2014年9月28日日曜日

ロンドン キングエドワードストリート17番地(17 King Edward Street)

キングエドワードストリート17番地を含む建物

サー・アーサー・コナン・ドイル作「赤毛組合(The Red-Headed League)」において、突然の赤毛組合解散に驚いた質屋(pawnbroker)のジェイベス・ウィルスン(Jabez Wilson)は、赤毛組合が入居していた建物の家主(ー同じ建物の1階に住む会計士)のところへ行き、赤毛組合に何が起きたのかを尋ねた。ところが、家主はウィルスンに対して、「赤毛組合については何も知らないし、赤毛組合を管理していたダンカン・ロス(Duncan Ross)という名前も初めて聞く名前だ。」と告げる。その上、家主は「(赤毛組合が入居していた)問題の4号室を借りていたのは、事務弁護士(solicitor)のウィリアム・モリス(William Morris)で、新しいオフィスが出来るまでの一時的な賃借だ。」と付け加えた。家主からウィリアム・モリスの移転先(17 King Edward Street near St. Paul's)を聞いたウィルスンが早速そこを訪ねてみると、そこは膝当ての製造工場で、ウィリアム・モリスのオフィスはどこにもなかったのである。

セントポール大聖堂方面からみたキングエドワードストリート

ドイルの原作で、ウィリアム・モリスの移転先と言われている「キングエドワードストリート17番地」は、実在の住所で、セントポール大聖堂(St. Paul's Cathdral)の北側にある南北に延びる通りである。

キングエドワードストリートからセントポール大聖堂を望む

キングエドワードストリート17番地を含む建物には、現在、国立郵便博物館(National Post Museum)が入っている。当博物館は、25万枚を超える切手コレクションで有名で、1840年5月6日から利用が始まった世界最初の切手「ペニー・ブラック(Penny Blackー黒地にヴィクトリア女王の横顔だけが印刷された切手で、希少価値が非常に高く、切手収集家垂涎の的になっている。)」も所蔵されている。その他には、郵便配達員の制服や実際に使用されていた郵便車等も展示されている。

英国の近代郵便制度を確立したロウランド・ヒルの像

また、博物館の前には、英国の近代郵便制度を確立したロウランド・ヒル(Rowland Hill:1795年ー1879年)の銅像が建っていて、いつもキングエドワードストリートを見守っている。
銅像の台座には、
ROWLAND HILL 
HE FOUNDED UNIFORM PENNY POSTAGE
1840
と刻まれている。
1839年9月16日からロウランド・ヒルが開始した郵便制度は、1854年までに世界30ヶ国によって取り入れられ、明治維新後間もない日本も、1873年に英国式郵便制度を導入している。

2014年9月27日土曜日

エルキュール・ポワロとグリーンショア屋敷の阿房宮(Hercule Poirot and the Greenshore Folly)

 グリーンショア屋敷と阿房宮

(作者)  Agatha Christie       2014年
出版社) HaperCollinsPublishers Ltd. 2014年

1954年11月、アガサ・クリスティーは、自分の生まれ故郷デヴォン(Devon)州のチャーストン フェラーズ(Churston Ferrers)にあるセントメアリー聖母教会(St. Mary the Virgin Church)に寄付をするため、ある中編を執筆して、その印税収入を充てようとした。そこで、彼女は自分の住まいがあるグリーンウェイ(Greenway)を小説の舞台にした。なお、この中編は、雑誌掲載には難しい長さであったため、残念ながら、未発表のままに終わっている。それが本作「エルキュール・ポワロとグリーンショア屋敷の阿房宮(Hercule Poirot and the Greenshore Folly)」で、60年の歳月を経て、今年初めて出版されたのである。殺人事件が発生する小説の舞台に実在の場所である「グリーンウェイ」をそのまま使用できないので、「グリーンショア」と変更したものと思われる。
上記の中編の代わりに、アガサ・クリスティーは、ミス・ジェイン・マープル(Miss Jane Marple)を主人公とした短編「グリーンショウ氏の阿房宮(Greenshaw's Folly)」を教会に寄付している。

籐椅子に座るアガサ・クリスティー

ある日、ロンドン市内にあるエルキュール・ポワロのオフィスで電話が鳴る。ポワロの秘書ミス・レモン(Miss Lemon)が受話器をとると、相手は人気推理作家で昔なじみのアリアドニ・オリヴァー夫人(Mrs. Ariadne Oliver)であった。電話はデヴォン州のラプトン(Lapton)からで、オリヴァー夫人はポワロにすぐこちらに来てほしいと頼み込む。そこで、ポワロは早速ロンドン発の列車でデヴォン州に向かう。

ラプトン駅からオリヴァー夫人が滞在しているグリーンショア屋敷(Greenshore House)へ迎えの車で向かう途中、ポワロは外国人旅行者の女性二人(オランダ人とイタリア人)を車に乗せて、近くのユースホステルまで送ってあげる。この辺り一帯は外国人ハイカー達に人気の場所で、後の場面では、彼女達はグリーンショア屋敷の地所を勝手に横切ろうとして、屋敷の主であるサー・ジョージ・スタッブス(Sir George Stubbs)から厳重な注意を受けている。屋敷に到着したポワロにオリヴァー夫人は、次のように説明する。屋敷で催される慈善パーティーのために、(殺人)犯人探しゲーム(Murder Hunt)の段取りをしているところだが、このゲーム自体に何かおかしな点があるものの、それが何なのか、よく判らない、と。オリヴァー夫人は、そんな不安を口にする。彼女は、それをポワロに明らかにしてほしいと頼む。

グリーンショア屋敷では、次の人達が慈善パーティーの準備をしていた。
(1)屋敷の主サー・ジョージ・スタッブス
(2)彼の年若い妻レデイー・スタッブス ハティー(Lady Stubbs, Hattie Stubbs)
(3)サー・ジョージ・スタッブスの秘書ミス・ブレウィス(Miss. Brewis)
(4)サー・ジョージ・スタッブスに雇われて阿房宮の修理を行っている、建築家マイケル・ウェイマン(Michael Weyman)
(5)近所のコテージに住むアレックとペギーのレッグ若夫婦(Alec Legge + Peggy Legge)
(6)慈善パーティー全体のとりまとめ役マスタートン夫人(Mrs. Masterton)
(7)彼女の手助けをしているウォーボロー大尉(Captain Warborough)
(8)ハティーの庇護者フォリアット夫人(Mrs. Folliat)- グリーンショア屋敷の前の持ち主でもある。フォリアット家は1598年から何代にもわたってこの地所を所有していたが、第二次世界大戦前に、彼女の夫が亡くなってしまった。また、彼女の長男は海軍で出征した後、乗っていた艦が沈められ、彼女の次男は陸軍に入隊したが、イタリアで戦死したようである。財政上の窮地に陥ったフォリアット夫人はサー・ジョージ・スタッブスに屋敷を売却し、その代わりに、園丁が住んでいたコテージを貸し与えられて住んでいる。

オリヴァー夫人によると、犯人探しゲームのアイデアを出したのはマスタートン夫人だが、何か腑に落ちないところがあると言う。ある誰かが何らかの意図をもって、他の人達の背後で彼らを操りながら、何かを計画しているような気がしてならない、と...。

犯人探しゲームの被害者は、原子科学者の先妻のユーゴスラビア人女性で、ボート小屋で殺される筋書きになっていた。当初、ペギー・レッグが被害者役を務める筈だったが、慈善パーティーで占い師の役を担当することになり、この村に住む少女マーリン・タッカー(Marlene Tucker)が被害者役を代わった。パーティー当日、ポワロとオリヴァー夫人がボート小屋へ様子を見に行くと、マーリンはスカーフで本当に絞殺されていたのであった!

マーリン・タッカーが殺害されるボート小屋

一方、慈善パーティー会場に、(9)ハティーの従兄弟と称するポール・ロペス(Paul Lopez)が姿を現す。西インド諸島から到着したばかりで、ダートマス(Dartmouth)にヨットを係留し、ダート河(River Dart)をボートで上がって、屋敷にやって来たのである。そして、ハティー・スタッブスに久しぶりに会いたいと言う。ところが、従兄弟を忌み嫌うハティー・スタッブスは、ポール・ロペスの到着前に姿を消してしまい、その後、その行方が杳として知れない。

その後、また一人犠牲者が出る。この村に住むマーデル老人(Old Merdel)で、ある晩、乗っていた船から舟着き場に飛び移ろうとして、ダート河に落ちて溺死したのである。彼は、絞殺された少女の祖父だったことが判明する。警察当局は老人の死を事故死として処理しようとするが、ポワロは、以前マーデル老人に会った際、彼が発した思わせ振りな言葉が非常に気になった。「フォリアット家が、グリーンショア屋敷からは離れることはない。('Always be Folliats at Greenshore.')」と...

果たして、マーデル老人の溺死は事故死なのか?彼女の孫であるマーリン・タッカーを殺害したのは誰なのか?そして、その理由は?更に、ハティー・スタッブスは何処に行ってしまったのか?

行方不明となったハティー・スタッブス

アガサ・クリスティーは、この中編を長編にして、2年後に出版している。それが「死者のあやまち(Dead Man's Folly)」(1956年)である。中編と長編を比較すると、物語のメイン舞台となるのが、グリーンショア屋敷とナス屋敷(Nasse House)で名前が異なることや登場人物の名前の一部が変更されていること等を除くと、基本的なプロットは同じだ。
中編の場合、全体で約120ページの分量で、最初の殺人事件(=マーリン・タッカーの絞殺)が発生するのが、約80ページを過ぎた辺り。そこから、ポワロの本格的な捜査と推理が残りの約40ページで語られる。正直、この中編を読むと、物語の残り約1/3の部分が一気に進んでいく感じが強過ぎるように思える。残り40ページで、読者が事件と殺人犯を解明するのに十分なデータが開示されているとは言えない。それにもかかわらず、ポワロの推理だけがどんどん進んでいき、読者がやや置いてきぼりにされてしまう印象を否めない。物語の内容的には、中編でまとめきるには難しく、長編向きである。そういった意味では、アガサ・クリスティーが後に長編に変更したのは正解だったと思う。

最初の殺人事件が発生するまでの約80ページにおいて、ポワロがラプトン駅に到着した時を含め、非常に重要なシーンが何度か非常にさりげなく提示される。物語の主要な登場人物が紹介される前でもあり、読者がまだ警戒心を抱いていない時である。この辺りのクリスティーの手腕は、中編と言えども、見事である。

「Folly」を辞書で調べると、「あやまち」や「阿房宮」等、複数の意味がある。長編を読んだ方だと判ってもらえると思うが、物語の中で「阿房宮」はとても重要な役割を担っているし、また、「死者のあやまち」というのも、なかなか意味深な内容で、二重の意味をもつ「Folly」を使うアガサ・クリスティーのタイトルの付け方も素晴らしい。

2014年9月21日日曜日

ロンドン フリートストリート(Fleet Street)


トラファルガースクエア(Trafalgar Square)から始まるストランド通り(Strand)は、途中、道路の中州のような場所に建つセントクレメント ディーンズ教会(St. Clement Danes Church)、そして、ウェストミンスター(Westminster)とシティー・オブ・ロンドン(City of Londonー別名:1マイル四方(Square Mile))を分けていた関所跡であるテンプルバー(Temple Bar)を過ぎると、フリートストリート(Fleet Street)と名前を変え、更にラドゲートヒル(Ludgate Hill)と変わり、セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral)の正面に至る。

画面奥に見えるのが、フリートストリート

サー・アーサー・コナン・ドイル作「赤毛組合(The Red-Headed League)」において、燃えるような赤毛の初老の男性で、質屋(pawnbroker)のジェイベス・ウィルスン(Jabez Wilson)が通っていた赤毛組合は、このフリートストリート沿いに事務所を構えていた。ドイルの原作では、赤毛組合の住所は「7 Pope's Court, Fleet Street」となっているが、これは架空の住所である。ただし、フリートストリートから北に延びるポピンズコート(Poppins Court)という細い通りがあり、ドイルはこの通りを参照したのかもしれない。

赤毛組合の事務所があった住所のモデルとなったと思われるポピンズコート

フリートストリートは、別名「インクの街」と呼ばれており、1500年に最初の新聞社が設立されて以降、数多くの新聞社や出版社がこの界隈に集中して本社を構えた。ところが、この界隈の家賃が非常に高騰したことや、巨大な輪転機のために広大なスペースが必要であったこと等を理由に、新聞社の多くはドックランズ(Docklandsーロンドン塔の東)やサウスバンク(Southbankーテムズ河の南岸)に移転したため、当時の面影はかなり薄れてしまった。ただ、テンプル(Temple)に近い関係上、法律関係の書店は今でもフリートストリート沿いに多く残っている。
また、フリートストリート沿いには、セントポール大聖堂、グリニッジ天文台(Royal Greenwich Observatory)や旧王立海軍学校(Old Royal Naval College)等を設計したクリストファー・レン卿(Sir Christopher Wren:1632年ー1723年)が完成させたセントブライド教会(St. Bride Church)が建っており、今も通りを見守っている。

今もフリートストリートを見守るセントブライド教会

ヴィクトリア朝の小説家アンソニー・トロロープ(Anthony Trollope:1815年ー1882年)は郵政審議官として勤めており、1851年、郵便サービス向上調査のため、チャネル諸島に出張する。英仏海峡に浮かぶチャネル諸島はフランス本土に近く、彼は出張中に「フランス人は郵便ポストを使用している」ことを知る。そこで、彼は英国での試験運用を願い出て、同年、ジャージー島に郵便ポストの第一号が設置される。そして、ロンドン市内では、1855年、このフリートストリートに郵便ポストが初めて登場したのである。
ただ、当時の郵便ポストは、形は六角形で、ダークグリーン色をしており、「目立たない」や「汚い色」等、評判が芳しくなかったため、バスや電話ボックスと同じように、英国人が愛する赤色に変更されたそうである。

2014年9月20日土曜日

ロンドン チャリングクロス駅(Charing Cross Station)

ストランド通りに面しているチャリングクロス駅の正面

サー・アーサー・コナン・ドイル作「ボヘミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)」の終盤、シャーロック・ホームズは、ジョン・ワトスンとボヘミア国王(King of Bohemia)と一緒に、セントジョンズウッド(St. John's Wood)のサーペンタインアヴェニュー(Serpentine Avenue)にあるアイリーン・アドラー(Irene Adler)の自宅ブライオニーロッジ(Briony Lodge)を再訪する。そうすると、戸口で彼らは年配の女性から「私の女主人(=アイリーン・アドラー)は、あなた様がここにお越しになるだろうと私におっしゃっておりました。彼女は、今朝、旦那様と一緒に、チャリングクロス駅5時15分発の列車でヨーロッパ大陸に向けて御出発されました。(My mistress told me that you were likely to call. She left this morning with her husband by the five-fifteen train from Charing Cross for the Continent.)」と告げられるのである。

チャリングクロス駅は、ロンドン中心部にある鉄道ターミナルの一つである。ロンドン内の他の駅(=終着駅)とは異なり、チャリングクロス駅は、ウォータールー駅(Waterloo Station)やロンドンブリッジ駅(London Bridge Station)の2つのターミナル駅とも接続されている。駅の名前は、すぐ近くのトラファルガースクエア(Trafalgar Square)にあるチャリングクロス交差点に由来している。なお、古英語で「チャリング(Charing)」は、「川が曲がった部分」を意味するとのこと。

駅の正面はストランド通り(Strand)に、また、駅の裏面はテムズ河(River Thames)に架かるハンガーフォード橋(Hungerford Bridge)に面している。当駅をターミナルとしているサウスイースタンメインライン(South Eastern Main Line)の列車は、ハンガーフォード橋経由、テムズ河南岸に渡っていくのである。

ハンガーフォード橋に面しているチャリングクロス駅の裏面

チャリングクロス駅は、サー・ジョン・ホークショー(Sir John Hawkshaw:1811年ー1891年)による設計に基づき、サウスイースタン鉄道(South Eastern Railway)がハンガーフォードマーケット(Hungerford Market)の地に建設して、1864年1月11日に開業。

駅の開業から約1年4ヶ月後の1865年5月15日に、エドワード・ミドルトン・バリー(Edward Middleton Barry:1830年ー1880年)が設計したチャリングクロスホテル(Charing Cross Hotel)が開業。現在もみられるフレンチ・ルネッサンス様式の華麗な駅正面が完成したのである。コナン・ドイル作「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervillesー事件発生年月:1888年9月)」において、ヘンリー・バスカヴィル卿(Sir Henry Baskervilles)は、このチャリングクロスホテルではなく、駅横のノーサンバーランドストリート(Northumberland Street)にあるノーサンバーランドホテル(Northumberland Hotelー現在のシャーロック・ホームズパブ)に滞在している。

チャリングクロスホテルの開業に合わせて、清教徒革命(Puritan Revolution:1642年ー1649年)時の1647年に破壊された「ホワイトホール宮殿の十字架(Whitehall Cross)」をモデルにして、「エレアノールの十字架(Eleanor Crossーこれも、エドワード・ミドルトン・バリーが設計)」のレプリカが駅正面に設置された。

英国では、ロンドンからの距離については、「ホワイトホール宮殿の十字架」があった場所を起点にして、公式に測定されることになっており、現在のそれは、チャリングクロス交差点内にあるチャールズ1世の像であり、チャリングクロス駅正面の設置された「エレアノールの十字架」に変わった訳ではない。

チャリングクロス交差点内に立つチャールズ1世の像

1900年には、駅プラットフォーム上の区域は、テリー・ファレル(Terry Farrell:1938年ー)が設計したポストモダン様式のオフィスと店舗の複合施設エンバンクメントプレイス(Embankment Place)によって覆われ、現在に至っている。この複合施設には、現在、監査法人大手のプライスウォーターハウスクーパーズ(PricewaterhouseCoopers)が入居している。

テリー・ファレルが設計したエンバンクメントプレイス

チャリングクロス駅関係で追加すると、コナン・ドイル作「高名な依頼人(The Illustrious Client)」において、ワトスンは、グランドホテルとチャリングクロス駅の中間で、夕刊紙の売り子が持つ新聞見出しを見て、しばし呆然と立ち尽くす。そこには、黄色の地に黒色の文字で、次のように書かれていた。

「シャーロック・ホームズ氏が暴漢の襲撃に遭う!(Murderous Attack upon Sherlock Holmes)」と...