼の息子であるデシマス・バートン(Decimus Buton:1800年ー1881年)等も計画に加わり、1818年に整備計画が実際に実行段階へ移行する。
27年後の1845年に公園は完成し、ジョージ4世の当時のタイトルである摂政の名を冠して、「リージェンツパーク」と呼ばれるようになった。当初は、週に2日間だけ一般に公開されていたそうである。